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「隔てられた空間を繋ぐ力。他者の心を感じ取る力。そして、自らの性別を変える力……」
阿求はそう呟くと、卓上に広げられた紙へ視線を落とした。
そこには、俺が書き出した3つの力が並んでいる。
悟りの気。風花を介して空間を割き、離れた場所同士を繋ぐ力。そして、男と女の間を行き来する性相変異。
どれも妖力を使っている。それ以外の共通点が見つからず、俺はつい先ほどまで一人で頭を抱えていたのだが、阿求は俺とは違うところに何かを見つけたらしい。
「……何か分かったのか?」
尋ねても、阿求はすぐには答えなかった。
湯呑みから細い湯気が立ち昇り、二人の間をゆっくりと横切っていく。外では風が吹いたのか、軒先に残った雪がさらさらと落ちる音がした。
阿求の視線は紙の上に留まったままだ。やがて、その指先が『悟りの気』と書かれた文字の上へ触れた。
「創英さん。まず、確かなところから整理しましょう」
「確かなところ?」
「はい。今から申し上げることを、すべて同じ確かさで受け取ってはいけません。実際に起きていることと、そこから考えられること。そして、その先にある私の推測は分けて考えるべきです」
いつになく慎重な物言いだった。
けれど、考えてみれば阿求らしくもある。阿求は記録する人間だ。見聞きした事実と、そこから自分が導き出した考えを同じものとして扱わない。それは普段、幻想郷縁起について話している時にも何度か聞いたことがある。
「……分かった」
「では、最初に。これは創英さん自身から伺ったことです」
阿求の指が、『悟りの気』の文字をなぞる。
「こちらの力ですが……他者の心を感じ取る、と仰いましたね」
「ああ。正確には、考えていることを読む感じかな。普段は俺から意識して触れない限り、そこまで深く入ってくることはないんだけど……強い感情を向けられると、勝手に流れ込んでくることもある」
「つまり、本来であれば創英さんと他者の間で隔てられているはずの心へ、触れることができる」
「……まあ、そうなるな」
阿求の指が、今度は『空間接続』の文字へ移る。
「こちらは、説明するまでもありませんね。離れた場所と場所を繋ぎ、その間にある距離を無視して移動できる」
「ああ」
「そして、性相変異」
最後の文字へ指が滑る。
「男性と女性。そのどちらか一方に固定されるはずの肉体を、創英さんは行き来できるようになった」
「……うん?」
そこまで聞いて、俺もようやく阿求が何を見ているのかを考え始めた。
心と空間と性別。対象だけを見れば、やはりまるで違う。けれど、どうやら阿求は力が作用する対象そのものではなく、その力によって何が起こっているのかを見ているらしい。
「ここまでは、実際に起きていることです。違いますか?」
「いや、合ってる」
「では、その上で」
阿求は3つの文字を順番に見渡した。
「3つに共通していることが、ひとつあります」
「共通してること?」
「はい」
阿求は紙の中央へ指を置いた。
「どの力も――本来なら隔てられている物事を、繋いでいるのです」
「…………」
思わず黙り込んだ。
「心と心。場所と場所。そして……男と女」
阿求がひとつずつ確かめるように口にする。
「悟りの気は、自分と他者という隔たりを越えて心へ触れる力。空間を繋ぐ力は、その名の通り、離れた2つの場所の隔たりを無視して繋げる力です。そして性相変異も、男性と女性という二つの性を隔てるものを曖昧にして、その間を行き来していると考えれば……」
「……待ってくれ」
思わず右手を上げ、阿求の言葉を止めた。
胸の奥に妙なざわつきが生まれていた。今まで考えもしなかったが、3つの力に共通点がないのではなく、俺がその表面だけを見ていたのだとしたらどうだろう。
他人の心を読む。離れた空間を繋ぐ。自らの性別を変える。起きている現象こそまるで違うが、その根っこで行われていることまで別だとは限らない。
