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四月も下旬に差しかかった。幻想郷では、相変わらず雪が降り続いている。
暦の上では春も半ばを過ぎているはずなのに、朝晩の冷え込みは一向に和らがず、里を囲む山々も白く染まったままだ。時折、雲の切れ間から陽が差すことはあるものの、その暖かさも長続きしない。雪解けを期待した翌朝には、また新しい雪が積もっている。
……まったく、今年の冬は随分と居座るのが好きらしい。
もっとも、そんな冗談を言っていられるのも、今のところは俺のような立場の人間だけなのかもしれない。
人間の里では、長引く寒さの影響が日に日に大きくなっていた。
畑にはまだ雪が残り、春の作付けは例年より大幅に遅れている。冬の間に蓄えていた食料や薪も、いつまでも十分にあるわけではない。市場を歩けば、品物の値段を気にする声や、今年の収穫を心配する声が以前よりも多く聞こえるようになっていた。
先日、阿求と協力して過去の記録を調べた結果、今年の状況が例年とは大きく異なることは、ほぼ間違いないと分かった。
しかし、肝心の原因については依然として手掛かりがない。
それからも俺は里の周辺を歩き、何か変わったことが起きていないか調べていたのだが……。
「……うーん。やっぱり、分からないなぁ」
里の通りを歩きながら、俺は小さく唸った。
手帳には、ここ数日で聞いた話が幾つも書き留められている。
農家の人たちから聞いた畑の様子。市場での品物の動き。里の外れにある林の状態。それから、雪の降り方や、日中の気温について気付いたこと。
調べれば調べるほど、今年の春が遅れているという確信は強くなる。
だが、それ以上のことが分からない。
何者かが術を使っているのか、それとも幻想郷のどこかで別の現象が起きているのか。そもそも、俺が考えているような異変なのかどうかさえ、まだ断定できなかった。
「……せめて、何かひとつでも手掛かりがあればなぁ」
そう呟いた、その時だった。
視界の端を、淡い色が横切った。
「……ん?」
何気なく足を止める。
雪の降る通りの片隅で、小さな何かがふわりと宙を舞っていた。
白い雪とは明らかに違う、薄桃色の欠片。
最初は、風に運ばれてきた木の葉かと思った。
しかし、目を凝らしてみると、その形には妙な見覚えがあった。
「……桜の花びら?」
思わず首を傾げる。
どう見ても、桜の花弁にしか見えなかった。
薄桃色の色合いも、先端が僅かに割れた形も、外の世界で見慣れた桜の花びらそのものだ。
……いや、待て。
俺は周囲を見回した。
通りの両脇には民家や商店が並び、その軒先にはまだ雪が残っている。庭木の枝にも花はなく、道端の草花に至っては、芽吹いているものを探す方が難しい。
そもそも、今の幻想郷では桜どころか、春の花さえほとんど咲いていないのだ。
それなのに、どうしてこんなところに桜の花びらがある?
「……どこから飛んできたんだ?」
独り言を漏らしながら、俺はその花びらへ近付いた。
薄桃色の欠片は、雪の上へ落ちるでもなく、地面から少し離れたところをゆっくりと漂っている。
風が吹けば、それに合わせて揺れる。
けれど、何となく妙だった。
周囲の雪が風に流されても、その花びらだけは、同じようには動かない。かといって、完全に風を無視しているわけでもなさそうだ。
……何だろうな、この感じ。
俺は腰を屈め、そっと手を伸ばした。
指先が花びらに触れる。
「……あれ?」
思わず声が漏れた。
触れた感覚は、確かにあった。
けれど、紙や植物の葉に触れた時のような手応えではない。
柔らかいようで、柔らかくない。薄いはずなのに、どこか奥行きがあるようにも感じられる。
試しに指先で摘まんでみると、花びらは抵抗なく持ち上がった。
……いや、持ち上がったという表現も、少し違うかもしれない。
重さを感じないのだ。
掌の上へ移してみても、そこに何かが載っているという感覚がほとんどない。
「……何だ、これ」
俺は眉を寄せた。
目の前には、確かに桜の花びらがある。
それなのに、触れているという実感が曖昧だった。
不思議に思い、意識を集中させてみる。
退魔師として妖力や霊力の気配を探る時と同じように、掌の上にあるものへ注意を向けた。
すると、薄桃色の輪郭の内側に、微かな揺らぎがあることに気付いた。
……何か、いる?
