◆ side:十六夜咲夜 ◆
四月も終わりに近付いているというのに、紅魔館の庭園には、いまだ冬の景色が広がっていた。
霧の湖から吹き寄せる風は冷たく、庭木の枝には雪が積もっている。花壇の土は硬く凍り、例年ならば春の彩りが増しているはずの庭も、今年ばかりは白と灰色ばかりが目立っていた。
館内では相変わらず暖炉に火を入れているし、妖精メイドたちも冬用の制服を着たまま仕事に励んでいる。紅魔館で暮らす私たちにとって、寒さそのものはさほど大きな障害ではないものの、こうも季節が進まないとなれば話は別だった。
何しろ、もう四月の下旬なのだ。
「……ねえ、咲夜」
「はい、お嬢様」
「今年の春は、随分とのんびりしているのね」
午後の紅茶をお淹れしていると、窓辺の椅子に腰掛けていたレミリアお嬢様が、そんなことを仰った。
紅い瞳は窓の外へ向けられている。そこでは細かな雪が舞い、庭園の石畳を薄く覆っていた。
「そうですね。例年と比べても、随分と遅れているようです」
「遅れている、ねぇ……。もう四月も終わるというのに、花のひとつも咲かないなんて。春の方が幻想郷へ来るのを忘れてしまったのかしら?」
「それでは、随分と困った忘れ物ですね」
そう答えてカップを差し出すと、お嬢様は小さく笑われた。
ただ、その笑みも長くは続かなかった。
「……創英からの手紙にも、そんなことが書いてあったわね」
「ええ。先日お預かりした書簡ですね」
私はティーポットを置き、少し前に届いた手紙の内容を思い返した。
差出人は、時崎創英様。
昨年の紅い霧の異変を経て、今では紅魔館とも親しく交流するようになった、人間の退魔師である。
創英様からは折に触れて近況を知らせる便りが届く。もっとも、堅苦しい報告書というよりは、最近あった出来事を気軽に綴った手紙に近い。
今回の書簡にも、いつものように日常の話題が幾つか添えられていた。
ただし、その中には少々気掛かりな内容が含まれていた。
「人間の里でも、農作業への影響が出始めているそうです。創英様は稗田家の記録も調べ、例年の気候と比較していると仰っていました」
「そうだったわね。あの子、相変わらず妙なところで真面目なんだから」
お嬢様は紅茶を一口含み、どこか呆れたように笑われた。
「春が来ないからって、わざわざ昔の記録まで調べるなんて。退魔師の仕事って、そんなことまでするものなのかしら?」
「少なくとも、創英様は必要だとお考えなのでしょう」
「でしょうね。あの子らしいわ」
お嬢様はカップを置くと、窓の外へ視線を戻された。
「それで、博麗の巫女は?」
「創英様のお話では、今のところ動く気配がないようです」
「……あら」
お嬢様の眉が僅かに上がる。
「こういう時こそ、あの巫女の出番でしょうに」
「私も、そう思います」
「まあ、あの子のことだから、暖かい炬燵にでも入っているのでしょうけれど」
私は思わず苦笑した。
否定できないところが、何とも困ったものである。
もっとも、霊夢が動かないからといって、今回の長い冬が異変であると確定したわけではない。
創英様も、書簡ではその点を慎重に扱っておられた。
例年と比べて明らかにおかしいこと。
人間の里で、実際に困っている者が増えていること。
そして、原因についてはまだ何も分かっていないこと。
分かったことと、分からないことをきちんと分けて書いているあたり、いかにもあの方らしい。
「……それにしても」
お嬢様は頬杖をつき、少し退屈そうに呟かれた。
「せっかくフランも庭へ出るようになったのに、これでは可哀想じゃない」
その言葉に、私は静かに頷いた。
フランドールお嬢様。
昨年の異変以来、妹様は少しずつ館の中を自由に歩かれるようになった。
以前は地下の部屋で過ごされることがほとんどだったが、今では図書館へ足を運び、日傘を差して庭園を散策されることもある。
その変化が、私たちにとってどれほど嬉しいものだったか。
