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四月の候。外の世界であれば、そろそろ桜の便りが聞こえてくる頃だろうか。
地域によっては既に満開を迎え、散り始めた花弁が道端を薄紅色に染めているかもしれない。学校では新学期が始まり、真新しい制服に身を包んだ学生たちが、少しばかり緊張した面持ちで通学路を歩いていることだろう。
もっとも、今の俺にはあまり関係のない話だが。
去年の夏に幻想郷へ移り住んで以来、学校というものからはすっかり縁遠くなってしまったし、こちらでは暦が四月になったからといって、新しい年度が始まるというわけでもない。
それでも、長年慣れ親しんできた季節の感覚というものは、そう簡単には抜けないらしい。
四月と聞けば、どうしても春を思い浮かべてしまう。
……たとえ、窓の外に広がっているのが、見渡す限りの雪景色だったとしても。
「……いやぁ、今日も見事に真っ白だなぁ」
朝餉を済ませ、縁側へ出た俺は、庭を眺めながら思わずそんな感想を漏らした。
昨夜も雪が降ったらしい。
庭木の枝には新しい雪が積もり、昨日のうちに掃いておいた飛び石も、今朝にはすっかり白く埋もれていた。軒先から垂れ下がる氷柱は相変わらず立派なもので、時折その先から雫が落ちては、下に積もった雪へ小さな窪みを作っている。
空は薄曇り。風こそ穏やかだが、頬を撫でる空気はまだまだ冷たい。
どう見ても冬である。
「……四月って、こんなに寒かったっけ?」
思わず首を傾げてしまう。
いや、そもそも俺は雪国で暮らした経験がない。
外の世界にいた頃は、冬に雪が降れば少しばかり嬉しくなったものだが、それも年に数えるほどしか積もらなかったからこそだ。毎朝雪かきをしなければ家から出られないような生活とは、縁がなかった。
幻想郷は山々に囲まれた土地だし、外の世界とは気候も違うのだろう。標高が高い場所では、春になっても雪が残ることがあると聞いた覚えもある。
そう考えれば、四月になってなお冬景色が続いていることも、別段おかしくはないのかもしれない。
……まあ、そう思うことにしていた。
「とはいえ、そろそろ暖かくなってくれてもいいと思うんだけどなぁ……」
吐き出した息が白く膨らみ、庭先の冷気へ溶けていく。
俺は肩を竦めると、開け放していた障子を閉めた。
さて、今日はどうしたものか。
特に急ぎの仕事が入っているわけでもないし、修行ばかりしていても身体が休まらない。たまには誰かのところへ顔を出して、のんびり過ごすのも悪くないだろう。
そんなことを考えているうちに、ふと一人の顔が思い浮かんだ。
「……そうだ。霊夢のところでも行ってみるか」
博麗神社は山の上にある。
里よりもさらに寒いだろうが、あそこには炬燵もあるし、お茶もある。何より、幻想郷の季節について尋ねるなら、博麗の巫女ほど適任な相手もそういない。
そうと決まれば話は早い。
俺は部屋へ戻ると、いつもの封魔服へ袖を通し、居間で寛いでいたこいしに出かけてくると伝えてから、風花を腰へ差した。
外套を羽織り、玄関で靴を履きながら、もう一度窓の外へ目を向ける。
相変わらず、雪は静かに降り続いていた。
……まったく。春というものは、一体どこで道草を食っているのやら。
——
博麗神社へ到着した頃には、昼前になっていた。
石段には雪が積もっていたものの、人が通る場所だけは綺麗に掃かれている。境内にも足跡がいくつか残っており、少なくとも誰かが出入りしていることは分かった。
もっとも、その足跡の主が巫女本人かどうかは怪しいところだ。なにせ、あいつのことだからなぁ。
「おーい、霊夢ー。いるかー?」
縁側へ回り込み、障子の向こうへ声を掛ける。
すると、少し間を置いてから、聞き慣れた声が返ってきた。
「いるわよー。勝手に上がってきなさい」
「おーう。それじゃあ、お邪魔しまーす」
言われた通り障子を開けると、部屋の中には予想通りの光景が広がっていた。
炬燵。急須。湯呑み。
そして、籠に山盛りになったみかん。
その中心で、博麗霊夢が首まで炬燵に潜り込み、いかにも幸せそうな顔で茶をすすっていた。
「…………」
「……何よ」
「いやぁ……」
なんというか。ここまで予想通りだと、逆に感心してしまう。
「お前、本当にいつ来ても同じ格好してるな」
「失礼ね。ちゃんと仕事だってしてるわよ」