いや、生き物の気配ではない。
妖怪が近くにいる時の感覚とも違うし、術が掛けられた道具に触れた時のような、はっきりした力の流れも感じられなかった。
ただ、そこに何らかの力が存在していることだけは、何となく分かる。
それは妖力にも、霊力にも似ているようで、どちらとも言い切れない奇妙な気配だった。
「……これ、本当に花びらなのか?」
俺は掌を目の高さまで持ち上げた。
花びらの縁が、微かに揺らいで見える。
見た目は植物の一部なのに、どうにもそうとは思えない。
なにか……形のないものが、たまたま桜の花びらの姿を取っている。そんな、奇妙な印象を受けた。
——まさか。
俺は改めて、雪に覆われた通りを見渡した。
春の花がひとつも咲いていない場所に、桜の花びらが一枚だけ存在している。
それも、どうやら普通の花びらではないらしい。
ここ最近、俺が調べていることを考えれば、無関係だと片付けるには少々不自然だった。
「……もしかして、春が来ないことと関係あるのか?」
当然、答えてくれる者はいない。
掌の上の花びらは、相変わらず淡い色を湛えたまま、静かに揺れている。
……さて、どうしたものか。
ひとまず阿求に見せてみたいところだが、普通の花びらとは違う以上、どうやって持ち運べばいいのかも分からない。
試しに手帳の頁へ挟もうとしてみると、花びらは紙に押し潰されることなく、するりと横へ滑るように逃げてしまった。
「……おいおい」
思わず苦笑する。
なんだか、掴めそうで掴めないものを相手にしている気分だ。
それでも何度か試しているうちに、花びらは俺の掌の上へ戻ってきた。
逃げようとしているのか、単に風に流されているのかさえ分からない。
ただ、触れている間は完全に離れていくこともなかった。
「……仕方ない。ちょっとだけ付き合ってもらうぞ」
誰にともなくそう告げ、俺は掌をなるべく水平に保ちながら歩き始めた。
……しかし。
(これは、なかなか間抜けな格好だなぁ)
道行く人に不思議そうな顔を向けられながら、俺は稗田邸へ向かった。
——
「……桜の花びら、ですか?」
「ああ。見た目はそうなんだけどさ……」
稗田邸の書斎で、俺は阿求へ掌を差し出した。
そこには、先ほど見つけた薄桃色の欠片が、相変わらずふわふわと漂っている。
阿求は目を丸くし、少し身を乗り出した。
「まあ……本当に、桜の花びらのようですね」
「だろ? でも、普通の花びらじゃないと思うんだ」
「……触れてもよろしいですか?」
「ああ。ただ、ちょっと変な感触だから気を付けてな」
阿求は頷くと、そっと指先を伸ばした。
花びらに触れた瞬間、その眉が僅かに動く。
「……これは」
「な? 何か変だろ?」
「ええ……確かに、不思議な感触ですね」
阿求は慎重に花びらへ触れながら、何度か角度を変えて観察した。
「重さがほとんど感じられません。それに、こうして触れているのに、普通の物に触れているような感覚が……」
「そうなんだよ。俺も最初、何が何だか分からなくてさ」
阿求は花びらから手を離し、少し考え込んだ。
「創英さんは、これをどちらで?」
「里の通りだよ。雪の上を漂ってたんだ」
「周囲に、桜の木はありましたか?」
「いや。そもそも、花が咲いてる木なんて見当たらなかった」
「そうですか……」
阿求は再び花びらへ視線を向けた。
その表情には、好奇心と困惑が入り交じっているように見えた。
「少なくとも、私の知る限りでは、このような花びらについて記された資料は思い当たりませんね」
「阿求でも分からないか……」
「申し訳ありません」
「いやいや、謝ることじゃないって。俺だって、さっき初めて見たんだからさ」
慌てて手を振ると、阿求は小さく微笑んだ。
「ですが、興味深いものですね。春が訪れていない中で、桜の花びらに似たものが見つかるなんて」
「ああ。俺も、そこが引っ掛かってる」
「……もしかすると、今の状況と何か関係があるのかもしれませんね」
「やっぱり、そう思うか?」
「可能性はあると思います。ただ、これひとつだけでは何とも言えませんけれど」
阿求の慎重な答えに、俺も頷いた。
確かに、珍しいものを見つけたからといって、それが異変の原因だと決めつけるわけにはいかない。
けれど、これまで何も手掛かりがなかったことを考えれば、大きな進展ではある。
「……そういえば、創英さん」
「ん?」
「ちょうどよいところへいらっしゃいました」