……だからこそ、今年の冬がいつまでも続いていることを、少しばかり残念に思っていた。
「妹様も、春の庭を楽しみにしておられましたからね」
「ええ。あの子、創英から桜の話を聞いて以来、ずっと気にしているのよ」
「そうでしたね」
「……まったく。あの子に春を見せてあげようと思っていたのに」
お嬢様の声には、僅かな不満が滲んでいた。
それは単なる退屈から来るものではないのだろう。
妹様が外の世界へ興味を持ち始めた今、その楽しみをひとつでも増やして差し上げたい。
お嬢様のそんなお気持ちが、私にも伝わってくるようだった。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「咲夜メイド長。少々、よろしいでしょうか」
聞き覚えのある声だった。
「ラッシュ? どうぞ」
「失礼いたします」
扉が開き、翠色の髪をした妖精メイドが姿を現した。
ラッシュ・ホルン。
紅魔館に仕える妖精メイドの一人であり、風を操ることに長けた、なかなか腕の立つ少女である。
昨年の異変では、彼女もまた大きな傷を負った。
けれど今ではすっかり元気を取り戻し、以前と変わらず仕事に励んでいる。
そして何より、ラッシュはフランドールお嬢様のことを、誰よりも気に掛けている者の一人だった。
「どうしたの? 何か問題でも?」
「はい。実は、庭園の巡回中に、少々妙なものを発見いたしまして……」
「妙なもの?」
ラッシュは頷き、両手をそっと差し出した。
その掌の上に、薄桃色の何かが漂っていた。
「……桜の花びら?」
思わず、そう口にしていた。
見た目は、確かに桜の花弁そのものだった。
けれど、今の幻想郷で桜が咲いているという話は聞かない。
ましてや、紅魔館の庭園にはまだ雪が積もっているのだ。
「庭園の片隅で見つけました。最初は風に運ばれてきたものかと思ったのですが……どうも、普通の花びらではないようなのです」
「……というと?」
「触れられるのですが、重さがほとんどありません。それに、風を当てても、普通の花びらのようには動かなくて……」
ラッシュは少し困ったように眉を寄せた。
「私の風に乗ることは乗るのですが、何と申しましょうか……風で動いているというより、風に合わせて漂っているような……」
「……なるほど」
風を操る彼女が、そう感じたのなら。
少なくとも、普通の植物とは考えにくい。
「少し、見せてもらえるかしら」
「はい」
ラッシュが掌を差し出す。
私は慎重に指先を伸ばし、花びらへ触れた。
「……これは」
思わず、眉を寄せた。
確かに触れる。
けれど、何かを摘まんでいるという感覚が曖昧だった。
指先に伝わる重みも、植物特有の柔らかさもない。
それでいて、確かにそこに存在している。
まるで、何か形のないものが、桜の花びらという姿を借りているようだった。
「……不思議ね」
「やはり、そう思われますか?」
「ええ。少なくとも、普通の花びらではないわ」
私は花びらを掌へ移し、改めて観察した。
薄桃色の輪郭が、微かに揺らいでいる。
何らかの力を帯びているようにも感じられるが、それが魔力なのか、妖力なのか、それとも別の何かなのかは分からなかった。
「……咲夜」
背後から、お嬢様の声がした。
「それ、こちらへ持ってきなさい」
「かしこまりました」
私はラッシュへ頷き、花びらをお嬢様の元へ運んだ。
お嬢様は椅子から身を起こし、興味深そうにそれを覗き込まれた。
「……へぇ。随分と面白いものじゃない」
「庭園でラッシュが発見したものです。普通の桜の花びらとは、少々異なるようでして」
「でしょうね。こんな季節に桜が咲いていたら、それだけでも大騒ぎでしょうに」
お嬢様は指先を伸ばし、花びらへ触れられた。
その紅い瞳が、僅かに細くなる。
「……なるほど」
「何か、お分かりになりますか?」
「いいえ。ただ、普通の植物ではないことくらいかしら」
お嬢様は花びらを眺めながら、口元へ笑みを浮かべられた。