「隔たりを……なくしてる?」
「なくす。あるいは、曖昧にしている……と考えた方が近いかもしれません」
阿求が静かに頷く。
「本来なら別々であるはずのもの。その境目を曖昧にし、あるいは繋げている。そう考えれば、3つの力はまったく異なるものではありません」
「境目……」
口の中で、その言葉を転がしてみる。
こちらとあちら。自分と他人。ここ、と、そこ。そして男と女。それぞれを隔て、別のものとして分けている境目へ干渉しているのだとすれば――。
「……境界」
呟いた瞬間、自分で発したはずのその言葉が、妙に重く耳へ残った。
阿求がゆっくりと俺を見る。
「はい。ここまでが、私の考えの第一段階です」
「第一段階?」
「3つの力には『境界へ干渉する』という共通性があるのではないか。これは現象を並べれば比較的自然に導けます。ですが――」
阿求は僅かに目を伏せる。
「だからといって、創英さんが『境界を操る能力』を持っているとまでは、まだ言えません」
「……あ」
言われてみればそうだ。
「たまたま性質の似た力を3つ持っているだけかもしれません。あるいは妖力そのものに、創英さんがまだ知らない性質があるのかもしれない。性相変異に至っては、そもそもの始まりが魔法薬なのですから、3つを同列に扱うこと自体が誤りという可能性もあります」
「そうだよな。薬がきっかけだったんだから」
「はい。ですから、この3つだけなら私は『似ていますね』で終わらせます」
そこで阿求の声音が少し変わった。
「――ですが、他にもあるのです」
「他にも?」
「3つの力だけでは説明できない、別の材料が」
阿求の視線が、今度は真っ直ぐ俺へ向けられる。顔だけではなく、髪や目、身体つきまで、何かをひとつずつ確かめるようにその視線が俺の姿を辿っていった。
「創英さん。以前、女性の姿になった時のことを覚えていますか?」
「そりゃあ、忘れたくても忘れられないよ」
苦笑しながら、長くなったままの金髪をひと房摘まむ。
「これだけ立派な置き土産まで残ってるしな」
「髪だけではありません」
「え?」
「最初に女性の姿へ変わった時より、その後、何度か変化を繰り返した後の方が、顔立ちも少しずつ変わっていました」
「……そうだったか?」
「はい。創英さんご自身は、毎日鏡をご覧になるので気付きにくかったのでしょうけれど」
そう言われてみれば、パチュリーさんや咲夜さんにも似たようなことを言われた気がする。
変化を繰り返すたび、俺の身体はより自然な女性のものへ近づいていった。骨格も筋肉も内臓も、薬で外見だけを変えられたのではなく、最初からそうであったかのように本物の女性の身体へ変わっていたらしい。
「最終的には……創英さんのお顔は、今よりもさらに女性的になっていました。髪も今より長く、声も変わり、身体つきも完全に女性のものになっていた」
「……うん」
「そして」
阿求が、ほんの少し言い淀んだ。
「その姿を初めて見た時から、私には少し引っ掛かるものがありました」
「引っ掛かる?」
「誰かに似ている、と」
その言葉を聞いた途端、妙な予感が胸を過った。嫌というよりも、聞く前からどこかで納得できてしまいそうな予感だった。
「まさか……」
「はい」
阿求が静かに息を吸う。
「八雲紫さんです」
「…………」
やっぱりか。
けれど、阿求の言葉はそこで終わらなかった。
「似ている、という程度ではありません」
「……え?」
「髪の色。瞳の色。顔立ち。輪郭。そして声まで。細かな違いはもちろんありますが、髪を下ろした女性姿の創英さんは……」
一度、阿求が言葉を選ぶように間を置いた。
「八雲紫さんと、瓜二つと言っても差し支えないほど似ています」
「…………マジで?」
「はい」
思わず自分の顔へ手を当てた。
今は男だ。完全に昔の身体へ戻ったわけではないらしいが、それでも性別そのものは男性で安定している。だから今の顔を触ったところで何か分かるはずもないのだが、女性だった頃に鏡の中へ映っていた自分の姿なら思い出せる。
