幻想回帰節   作:北宮 涼

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66の節:春を探して

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 四月も中旬に差しかかろうという頃。幻想郷には、相変わらず春の訪れる気配がなかった。

 

 朝、目を覚まして障子を開ければ、庭には昨夜のうちに積もった新しい雪が広がっている。日中になれば多少は解けるものの、夕方には再び冷え込み、翌朝には元通り。そんな日々が、もう随分と長く続いていた。

 

 最初のうちは、幻想郷の冬というのは随分と長いものなんだなぁ、などと呑気に考えていたのだが……。

 

「……いや、流石におかしくないか?」

 

 庭先に積もった雪を眺めながら、俺は思わず呟いた。

 

 つい先日、阿求と一緒に時崎家の古い記録を調べたばかりだ。

 

 あの時も雪は降っていたし、帰り道では、春は一体いつになったら来るのだろうかと考えていた。

 

 それから何日か経ったというのに、景色はほとんど変わっていない。

 

 いや、変わっていないどころか、昨夜の雪で庭木の枝はまた白くなっている。

 

 ……春って、こんなに気長に待たなきゃいけないものだったっけ?

 

「創英ー、どうしたのー?」

 

 背後から声が掛かり、振り返る。

 

 居間の方から顔を覗かせたこいしが、こちらを不思議そうに見つめていた。

 

「いや、ちょっとな。いつになったら雪が解けるのかなって」

「雪?」

「ああ。もう四月も中頃だろ? そろそろ春になってもいいと思うんだけどさ」

 

 俺がそう答えると、こいしは庭へ視線を向けた。

 

 しばらく白い景色を眺めた後、何やら楽しそうに笑う。

 

「でも、雪って綺麗だよね!」

「まあ、それはそうなんだけどなぁ」

「それに、まだ雪遊びできるよ?」

「……こいしは元気だなぁ」

「えへへー!」

 

 無邪気な笑顔を向けられ、思わず苦笑する。

 

 確かに、雪そのものが悪いわけではない。こいしのように楽しんでいる者もいるだろうし、俺だって、たまに降る程度なら嫌いではなかった。

 

 ただ、これだけ長く続くと話は別だ。

 

 里では農作業の準備が進まず、薪の残りを気にする人も増えている。市場へ行けば、いつもより品物が少ない店も見かけるようになった。

 

 俺の家だけの問題なら、雪かきが面倒だなぁ、で済む。けれど、どうやらそういう話でもなくなってきているらしい。

 

「……ちょっと、霊夢のところへ行ってくるかな」

「霊夢のところ?」

「うん。前にも聞いてみたんだけど、やっぱり気になるからさ」

「ふーん。じゃあ、私も行こうかなー」

「お、そうするか?」

「うーん……やっぱり今日はお留守番!」

 

 こいしは少し考えた後、くるりと踵を返した。

 

「お昼寝して、それからお散歩するの!」

「……そうか。まあ、気を付けてな」

「はぁ~い!」

 

 そう言い残して、こいしは居間の奥へと姿を消した。

 

 ……相変わらず自由だなぁ。

 

 もっとも、あいつの場合はそれが普通なのだろう。

 

 俺は小さく笑い、外套を羽織った。

 

 腰に風花を差し、玄関から外へ出る。頬に触れた冷気は、やはり冬のそれだった。

 

 

——

 

 

 博麗神社の境内は、今日も見事な雪景色だった。

 

 石段には人が通れる程度の道が作られていたものの、その両脇にはまだ雪が残っている。境内の木々も白く染まり、鳥居の上には薄い雪が積もっていた。

 

 山の上だから寒いのは分かる。……分かるんだけど。

 

「……これ、本当に四月の景色か?」

 

 思わずそんなことを呟きながら、俺は社殿の方へ向かった。

 

「おーい霊夢ー、いるかー?」

 

 縁側から声を掛けると、ほどなくして返事があった。

 

「いるわよー」

 

 ……うん。何となく、予想はついた。

 

「お邪魔しまーす」

 

 障子を開ける。そこに広がっていたのは、前回訪れた時とほとんど変わらない光景だった。

 

 炬燵に入った霊夢。湯気の立つ湯呑み。籠に盛られたみかん。

 

 そして、こちらを見上げる、いかにも面倒臭そうな顔。

 