「でも、面白いわね。春が来ない幻想郷に、桜の花びらが現れたのよ?」
「……ええ」
「それも、こんな妙なものが」
お嬢様は椅子の背へ身体を預け、少し考えるように指先を顎へ添えられた。
「偶然かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」
その声には、先ほどまでの退屈そうな響きがなかった。
代わりに、何か面白いものを見つけた時のお嬢様らしい、楽しげな気配が滲んでいる。
「……咲夜」
「はい、お嬢様」
「この長い冬の原因を調べてきなさい」
私は静かに頭を下げた。
「かしこまりました」
「創英も動いているのでしょう? だったら、こちらも少しは動いてみましょうか」
「……承知いたしました」
「何者かが春を隠しているのなら、見つけ出してやりなさい。もし誰かの悪戯なら、その相手にも少しばかり礼儀を教えてあげなくちゃね」
お嬢様は楽しそうに笑われた。
私は改めて一礼する。
「必ず、原因を突き止めて参ります」
「ええ。期待しているわ」
その時だった。
「……お姉様?」
扉の方から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこにはフランドールお嬢様が立っておられた。
七色の結晶を連ねた翼が、室内の灯りを受けて淡く輝いている。
妹様は私たちの様子を見比べると、不思議そうに首を傾げられた。
「何のお話?」
「あら、フラン。ちょうどよかったわ」
お嬢様は妹様を手招きされた。
「こっちへいらっしゃい。面白いものが見つかったのよ」
「面白いもの?」
妹様は興味を引かれたように近付いてこられた。
私は掌の上の花びらを、そっと差し出す。
「……わぁ」
妹様の瞳が、大きく見開かれた。
「桜の花びら?」
「そう見えるでしょう? でも、普通の花びらではないみたいなの」
「……ほんと?」
妹様は恐る恐る指先を伸ばし、花びらへ触れられた。
その瞬間、小さく息を呑まれる。
「あれ?」
「どうかなさいましたか?」
「……変なの」
妹様は花びらをじっと見つめていた。
「触ってるのに、触ってないみたい……」
「ええ。私も、同じように感じました」
「ふぅん……」
妹様はしばらく考え込むように花びらを眺めた後、ふと顔を上げられた。
「ねえ、お姉様」
「なあに?」
「これって……春の花びらなの?」
その問いに、お嬢様は少しだけ目を細められた。
「さあ、どうかしらね」
「……そっか」
妹様は小さく頷き、もう一度花びらを見つめられた。
その横顔には、好奇心と、ほんの少しの寂しさが入り混じっているように見えた。
「……春、まだ来ないね」
ぽつりと零れた言葉に、私は胸の奥が僅かに締め付けられるのを感じた。
妹様は昨年、初めて外の世界へ一歩を踏み出された。
それ以来、季節の移ろいや、庭に咲く花々を楽しみにされていた。
……だからこそ、いつまでも続く冬が、少しばかり残念なのだろう。
「……そうね」
お嬢様は妹様の頭へ、そっと手を置かれた。
「でも、いつまでも冬のままというわけにはいかないでしょう?」
「……うん」
「だから、咲夜に調べてもらうことにしたの」
妹様が、ぱっと顔を上げられた。
「咲夜が?」
「ええ」
「……じゃあ、春が来るの?」
「まだ分からないわ。でも、何か分かるかもしれないでしょう?」
妹様は少し考えた後、私へ視線を向けられた。
「……咲夜」
「はい、妹様」
「気を付けてね」
その言葉に、私は自然と微笑んでいた。
「ありがとうございます。必ず、無事に戻って参ります」
「……うん」
妹様は小さく頷かれた。
それから、何かを思い出したように口を開かれた。
「……そういえば、にぃには?」
「創英様ですか?」
「うん。にぃにも、春のこと調べてるんでしょ?」
「ええ。先日のお手紙では、そのように仰っていました」
「そっか」
妹様は少し嬉しそうに微笑まれた。