腰どころか太腿へ届きそうなほど伸びた金髪に、紫色の目。身体つきまで女として違和感なく整っていた自分を思い浮かべてみるものの、やはり俺自身には紫さんと並べて見た経験がない。
「俺……そんなに似てたのか?」
「ご自覚がなかったのですか?」
「自分の顔と紫さんの顔を並べて見比べる機会なんてないからなぁ……」
「それは、そうかもしれませんが」
阿求が僅かに困ったような顔をする。だが、すぐに表情を引き締めた。
「ただし、これだけでも足りません」
「……まだ足りないのか?」
「当然です。姿が似ている人など、それだけなら幾らでもいるでしょう。まして創英さんの場合、身体が大きく変化していた最中です。偶然似た姿へ変化しただけだと言われれば、私は否定できません」
「……確かに」
阿求は自分の推測を進めているはずなのに、その途中で何度も別の可能性を拾い上げている。
けれど、それは自分の考えから逃げ道を作っているわけではない。むしろ反対だ。自分が辿り着こうとしている答えを最初から正しいものとして扱わず、間違っている可能性をひとつずつ確かめているのだ。
「ですから、これも単独では根拠になりません。けれど、先ほどの3つの力と合わせれば、偶然として片付けるには少し気になります」
阿求の指が、再び紙へ戻る。
「『境界へ干渉するように見える3つの力を持つ人物が、その境界を操る八雲紫さんと酷似した姿へ変化した』。ここまで重なると、私は2つを無関係と断定する方にも慎重になるべきだと思います」
「…………」
「これが、第二段階です」
阿求の話は、本当に階段を一段ずつ上っていくようだった。
最初から答えを決めているわけではない。分かっていることを置き、そこから考えられることを置き、それでも足りない部分には「分からない」と線を引く。
だからこそ、次に何を言われるのかが怖かった。
「そして、第三段階」
「……まだあるんだな」
「むしろ、ここが一番重要です」
阿求は卓上の紙から指を離した。
「創英さんは、これまで何度も大怪我をされていますね」
「ああ……まあ」
「紅魔館では、特に」
思わず胸元へ手を置いた。
あの時の傷はもうない。フランを止めるために地下へ向かい、全身を傷だらけにして、文字通り生死の境を彷徨った。それでも俺は生きて帰ってきた。
「普通の人間であれば、命を落としていても不思議ではないほどの怪我だったと聞いています」
「……そうだな」
自分でも、よく生きていたと思う。
それ以前にだってそうだ。家族を失ったあの日、妖魔に襲われた俺も瀕死だった。半年も入院するほどの傷を負って、それでも俺だけが生き残った。
ずっと、運がよかったのだと思っていた。両親と絢香が守ってくれたから生き残り、宗家へ引き取られてからは退魔師として鍛えられたことで身体も頑丈になった。霊力に目覚めたことで、人より多少は傷に強くなったのかもしれない。そうやってひとつひとつ、自分なりの理由を付けて納得していた。
「ですが、怪我から生還したことだけなら、これも根拠にはなりません」
「……そうなのか?」
「ええ。創英さんが頑丈だった。治療がよかった。運がよかった。それで説明できてしまいますから」
そこで阿求は俺を見る。
「私が重要だと思うのは、それとは別です」
「別?」
「妖力です」
その一言で、それまでとは空気が変わったように感じた。
「創英さんの身体は、妖力を生み出しているのですよね?」
「……ああ」
「外から受け取ったのではなく?」
「アリスはそう言ってた。身体の中に、妖力を生み出してるものがあるって」
「後から誰かに与えられた可能性は?」
「少なくとも、アリスはそんな感じじゃないって言ってたな」
「そして、創英さんご自身にも心当たりはないと」
「ない」
阿求が頷く。
「ならば、少なくとも現状分かっている範囲では、創英さん自身の力として妖力が発生していると考えるのが最も自然です」