「……また来たの?」

「いや、来ちゃ悪いのか?」

「別に。お賽銭でも入れてくれるなら歓迎するわよ」

「……相変わらずだなぁ」

 

 俺が苦笑すると、霊夢はみかんを一房口へ運んだ。

 

「で、今日は何?」

「いや、ちょっと聞きたいことがあってさ」

「何よ」

「……今年の冬って、やっぱりおかしくないか?」

 

 そう尋ねた瞬間、霊夢の手が僅かに止まった。

 

 しかし、それもほんの一瞬のことだった。

 

「気のせいよ」

「……いや、またそれか」

「だって、気のせいなんだもの」

「四月も中旬だぞ? 里でも雪が解けないし、農作業が進まないって困ってる人もいるんだけど」

「そうねぇ」

「そうねぇ、って……」

 

 霊夢は気のない返事をしながら、お茶をすすった。

 

 どうにも危機感が感じられない。

 

 いや、危機感どころか、そもそも問題として認識しているのかさえ怪しい。

 

「なあ、霊夢。俺、結構真面目に聞いてるんだけどさ」

「私だって真面目に答えてるわよ」

「……本当に?」

「本当よ」

 

 霊夢はそう言うと、面倒臭そうにこちらを見た。

 

「それで? 創英は何が言いたいわけ?」

「いや……例年と比べて、今年は春が遅すぎるんじゃないかって」

「そうかもしれないわね」

「そうかもしれないって……お前なぁ」

「何よ。春が来ないなら、そのうち来るまで待てばいいじゃない」

「いや、待ってて済むならいいけどさ……」

 

 思わず額へ手を当てる。

 

 前回も思ったことだが、どうにも話が噛み合わない。

 

 霊夢がこういう態度を取るのは、別に珍しいことではない。普段から面倒事を嫌うところはあるし、本人が大した問題ではないと思っているなら、そう簡単には動かないだろう。

 

 ただ、今回ばかりは少し引っ掛かった。

 

 俺が知らないだけで、幻想郷ではこれくらいのことが普通に起こるのだろうか。

 

 それとも、霊夢は何か知っていて、あえて動かずにいるのだろうか。

 

 ……いや、考え過ぎかもしれない。

 

「……分かったよ」

「何が?」

「霊夢が動く気ないってことは分かった」

「そう」

「だから、俺の方で少し調べてみることにする」

 

 そう告げると、霊夢はようやく俺へ視線を向けた。

 

「……調べる?」

「ああ。まずは、本当に今年の春が遅いのかどうか。そこから確かめてみようと思ってさ」

「ふーん」

 

 霊夢はしばらく俺を眺めていたが、やがて肩を竦めた。

 

「まあ、好きにすれば?」

「……止めないんだな」

「別に止める理由もないし」

「そっか」

 

 それなら、それでいい。

 

 俺は小さく息を吐き、立ち上がった。

 

「じゃあ、今日はこれで帰るよ」

「あら、お茶くらい飲んでいけば?」

「……いや、今日は遠慮しとく。また今度な」

「そう。じゃあ、気を付けてね」

「おう」

 

 風花の位置を確かめ、障子を閉める。

 

 縁側へ出ると、冷たい空気が頬を撫でた。

 

 振り返れば、障子の向こうからは、湯呑みを置く小さな音が聞こえてくる。

 

 ……まったく。あいつは本当に、いつも通りだな。

 

 そう思いながら、俺は雪の残る境内を後にした。

 

 

——

 

 

 博麗神社からの帰り道、俺はしばらく考え込んでいた。

 

 霊夢の言う通り、単に春の訪れが遅れているだけなのかもしれない。

 

 しかし、もしそうでないとしたら?

 

 例えば、何者かが意図的に雪を降らせているのだとしたら。

 

 あるいは、幻想郷のどこかで何かが起こり、その影響が季節にまで及んでいるのだとしたら。

 

 ……いや。

 

 そこまで考えて、俺は首を振った。

 

「……まずは、確かめるところからだな」

 

 原因を考えるのは、異常だと分かってからでも遅くない。

 

 そもそも、俺は幻想郷の四月が本来どのようなものなのか、まだよく知らないのだ。

 

 外の世界で暮らしていた頃の感覚だけを頼りにしていては、見当違いな結論に辿り着く可能性もある。

 

 だったら、まずは例年と比べてみればいい。

 

