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稗田家の秘蔵書庫は、想像していた以上に広かった。
外から見た限りでは、屋敷の奥に設けられた少し大きな蔵といった印象だったのだが、いざ中へ入ってみると、奥行きのある室内には天井近くまで書棚が並び、その間を縫うように細い通路が続いていた。
書棚には古い巻物や冊子、木箱に収められた文書が所狭しと並んでいる。中には随分と年季の入ったものもあるらしく、紙の端が茶色く変色した冊子や、紐の色がすっかり褪せてしまった巻物なども見受けられた。
もっとも、埃っぽいという印象はあまりない。
古い紙や木材特有の匂いこそ漂っているものの、床板は綺麗に掃かれているし、書棚にも目立った埃は積もっていなかった。どうやら、普段からきちんと手入れがされているらしい。
「……いやぁ、改めて見ると凄いな。これ、全部記録なのか?」
「ええ。もっとも、全てが歴史に関するものというわけではありませんけれど」
先を歩いていた阿求が、手にした灯りを少し高く掲げながら答える。
「歴代の御阿礼の子が残した覚え書きや、個人的な書簡、当時の出来事に関する報告書なども含まれています。中には、幻想郷縁起の編纂に用いられなかった資料もありますね」
「へぇ……。それにしても、よくこれだけ残ってるもんだな」
「稗田家にとって、記録を後世へ伝えることは大切な務めですから」
阿求はそう言って微笑んだものの、すぐに書棚へ視線を戻した。
「ただ、これだけの量がありますと、今世の私でも全てに目を通せているわけではないのです。過去の御阿礼の子が残したものを、必要に応じて読み直すことも少なくありません」
「……そういや、阿求って生まれ変わる度に前世の記憶が大分なくなるんだったっけ」
「はい。幾ら私が一度見たものを忘れないといっても、それは今世で得た記憶についてのお話ですから」
阿求は何でもないことのように答えたが、俺には少し不思議な話に思えた。
生まれ変わる前の自分が残した書物を、生まれ変わった後の自分が読む。
同じ魂を持つ存在なのだとしても、記憶の大半を失っているのであれば、そこに書かれた出来事は、本人にとっても昔話のようなものなのだろうか。
「……なんか、妙な感じがするな」
「そうですか?」
「いや、だってさ。前世の自分が書いたものを、今の自分が資料として読むんだろ? 俺だったら、昔の日記を読み返すのとはまた違った気分になりそうだなって」
そう告げると、阿求は少し意外そうに目を瞬かせた。
それから、何かを考えるように視線を落とす。
「……そうですね。確かに、創英さんの仰る通りかもしれません」
「ん?」
「過去の御阿礼の子が記したことは、私にとって大切な記録です。ですが、そこに書かれた出来事を、今の私が同じように感じられるとは限りませんから」
阿求は近くの書棚へ指先を添え、整然と並ぶ背表紙を眺めた。
「当時は当然だと思われていたことが、今では不思議に感じられることもあります。反対に、以前は理解できなかった記述が、何かのきっかけで急に腑に落ちることもあるんですよ」
「……なるほどなぁ」
記憶していることと、理解していることは違う。
言われてみれば当たり前の話なのだが、それを阿求の口から聞くと、何となく重みが違って感じられた。
何しろ、こいつが読み返しているのは、時には何百年も前の自分が残した記録なのだから。
「……ああ、ありました」
そんなことを考えていると、阿求が1つの書棚の前で足を止めた。
そこには、他の棚よりも小ぶりな木箱が幾つか収められていた。どれも古びてはいるものの、側面には整理のためらしい札が取り付けられている。
阿求はそのうちの1つを慎重に取り出すと、近くに設けられた閲覧用の机へ運んだ。
「こちらです。確か、この中に……」
箱の蓋が開かれる。中には薄い冊子が数冊と、折り畳まれた古い文書が収められていた。
阿求はそれらを1つずつ確かめ、やがて一冊の冊子を手に取った。
「……ええ。間違いありません」
「見つかったのか?」
「はい。以前、私が目を通した記録です」
そう言って、阿求は冊子を机の上へ広げた。
俺も隣から覗き込んでみる。……が。
「…………」
達筆だ。非常に達筆である。
少なくとも、俺にはそうとしか言いようがなかった。
紙面には細かな文字がびっしりと書き連ねられているのだが、筆の運びも言葉遣いも古めかしく、ぱっと見ただけでは何が書かれているのかさっぱり分からない。
「……阿求」
「はい?」
「これ、読めるのか?」
「ええ。多少古い表現はありますけれど、問題ありませんよ」
「流石だなぁ……」
「ふふ。これでも幻想郷縁起の編纂者ですからね」
少し得意げに胸を張る阿求を見て、俺は素直に感心した。
退魔師として古い文献に触れる機会がなかったわけではないが、こうした記録を自在に読み解けるほどの知識は持ち合わせていない。
餅は餅屋、ということだろう。
「それで、何が書いてあるんだ?」
「少々お待ちくださいね」
阿求は冊子の頁をゆっくりとめくり、ある箇所で手を止めた。
そこへ視線を落とした途端、彼女の表情が僅かに引き締まる。
「……やはり」
「ん?」
「時崎という名が、確かに記されています」
そう言って、阿求は紙面の一箇所を指差した。
俺も目を凝らしてみる。
……なるほど?