「にぃにも頑張ってるんだね」
「そうですね」
「……じゃあ、咲夜も頑張らなきゃ」
その言葉に、お嬢様が小さく笑われた。
「ふふ。そうね。創英に先を越されてしまったら、紅魔館の名折れだもの」
「お姉様、そういうことじゃないと思うけど……」
「あら、違うの?」
妹様は少し困ったように笑われた。
私はそのやり取りを眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
昨年までなら、こんな光景は考えられなかっただろう。
お嬢様と妹様が、同じ部屋で、同じものを眺めながら、何気ない会話を交わしている。
その中心にあるのが、春の訪れない幻想郷で見つかった、たった一枚の花びらだというのも、何とも不思議な話だった。
「……咲夜」
「はい、お嬢様」
「準備ができ次第、出発なさい」
「かしこまりました」
私は一礼し、掌の上の花びらへ視線を落とした。
薄桃色の欠片は、相変わらずふわりと漂っている。
その正体も、意味も、まだ分からない。
けれど、これが長い冬と何らかの関係を持っているのだとすれば。
……調べる価値は、十分にあるだろう。
「ラッシュ」
「はい、メイド長」
「この花びらを見つけた場所について、詳しく報告書をまとめておいてちょうだい。それから、庭園の巡回を続けて、同じようなものがないか確認して」
「承知いたしました」
ラッシュは真剣な表情で頷いた。
私は改めて、お嬢様と妹様へ向き直る。
「それでは、行って参ります」
「ええ。頼んだわよ、咲夜」
「……いってらっしゃい、咲夜」
お二人の声に見送られ、私は部屋を後にした。
廊下へ出ると、窓の向こうでは相変わらず雪が降っていた。
春の訪れない幻想郷。
そのどこかで、創英様もまた、この長い冬の原因を探しておられるのだろう。
……ならば、私も。
紅魔館のメイド長として、そして、お嬢様方の願いを叶える者として。
この冬の正体を、確かめてこなければならない。
私は足早に廊下を進み、調査へ向かう準備を始めた。
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◆ side:霧雨魔理沙 ◆
魔法の森に住んでいると、季節の変わり目には嫌でも敏感になる。
木々の芽吹きや茸の生え具合、森に漂う湿気の変化なんかは、魔法の研究に使う材料を集める上でも重要だからだ。春になれば春の、夏になれば夏の採集物があるし、同じ茸でも時期によって性質が変わるものがある。
だから、今年の春が明らかにおかしいことには、私も随分前から気付いていた。
「……ったく。いつまで冬を続けるつもりなんだよ」
雪の残る森を歩きながら、私は思わず悪態をついた。
四月も終わりに近付いているというのに、木々は相変わらず冬枯れのままだ。枝先には固く閉じた芽が残り、足元の土も、日当たりの悪い場所では凍りついている。
春になれば顔を出すはずの茸も、今年はさっぱり見当たらない。
おかげで、今日の採集も今のところ空振りだった。
「これじゃあ、研究が進まないぜ……」
背負っていた籠を確かめても、中身は大して増えていない。冬の間に蓄えておいた材料だって、いつまでも保つわけじゃないのだ。
それに、何より気に入らないことがひとつある。
どうして春が来ないのか、誰にも分からないということだ。
単に寒さが長引いているだけなら、まだいい。けれど、こうも長く雪が降り続くとなれば、何かしらの理由があると考える方が自然だろう。
もっとも、だからといって私が真っ先に動かなきゃいけない理由もない。
こういう時こそ、博麗の巫女の出番なんだからな。
「……霊夢の奴、何してるんだろうな」
あいつなら、何か異変が起きていれば、そのうち勝手に動き出すだろう。
そう思っていたんだが、今のところ、霊夢が調査を始めたという話は聞かない。
……まさか、まだ炬燵にでも入ってるんじゃないだろうな。
いや、あいつなら十分あり得るな。