「へぇ。ちなみに今日は?」
「寒いから休み」
「……なるほど。実に分かりやすい理由だ」
思わず苦笑すると、霊夢は不満そうに眉を寄せた。
「何よ。文句でもあるの?」
「いや、別に。むしろ清々しいなと思って」
「だったら変な顔しないでよ」
そう言いながら、霊夢はみかんを1つ手に取った。
器用に皮を剥き、房を1つ口へ運ぶ。その一連の動作には無駄がなく、普段の弾幕戦で見せる身のこなしとはまた違った意味で洗練されていた。
……いや、みかんを食べる動作にまで感心してどうするよ。
「創英も入る?」
「うん? ああ、いいのか?」
「別にいいわよ。寒いでしょうし」
「そりゃ助かる」
外套を脱ぎ、風花を邪魔にならない場所へ置いてから、俺も炬燵へ足を入れる。
途端、冷え切っていた爪先がじんわりと温められ、思わず息が漏れた。
「……あー、生き返る」
「でしょう?」
「ああ。これは動きたくなくなるな」
「分かればいいのよ」
何故か得意げな霊夢に、俺は苦笑しながら湯呑みを受け取った。
淹れたてのお茶は少し熱かったが、冷えた身体にはちょうどいい。ゆっくりと口へ含むと、香ばしい風味が広がり、胸の奥まで温かくなっていくようだった。
しばらくは、そんな他愛もない時間を過ごしていた。
霊夢がみかんを食べ、俺がお茶をすすり、時折思い出したように言葉を交わす。障子の向こうでは、風が軒先を撫でる音がしていた。
……しかし。
「なあ、霊夢よ」
「んー?」
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
「何よ」
俺は湯呑みを置き、窓の方へ目を向けた。
「今年の冬って、なんか妙な感じがしないか?」
霊夢はみかんを口へ運ぼうとしていた手を止めた。
ほんの一瞬だけ、こちらへ視線を向ける。
だが、すぐに何事もなかったようにみかんを食べ始めた。
「気のせいよ」
「え?」
「気のせい」
「いや、まだ何が妙なのか言ってないんだけど?」
「どうせ雪が解けないとか、春が来ないとか、そういう話でしょう?」
「……まあ、そうだけど」
何故分かったんだ。
いや……これだけ雪が積もっていれば、誰でも同じことを考えるか。
「でも、もう四月だぞ? 四月。外の世界じゃ、もう桜が咲いててもおかしくない時期なんだけど」
「ここは幻想郷よ」
「それは知ってるよ」
「だったらいいじゃない」
「いや、よくはないだろ」
思わず突っ込むと、霊夢は面倒臭そうに俺を見た。
「何よ。春が遅いくらいで大袈裟ね」
「遅いっていうか……まだ普通に雪が降ってるんだけど」
「冬なんだから雪くらい降るわよ」
「四月なんだけどなぁ……」
どうにも話が噛み合わない。
俺は腕を組み、改めて外の様子を思い浮かべた。
里でも雪は解けていない。山も森も、相変わらず真冬の景色だ。
それなのに、霊夢は少しも気にしていないように見える。
「……ちなみにさ。幻想郷って、毎年こんな感じなのか?」
「さあ?」
「さあ、ってお前……」
「年によるんじゃない?」
「いや、そこはもう少し詳しく教えてくれてもよくないか?」
「面倒臭い」
「おい博麗の巫女」
「何よ、縁を紡ぐ退魔師」
「……そういう返し方する?」
思わず額へ手を当てる。霊夢はそんな俺を見て、くすくすと笑っていた。
……駄目だこりゃ。どうやら今日は、まともに取り合ってもらえそうにないな。
まあ、俺自身も幻想郷の気候について詳しいわけではないし、現時点で異変だと断定できる材料があるわけでもない。
何より、霊夢がこれほど呑気にしているのだから、差し迫った問題ではないのかもしれない。
そう考え、俺はひとまず追及を諦めることにした。
「……分かったよ。もう少し様子を見ることにする」
「そうしなさい」
「ただし、本当におかしいと思ったら調べるからな?」
「好きにすれば?」
「はぁ……」
まったく……相変わらずだな。そう思いながら、俺は再び湯呑みへ手を伸ばした。
霊夢も何事もなかったようにみかんを剥き始める。部屋の中には、再び穏やかな時間が流れ始めた。
……もっとも。この時の俺は、まだ知らなかった。
霊夢が口にした「気のせい」という言葉が、どれほど当てにならないものだったのかを。
——
博麗神社を訪ねてから、数日が過ぎた。
相変わらず、春が訪れる気配はない。朝になれば雪が降り、昼になっても空気は冷たく、夕方には再び厳しい寒さが戻ってくる。