「……そうなるな」
「これは、先ほどまでとは意味が違います」
阿求の声が静かに落ちる。
「姿が似ていることは偶然かもしれない。3つの力が境界へ干渉しているように見えることも、解釈の問題かもしれない。怪我から生還したことも、幸運だっただけかもしれません」
阿求はそこまでに挙げた材料を、あえて自分の口でひとつずつ否定していった。
「ですが――普通の人間の身体が、自ら妖力を生み出している。それだけは、今までの『創英さんは普通の人間である』という前提と、そのままでは噛み合いません」
「…………」
「しかも創英さんは、その妖力を初めて意識した時から、魔力より自然に扱えたのでしょう?」
「ああ。変な感じだったよ。頭では使い方なんて知らないのに、身体だけは前から知ってるみたいで」
「でしたら」
阿求はそこで、ようやく一度大きく息を吐いた。
「ここから先が、私の推測です」
先ほどまで以上に、はっきりと言った。
「事実ではありません。今ある材料から、最も筋が通ると思われる形を組み立てただけです」
「……分かった」
「創英さんの中には、元々人間とは異なる性質が存在していたのではないでしょうか。それが今まで表へ出ていなかった。あるいは、表へ出ていたとしても、私たちがそうと気付かなかった」
「……それが、妖力?」
「妖力も、そのひとつです」
阿求は紙へ手を伸ばし、3つの力を指先で囲むようになぞった。
「そして、この3つも。もし創英さんが元々、人間だけではない何かを持っていたのだとすれば、その性質が目覚めるにつれて身体に妖力が現れ、本来持っていた能力の一部も少しずつ表へ出てきた――そう考えることはできます」
「……能力の、一部。じゃあ、この3つは……」
「本当は、それぞれ独立した能力ではないのかもしれません」
阿求の指が止まる。
「もっと大きな、ひとつの力がある。けれど創英さんは、その力の正体も扱い方も知らなかった。だから本来の形では発現せず、その一部だけが、それぞれ別の現象として表へ零れ落ちていた」
「零れ……落ちた」
俺はもう一度、紙を見る。
悟りの気も、空間接続も、性相変異も、俺は誰かに教わって身につけたわけではない。何かをきっかけとして、いつの間にか使えるようになっていたものばかりだ。それらがすべて妖力を使い、根の部分で似た性質を持っているのなら、本当に3つの能力として分けて考える必要があるのだろうか。
「ただ、ここにも別の可能性はあります」
「……まだあるのか?」
「あります。むしろ、なくては困ります」
阿求はきっぱりと言った。
「3つが本当にひとつの能力から生じているのか、今の私たちには確かめようがありません。たまたま似た性質を持った別々の能力という可能性も残っています」
「じゃあ……」
「ですから、断定はできません」
阿求はそこで一度俺を見て、それから紙へ目を落とした。
「けれど、もし。3つがひとつの能力から枝分かれしたものだと仮定するなら」
その言葉を聞いた途端、心臓が少し速くなった。
「その元になった力を表す言葉として、一番近いものは――」
「境界……」
俺の口から先に零れた。
阿求が静かに頷く。
「私も、そう思います」
「境界を……操る力」
口にした瞬間、脳裏へひとりの女の姿が浮かんだ。
長い金髪と紫色の瞳。扇子の向こうで掴みどころのない笑みを浮かべ、幻想郷に存在するありとあらゆる境界へ干渉する大妖怪。
「……紫さん」
「はい」
「俺の女の姿は、紫さんと瓜二つ。俺が使ってる力は、境界を曖昧にするものばかりで……しかも俺の身体からは妖力が出てる」
「そのように整理できます」
「…………」
そこまで自分の口で並べてみると、さすがに笑って流すことはできなかった。
「偶然、か?」
「偶然である可能性はあります」
阿求は即座に答えた。
「ですが、それぞれ単独なら偶然として片付けられるものが、これだけ同じ方向を向いて重なっています。ですから私は、ひとつの仮説として考える価値があると思っています」
