幻想回帰節   作:北宮 涼

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68の節:春を追う者たち

◆ side:十六夜咲夜 ◆

 

 四月も終わりに近付いているというのに、紅魔館の庭園には、いまだ冬の景色が広がっていた。

 

 霧の湖から吹き寄せる風は冷たく、庭木の枝には雪が積もっている。花壇の土は硬く凍り、例年ならば春の彩りが増しているはずの庭も、今年ばかりは白と灰色ばかりが目立っていた。

 

 館内では相変わらず暖炉に火を入れているし、妖精メイドたちも冬用の制服を着たまま仕事に励んでいる。紅魔館で暮らす私たちにとって、寒さそのものはさほど大きな障害ではないものの、こうも季節が進まないとなれば話は別だった。

 

 何しろ、もう四月の下旬なのだ。

 

「……ねえ、咲夜」

「はい、お嬢様」

「今年の春は、随分とのんびりしているのね」

 

 午後の紅茶をお淹れしていると、窓辺の椅子に腰掛けていたレミリアお嬢様が、そんなことを仰った。

 

 紅い瞳は窓の外へ向けられている。そこでは細かな雪が舞い、庭園の石畳を薄く覆っていた。

 

「そうですね。例年と比べても、随分と遅れているようです」

「遅れている、ねぇ……。もう四月も終わるというのに、花のひとつも咲かないなんて。春の方が幻想郷へ来るのを忘れてしまったのかしら?」

「それでは、随分と困った忘れ物ですね」

 

 そう答えてカップを差し出すと、お嬢様は小さく笑われた。

 

 ただ、その笑みも長くは続かなかった。

 

「……創英からの手紙にも、そんなことが書いてあったわね」

「ええ。先日お預かりした書簡ですね」

 

 私はティーポットを置き、少し前に届いた手紙の内容を思い返した。

 

 差出人は、時崎創英様。

 

 昨年の紅い霧の異変を経て、今では紅魔館とも親しく交流するようになった、人間の退魔師である。

 

 創英様からは折に触れて近況を知らせる便りが届く。もっとも、堅苦しい報告書というよりは、最近あった出来事を気軽に綴った手紙に近い。

 

 今回の書簡にも、いつものように日常の話題が幾つか添えられていた。

 

 ただし、その中には少々気掛かりな内容が含まれていた。

 

「人間の里でも、農作業への影響が出始めているそうです。創英様は稗田家の記録も調べ、例年の気候と比較していると仰っていました」

「そうだったわね。あの子、相変わらず妙なところで真面目なんだから」

 

 お嬢様は紅茶を一口含み、どこか呆れたように笑われた。

 

「春が来ないからって、わざわざ昔の記録まで調べるなんて。退魔師の仕事って、そんなことまでするものなのかしら?」

「少なくとも、創英様は必要だとお考えなのでしょう」

「でしょうね。あの子らしいわ」

 

 お嬢様はカップを置くと、窓の外へ視線を戻された。

 

「それで、博麗の巫女は?」

「創英様のお話では、今のところ動く気配がないようです」

「……あら」

 

 お嬢様の眉が僅かに上がる。

 

「こういう時こそ、あの巫女の出番でしょうに」

「私も、そう思います」

「まあ、あの子のことだから、暖かい炬燵にでも入っているのでしょうけれど」

 

 私は思わず苦笑した。

 

 否定できないところが、何とも困ったものである。

 

 もっとも、霊夢が動かないからといって、今回の長い冬が異変であると確定したわけではない。

 

 創英様も、書簡ではその点を慎重に扱っておられた。

 

 例年と比べて明らかにおかしいこと。

 

 人間の里で、実際に困っている者が増えていること。

 

 そして、原因についてはまだ何も分かっていないこと。

 

 分かったことと、分からないことをきちんと分けて書いているあたり、いかにもあの方らしい。

 

「……それにしても」

 

 お嬢様は頬杖をつき、少し退屈そうに呟かれた。

 

「せっかくフランも庭へ出るようになったのに、これでは可哀想じゃない」

 

 その言葉に、私は静かに頷いた。

 

 フランドールお嬢様。

 

 昨年の異変以来、妹様は少しずつ館の中を自由に歩かれるようになった。

 