里の人々も、そろそろ不満を隠さなくなってきた。
市場へ買い物に出掛ければ、野菜の値段を気にする声が聞こえる。
農作業の準備が進まないと嘆く人もいれば、薪の残りを心配する人もいた。
俺自身も、毎日のように雪かきをしているうちに、さすがに少しばかり嫌気が差してきた。
……いや、雪そのものが嫌いなわけではないんだよ。ただ、こうも長く続くと、いい加減にしてくれと言いたくもなる。
そんなある日のことだった。俺は、自宅の居間で一冊の手帳を開いていた。
外では細かな雪が降っている。火鉢の炭が時折小さく爆ぜる音を立て、静かな室内に微かな温もりを広げていた。
机の上には、これまでに書き留めてきた覚え書きがいくつか並んでいる。
……もっとも、今調べているのは雪のことではなかった。
「……やっぱり、分からないな」
手帳の頁をめくりながら、小さく呟く。そこに記されているのは、俺自身の身体に起きた変化についてだった。
三月に入ってから、随分と色々なことがあった。
突然、身体が女性へ変化したこと。
それまで存在すら知らなかった魔力と妖力が、自分の内側に眠っていたこと。
アリスからそれらの扱い方を教わり、パチュリーさんからも身体の状態について様々な指摘を受けたこと。
そして、阿求から聞かされた1つの可能性。
――俺の身体には、八雲紫に由来する何かがあるのではないか。
あの話を聞いて以来、ずっと胸の奥に引っ掛かっている。
もちろん、阿求が言っていたのは推論に過ぎない。
確かな証拠が見つかったわけでもなければ、紫さん本人から何かを聞いたわけでもない。
それでも、完全に無視できる話ではなかった。
何故なら、俺自身が自分の身体について知らないことが、あまりにも多すぎたからだ。
「……時崎家、か」
手帳を閉じ、椅子の背へ身体を預ける。
時崎家は退魔師の一族だ。古くから妖魔と戦い、人々を守ってきた家柄であることは知っている。
宗家へ引き取られてからは、その歴史や術の成り立ちについても、ある程度は教わってきた。
だが、考えてみれば、俺が知っているのは主に退魔師としての時崎家についてだ。
何故、時崎家が退魔を生業とするようになったのか。
どのような経緯で、幻想郷という土地と関わりを持ったのか。
そして、何故あの八雲紫が、俺たち一族の事情をあれほど詳しく知っていたのか。
……そういったことについて、俺はほとんど知らない。
「ジジイに聞いておけばよかったかなぁ……」
今更ながら、そんなことを思う。
もっとも、あの爺さんのことだ。仮に尋ねていたとしても、素直に教えてくれたかどうかは怪しい。
必要になれば分かる、だとか。自分で考えろ、だとか。
そんなことを言われて終わっていた可能性も十分にある。
「……いや、流石にそれは偏見か?」
自分で言っておきながら、少し反省する。
あの人は確かに厳しく、説明不足なところも多かったが、俺のことを考えてくれていなかったわけではない。
むしろ、今になって思えば、言葉にしなかっただけで随分と気を遣ってくれていたのだろう。
……だからこそ、余計に気になる。あの人は、一体どこまで知っていたのだろうか。
風花が俺を認めた理由。
紫さんが俺を幻想郷へ迎え入れた理由。
そして、時崎家という一族が抱えているらしい、俺の知らない何か。
考えれば考えるほど、疑問ばかりが増えていく。
「……はぁ」
小さく息を吐き、俺は机の上へ視線を落とした。
分からないことを、いくら一人で考えていても仕方がない。それなら、誰かに相談してみるべきだろう。
……となれば。
「阿求に、もう一度話を聞いてみるか」
あいつなら、何か新しい手掛かりを見つけているかもしれない。
それに、稗田家には幻想郷の歴史に関する膨大な記録が残されている。
時崎家についても、何か分かることがあるのではないだろうか。
そう考えると、じっとしている理由もなくなった。
「こいし。ちょっと阿求の所に出かけてくるから、留守番頼んだぞ」
「はぁ~い。いってらっしゃ~い」
俺は手帳を閉じて懐へ収めると、立ち上がって外套へ手を伸ばした。
窓の向こうでは、相変わらず雪が降っている。
……まったく。春の気配も、自分の出生についての手掛かりも、どうやら向こうから訪ねてきてはくれないらしい。
だったら、こちらから探しに行くしかないだろう。