言われてみれば、確かに見覚えのある文字が並んでいる。
「……本当だ。時崎、って書いてあるな」
「ええ。ただし、これは現在の時崎家について記したものではありません」
「というと?」
「随分と古い時代の記録です。少なくとも、幻想郷が現在のような形になるよりも前のことですね」
阿求は慎重に頁を押さえながら、記述を読み進めていく。
「……科野の地にて退魔を生業とする一族あり。その祖は藤原の流れを汲み、古くより人と妖の間に立ちて災いを鎮むるを務めとす……」
「……ん?」
思わず、聞き返してしまった。
「ちょっと待って。今、何て?」
「はい?」
「いや、その……藤原って言わなかったか?」
「ええ。こちらには、そのように記されていますね」
阿求は不思議そうに首を傾げた。
「創英さんは、ご存じなかったのですか?」
「……初耳なんだけど」
俺がそう答えると、阿求は少し驚いたようだった。
無理もない。自分の家のことなのに、その祖先がどこに繋がっているのか知らないというのは、少々間の抜けた話に聞こえるかもしれない。
しかし、俺が宗家で学んできたのは、主に退魔師としての時崎家の歴史だった。
術の成り立ちや、代々受け継がれてきた教えについては耳にしている。
けれど、そのさらに昔の家系については、詳しく聞かされた覚えがない。
「藤原って……あの藤原氏?」
「恐らく、創英さんが思い浮かべていらっしゃる藤原氏で間違いないかと思います」
「……へぇ」
思わず、間の抜けた声が出た。
藤原氏といえば、外の世界の歴史の授業でも習うような、随分と有名な一族だったはずだ。
その名前が、まさか自分の家の祖先として出てくるとは思わなかった。
……いや、待てよ。昔の日本では、同じ姓を名乗る家が幾つも枝分かれしていたはずだ。
だとすれば、藤原氏の流れを汲む家が現代まで残っていたとしても、そこまで珍しいことではないのかもしれない。
「……なんというか、実感が湧かないな」
「そうでしょうね。何百年も前のことですから」
「いや、何百年どころじゃないんじゃないか?」
「ええ。記述の内容からすると、千年以上前にまで遡る可能性があります」
「……千年、か」
思わず、冊子へ視線を落とした。
千年。言葉にしてしまえば短いが、その年月は俺が生きてきた時間とは比べものにならない。
俺が生まれるよりもずっと昔。
父さんや母さんが生まれるよりも、ジジイが生まれるよりも遥か昔から、時崎という一族に繋がる人々が生きていた。
当たり前のことなのかもしれない。
それでも、こうして記録として突きつけられると、何とも言えない気分になる。
「……それにしても、科野って?」
「現在でいう信濃の古い呼び名ですね」
「ああ、長野の方か」
「はい。時崎家は、古くからその土地に縁を持っていたようです」
阿求はそう説明すると、さらに頁をめくった。
「そして、こちらには……人と妖怪との関わりについても記されていますね」
「人と妖怪?」
「ええ。少し興味深い内容です」
そう言って、阿求は記述の一節を読み上げた。
「……時崎の者、妖を悉く祓うを良しとせず。人に害なきものはこれを容れ、災いを為すものを鎮めるを本分とす……」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず目を瞬かせた。
「……へぇ」
随分と、聞き覚えのある考え方だった。
いや、聞き覚えがあるどころの話ではない。
それは、俺が宗家で教わってきた退魔師としての在り方そのものだったからだ。
「……どうかされましたか?」
「いや……なんか、懐かしいことを聞いた気がしてさ」
「懐かしい?」
「ああ。俺が宗家で教わったことと、ほとんど同じなんだよ」
阿求は少し驚いたように目を見開いた。
「……そうなのですか?」
「うん。時崎の退魔師は、妖怪だからって理由だけで相手を祓ったりしない。人に害をなす存在を妖魔として区別して、必要に応じて対処するんだ」
俺は机の上の冊子へ視線を戻した。
「もちろん、危険な相手なら戦うこともあるけどさ。話が通じるなら、まずは話をしてみる。それで済むなら、わざわざ斬る必要もないだろ?」
「……なるほど」