 ……となれば。

 

「阿求に相談してみるか」

 

 先日、時崎家の記録を調べた時のことが頭に浮かんだ。

 

 稗田家には、長い年月をかけて集められた膨大な記録がある。

 

 あれだけの資料が残されているのなら、過去の季節や天候についても、何か分かるかもしれない。

 

 それに、阿求なら、俺が見落としていることにも気付いてくれそうだ。

 

 そう考えると、自然と足が里の方へ向いていた。

 

 

——

 

 

「……春の訪れが、例年より遅れているかどうか、ですか?」

「ああ。ちょっと調べてみたいんだけどさ」

 

 稗田邸を訪ね、書斎で事情を説明すると、阿求は興味深そうに首を傾げた。

 

 机の上には、今日も何冊かの書物が広げられている。

 

 以前、時崎家の歴史について調べた時と同じ場所だが、今回は相談の内容がまるで違う。

 

 ……まあ、俺が阿求を頼ってばかりなのは変わらないんだけど。

 

「なるほど……。確かに、今年は随分と寒い日が続いていますね」

「だろ? 霊夢に聞いても気のせいだって言われるんだけど、流石におかしい気がしてさ」

「霊夢さんが、そのように?」

「ああ。2回聞いて、2回とも気のせいだってさ」

 

 俺が肩を竦めると、阿求は小さく苦笑した。

 

「……いかにも霊夢さんらしいですね」

「だよなぁ」

「ですが、創英さんの疑問ももっともだと思います」

「おっ?」

 

 思わず身を乗り出す。

 

 阿求は机の上の書物を閉じると、静かに続けた。

 

「幻想郷でも、冬が長引く年はあります。山間部では春になっても雪が残ることがありますし、四月に入ってから雪が降ることも、全くないわけではありません」

「ふむふむ」

「ですが、里でこれほど長く雪が積もり続けるのは、少なくとも毎年のことではありませんね」

「やっぱりか……」

 

 阿求の言葉を聞き、胸の奥にあった疑問が少しだけ形を持った気がした。

 

 俺の感覚が、完全に見当違いだったわけではないらしい。

 

「それでさ。稗田家に、昔の天候とか季節の様子が分かる記録って残ってないかな?」

「ありますよ」

「あるのか」

「ええ。もちろん、毎日の天候を細かく記録しているわけではありませんけれど、農作物の出来や、季節ごとの出来事については、昔から幾つか記録が残されています」

 

 阿求はそう言って立ち上がった。

 

「少し、お待ちいただけますか?」

「ああ。もちろん」

「関連する資料を持って参りますね」

 

 そう告げると、阿求は書斎を出ていった。

 

 俺はその背中を見送り、改めて部屋の中を見回した。

 

 先日訪れた秘蔵書庫とは違い、こちらには比較的新しい書物も多い。

 

 書棚に並んだ冊子の中には、俺でも題名を読めるものが幾つかあった。

 

 ……しかし。

 

「……本当に、何でも残ってるんだなぁ」

 

 思わず感心してしまう。

 

 退魔師としての記録なら、時崎家にも数多く残されていた。

 

 けれど、稗田家が扱っているのは、それだけではない。

 

 人々の暮らしや、土地の変化、季節の移り変わり。

 

 そうした一見何でもない出来事まで、長い年月をかけて書き留めてきたのだろう。

 

 ……考えてみれば、凄いことだ。

 

 普段は何気なく過ぎていく日々も、何百年も経てば立派な歴史になる。

 

 そして、その記録が今、こうして役に立とうとしている。

 

 先日の時崎家の調査とは、また違った意味で、稗田家の仕事の大切さを感じた。

 

 しばらくすると、阿求が数冊の書物を抱えて戻ってきた。

 

「お待たせしました」

「おお、結構あるな」

「まずは、比較的最近の記録から見てみましょうか」

 

 阿求は机の上に冊子を並べ、俺の向かいへ腰を下ろした。

 

「創英さんは、今年の様子について、何か気付いたことはありますか?」

「今年の様子?」

「はい。雪のことでも、里の方々の暮らしについてでも構いません」

「うーん……」

 

 俺は腕を組み、ここ最近の出来事を思い返した。

 