 以前は地下の部屋で過ごされることがほとんどだったが、今では図書館へ足を運び、日傘を差して庭園を散策されることもある。

 

 その変化が、私たちにとってどれほど嬉しいものだったか。

 

 ……だからこそ、今年の冬がいつまでも続いていることを、少しばかり残念に思っていた。

 

「妹様も、春の庭を楽しみにしておられましたからね」

「ええ。あの子、創英から桜の話を聞いて以来、ずっと気にしているのよ」

「そうでしたね」

「……まったく。あの子に春を見せてあげようと思っていたのに」

 

 お嬢様の声には、僅かな不満が滲んでいた。

 

 それは単なる退屈から来るものではないのだろう。

 

 妹様が外の世界へ興味を持ち始めた今、その楽しみをひとつでも増やして差し上げたい。

 

 お嬢様のそんなお気持ちが、私にも伝わってくるようだった。

 

 その時、扉が控えめに叩かれた。

 

「咲夜メイド長。少々、よろしいでしょうか」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

「ラッシュ? どうぞ」

「失礼いたします」

 

 扉が開き、翠色の髪をした妖精メイドが姿を現した。

 

 ラッシュ・ホルン。

 

 紅魔館に仕える妖精メイドの一人であり、風を操ることに長けた、なかなか腕の立つ少女である。

 

 昨年の異変では、彼女もまた大きな傷を負った。

 

 けれど今ではすっかり元気を取り戻し、以前と変わらず仕事に励んでいる。

 

 そして何より、ラッシュはフランドールお嬢様のことを、誰よりも気に掛けている者の一人だった。

 

「どうしたの? 何か問題でも?」

「はい。実は、庭園の巡回中に、少々妙なものを発見いたしまして……」

「妙なもの?」

 

 ラッシュは頷き、両手をそっと差し出した。

 

 その掌の上に、薄桃色の何かが漂っていた。

 

「……桜の花びら?」

 

 思わず、そう口にしていた。

 

 見た目は、確かに桜の花弁そのものだった。

 

 けれど、今の幻想郷で桜が咲いているという話は聞かない。

 

 ましてや、紅魔館の庭園にはまだ雪が積もっているのだ。

 

「庭園の片隅で見つけました。最初は風に運ばれてきたものかと思ったのですが……どうも、普通の花びらではないようなのです」

「……というと?」

「触れられるのですが、重さがほとんどありません。それに、風を当てても、普通の花びらのようには動かなくて……」

 

 ラッシュは少し困ったように眉を寄せた。

 

「私の風に乗ることは乗るのですが、何と申しましょうか……風で動いているというより、風に合わせて漂っているような……」

「……なるほど」

 

 風を操る彼女が、そう感じたのなら。

 

 少なくとも、普通の植物とは考えにくい。

 

「少し、見せてもらえるかしら」

「はい」

 

 ラッシュが掌を差し出す。

 

 私は慎重に指先を伸ばし、花びらへ触れた。

 

「……これは」

 

 思わず、眉を寄せた。

 

 確かに触れる。

 

 けれど、何かを摘まんでいるという感覚が曖昧だった。

 

 指先に伝わる重みも、植物特有の柔らかさもない。

 

 それでいて、確かにそこに存在している。

 

 まるで、何か形のないものが、桜の花びらという姿を借りているようだった。

 

「……不思議ね」

「やはり、そう思われますか?」

「ええ。少なくとも、普通の花びらではないわ」

 

 私は花びらを掌へ移し、改めて観察した。

 

 薄桃色の輪郭が、微かに揺らいでいる。

 

 何らかの力を帯びているようにも感じられるが、それが魔力なのか、妖力なのか、それとも別の何かなのかは分からなかった。

 

「……咲夜」

 

 背後から、お嬢様の声がした。

 

「それ、こちらへ持ってきなさい」

「かしこまりました」

 

 私はラッシュへ頷き、花びらをお嬢様の元へ運んだ。

 

 お嬢様は椅子から身を起こし、興味深そうにそれを覗き込まれた。

 

「……へぇ。随分と面白いものじゃない」

「庭園でラッシュが発見したものです。普通の桜の花びらとは、少々異なるようでして」

「でしょうね。こんな季節に桜が咲いていたら、それだけでも大騒ぎでしょうに」

 