俺は風花を腰へ差し、玄関へ向かった。
——
稗田邸へ到着すると、顔馴染みのお手伝いさんが出迎えてくれた。
「あら、創英様。いらっしゃいませ」
「こんにちは。阿求に会いに来たんですけど、いますか?」
「はい。お嬢様でしたら、書斎にいらっしゃいますよ。ご案内いたしますね」
「ありがとうございます」
案内を受け、俺は慣れた廊下を進んでいく。
以前はここに居候していたこともあって、屋敷の造りはすっかり頭に入っている。どこへ行けば誰がいるのか、どの廊下を通れば書斎へ近いのかも、今では迷うことがない。
それでも、こうして客人として訪れると、少しばかり妙な気分になる。
……まあ、今でも勝手知ったる他人の家みたいなものなんだけどな。
書斎の前へ到着し、襖越しに声を掛ける。
「阿求ー。俺だ、創英だ。いるか?」
「はい。どうぞ」
「邪魔するぞ」
襖を開けると、阿求は机に向かって筆を走らせていた。
傍らには数冊の書物が積まれ、硯の横には書きかけの紙が広げられている。
俺の姿を認めると、阿求は筆を置き、柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ、創英さん。今日はどうされたのですか?」
「いや、ちょっと相談したいことがあってさ」
「相談、ですか?」
「ああ。……この前の、俺の身体の話なんだけど」
そう告げると、阿求の表情が僅かに変わった。
先ほどまでの穏やかな笑みが薄れ、真剣な眼差しがこちらへ向けられる。
「……何か、新しく分かったことがあるのですか?」
「いや、それが全然。だからこそ、もう一度阿求に聞いてみようと思って」
「なるほど……」
阿求は小さく頷くと、机の上を片付け始めた。
「でしたら、少しお待ちください。お茶を用意させましょう」
「いや、そんな気を遣わなくても――」
「創英さん」
「はい?」
「お話をするのでしょう? でしたら、お茶くらいあった方がよろしいではありませんか」
「あー……はい、ごもっともです」
相変わらず、こういうところは妙に押しが強い。俺が苦笑すると、阿求も少しだけ楽しそうに笑った。
やがて運ばれてきたお茶を挟み、俺たちは改めて向かい合った。
まずは、これまでに分かっていることを整理する。
身体の中に霊力だけでなく、魔力と妖力が存在していること。
女性へ変化した際、外見が八雲紫と似通っていたこと。
そして、阿求が以前指摘した、俺の能力と境界との関係。
どれも、今となっては無視できない事実ばかりだった。
「……やっぱり、紫さん本人に聞くしかないのかな」
ひと通り話し終えたところで、俺は湯呑みを置いた。
「それが一番確実なのでしょうけれど……」
阿求は少し困ったように眉を寄せた。
「八雲紫という方は、そう簡単に本心を明かしてくださる方ではありませんからね。それに、恐らく今もまだ冬眠中でしょうし」
「だよなぁ……」
思わず天井を仰ぐ。あの人のことだから、仮に何かを知っていたとしても、素直に教えてくれるとは限らない。
むしろ、意味深な笑みを浮かべながら、こちらを煙に巻いてくる姿が容易に想像できてしまう。
……いや、想像というか、実際に何度もやられてるんだけど。
「だからさ。何か、別のところから調べられないかなって思って」
「別のところ、ですか?」
「うん。例えば……時崎家の歴史とか」
そう口にした瞬間だった。
阿求の指先が、湯呑みの縁でぴたりと止まった。
「……時崎家の、歴史」
「ん?」
何やら、考え込んでいる。
阿求は湯呑みを置くと、視線を少し下げた。
「……そういえば」
「どうした?」
「いえ……以前、少し気になる記録を読んだことがあったような……」
「記録?」
「はい。稗田家に残されている、古い文献の1つなのですが……」
阿求はそこで言葉を切り、しばらく考え込んだ。
何かを思い出そうとしているというより、既に知っている情報を頭の中で整理しているように見える。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……創英さん」
「ん?」
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「時間? 別に構わないけど……」
「でしたら、一緒に来ていただきたい場所があります」
そう言って、阿求は静かに立ち上がった。
「……どこへ行くんだ?」