「まず、雪が全然解けないだろ? それから、日中もあんまり暖かくならない。里じゃ畑の準備が進まないって話も聞いたし……」

「ええ」

「あとは、そうだなぁ。春の花を、ほとんど見てない気がする」

 

 そう口にしてから、改めて気付く。

 

 外の世界であれば、四月は桜の季節だ。

 

 もちろん、幻想郷の植物が外の世界と全く同じ時期に花を咲かせるとは限らない。

 

 それでも、ここ最近、道端で春らしい花を見かけた覚えがほとんどなかった。

 

「……そういえば、そうですね」

 

 阿求も少し考え込むように視線を落とした。

 

「例年であれば、里の周辺でも草木が芽吹き始める頃です。早咲きの花が見られる年もありますけれど、今年はまだ、そのような話をほとんど聞きません」

「やっぱり、そこも違うのか」

「ええ。ただ、私たちの印象だけで判断するのは早いでしょう」

 

 阿求はそう言って、手元の冊子を開いた。

 

「まずは、過去の記録と照らし合わせてみましょう」

「おう。よろしく頼むよ」

 

 こうして、俺たちの調査が始まった。

 

 

——

 

 

 最初に調べたのは、過去数年の春先に関する記録だった。

 

 稗田家には、里で起きた出来事や農作物の生育状況について、断続的に書き留められた資料が残されているらしい。

 

 もちろん、全ての年について同じだけの情報が揃っているわけではない。

 

 ある年は農作業の開始時期が詳しく記されている一方で、別の年には春祭りの準備や、花の開花に関する記述しかない。

 

 それでも、幾つかの資料を並べてみると、おおよその傾向は見えてきた。

 

「……なるほどなぁ」

 

 阿求が読み上げる記録を聞きながら、俺は手帳へ内容を書き留めていく。

 

 ある年には、三月の終わり頃から畑の準備が始まっていた。

 

 別の年には、四月に入ってから遅い雪が降ったものの、数日で解けたという記述が残されていた。

 

 また別の年には、春の訪れが例年より遅かったことが記されていたが、それでも四月中旬には里の周辺で草木が芽吹き始めていたらしい。

 

「……こうして見ると、結構違うもんだな」

「ええ。年によって多少の差はありますけれど、今年のように冬の状態が続いている年は、少なくとも最近の記録には見当たりませんね」

「……ふむ」

 

 俺は手帳へ視線を落とした。

 

 書き留めた内容を見比べると、今年だけが妙に浮いているように感じられる。

 

 雪が残っている。寒さが続いている。草木が芽吹かない。農作業が進まない。

 

 それぞれを別々に考えれば、たまたま寒い年だったという説明もできるかもしれない。

 

 けれど、これだけ重なっているとなると、流石に気になってくる。

 

「……阿求。もう少し昔の記録も見られるか?」

「ええ。もちろんです」

 

 阿求は頷き、別の冊子を開いた。

 

「ただ、古い時代になりますと、今ほど細かな記録は残っていません。天候そのものより、農作物への影響や、人々の暮らしに関する記述が中心になりますね」

「それでも十分だよ。似たような年があったかどうか、分かればいいんだし」

「そうですね」

 

 阿求は微笑むと、頁をめくり始めた。

 

 ——それから、どれくらいの時間が経っただろうか。

 

 俺たちは幾つもの記録を調べ、気になる箇所をひとつずつ確認していった。

 

 阿求が文献を読み解き、俺がその内容を手帳へまとめる。

 

 時折、分からないことがあれば尋ね、阿求が説明してくれる。

 

 そんな作業を繰り返しているうちに、机の上には随分と多くの覚え書きが並ぶことになった。

 

「……ふぅ」

 

 ひと区切りついたところで、俺は筆を置いた。

 

 ずっと机に向かっていたせいか、肩が少し凝っている。

 

 軽く首を回しながら、阿求の方を見る。

 

「……そっちはどうだ?」

「そうですね……」

 

 阿求は手元の記録へ視線を落とし、しばらく考え込んだ。

 

 やがて、ゆっくりと顔を上げる。

 

「少なくとも、私たちが確認できた記録の中には、今年と同じような状況は見当たりませんでした」

「やっぱりか……」

「はい。もちろん、過去に一度も起きていないと断定することはできません。記録が残されていない年もありますし、地域によって天候が異なることもありますから」

「うん」

「ですが、里でこれほど長く雪が残り、春の訪れが遅れているというのは……やはり、珍しいことだと思います」

 