 お嬢様は指先を伸ばし、花びらへ触れられた。

 

 その紅い瞳が、僅かに細くなる。

 

「……なるほど」

「何か、お分かりになりますか?」

「いいえ。ただ、普通の植物ではないことくらいかしら」

 

 お嬢様は花びらを眺めながら、口元へ笑みを浮かべられた。

 

「でも、面白いわね。春が来ない幻想郷に、桜の花びらが現れたのよ?」

「……ええ」

「それも、こんな妙なものが」

 

 お嬢様は椅子の背へ身体を預け、少し考えるように指先を顎へ添えられた。

 

「偶然かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」

 

 その声には、先ほどまでの退屈そうな響きがなかった。

 

 代わりに、何か面白いものを見つけた時のお嬢様らしい、楽しげな気配が滲んでいる。

 

「……咲夜」

「はい、お嬢様」

「この長い冬の原因を調べてきなさい」

 

 私は静かに頭を下げた。

 

「かしこまりました」

「創英も動いているのでしょう? だったら、こちらも少しは動いてみましょうか」

「……承知いたしました」

「何者かが春を隠しているのなら、見つけ出してやりなさい。もし誰かの悪戯なら、その相手にも少しばかり礼儀を教えてあげなくちゃね」

 

 お嬢様は楽しそうに笑われた。

 

 私は改めて一礼する。

 

「必ず、原因を突き止めて参ります」

「ええ。期待しているわ」

 

 その時だった。

 

「……お姉様?」

 

 扉の方から、聞き慣れた声がした。

 

 振り返ると、そこにはフランドールお嬢様が立っておられた。

 

 七色の結晶を連ねた翼が、室内の灯りを受けて淡く輝いている。

 

 妹様は私たちの様子を見比べると、不思議そうに首を傾げられた。

 

「何のお話?」

「あら、フラン。ちょうどよかったわ」

 

 お嬢様は妹様を手招きされた。

 

「こっちへいらっしゃい。面白いものが見つかったのよ」

「面白いもの?」

 

 妹様は興味を引かれたように近付いてこられた。

 

 私は掌の上の花びらを、そっと差し出す。

 

「……わぁ」

 

 妹様の瞳が、大きく見開かれた。

 

「桜の花びら?」

「そう見えるでしょう? でも、普通の花びらではないみたいなの」

「……ほんと?」

 

 妹様は恐る恐る指先を伸ばし、花びらへ触れられた。

 

 その瞬間、小さく息を呑まれる。

 

「あれ?」

「どうかなさいましたか?」

「……変なの」

 

 妹様は花びらをじっと見つめていた。

 

「触ってるのに、触ってないみたい……」

「ええ。私も、同じように感じました」

「ふぅん……」

 

 妹様はしばらく考え込むように花びらを眺めた後、ふと顔を上げられた。

 

「ねえ、お姉様」

「なあに?」

「これって……春の花びらなの?」

 

 その問いに、お嬢様は少しだけ目を細められた。

 

「さあ、どうかしらね」

「……そっか」

 

 妹様は小さく頷き、もう一度花びらを見つめられた。

 

 その横顔には、好奇心と、ほんの少しの寂しさが入り混じっているように見えた。

 

「……春、まだ来ないね」

 

 ぽつりと零れた言葉に、私は胸の奥が僅かに締め付けられるのを感じた。

 

 妹様は昨年、初めて外の世界へ一歩を踏み出された。

 

 それ以来、季節の移ろいや、庭に咲く花々を楽しみにされていた。

 

 ……だからこそ、いつまでも続く冬が、少しばかり残念なのだろう。

 

「……そうね」

 

 お嬢様は妹様の頭へ、そっと手を置かれた。

 

「でも、いつまでも冬のままというわけにはいかないでしょう?」

「……うん」

「だから、咲夜に調べてもらうことにしたの」

 

 妹様が、ぱっと顔を上げられた。

 

「咲夜が?」

「ええ」

「……じゃあ、春が来るの?」

「まだ分からないわ。でも、何か分かるかもしれないでしょう?」

 