「……ちょうどいい?」
「はい。実は、里の方々から、今後の対応について相談したいというお話がありまして」
阿求は机の上に置かれた書状へ視線を向けた。
「この長引く冬について、里の有力な方々が集まって話し合うことになったのです」
「……ああ、なるほど」
ここまで寒さが続けば、そういう話になるのも当然だろう。
「それで、創英さんにもご参加いただけないかと」
「俺?」
「ええ。これまで里の周辺を調べていらっしゃいましたし、何より、退魔師としてのお立場もありますから」
「……なるほどなぁ」
俺は少し考え込んだ。
里の人たちが困っていることは、これまでの調査でも十分に分かっている。
それに、今見つけた花びらについても、他の人の意見を聞いてみたい。
「分かった。俺でよければ参加するよ」
「ありがとうございます」
阿求はほっとしたように微笑んだ。
「では、明日の昼過ぎに、里の寄合所へお越しください」
「了解」
俺は頷き、改めて掌の上の花びらを見つめた。
薄桃色の欠片は、相変わらず静かに揺れている。
……まさか、こんなものを見つけた翌日に、里の会合へ呼ばれることになるとはなぁ。
偶然というのは、時々妙な重なり方をするものらしい。
——
翌日。
人間の里にある寄合所には、既に何人もの人々が集まっていた。
普段から里の運営に関わっているらしい年配の人たちに加え、商人や農家の代表と思われる人々の姿もある。
その中には、見知った顔も幾つかあった。
「おお、創英。来てくれたか」
「あ、慧音先生。こんにちは」
声を掛けてきたのは慧音さんだった。
いつもの落ち着いた表情ではあるものの、どこか疲れが滲んでいるようにも見える。
「阿求から話は聞いている。最近は、里の周辺を随分と調べてくれていたそうだな」
「いや、まあ……気になったから、ちょっと見て回ってただけですよ」
「それでも助かる。今の里には、外を歩いて状況を確かめられる者が必要だからな」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
俺が頭を掻くと、慧音さんは小さく笑った。
「それに、今日はもう一人、知り合いが来ているぞ」
「え?」
慧音さんが視線を向けた先を見る。
部屋の隅で壁に寄り掛かっていた人物が、こちらに気付いて片手を上げた。
「よう、創英」
「あぁ、妹紅か」
そこに居たのは妹紅だった。
以前から何度か顔を合わせているが、こういう場で会うのは少し珍しい。
「妹紅も来てたんだな」
「まあね。慧音に呼ばれてさ」
「妹紅には、里の外の様子について話してもらおうと思っている」
慧音さんがそう説明すると、妹紅は肩を竦めた。
「大したことは分からないと思うけどな。山の方も雪ばっかりだし」
「それでも、里の外をよく知る者の話は貴重だ」
「はいはい。分かってるよ」
そんな二人のやり取りを見て、俺は思わず笑みを浮かべた。
……相変わらず、この二人は仲がいいな。
その時、ふと妹紅の名前が頭の中で引っ掛かった。
藤原妹紅。
藤原。
(……あれ?)
そういえば……この前、阿求と調べた時崎家の記録にも、同じ名前が出てきたような……。
いや、同じ名前というより、同じ氏族の名前か。
確か、時崎家の祖先は藤原氏の流れを汲んでいる、という話だった。
……となると。
「……あのさ、妹紅」
「ん? 何だ?」
「ちょっと聞いてもいいか?」
「別にいいけど」
「妹紅って、苗字は藤原だよな?」
そう尋ねると、妹紅は少しだけ不思議そうな顔をした。
「……ああ。そうだけど、それがどうかしたか?」
「いやぁ……実はこの前、うちの家系が藤原氏に繋がってるって聞いたんだよ」
「……へぇ?」
妹紅の視線が、僅かに変わった気がした。
それまで何気なくこちらを見ていた目が、少しだけ真剣なものになる。
「時崎が、藤原に?」
「ああ。古い記録に、そう書いてあったみたいでさ」
「……ふぅん」
妹紅は腕を組み、俺の顔をじっと見つめた。
……何だろう。別に変なことを言ったつもりはないんだけど。
「……何か、気になるのか?」
「いや、別に」
妹紅はそう答えたものの、すぐには視線を逸らさなかった。
「ただ、藤原って言っても色々いるからな」
「ああ、まあ……そうだな」
「それに、随分と昔の話なんだろ?」
「うん。詳しいことは、まだよく分かってないんだけどさ」
「そっか」
妹紅は短く頷いた。