阿求は小さく頷いた。
そして、もう一度記録へ目を落とす。
「……そういうことだったのですね」
「ん?」
「いえ……以前、この記述を読んだ時には、少し変わった考え方をする一族なのだと思っていたんです」
阿求は静かに言葉を続けた。
「当時の人々にとって、妖怪は恐れるべき存在でした。ですから、妖怪を祓う力を持ちながら、必ずしもそれを行使しないという姿勢は、随分と珍しかったのでしょう」
「……まあ、そうかもな」
「ですが、今は少し違って見えます」
阿求は顔を上げ、俺の方を見た。
「創英さんが、普段からなさっていることと同じなのですね」
「……俺が?」
「はい」
彼女は柔らかく微笑んだ。
「妖怪であるという理由だけで相手を拒まず、まずはその方自身を見ようとなさる。必要であれば戦いますけれど、そうでなければ手を差し伸べることも厭わない」
「……いや、そんな大層なことはしてないと思うけど」
「ふふ。創英さんは、いつもそう仰いますね」
そう言われると、何とも返しづらい。
俺としては、ただ自分がそうしたいと思ったことをしているだけなのだが。
……まあ、時崎の教えが自然と身体に染みついているというのは、確かにあるのかもしれない。
「……不思議なものですね」
阿求が、ぽつりと呟いた。
「この記録は、以前にも読んだことがあるんです。ですから、何が書かれているのかは覚えていました」
「うん」
「けれど、今こうして読み返してみると……まるで、初めて読む書物のように感じるんです」
彼女は頁へ視線を落としたまま、少しだけ考え込んだ。
「書かれていることは、何ひとつ変わっていないはずなのに」
「……それってさ」
「はい?」
「阿求の方が、変わったってことなんじゃないか?」
そう告げると、阿求はゆっくりとこちらを向いた。
「……私が、ですか?」
「うん。だって、前に読んだ時と今とじゃ、知ってることも違うだろ?」
俺は冊子を指差した。
「昔はただの記録だったとしても、今はこうして実際に俺と話してるわけだし。だったら、同じ文章でも受け取り方が変わるのは、別におかしくないんじゃないか?」
「…………」
阿求はしばらく黙っていた。
何かを考えるように視線を伏せ、それから小さく息を吐く。
「……そうですね」
やがて、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
「きっと、創英さんの仰る通りなのでしょう」
「……そうか?」
「ええ。以前の私には、ここに記された時崎という一族が、どのような人々だったのか想像することしかできませんでした」
そう言って、阿求は俺の方へ向き直った。
「ですが、今は創英さんがいらっしゃいますから」
「……阿求」
「もちろん、創英さんがご先祖様と同じ方だとは思っていませんよ。ですが、少なくとも……この方々が何を大切にしていたのか、以前よりは分かる気がするんです」
その言葉に、俺は何とも言えない気恥ずかしさを覚えた。
別に褒められたわけではないのだろう。
それでも、自分の生き方が誰かの理解に繋がったのだと言われると、少しばかり照れ臭い。
「……そっか」
俺は小さく笑い、再び冊子へ視線を落とした。
「だったら、来た甲斐があったな」
「ふふ。ええ、本当に」
阿求も嬉しそうに微笑んだ。
しかし、その表情はすぐに少しだけ引き締まった。
「……ただ」
「ん?」
「もうひとつ、気になることがあるんです」
そう言って、阿求は冊子の後半へ頁を進めた。
そこには、先ほどまでとは異なる筆跡で、何かが書き加えられていた。
「……こちらをご覧ください」
「今度は何だ?」
「時崎家に関する記録は、ある時代を境に、急に少なくなっているんです」
「……少なく?」
「はい。それ以前は、稗田家や博麗との交流についても幾つか記述が残されています。ですが、ある時期から、そうした記録がほとんど見当たらなくなります」
阿求は別の冊子を取り出し、幾つかの頁を開いて見せた。
そこには確かに、時崎という名が散見されていた。
しかし、時代が下るにつれ、その名前は次第に少なくなっていく。
「……単に、記録が残ってないだけじゃないのか?」