 妹様は少し考えた後、私へ視線を向けられた。

 

「……咲夜」

「はい、妹様」

「気を付けてね」

 

 その言葉に、私は自然と微笑んでいた。

 

「ありがとうございます。必ず、無事に戻って参ります」

「……うん」

 

 妹様は小さく頷かれた。

 

 それから、何かを思い出したように口を開かれた。

 

「……そういえば、にぃには?」

「創英様ですか?」

「うん。にぃにも、春のこと調べてるんでしょ?」

「ええ。先日のお手紙では、そのように仰っていました」

「そっか」

 

 妹様は少し嬉しそうに微笑まれた。

 

「にぃにも頑張ってるんだね」

「そうですね」

「……じゃあ、咲夜も頑張らなきゃ」

 

 その言葉に、お嬢様が小さく笑われた。

 

「ふふ。そうね。創英に先を越されてしまったら、紅魔館の名折れだもの」

「お姉様、そういうことじゃないと思うけど……」

「あら、違うの?」

 

 妹様は少し困ったように笑われた。

 

 私はそのやり取りを眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

 

 昨年までなら、こんな光景は考えられなかっただろう。

 

 お嬢様と妹様が、同じ部屋で、同じものを眺めながら、何気ない会話を交わしている。

 

 その中心にあるのが、春の訪れない幻想郷で見つかった、たった一枚の花びらだというのも、何とも不思議な話だった。

 

「……咲夜」

「はい、お嬢様」

「準備ができ次第、出発なさい」

「かしこまりました」

 

 私は一礼し、掌の上の花びらへ視線を落とした。

 

 薄桃色の欠片は、相変わらずふわりと漂っている。

 

 その正体も、意味も、まだ分からない。

 

 けれど、これが長い冬と何らかの関係を持っているのだとすれば。

 

 ……調べる価値は、十分にあるだろう。

 

「ラッシュ」

「はい、メイド長」

「この花びらを見つけた場所について、詳しく報告書をまとめておいてちょうだい。それから、庭園の巡回を続けて、同じようなものがないか確認して」

「承知いたしました」

 

 ラッシュは真剣な表情で頷いた。

 

 私は改めて、お嬢様と妹様へ向き直る。

 

「それでは、行って参ります」

「ええ。頼んだわよ、咲夜」

「……いってらっしゃい、咲夜」

 

 お二人の声に見送られ、私は部屋を後にした。

 

 廊下へ出ると、窓の向こうでは相変わらず雪が降っていた。

 

 春の訪れない幻想郷。

 

 そのどこかで、創英様もまた、この長い冬の原因を探しておられるのだろう。

 

 ……ならば、私も。

 

 紅魔館のメイド長として、そして、お嬢様方の願いを叶える者として。

 

 この冬の正体を、確かめてこなければならない。

 

 私は足早に廊下を進み、調査へ向かう準備を始めた。

 

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◆ side:霧雨魔理沙 ◆

 

 魔法の森に住んでいると、季節の変わり目には嫌でも敏感になる。

 

 木々の芽吹きや茸の生え具合、森に漂う湿気の変化なんかは、魔法の研究に使う材料を集める上でも重要だからだ。春になれば春の、夏になれば夏の採集物があるし、同じ茸でも時期によって性質が変わるものがある。

 

 だから、今年の春が明らかにおかしいことには、私も随分前から気付いていた。

 

「……ったく。いつまで冬を続けるつもりなんだよ」

 

 雪の残る森を歩きながら、私は思わず悪態をついた。

 

 四月も終わりに近付いているというのに、木々は相変わらず冬枯れのままだ。枝先には固く閉じた芽が残り、足元の土も、日当たりの悪い場所では凍りついている。

 

 春になれば顔を出すはずの茸も、今年はさっぱり見当たらない。

 

 おかげで、今日の採集も今のところ空振りだった。

 

「これじゃあ、研究が進まないぜ……」

 

 背負っていた籠を確かめても、中身は大して増えていない。冬の間に蓄えておいた材料だって、いつまでも保つわけじゃないのだ。

 

 それに、何より気に入らないことがひとつある。

 

 どうして春が来ないのか、誰にも分からないということだ。

 