 阿求はそこで言葉を切り、少しだけ眉を寄せた。

 

「それに、気になるのは雪だけではありません」

「……というと?」

「植物の芽吹きや、農作業の遅れについてです。これらは寒さの影響とも考えられますけれど、例年との違いが幾つも重なっています」

 

 俺は手帳へ視線を落とした。

 

 確かに、その通りだった。

 

 雪が解けないだけなら、単に気温が低いのかもしれない。

 

 けれど、季節の移り変わりそのものが遅れているようにも見える。

 

「……なんか、春だけが来てないみたいだな」

 

 思わず呟くと、阿求がこちらを見た。

 

「春だけが、ですか?」

「ああ。だってさ、暦はちゃんと四月になってるんだろ? それなのに、景色も気温も、冬のままなんだ」

 

 俺は窓の外へ目を向けた。

 

 障子越しに見える庭には、まだ雪が残っている。

 

「……なんというか、時間だけが先に進んで、季節が置いていかれてるみたいな感じがするんだよ」

「…………」

 

 阿求はしばらく黙っていた。

 

 その表情は、先ほどまでとは少し違って見えた。

 

 何かを考え込むように視線を落とし、やがて小さく息を吐く。

 

「……なるほど。確かに、そういう見方もできますね」

「そうか?」

「ええ。もちろん、実際に季節が止まっていると決まったわけではありませんけれど」

 

 阿求は慎重に言葉を選びながら続けた。

 

「ただ寒いだけなのか、それとも何らかの異常が起きているのか……現時点では、まだ判断できませんね」

「……だよなぁ」

 

 俺は小さく頷いた。

 

 どうやら、俺たちが調べられる範囲では、今年の冬が例年と違うことまでは分かったらしい。

 

 しかし、その理由となると、まるで見当がつかない。

 

 ……まあ、そう簡単に分かるなら苦労はしないか。

 

「……なあ、阿求」

「はい?」

「もう少し、実際に里の様子を見て回ってみようと思うんだけどさ」

「現地の調査、ですか?」

「ああ。記録と比べて違うってことは分かったけど、まだ俺が見てない場所も多いし。何か気付くことがあるかもしれないだろ?」

 

 阿求は少し考えた後、静かに頷いた。

 

「そうですね。でしたら、私も引き続き資料を調べてみます」

「いいのか?」

「もちろんです。私も気になってきましたから」

 

 そう言って、阿求は柔らかく微笑んだ。

 

「創英さんが実際の様子を調べてくださるのでしたら、私は過去の記録をもう少し詳しく確認してみますね」

「助かるよ」

「ふふ。お互い様ですよ」

 

 その言葉に、俺も笑みを返した。

 

 先日は、俺の家の歴史を調べるために阿求を頼った。

 

 そして今日は、幻想郷の春について調べるために、またこうして力を借りている。

 

 ……なんだか、随分と世話になりっぱなしだなぁ。

 

 そんなことを考えていると、阿求がふと首を傾げた。

 

「ところで、創英さん」

「ん?」

「霊夢さんには、今回の調査についてお話しされるのですか?」

「……うーん」

 

 俺は少し考え込んだ。

 

 正直、もう一度あの神社へ行っても、同じことを言われそうな気がする。気のせいよ、と。

 

 ……いや、三回目は流石に勘弁してほしい。

 

「とりあえず、もう少し調べてからにするよ」

「そうですか」

「ああ。ちゃんと何か分かったら、改めて話してみるつもり」

 

 阿求は小さく頷いた。

 

「それがよろしいかもしれませんね」

 

 俺は手帳を閉じ、懐へ収めた。

 

 机の上には、今日調べた記録がまだ幾つも広げられている。

 

 阿求はそれらを丁寧に揃えながら、何かを考えているようだった。

 

「阿求」

「はい?」

「今日はありがとな」

「いえ。お役に立てたのでしたら何よりです」

「いや、十分助かったよ。俺一人じゃ、そもそも何を比べればいいのかも分からなかったし」

「ふふ。創英さんは、実際にご自身の目で確かめることができますから。私は、記録を調べる方が得意なだけですよ」

「……そっか」

 

 そう言われると、少し気が楽になった。

 

 得意なことが違うなら、それぞれにできることをすればいい。

 