「その可能性もあります。ですが……」
阿求は少し言い淀んだ。
それから、慎重に言葉を選ぶように続ける。
「……記録が失われたというより、意図的に記されなくなったようにも見えるんです」
「意図的に?」
「ええ」
阿求は静かに頷いた。
「稗田家の記録には、時折、後世へ伝えるべき事柄と、公にすべきではない事柄を区別した形跡が残されています。こちらも、そうしたもののひとつなのかもしれません」
俺は思わず眉を寄せた。
「……なんで、そんなことを?」
「分かりません。少なくとも、今の私には断定できません」
阿求はそう答えると、再び古い記録へ視線を落とした。
「ですが……当時の時世を考えると、少し気になることがあります」
「時世?」
「はい。人と妖怪との関係です」
阿求は静かに説明を始めた。
「現在の幻想郷では、人間と妖怪が一定の均衡を保ちながら暮らしています。もちろん、争いがなくなったわけではありませんけれど」
「……うん」
「ですが、昔は今以上に、人と妖怪との対立が激しい時代もありました。妖怪を恐れる人々も多く、妖怪に近しい者が疑いの目を向けられることもあったでしょう」
阿求はそこで言葉を切り、俺の方を見た。
「そのような時代に、退魔師の一族が妖怪との共存を掲げていたとしたら……それだけでも、周囲から理解されにくかったのではないでしょうか」
「……まあ、そうだろうな」
俺は腕を組み、考え込んだ。
退魔師というものは、基本的に人間を守るために妖魔と戦う存在だ。
だからこそ、妖怪を庇護するという行動は、時代によっては裏切りのように受け取られたかもしれない。
ましてや、相手が強大な妖怪だった場合はどうだろう。
……いや。
そこまで考えたところで、ふと一人の顔が思い浮かんだ。
「……阿求」
「はい?」
「時崎家ってさ。昔から、紫さんと関わりがあったんだよな?」
俺がそう尋ねると、阿求は僅かに目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷く。
「……ええ。そのような記述も、確かに残されています」
「やっぱりか」
胸の奥が、僅かにざわついた。
紫さんは、幻想郷の賢者だ。
人間とも妖怪とも異なる立場から、この土地の均衡を見守っている存在である。
そんな人物が、何故か俺の一族について詳しく知っている。
そして、俺自身の身体には、その紫さんに由来するかもしれない力が眠っている。
……偶然、なのだろうか。
「……創英さん」
阿求の声に、俺は顔を上げた。
彼女は少しだけ心配そうに、こちらを見つめていた。
「……大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だ」
俺は小さく笑ってみせた。
「ただ、ちょっと……色々考えちゃってさ」
「……そうですか」
阿求はそれ以上追及せず、静かに頷いた。
その気遣いが、今はありがたかった。
俺はもう一度、机の上に広げられた記録へ視線を落とす。
古い紙に記された、時崎という名。
そこには、俺の知らない一族の歴史が確かに存在していた。
藤原氏に連なる血筋。科野の地で退魔を生業としてきた人々。
妖怪をただ祓うのではなく、人と妖の間に立つことを選んだ先祖たち。
そして、八雲紫との古い縁。
……どれも、今の俺にとっては初めて知ることばかりだった。
「……なあ、阿求」
「はい?」
「この記録、もう少し詳しく調べることってできるかな」
阿求は少し考え込んだ。
「……そうですね。関連する文献を探せば、何か分かるかもしれません」
「そっか」
「ですが、創英さん」
「ん?」
阿求は真剣な眼差しで俺を見た。
「ここに残されている記録には、過去の御阿礼の子たちが、あえて公にしなかったものも含まれています」
「……うん」
「それが何故なのか、今の私にはまだ分かりません。ですが、理由が分からないからといって、軽々しく扱ってよいものではないと思うんです」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「……そうだな」
秘密には、秘密にされるだけの理由がある。