 単に寒さが長引いているだけなら、まだいい。けれど、こうも長く雪が降り続くとなれば、何かしらの理由があると考える方が自然だろう。

 

 もっとも、だからといって私が真っ先に動かなきゃいけない理由もない。

 

 こういう時こそ、博麗の巫女の出番なんだからな。

 

「……霊夢の奴、何してるんだろうな」

 

 あいつなら、何か異変が起きていれば、そのうち勝手に動き出すだろう。

 

 そう思っていたんだが、今のところ、霊夢が調査を始めたという話は聞かない。

 

 ……まさか、まだ炬燵にでも入ってるんじゃないだろうな。

 

 いや、あいつなら十分あり得るな。

 

 私は呆れ半分に息を吐き、足元の雪を踏み越えた。

 

 その時だった。

 

「……ん?」

 

 視界の端を、淡い桃色が横切った。

 

 最初は、小さな虫でも飛んでいるのかと思った。けれど、こんな寒さの中で飛び回る虫も珍しい。

 

 何となく気になって足を止めると、木々の間を漂っていたそれが、ゆっくりと私の目の前へ降りてきた。

 

「……桜?」

 

 思わず首を傾げた。どう見ても、桜の花びらだった。

 

 薄桃色の輪郭に、先端の小さな切れ込み。春風に乗って舞い落ちる花弁を、そのまま一枚だけ取り出したような姿をしている。

 

 けれど、周囲を見回しても桜の木なんて見当たらない。

 

 そもそも、今の幻想郷で桜が咲いているという話自体、聞いた覚えがなかった。

 

「……どこから飛んできたんだ、こいつ」

 

 私は花びらを目で追った。

 

 風はほとんど吹いていない。それなのに、薄桃色の欠片は地面へ落ちることなく、ふわふわと漂い続けている。

 

 その動きが妙に気になった。

 

 普通の花びらなら、風が止まれば落ちるはずだ。ましてや、こんな湿った森の中では、雪や水分を含んで地面へ貼り付いていてもおかしくない。

 

 なのに、こいつはまるで、落ちることを忘れてしまったみたいに宙を漂っている。

 

「……へぇ」

 

 私は口元を緩め、そっと手を伸ばした。

 

 指先が花びらへ触れる。その瞬間、思わず眉が上がった。

 

「……お?」

 

 触れた感覚は、確かにあった。

 

 けれど、手応えがない。

 

 いや、まったく何も感じないわけじゃないんだが、薄い紙や植物に触れた時の感触とは、どうにも違う。

 

 試しに指先で摘まみ上げてみると、花びらは抵抗なく持ち上がった。

 

 掌へ移してみても、重さを感じない。

 

「……何だ、これ」

 

 私は掌の上で漂う花びらを、目の高さまで持ち上げた。

 

 見た目は桜の花びらなのに、触った感じは普通の物質じゃない。何かしらの力を帯びていることは分かるが、それも魔力を込めた道具や植物とは少し違う気がする。

 

 魔法の森には、妙なものが幾らでも転がっている。

 

 長い年月をかけて魔力を蓄えた植物もあれば、妖怪の影響で性質が変わった茸だってある。そういうものを調べるのは、私の得意分野の一つだ。

 

 だが、目の前の花びらは、そのどれにも当てはまりそうになかった。

 

「……こいつ、花びらの形をしてるだけなんじゃないか?」

 

 口に出してみると、妙にしっくりきた。

 

 植物そのものじゃなくて、何か形のないものが、たまたま桜の花びらに似た姿を取っている。そんな感じだ。

 

 もちろん、だからといって正体が分かったわけじゃない。何らかの魔法が掛かっているのかもしれないし、私の知らない妖怪の仕業という可能性だってある。

 

 ただ、ひとつだけ引っ掛かることがあった。

 

 春が来ない幻想郷で、桜の花びらに似たものが見つかった。

 

 しかも、普通の花びらじゃない。

 

 ……これを偶然で片付けるのは、ちょっと勿体ないだろう。

 

「ふふん。面白くなってきたぜ」

 

 私は花びらを指先に留めたまま、しばらく考えた。

 

 家へ持ち帰って調べるのも悪くない。けれど、こいつが長い冬と関係しているなら、まずは霊夢に見せてみる方が手っ取り早そうだ。

 