私は呆れ半分に息を吐き、足元の雪を踏み越えた。
その時だった。
「……ん?」
視界の端を、淡い桃色が横切った。
最初は、小さな虫でも飛んでいるのかと思った。けれど、こんな寒さの中で飛び回る虫も珍しい。
何となく気になって足を止めると、木々の間を漂っていたそれが、ゆっくりと私の目の前へ降りてきた。
「……桜?」
思わず首を傾げた。どう見ても、桜の花びらだった。
薄桃色の輪郭に、先端の小さな切れ込み。春風に乗って舞い落ちる花弁を、そのまま一枚だけ取り出したような姿をしている。
けれど、周囲を見回しても桜の木なんて見当たらない。
そもそも、今の幻想郷で桜が咲いているという話自体、聞いた覚えがなかった。
「……どこから飛んできたんだ、こいつ」
私は花びらを目で追った。
風はほとんど吹いていない。それなのに、薄桃色の欠片は地面へ落ちることなく、ふわふわと漂い続けている。
その動きが妙に気になった。
普通の花びらなら、風が止まれば落ちるはずだ。ましてや、こんな湿った森の中では、雪や水分を含んで地面へ貼り付いていてもおかしくない。
なのに、こいつはまるで、落ちることを忘れてしまったみたいに宙を漂っている。
「……へぇ」
私は口元を緩め、そっと手を伸ばした。
指先が花びらへ触れる。その瞬間、思わず眉が上がった。
「……お?」
触れた感覚は、確かにあった。
けれど、手応えがない。
いや、まったく何も感じないわけじゃないんだが、薄い紙や植物に触れた時の感触とは、どうにも違う。
試しに指先で摘まみ上げてみると、花びらは抵抗なく持ち上がった。
掌へ移してみても、重さを感じない。
「……何だ、これ」
私は掌の上で漂う花びらを、目の高さまで持ち上げた。
見た目は桜の花びらなのに、触った感じは普通の物質じゃない。何かしらの力を帯びていることは分かるが、それも魔力を込めた道具や植物とは少し違う気がする。
魔法の森には、妙なものが幾らでも転がっている。
長い年月をかけて魔力を蓄えた植物もあれば、妖怪の影響で性質が変わった茸だってある。そういうものを調べるのは、私の得意分野の一つだ。
だが、目の前の花びらは、そのどれにも当てはまりそうになかった。
「……こいつ、花びらの形をしてるだけなんじゃないか?」
口に出してみると、妙にしっくりきた。
植物そのものじゃなくて、何か形のないものが、たまたま桜の花びらに似た姿を取っている。そんな感じだ。
もちろん、だからといって正体が分かったわけじゃない。何らかの魔法が掛かっているのかもしれないし、私の知らない妖怪の仕業という可能性だってある。
ただ、ひとつだけ引っ掛かることがあった。
春が来ない幻想郷で、桜の花びらに似たものが見つかった。
しかも、普通の花びらじゃない。
……これを偶然で片付けるのは、ちょっと勿体ないだろう。
「ふふん。面白くなってきたぜ」
私は花びらを指先に留めたまま、しばらく考えた。
家へ持ち帰って調べるのも悪くない。けれど、こいつが長い冬と関係しているなら、まずは霊夢に見せてみる方が手っ取り早そうだ。
何だかんだ言って、あいつはこういう妙なものを見抜く勘が鋭い。
本人がやる気を出すかどうかは、また別の話だけどな。
「……よし。ちょっくら神社へ行ってみるか」
私は採集籠を背負い直し、木の幹へ立て掛けていた箒を手に取った。
薄桃色の欠片が風に流されそうになったので、慌てて指先で押さえる。
「おっと。逃げるなよ。お前には、まだ聞きたいことが山ほどあるんだからな」
花びらが答えるはずもない。
それでも、私は何となく楽しくなって、箒へ跨がった。
雪の残る森を抜け、冷たい空へと飛び上がる。
眼下には、冬枯れの木々がどこまでも続いていた。
四月も終わるというのに、見渡す限りの景色から春の気配が抜け落ちている。
……さて。霊夢の奴は、こいつを見て何て言うかな。
——
博麗神社へ着いた時、私は早くも嫌な予感がしていた。