 別に、一人で全部やろうとする必要はないのだ。

 

 俺は立ち上がり、阿求へ軽く頭を下げた。

 

「じゃあ、また何か分かったら報告に来るよ」

「はい。お待ちしております」

 

 書斎を後にし、廊下を歩く。窓の向こうでは、相変わらず雪が降っていた。

 

 だが、今朝までとは少しだけ、その景色の見え方が違っていた。

 

 単に冬が長いのではない。少なくとも、今年の幻想郷では、例年とは異なる何かが起きている可能性がある。

 

 ……それが何なのかは、まだ分からないけれど。

 

 

——

 

 

 それから数日間、俺は里の周辺を中心に、あちこちを歩いて回った。

 

 まず訪ねたのは、農作業を営む人々のところだった。

 

 畑の様子を見せてもらい、例年ならいつ頃から作業を始めるのか、今年はどの程度遅れているのかを尋ねてみる。

 

 返ってきた答えは、どれも似たようなものだった。

 

 例年なら、そろそろ土を起こし始める頃。

 

 しかし今年は、畑に雪が残り、地面も十分に温まっていない。

 

 無理に作業を始めたところで、うまく育つかどうか分からないという。

 

 次に、市場を回った。

 

 冬の間に蓄えていた品物は少しずつ減り、春になれば手に入るはずの山菜や野菜も、まだ十分には出回っていないらしい。

 

 商人たちは口々に、早く暖かくなってほしいと話していた。

 

 さらに、里の外れにある林や、山へ続く道にも足を運んだ。

 

 雪の下から顔を出した草木は僅かで、枝先には固い芽が残ったままのものが多い。

 

 鳥の声が聞こえることはあっても、辺りの景色は相変わらず冬のままだった。

 

 ……そして。

 

「……うーん」

 

 ある日の夕方。俺は里外れの道に立ち、手帳を開いていた。

 

 ここ数日で調べたことは、随分と増えた。

 

 農作業の遅れ。市場の品物の変化。草木の芽吹き。積雪の状態。

 

 それぞれを阿求の調べてくれた記録と比べれば、今年が例年とは違うことは、ますます明らかになってきた。

 

 しかし……。

 

「……肝心の原因が、さっぱり分からないんだよなぁ」

 

 思わず、溜息が漏れる。

 

 もし何者かが術を使っているのなら、どこかに妖力や霊力の痕跡が残っていてもおかしくない。

 

 そう考えて、何度か周囲の気配を探ってもみた。

 

 だが、少なくとも俺が調べた範囲では、これといって不審なものは見つからなかった。

 

 もちろん、俺が気付けていないだけという可能性もある。

 

 何しろ、魔力や妖力の扱い方を本格的に学び始めたのは、つい最近のことなのだから。

 

 ……そう考えると、少し情けなくもなる。

 

「……まあ、焦っても仕方ないか」

 

 俺は手帳を閉じ、空を見上げた。

 

 灰色の雲が、幻想郷の上空を覆っている。

 

 その隙間から、細かな雪が静かに舞い落ちていた。

 

 四月も、もう半ばを過ぎようとしている。

 

 このままでは、里の人々の暮らしにも、ますます影響が出てくるだろう。

 

 だからこそ、何とかしたいとは思う。

 

 けれど、何を相手にすればいいのか分からない以上、今の俺にできることは限られていた。

 

「……春、か」

 

 掌を上へ向けると、一片の雪がふわりと落ちてきた。

 

 触れた途端に解けて、小さな雫となる。

 

 俺はその水滴を見つめながら、ふと考えた。

 

 春というものは、本来、誰かが呼ばなくても訪れるはずのものだ。

 

 冬が終われば暖かくなり、雪が解け、草木が芽吹く。

 

 そんな当たり前の巡りが、今の幻想郷では途切れているように見える。

 

 ……一体、何が起きているんだろうな。

 

 答えのない疑問を胸に抱えたまま、俺は里へ向かって歩き始めた。

 

 雪を踏み締める音が、静かな道に響く。

 

 調べたことは増えた。異常を疑う理由も、十分に揃った。

 

 それでも、その原因だけは見えてこない。

 

 俺はもう一度、白く霞む空を見上げた。

 

 ……どうやら、幻想郷の春は、俺が思っていた以上に遠いところで道に迷っているらしい。

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