 何だかんだ言って、あいつはこういう妙なものを見抜く勘が鋭い。

 

 本人がやる気を出すかどうかは、また別の話だけどな。

 

「……よし。ちょっくら神社へ行ってみるか」

 

 私は採集籠を背負い直し、木の幹へ立て掛けていた箒を手に取った。

 

 薄桃色の欠片が風に流されそうになったので、慌てて指先で押さえる。

 

「おっと。逃げるなよ。お前には、まだ聞きたいことが山ほどあるんだからな」

 

 花びらが答えるはずもない。

 

 それでも、私は何となく楽しくなって、箒へ跨がった。

 

 雪の残る森を抜け、冷たい空へと飛び上がる。

 

 眼下には、冬枯れの木々がどこまでも続いていた。

 

 四月も終わるというのに、見渡す限りの景色から春の気配が抜け落ちている。

 

 ……さて。霊夢の奴は、こいつを見て何て言うかな。

 

 

——

 

 

 博麗神社へ着いた時、私は早くも嫌な予感がしていた。

 

 境内には雪が残り、参道の石段もところどころ白く染まっている。鳥居の向こうから吹き込む風は冷たく、箒から降りた途端、思わず肩を竦めてしまった。

 

 それなのに、社殿の方からは妙に暖かそうな空気が漂っている。

 

 ……いや。まさかな。

 

 私は箒を肩へ担ぎ、母屋へ向かった。

 

「おーい、霊夢。いるかー?」

「いるわよー」

 

 間延びした返事が聞こえてきた。その時点で、大体の予想はついていた。

 

 障子を開ける。

 

「……おい」

「何よ、魔理沙」

 

 案の定、霊夢は炬燵に入っていた。

 

 しかも、湯呑みを片手にみかんまで食べている。

 

 ……まったく。ここまで予想通りだと、いっそ感心するぜ。

 

「お前さぁ、いつまでそうしてるつもりなんだ?」

「何が?」

「何が、じゃないだろ。外を見ろよ。もう四月も終わるってのに、雪が降ってるんだぞ?」

「そうねぇ」

「……そうねぇ、って」

 

 霊夢はみかんを一房口へ運び、何でもないことのように答えた。

 

「冬なんだから、雪くらい降るわよ」

「いや、だから冬じゃねぇだろ!」

 

 思わず声が大きくなる。

 

 霊夢は面倒臭そうにこちらを見上げた。

 

「うるさいわね。そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるわよ」

「だったら、もうちょっと危機感を持てよ。里の方だって困ってるって話だぜ?」

「そうなの?」

「そうなの、じゃないって……」

 

 私は額へ手を当てた。

 

 こいつ、本当に何もしてないのか。

 

 いくら霊夢でも、ここまで季節がおかしければ、何かしら気付いているはずだと思っていた。

 

 それなのに、目の前の巫女は炬燵から出る気配すら見せない。

 

「……まあいい。今日はちょっと見せたいものがあるんだ」

「見せたいもの?」

「ああ。これだ」

 

 私は指先に留めていた花びらを、霊夢の前へ差し出した。

 

 薄桃色の欠片が、掌の少し上でふわりと漂う。

 

 霊夢はそれを見ると、僅かに目を細めた。

 

「……桜の花びら?」

「そう見えるだろ? 魔法の森で見つけたんだぜ」

「ふぅん。桜なんて、まだ咲いてないでしょうに」

「そうなんだよ。しかも、こいつは普通の花びらじゃない」

 

 私は霊夢の方へ掌を近付けた。

 

「ちょっと触ってみろよ」

「……何よ、変なものでも拾ってきたの?」

「だから、変なものだって言ってるだろ」

 

 霊夢は呆れたように息を吐きながら、炬燵から片手を伸ばした。

 

 その指先が花びらへ触れる。

 

 すると、霊夢の動きが僅かに止まった。

 

「……へぇ」

「な? 変だろ?」

「……そうね」

 

 霊夢は花びらを摘まもうとした。

 

 薄桃色の欠片は指先に触れながらも、何とも曖昧な動きで宙を漂っている。

 