それから、何かを考えるように一度だけ目を伏せたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「ま、気になるなら調べてみればいいんじゃないか?」
「……そうだよな。そう思って、今もちょっとずつ調べてるところさ」
「そうか。何か分かったら、また聞かせてくれよ」
「ああ。もちろん」
そう答えると、妹紅は小さく笑った。
……うーん。
何となく、少しだけ反応が気になった。
とはいえ、藤原という姓が珍しいわけでもないだろうし、俺の考え過ぎかもしれない。
それに、今はそれよりも大事な話がある。
俺がそう考えていると、慧音さんが軽く手を叩いた。
「さて、そろそろ始めよう。皆も席に着いてくれ」
周囲の人々が、それぞれ席へ向かい始める。
俺も妹紅と一緒に、空いている場所へ腰を下ろした。
——
会合は、里の現状を確認するところから始まった。
最初に話したのは、農家の代表らしい年配の男性だった。
「このままでは、春の作付けが間に合わん。雪が解けたとしても、すぐに畑が使えるとは限らんのだ」
その言葉に、何人かが重々しく頷く。
続いて、商人の一人が口を開いた。
「蓄えにも限りがあります。今すぐ食べ物がなくなるわけではありませんが、この先も寒さが続けば、里の暮らしに影響が出るでしょう」
「薪も同じですな。冬の間に使う分は用意しておりましたが、ここまで長引くとは思っておりませんでした」
話を聞きながら、俺は手帳を開いた。
これまで調べてきたことと、内容は大きく変わらない。
ただ、こうして実際に困っている人たちの声を聞くと、改めて事態の重さを感じる。
単に春が遅いというだけではない。人々の暮らしが、少しずつ追い詰められ始めているのだ。
やがて、慧音さんが俺の方へ視線を向けた。
「創英。これまで調べてきたことを、皆に話してもらえるか?」
「あ、はい」
俺は立ち上がり、少し畏まってから手帳を開いた。
「えっと……まず、阿求と一緒に過去の記録を調べたんですけど、今年の春は例年と比べて、かなり遅れているみたいです」
俺はこれまでの調査結果を、なるべく分かりやすく説明していった。
過去の記録では、四月中旬までに雪解けが進み、草木が芽吹き始めている年が多かったこと。
今年は里の周辺でも雪が残り、農作業や植物の生育に影響が出ていること。
そして、現時点では、その原因を特定できていないこと。
話し終えると、阿求が静かに頷いた。
「創英さんのお話の通りです。私も幾つかの記録を確認しましたが、少なくとも調べられた範囲では、今年ほど冬の状態が続いた例は見当たりませんでした」
「……つまり、やはり普通ではないということか」
慧音さんが腕を組む。
「そう考えるのが自然だと思います。ただ、過去に一度もなかったとまでは言い切れません」
阿求は慎重に答えた。その言葉に、慧音さんも頷く。
「なるほど。では、原因については?」
「……それが、まだ分からないんです」
俺は正直に答えた。
「妖力や霊力の気配も調べてみたんですけど、今のところ、これといって不審なものは見つかっていません」
「そうか……」
慧音さんは少し考え込んだ。
その時だった。
「あ、そうだ」
俺はふと思い出し、懐へ手を伸ばした。
「実は、昨日ちょっと変なものを見つけまして」
「変なもの?」
妹紅さんが首を傾げる。
「ああ。これなんですけど……」
俺は掌を開いた。
そこには、薄桃色の花びらが一枚、ふわりと浮かんでいた。
昨日から何度か試した結果、普通の袋や紙に収めるのは難しかったものの、手の近くへ留めておくことはできると分かった。今も、懐の内側に作った小さな布の空間へ入れていたのだが、取り出す時には少し気を遣う。
……正直、持ち歩くにはあまり向いていない。
「……桜の花びら?」
慧音さんが眉を寄せた。
「はい。見た目はそうなんですけど、普通の花びらじゃないみたいで」
「……こんな時期に?」
妹紅も身を乗り出す。
俺は、昨日の出来事を簡単に説明した。
里の通りで見つけたこと。周囲には花が咲いていなかったこと。そして、触れた感覚や、感じ取れる気配が普通の植物とは明らかに違っていたこと。
説明を聞き終えると、慧音さんがそっと指を伸ばした。
「……少し、触れてもいいか?」
「はい。どうぞ」
慧音さんの指先が花びらに触れる。
その瞬間、彼女の表情が僅かに変わった。