境内には雪が残り、参道の石段もところどころ白く染まっている。鳥居の向こうから吹き込む風は冷たく、箒から降りた途端、思わず肩を竦めてしまった。
それなのに、社殿の方からは妙に暖かそうな空気が漂っている。
……いや。まさかな。
私は箒を肩へ担ぎ、母屋へ向かった。
「おーい、霊夢。いるかー?」
「いるわよー」
間延びした返事が聞こえてきた。その時点で、大体の予想はついていた。
障子を開ける。
「……おい」
「何よ、魔理沙」
案の定、霊夢は炬燵に入っていた。
しかも、湯呑みを片手にみかんまで食べている。
……まったく。ここまで予想通りだと、いっそ感心するぜ。
「お前さぁ、いつまでそうしてるつもりなんだ?」
「何が?」
「何が、じゃないだろ。外を見ろよ。もう四月も終わるってのに、雪が降ってるんだぞ?」
「そうねぇ」
「……そうねぇ、って」
霊夢はみかんを一房口へ運び、何でもないことのように答えた。
「冬なんだから、雪くらい降るわよ」
「いや、だから冬じゃねぇだろ!」
思わず声が大きくなる。
霊夢は面倒臭そうにこちらを見上げた。
「うるさいわね。そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるわよ」
「だったら、もうちょっと危機感を持てよ。里の方だって困ってるって話だぜ?」
「そうなの?」
「そうなの、じゃないって……」
私は額へ手を当てた。
こいつ、本当に何もしてないのか。
いくら霊夢でも、ここまで季節がおかしければ、何かしら気付いているはずだと思っていた。
それなのに、目の前の巫女は炬燵から出る気配すら見せない。
「……まあいい。今日はちょっと見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
「ああ。これだ」
私は指先に留めていた花びらを、霊夢の前へ差し出した。
薄桃色の欠片が、掌の少し上でふわりと漂う。
霊夢はそれを見ると、僅かに目を細めた。
「……桜の花びら?」
「そう見えるだろ? 魔法の森で見つけたんだぜ」
「ふぅん。桜なんて、まだ咲いてないでしょうに」
「そうなんだよ。しかも、こいつは普通の花びらじゃない」
私は霊夢の方へ掌を近付けた。
「ちょっと触ってみろよ」
「……何よ、変なものでも拾ってきたの?」
「だから、変なものだって言ってるだろ」
霊夢は呆れたように息を吐きながら、炬燵から片手を伸ばした。
その指先が花びらへ触れる。
すると、霊夢の動きが僅かに止まった。
「……へぇ」
「な? 変だろ?」
「……そうね」
霊夢は花びらを摘まもうとした。
薄桃色の欠片は指先に触れながらも、何とも曖昧な動きで宙を漂っている。
その様子を見て、私は少し得意になった。
「どうだ? 普通の植物じゃないだろ?」
「ええ。何か妙なものね」
「だろ? 私も色々考えてみたんだけど、魔力を帯びた植物とも違うみたいなんだ」
霊夢はしばらく花びらを眺めていた。その間だけは、いつもの気の抜けた様子が少し薄れたように見えた。
……お。これは、もしかして。
「なあ、霊夢。これがなにか分かるか?」
「さあ?」
「……さあ?」
「普通の花びらじゃないってことくらいかしらね」
そう言って、霊夢は手を引っ込めた。
そして、何事もなかったように湯呑みへ手を伸ばす。
「…………」
私はしばらく、その様子を見つめていた。
……いや。ちょっと待てよ。
「おい、霊夢」
「何よ」
「それだけか?」
「それだけって?」
「だから、この花びらだよ。どう考えても妙だろ?」
「妙ね」
「しかも、今の幻想郷じゃ桜なんて咲いてない。春が来ないことと、何か関係があるかもしれないんだぞ?」
「そうかもしれないわね」
「……だったら」
「でも、まだ分からないんでしょう?」
霊夢はそう言って、みかんを一房口へ運んだ。
確かに、分からない。けど、分からないからこそ調べるんじゃないのか?