俺が尋ねると、彼女は一瞬だけ迷うように視線を伏せた。
しかし、すぐに顔を上げる。
「稗田家の、秘蔵書庫です」
「……秘蔵書庫?」
「はい。普段は一般の方へお見せすることのない、古い記録を保管している場所です」
「そんなところがあるのか」
「ええ。幻想郷縁起に記載されていない事柄や、歴代の御阿礼の子が個人的に残した記録なども、そこには収められています」
阿求は机の上に置かれた書物へ、ちらりと視線を向けた。
「……以前、目を通した記録の中に、時崎という名があったことは覚えています。ですが、その時は特に気に留めていませんでした」
「……今は違う、と?」
「ええ」
阿求は静かに頷いた。
「今は、創英さんがいらっしゃいますから」
その言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。
阿求は少しだけ微笑むと、続けた。
「以前の私にとって、時崎という名は、古い記録の中に残された数多くの家名の1つに過ぎませんでした。ですが、今は違います」
彼女の視線が、まっすぐに俺へ向けられる。
「その名を受け継いだ方が、こうして私の目の前にいらっしゃるのですから」
「……阿求」
「もしかすると、以前は理解できなかった記述にも、今なら別の意味を見出せるかもしれません」
そう言って、阿求は小さく笑った。
「……もっとも、何か分かるという保証はありませんけれど」
「いや、それでも十分だよ」
俺は思わず笑みを返した。
「正直、何から調べればいいのかも分からなかったからさ。手掛かりがあるかもしれないってだけで、ありがたい」
「ふふ。そう仰っていただけるなら、よかったです」
阿求は嬉しそうに目を細めると、書斎の奥へ視線を向けた。
「では、参りましょうか」
「ああ。よろしく頼むよ」
俺も立ち上がり、阿求の後に続く。
——彼女が向かったのは、普段俺が立ち入ることのなかった、屋敷のさらに奥まった場所だった。
廊下を進むにつれ、人の気配が少なくなっていく。
磨き上げられた床板が足音を静かに返し、障子越しに差し込む薄い陽光が、廊下へ淡い影を落としていた。
やがて阿求は、ひとつの古い扉の前で足を止めた。
そこには、普段の書斎とは明らかに異なる、長い年月を経た木材の色合いがあった。
「……ここです」
阿求はそう告げると、懐から小さな鍵を取り出した。
金具が触れ合う、微かな音が響く。鍵穴へ差し込まれた鍵がゆっくりと回され、古い錠が重たげな音を立てた。
そして、扉が開かれる。
その向こうから漂ってきたのは、乾いた紙と古い木材が混じり合った、独特の匂いだった。
薄暗い室内には、幾つもの書棚が並んでいる。
棚には木箱や巻物、古びた冊子が整然と収められ、長い年月の中で積み重ねられてきた記録の数々が、静かに眠っていた。
「これは……すごいな」
思わず、そんな言葉が漏れる。
阿求は扉の脇に置かれた灯りを手に取ると、こちらを振り返った。
「ここには、幻想郷縁起へ記すことのできなかった事柄も、数多く残されています」
「……記せなかった?」
「はい」
阿求の声が、僅かに低くなった。
「記録することと、公にすることは、必ずしも同じではありませんから」
その言葉に、俺は黙って頷いた。
確かに、そうだろう。
世の中には、知られることで誰かが傷つくこともある。
記録として残すべき事実であっても、それを誰にでも見せてよいとは限らない。
退魔師として活動してきた俺にも、その理屈は理解できた。
阿求は灯りを掲げ、書棚の間へ足を踏み入れる。
「以前読んだ記録は、確か……こちらの方に」
そう呟きながら、彼女は棚に並ぶ古い木箱へ視線を走らせていく。
俺もその後に続き、薄暗い書庫の奥へと歩みを進めた。
……さて。ここに、何が残されているのだろうか。
時崎家という一族の歴史。俺自身の身体に眠る、得体の知れない力。そして、八雲紫という大妖怪との間にあるらしい、不可解な縁。
それらを結びつける何かが、この場所に眠っているのかもしれない。そう考えると、胸の奥が僅かに落ち着かなくなった。
期待しているのか、それとも不安なのか。自分でもまだよく分からない。
ただ一つ確かなのは、ここへ来る前よりも、ほんの少しだけ真実へ近づけそうだということだった。
俺は小さく息を吸い、阿求の背中を追って、古い記録の眠る書棚の間へ足を踏み入れた。