「……なるほど。確かに、妙だな」
「ですよね?」
「ああ。触れられるのに、実体が曖昧だ。少なくとも、普通の植物ではなさそうだな」
続いて、妹紅も花びらを覗き込んだ。
「へぇ……何だ、これ」
「俺も、それが知りたいんですけどね」
「桜の花びらに見えるのに、桜が咲いてないってのも変な話だな」
「そうなんですよ」
妹紅はしばらく花びらを眺めた後、腕を組んだ。
「……で、これが春が来ない原因ってことか?」
「いや、そこまでは分かりません。ただ、何か関係があるんじゃないかとは思ってます」
「ふぅん……」
妹紅は小さく頷いた。慧音さんも、花びらへ視線を向けたまま考え込んでいる。
「……つまり、桜の花びらに見えるが、実際には花びらではないかもしれない、と」
「はい。少なくとも、普通の物質とは違う気がします」
「ふむ……」
慧音さんは腕を組み直した。
「それで、この奇妙なものを何と呼ぶ?」
「……え?」
思わず聞き返す。
「名前ですか?」
「ああ。今後も調べるのであれば、呼び名がないと不便だろう」
「……まあ、確かに」
言われてみれば、その通りだった。
毎回「桜の花びらみたいな変なもの」と呼ぶのも、何だか締まらない。
とはいえ、正体も分からないものに名前を付けるというのも、なかなか難しい話だ。
「……何か、いい呼び方ありますかね?」
俺がそう尋ねると、阿求が少し考え込んだ。
「そうですね……。春が訪れない中で見つかった、春を思わせるもの……」
阿求は花びらを見つめ、ゆっくりと言葉を続けた。
「……『春の欠片』、というのはいかがでしょう?」
「春の欠片……」
俺はその言葉を口の中で繰り返した。
なるほど。確かに、今の状況には合っている気がする。
春が来ない幻想郷に、たった一枚だけ現れた桜の花びら。
まるで、どこかへ行ってしまった春の一部が、偶然ここへ零れ落ちたようにも見える。
「……いいな。それ」
「私も、悪くないと思うぞ」
慧音さんが頷いた。
「正体が分かったわけではないが、今後の調査で使う仮の呼び名としては十分だろう」
「春の欠片、ねぇ」
妹紅も小さく笑う。
「随分と綺麗な名前じゃないか」
「ふふ。ありがとうございます」
阿求は少し照れたように微笑んだ。
こうして、俺が見つけた奇妙な花びらは、ひとまず『春の欠片』と呼ばれることになった。
……もっとも、名前が決まったところで、その正体が分かったわけではないんだけどな。
俺は掌の上で揺れる薄桃色の欠片を見つめた。
それは相変わらず、何も語らないまま静かに漂っていた。
——
会合は、その後もしばらく続いた。
食料や薪の備蓄をどう管理するか。
雪解けが遅れた場合、農作業をどう進めるか。
里の外から物資を運び込めるかどうか。
様々な意見が交わされたものの、根本的な問題はひとつだった。
――春が来ない。
この状況がいつまで続くのか分からない以上、里の人々も、先の見通しを立てることができないのだ。
やがて、話し合いが一段落したところで、慧音さんが俺へ向き直った。
「……創英」
「はい?」
「ひとつ、頼みたいことがある」
その声は、先ほどまでよりも少し真剣なものだった。
俺は自然と背筋を伸ばす。
「……何でしょうか」
「この長引く冬について、改めて調査をお願いできないだろうか」
「調査、ですか」
「ああ。これまでも自主的に調べてくれていたことは知っている。だが、今後は里からの正式な依頼として、原因を探ってもらいたい」
慧音さんはそう言って、周囲の人々へ視線を向けた。
集まっていた人たちも、静かに頷いている。
「もちろん、危険があるかもしれないことは承知している。だからこそ、退魔師であるお前に頼みたいんだ」
「…………」
俺は少しだけ考え込んだ。
これまで、俺は自分が気になったから調べていた。
春が来ない理由を知りたい。里の人たちが困っているなら、何とかしたい。そんな思いで、あちこちを歩いていた。
けれど、今こうして正式に依頼を受けるとなれば、話は少し変わってくる。
里の人々が、俺に期待している。俺が何かを見つけてくれるかもしれないと、そう思ってくれている。
……その重さを、軽く考えるわけにはいかなかった。
「……ひとつ、確認してもいいですか?」
「ああ。何だ?」
「俺も、まだ原因は分かってません。今回見つけた春の欠片だって、何なのかさっぱりです」
俺は掌の上の花びらへ視線を落とした。