「……どんな?」
阿求は俺の目を見た。
「創英さんは――八雲紫さんに由来する何者かなのではないでしょうか」
心臓が、一度だけ強く脈打った。
「紫さんに……由来する?」
「はい。ただし、ここから先は先ほどまで以上に不確かです」
阿求は念を押すように続ける。
「血縁なのか。それとも別の形で力を受け継いだのか。そもそも本当に紫さんと直接の関係があるのか。今の私には何ひとつ分かりません」
「じゃあ、どうして……」
「能力の性質。そして女性となった際の姿。創英さん自身が妖力を生み出していること。その3つを同時に説明できる可能性のひとつだからです」
「…………」
「ですが、『説明できる』ことと『正しい』ことは違います。ですから、紫さんに由来するというのは推測。その中でも、かなり先へ踏み込んだ推測です」
「……なるほどな」
不思議だった。
断定されなかったからこそ、逆にその可能性が重く感じられる。こじつけで答えを押しつけられているわけではなく、偶然かもしれない、別の説明があるかもしれないと認めた上で、それでも阿求はここまで辿り着いているのだ。
「それで……もうひとつ」
阿求が僅かに言いづらそうな顔をした。
「まだあるのか?」
「こちらは、さらに慎重に考える必要があります」
「さっきからどんどん慎重になってるな……」
「当たり前です。創英さんの種族についてのお話なのですから」
「……種族?」
その言葉に、俺は姿勢を正した。
「先ほども申し上げましたが、妖力を持っているからといって、それだけで創英さんを妖怪だと断定することはできません」
「うん」
「ですが、人間には本来ないはずの妖力を自ら生み出している。さらに身体そのものが、人間の常識から外れるほどの変容を受け入れている。大怪我から何度も生還していることも、根拠としては弱いですが、補助的な材料にはなります」
「……うん」
「その一方で、創英さんが人間として生まれ、人間として育ってきたことも事実です。霊力を持ち、退魔師として術を扱えることも変わりません」
阿求は少し考え、ひとつずつ条件を確かめるようにゆっくりと言葉を選んだ。
「でしたら、人間か妖怪か、そのどちらか一方だけだと考えるよりも、両方の性質を持っていると考えた方が、今のところは矛盾が少ないように思います」
「……それって、まさか」
「半人半妖」
静かな声だった。
「創英さんがそうである可能性も、考えるべきなのではないでしょうか」
「…………」
俺は無意識に、自分の手へ視線を落とした。
昔より少し細くなり、肌もどことなく白くなった。それでも、生まれてからずっと使ってきた俺自身の手にしか見えない。
「俺が……半人半妖」
「あくまでも、可能性です」
すぐに阿求が付け加える。
「現時点では、それ以上ではありません」
「……そっか」
そう言われても、すぐには実感など湧かなかった。
けれど、否定する言葉も出てこない。それどころか阿求から示された可能性を頭の中で転がしているうちに、今まで意味が分からないまま流してきた出来事が、次々と思い出されてきた。
「…………いや」
思わず額を押さえる。
「身に覚えがありすぎる……」
「え?」
「ちょっと待ってくれ、阿求。今……色々思い出してる」
目を閉じると、最初に浮かんだのは紫さんだった。
俺が幻想郷へ来たばかりで、ここに知り合いなどほとんどいなかった頃から、あの人は妙に俺へ興味を向けていた。
時崎家と古い縁があるからだと、それだけだと思っていた。けれど、思い返してみれば、時折こちらを試すような言葉を投げてきたことがある。俺自身すら知らない何かを、最初から知っているような目を向けられたことも、一度や二度ではなかった。
「……そういうことか?」
そこから記憶を辿れば、藍さんと橙の顔も浮かんでくる。