それが誰かを守るためなのか、あるいは別の事情によるものなのかは分からない。
けれど、知らないからといって無闇に暴いてよいわけではない。
俺自身、退魔師として活動する中で、そうした場面に出くわしたことがある。
「無理に全部知ろうとは思ってないよ。ただ……自分のことだからさ。分かる範囲で、少しずつでも知っておきたいんだ」
「創英さん……」
「それに、阿求が危ないと思うようなことなら、ちゃんと相談する。勝手に何かしたりはしないからさ」
そう告げると、阿求は少しだけ目を見開いた。
それから、ほっとしたように微笑む。
「……ありがとうございます」
「いや、礼を言われるようなことじゃないって」
「ふふ。そうかもしれませんね」
阿求は静かに笑うと、机の上の冊子を丁寧に閉じた。
「では、今日はひとまず、ここまでにしましょうか」
「ああ。そうだな」
俺も頷き、椅子から立ち上がった。
まだ分からないことは多い。むしろ、今日ここへ来たことで、疑問はさらに増えてしまったような気さえする。
それでも、不思議と気分は悪くなかった。
何も分からないまま立ち止まっているよりは、ずっといい。
少なくとも、時崎家という一族が、俺の知らない遥か昔から続いてきたことは分かった。
そして、その歴史の中には、今の俺にも通じる考え方が確かに息づいていた。
……それだけでも、今日ここへ来た意味はあったのだろう。
——
秘蔵書庫を出ると、屋敷の廊下には柔らかな午後の光が差し込んでいた。
薄暗い書庫に長くいたせいか、その明るさが少し眩しく感じられる。
阿求は書庫の扉へ鍵を掛けると、俺の方へ向き直った。
「……創英さん」
「ん?」
「今日のお話ですけれど……」
彼女は少しだけ言い淀んだ。
何かを伝えようとしているのは分かったが、どう言葉にすればよいのか迷っているようだった。
「……以前、私は創英さんに申し上げましたよね」
「何を?」
「創英さんは、創英さんだと」
その言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。
……ああ。そういえば、そんなことを言ってくれたっけ。
「うん。覚えてるよ」
「ふふ。でしたら、よかったです」
阿求は柔らかく微笑んだ。
「今日、時崎家の歴史について少し分かりました。ですが、それによって創英さんという方が変わるわけではありません」
「……そうだな」
「どのような血筋であろうと、どのような歴史を背負っていようと……私が知っている創英さんは、今ここにいらっしゃる創英さんですから」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
自分でも、少しばかり不安だったのかもしれない。
もし、自分の身体に眠る力が、本当に八雲紫に由来するものだったとしたら。
もし、時崎家という一族に、自分の知らない重大な秘密があったとしたら。
その時、自分は一体何者なのだろうか。
……そんなことを、どこかで考えていたのだと思う。
けれど、阿求は変わらずに俺を見てくれている。
血筋でも、力でも、肩書きでもなく。ただ、時崎創英という一人の人間として。
「……ありがとな、阿求」
俺は小さく笑った。
「なんか、ちょっと気が楽になった」
「それは何よりです」
阿求も嬉しそうに笑う。
その表情を見ていると、何だかこちらまで穏やかな気分になってくる。
……まったく。こういうところ、本当に敵わないなぁ。
そんなことを考えながら、俺たちは並んで廊下を歩き始めた。
障子の向こうでは、相変わらず雪が降っている。
四月になっても終わらない冬。その原因については、まだ何も分かっていない。
だが、今日という一日で、少なくとも俺自身の中には、小さな変化があったように思えた。
知らなかった過去に触れ、そこに生きていた人々の思いを、ほんの少しだけ知ることができた。
そして、その歴史を知ったからといって、今の自分が変わるわけではないのだと、改めて教えてもらった。
……さて。春は、いつになったら来るのだろうか。
窓の外に広がる白銀の景色を眺めながら、俺はそんなことを考えていた。
少なくとも、今の俺にはまだ、その答えを知る術はなかった。