「……お前、本当に動く気ないのか?」
「今のところはね」
「今のところって……」
私は大きく息を吐いた。
何となく、ここへ来る前から予想はしていた。
していたんだが、実際にこうもあっさり流されると、さすがに力が抜ける。
「……分かったよ」
「何が?」
「お前が動く気ないってことは、よーく分かった」
「そう」
「だったら、私が調べてやるぜ」
そう告げると、霊夢がようやくこちらへ視線を向けた。
「……調べる?」
「ああ。こんな面白そうなものを見つけたんだ。放っておけるかよ」
私は花びらを目の高さまで持ち上げた。
薄桃色の輪郭が、微かに揺らいでいる。
「何が起きてるのか分からないなら、調べればいい。簡単な話だろ?」
「ふぅん。まあ、好きにすれば?」
「……お前、本当にそればっかりだな」
霊夢は何食わぬ顔でお茶をすすった。
ったく。こうなったら、私が先に原因を突き止めてやる。
あいつが後から動き出したって、もう遅いってくらいにな。
そんなことを考えていると、霊夢がふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば」
「ん?」
「創英も、そんなこと言ってたわね」
「……は?」
思わず聞き返した。
「創英が?」
「ええ。少し前に来て、今年の冬はおかしいんじゃないかって」
「……それで?」
「自分で調べてみるって言ってたわ」
「…………」
私はしばらく黙り込んだ。
……あいつも?
創英が、私らよりも先に動いてると?
そういえば、最近は里の方で何か調べ物をしているらしい、なんて話を耳にした気もする。
けど、まさか、この長い冬のことだったとはな。
「……へぇ」
自然と口元が緩んだ。
創英の奴、なかなかやるじゃないか。
あいつは妙なところで真面目だからな。何か気になることがあれば、自分で確かめなきゃ気が済まないんだろう。
まあ、その気持ちは分からなくもない。分からなくもないが。
「……ふーん。そうか、そうか」
「何よ、急に」
「いーや別に?」
私は箒を肩へ担ぎ直した。
……そういうことなら、話は別だ。
創英が先に調べ始めてるっていうなら、私だって負けてられない。
何しろ、魔法の森で妙な花びらを見つけたのは、この私なんだからな。
どうせなら、創英より先に原因を突き止めてやろうじゃないか。
「……よし。決めたぜ」
「何を?」
「この冬の原因、私が一番に突き止めてやる」
そう宣言すると、霊夢は呆れたようにこちらを見た。
「……何でそうなるのよ」
「いいだろ、別に。面白そうなんだからさ」
「はいはい」
霊夢はまたみかんへ手を伸ばした。
まったく。こっちは結構真面目に考えてるってのに。
私はもう一度、大きく溜息をついた。
「……霊夢」
「何よ」
「お前さぁ、本当にこのままでいいのか?」
「……何が?」
「だから、この冬のことだよ。何かおかしいって、もう分かってるだろ?」
霊夢は答えなかった。
ただ、少しだけ視線を落とし、湯呑みを持ち直した。
その様子を見て、私は何となく、それ以上言っても無駄な気がした。
「……はぁ。もういいや」
私は障子へ手を掛けた。
「じゃあな、霊夢。私は行くぜ」
「ええ。気を付けてね」
「……おう」
縁側へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
境内には、相変わらず雪が積もっている。
私は箒へ跨がり、もう一度社殿の方を振り返った。
障子の向こうでは、霊夢がまた炬燵に戻っているのだろう。
……まったく、あいつは。
「……春が来なくても、炬燵があればいいってか」
小さく呟き、私は空へ飛び上がった。
冷たい風が帽子のつばを揺らす。
眼下には、白く染まった幻想郷の景色が広がっていた。
魔法の森も、人間の里も、遠くに見える山々も、どこもかしこも冬のままだ。
……さて。
創英がどこまで調べてるのかは知らないけど、私も負けてられない。
まずは、この変な花びらが何なのか、そこからだな。
私は指先に留めていた薄桃色の欠片を確かめ、箒の柄を握り直した。
「……待ってろよ、春」
誰にともなく呟き、雪の降る空を駆けていく。
こうして私は、長い冬の原因を探すため、独自の調査へ乗り出すことにした。