紫さんが初めて二人を連れてきた時、あの二人もどこか引っ掛かる物言いや視線を俺へ向けていた。当時は紫さんの知り合いだから、その縁で俺にも興味を持っているのだろうと流していたが、本当にそれだけだったのだろうか。
「藍さんも……橙も……」
さらに思い出したのは、収穫祭で出会った萃香だった。
俺自身よりも先に、俺の中にある何かを見透かしているような態度。あの時は、長く生きている鬼だから人を見る目があるのだろうと考えた。それも間違いではないのだろうが、もし彼女もあの時から、俺自身が知らない何かを感じ取っていたのだとしたら――。
「……あ」
そして最後に、ひどく身近な顔が浮かんだ。
『そー君って人間なの?』
自宅がまだ完成する前、こいしと交わした会話だ。
何の気なしに自分はただの人間だと答えた時、あいつは真っ先に疑問を返してきた。当時の俺は、何を言っているんだと笑って流しただけだったが、今になって思えば、どうしてあいつはあんなことを聞いたのだろう。
「こいし……」
「こいしさんが、どうかなさいましたか?」
「前に言われたんだよ」
ゆっくり目を開ける。
「俺が自分のことをただの人間だって言ったら……あいつ、不思議そうに聞き返してきたんだ」
「……何と?」
「『そー君って人間なの?』って」
阿求が目を見開いた。
「その時は、変なこと聞くなぁくらいにしか思ってなかった。でも、こいしは覚妖怪だ。あいつが俺の中に何かを感じてたんだとしたら……」
そこまで口にしたところで、自然と声が途切れた。
もちろん、全部がそうだったとは断言できない。紫さんが何を知っているのかも、藍さんや橙、萃香が俺の何を見ていたのかも分からない。こいしだって、本当に妖力を感じたからあんなことを言ったのかは分からないのだ。
それでも、今まで意味の分からないまま記憶の隅へ置かれていた言葉や視線が、ひとつの可能性を置いただけで次々と別の意味を持ち始める。
「……なんだよ、それ。俺以外、みんな何となく気付いてたんじゃないだろうな」
「さすがに、それは分かりません」
「だよなぁ……」
椅子の背へ身体を預け、天井を見上げる。
考えれば考えるほど、阿求の推測を笑い飛ばせなくなっていく。もちろん、今思い出したものは証拠でも何でもない。紫さんたちの言葉へ、今になって都合よく意味を当てはめているだけかもしれない。
それでも俺は、生まれてから今まで自分を人間だと思って生きてきた。
時崎の家に生まれ、父さんも母さんも人間だった。絢香だって少し変わった力を持っていたけれど、俺の大切な妹だった。俺自身も退魔師の力に目覚めたとはいえ、人間であることそのものを疑ったことなど一度もない。
だからこそ、もし本当に自分の中へ妖怪の血が流れていて、八雲紫と何かしらの繋がりまであるのだとしたら――これまで当然だと思っていた自分の輪郭が、少しだけ曖昧になったように感じた。
その時、不意に胸の奥へ小さな不安が差し込んだ。
力の正体が分からないことへの不安とは違う。もっと単純で、幼い頃から身体のどこかに残っていたような怖さだった。
「……阿求」
「はい?」
阿求がこちらを見る。
何を聞こうとしているのか、自分でも少し迷った。
こんなことを尋ねる必要などないことは、頭では分かっている。俺自身、妖怪だからという理由だけで誰かを遠ざけることはしないと決めているし、種族ではなく、その相手自身を見ると決めた。ならば自分にだけ別の理屈を当てはめるのはおかしい。
それでも、その言葉を飲み込むことはできなかった。
「……もしさ。本当に、俺が半人半妖だったとして」
阿求の目を見たまま続ける。
「それでも……今までと変わらず、俺と接してくれるか?」
「…………」
阿求が目を丸くした。
聞いた瞬間、猛烈に恥ずかしくなった。今さら何を確認しているのだろうと思い、「いや、その……変なこと聞いたな。忘れて――」と言いかけたところで、阿求の口元から小さな笑い声が漏れた。
「ふふっ」
「……え?」
口元へ手を添え、阿求が可笑しそうに笑っている。
「な、なんだよ」