「だから、調べたからって、すぐに解決できるとは限りません。それでも、いいんでしょうか?」
慧音さんは、俺の言葉を最後まで聞いてから頷いた。
「もちろんだ。最初から解決できると決まっているなら、そもそも調査を頼む必要はないだろう」
「……ああ、確かに」
「今、私たちが知りたいのは、何が起きているのかということだ。原因が分かれば、対処する方法も考えられるかもしれない」
その言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
確かにその通りだ。今はまだ、何も分かっていないのだから。
だったら、まずは分かるところまで調べればいい。
それは、俺がこれまでやってきたことと、何も変わらないだろう。
「……分かりました」
俺は顔を上げた。
「その依頼、引き受けます」
そう告げると、慧音さんの表情が少し和らいだ。
「ありがとう、創英」
「いえ。俺も、このまま冬が続くのは困りますしね」
そう言って笑うと、周囲の人々からも安堵したような息が漏れた。
……とはいえ。引き受けたからには、今まで以上にしっかり調べないとな。
俺は無意識に、腰の風花へ手を添えた。
退魔師として、できることをする。それは、時崎家で教わってきたことでもある。
相手が妖魔であろうと、得体の知れない現象であろうと、まずは何が起きているのかを確かめる。
そして、人々に害を為すものがあるのなら、それを鎮める。
……まあ、今回の相手が何なのかは、まだ分からないけどさ。
「創英さん」
阿求が声を掛けてきた。
「私も、引き続き記録を調べてみますね」
「ああ。頼りにしてるよ」
「ふふ。どうぞ、お気を付けて」
「うん。ありがとな」
続いて、妹紅が肩を叩いてきた。
「ま、無茶はするなよ」
「はい。気を付けます」
「何かあったら、慧音か私に知らせろ。里の近くなら、多少は手伝えるからさ」
「助かります」
俺がそう答えると、妹紅は軽く笑った。
「それと……」
「ん?」
「さっきの藤原の話。今度でいいから、進展があったらもう少し詳しく聞かせてくれよ」
不意にそう言われ、少し驚いた。
肩の力を抜き、畏まった状態を解いて、普段通りに返事を返す。
「……ああ。もちろんだ」
「そっか。じゃあ、またな」
妹紅はそれだけ言うと、慧音さんの方へ歩いていった。俺はその背中を見送りながら、少し首を傾げた。
……やっぱり、何か気になるのかな。
とはいえ、今の俺には、時崎家と藤原氏の関係について詳しく説明できるほどの知識もない。
その辺りは、また阿求と一緒に調べてからでもいいだろう。
俺は小さく息を吐き、改めて掌の上の春の欠片へ視線を向けた。
薄桃色の欠片は、相変わらず静かに揺れている。
春の欠片。その名前が、今の幻想郷で何を意味するのか。
まだ、誰にも分からない。
——
寄合所を出ると、空からは細かな雪が舞い落ちていた。
四月下旬。本来なら、暖かな風が吹き、草木が芽吹き、春の花が咲き始めている頃だ。
しかし、目の前に広がる里の景色は、相変わらず冬のままだった。
俺は外套の襟を直し、白い息を吐いた。
これまでは、里の周辺を中心に調べてきた。
けれど、原因がそこにないのなら、もっと遠くへ足を運ぶ必要があるだろう。
山の向こうかもしれない。森の奥かもしれない。
あるいは、まだ俺が知らない場所に、何か手掛かりがあるのかもしれない。
……まあ、どこから調べるかは、これから考えないとな。
俺は懐にしまった春の欠片の気配を確かめた。
布越しに、微かな揺らぎが伝わってくる。
不思議なものだ。普通の花びらなら、とっくに雪に濡れてしまっているだろうに、こいつは相変わらず変わらない姿を保っている。
「……さて」
俺は雪の降る空を見上げた。
灰色の雲の向こうには、きっと春の空があるはずだ。
少なくとも、俺はそう思いたかった。
「……春を探しに行くとするか」
誰にともなく呟き、歩き始める。
腰には風花。懐には、正体の分からない春の欠片。
そして、里の人々から託された、ひとつの依頼。
まだ何も解決していないし、何が待っているのかも分からない。
それでも、ようやく進むべき方向が見えてきた気がした。
雪を踏み締めながら、俺は里の出口へと向かう。
幻想郷に春が訪れない理由を探すために。
そして、この長い冬を終わらせる手掛かりを見つけるために。
――俺の、春を巡る調査が始まろうとしていた。