「いえ。申し訳ありません」
「絶対申し訳ないと思ってないだろ」
「そんなことはありませんよ」
そう言いながら、まだ笑っている。こっちは結構真剣に聞いたのだが、何とも居心地が悪くなり、頬を掻きながら視線を逸らした。
すると阿求の笑い声が少しずつ収まり、代わりに柔らかな声が届いた。
「創英さん」
「……ん?」
顔を戻すと、阿求はまだ笑っていた。
けれど、それは俺をからかうようなものではない。これまで何度も見てきた、穏やかな笑みだった。
「創英さんは、創英さんだと。私はいつも申し上げているではありませんか」
「…………」
一瞬、何も言えなかった。
「人間であろうと、半人半妖であろうと。それで、これまで創英さんがしてきたことまで変わるのですか?」
「いや……変わらない、と思う」
「私もそう思います」
阿求は迷わなかった。
「変な家から子供を助け出したことも。紅魔館へ向かい、フランドールさんへ手を伸ばしたことも。人里を見回り、困っている方がいれば放っておけないことも。料理がお上手なことも、時々呆れるほど無茶をなさることも」
「最後のは余計じゃない?」
「大切なことです」
「そうですか……」
「はい」
阿求は少しだけ楽しそうに頷いた。
「それらはすべて、創英さんでしょう?」
その言葉が胸へ落ちると、先ほどから居座っていた小さな不安が、ゆっくりと形を失っていった。
――そうか。
俺は、何を怖がっていたんだろう。
自分が人間ではないかもしれない。妖怪の血が流れているかもしれない。その事実が明らかになった途端、周りから向けられる目まで変わってしまうような気がしていた。
思えば昔、絢香の力が原因で俺たち家族は何度も引っ越した。普通とは違うというだけで周囲から奇異の目を向けられ、そして俺自身も、一度はそんな妹の違いを疎んだことがある。
だからなのかもしれない。
頭ではとっくに否定したつもりでも、自分が『普通ではない側』へ立った時、今度は自分が同じように拒まれるのではないかという怖さだけが、どこかに残っていた。
けれど、目の前にいる少女はそんな俺の不安を笑った。馬鹿にしたのではなく、そんなことで悩む必要など最初からないとでも言うように。
「……そっか。そうだったな」
「はい」
「阿求は、そういう奴だった」
「どういう意味でしょう?」
「褒めてるよ」
「でしたら、もう少し分かりやすく褒めてください」
「善処します」
「今してください」
「注文が多いなぁ……」
思わず笑うと、阿求もつられるように笑った。
卓上には、すっかり冷めてしまった茶が2つ。その間に置かれた紙には、俺がこれまで使ってきた三つの力と、それらすべてを繋ぐかもしれないひとつの言葉が残されている。
――境界。
まだ何も確定したわけではない。むしろ今日分かったのは、分からないことがどれだけ多いのかということだった。
3つの力が、本当にひとつの能力から零れ落ちたものなのか。俺が本当に半人半妖なのか。八雲紫とどんな繋がりがあるのか。そして、そもそも阿求と俺がここまで組み立てた推測そのものが正しいのか。
今の俺たちには、それを確かめるだけの材料が足りない。
けれど、何も分からなかった昨日までとは違う。まだ仮説でしかなくとも、確かめるべきものが初めて見えた。そして、その答えを知っているかもしれない相手にも心当たりがある。
「……紫さん、か」
呟きながら、幻想郷へ俺を連れてきた大妖怪の姿を思い浮かべる。
時崎家と古い縁があり、俺自身が何も知らなかった頃から、何かを知っているような目をしていた女。
もし阿求の推測が正しいのなら、あの人は一体どこまで知っているのだろう。
窓の外では、長く幻想郷へ居座り続ける冬の風が吹いている。
春は、まだ遠い。
それでも、答えへ続いているのかさえ分からなかった道には、ようやくひとつの目印が立った。その先に何があるのかはまだ分からないが、少なくとも俺はもう、自分の中に生まれた違和感から目を逸らすつもりはなかった。