 その様子を見て、私は少し得意になった。

 

「どうだ? 普通の植物じゃないだろ?」

「ええ。何か妙なものね」

「だろ? 私も色々考えてみたんだけど、魔力を帯びた植物とも違うみたいなんだ」

 

 霊夢はしばらく花びらを眺めていた。その間だけは、いつもの気の抜けた様子が少し薄れたように見えた。

 

 ……お。これは、もしかして。

 

「なあ、霊夢。これがなにか分かるか?」

「さあ?」

「……さあ?」

「普通の花びらじゃないってことくらいかしらね」

 

 そう言って、霊夢は手を引っ込めた。

 

 そして、何事もなかったように湯呑みへ手を伸ばす。

 

「…………」

 

 私はしばらく、その様子を見つめていた。

 

 ……いや。ちょっと待てよ。

 

「おい、霊夢」

「何よ」

「それだけか?」

「それだけって?」

「だから、この花びらだよ。どう考えても妙だろ?」

「妙ね」

「しかも、今の幻想郷じゃ桜なんて咲いてない。春が来ないことと、何か関係があるかもしれないんだぞ?」

「そうかもしれないわね」

「……だったら」

「でも、まだ分からないんでしょう?」

 

 霊夢はそう言って、みかんを一房口へ運んだ。

 

 確かに、分からない。けど、分からないからこそ調べるんじゃないのか?

 

「……お前、本当に動く気ないのか?」

「今のところはね」

「今のところって……」

 

 私は大きく息を吐いた。

 

 何となく、ここへ来る前から予想はしていた。

 

 していたんだが、実際にこうもあっさり流されると、さすがに力が抜ける。

 

「……分かったよ」

「何が?」

「お前が動く気ないってことは、よーく分かった」

「そう」

「だったら、私が調べてやるぜ」

 

 そう告げると、霊夢がようやくこちらへ視線を向けた。

 

「……調べる?」

「ああ。こんな面白そうなものを見つけたんだ。放っておけるかよ」

 

 私は花びらを目の高さまで持ち上げた。

 

 薄桃色の輪郭が、微かに揺らいでいる。

 

「何が起きてるのか分からないなら、調べればいい。簡単な話だろ?」

「ふぅん。まあ、好きにすれば?」

「……お前、本当にそればっかりだな」

 

 霊夢は何食わぬ顔でお茶をすすった。

 

 ったく。こうなったら、私が先に原因を突き止めてやる。

 

 あいつが後から動き出したって、もう遅いってくらいにな。

 

 そんなことを考えていると、霊夢がふと思い出したように口を開いた。

 

「……そういえば」

「ん?」

「創英も、そんなこと言ってたわね」

「……は?」

 

 思わず聞き返した。

 

「創英が?」

「ええ。少し前に来て、今年の冬はおかしいんじゃないかって」

「……それで?」

「自分で調べてみるって言ってたわ」

「…………」

 

 私はしばらく黙り込んだ。

 

 ……あいつも?

 

 創英が、私らよりも先に動いてると?

 

 そういえば、最近は里の方で何か調べ物をしているらしい、なんて話を耳にした気もする。

 

 けど、まさか、この長い冬のことだったとはな。

 

「……へぇ」

 

 自然と口元が緩んだ。

 

 創英の奴、なかなかやるじゃないか。

 

 あいつは妙なところで真面目だからな。何か気になることがあれば、自分で確かめなきゃ気が済まないんだろう。

 

 まあ、その気持ちは分からなくもない。分からなくもないが。

 

「……ふーん。そうか、そうか」

「何よ、急に」

「いーや別に?」

 

 私は箒を肩へ担ぎ直した。

 

 ……そういうことなら、話は別だ。

 

 創英が先に調べ始めてるっていうなら、私だって負けてられない。

 

 何しろ、魔法の森で妙な花びらを見つけたのは、この私なんだからな。

 

 どうせなら、創英より先に原因を突き止めてやろうじゃないか。

 

「……よし。決めたぜ」

「何を?」

「この冬の原因、私が一番に突き止めてやる」

 

 そう宣言すると、霊夢は呆れたようにこちらを見た。

 

「……何でそうなるのよ」

「いいだろ、別に。面白そうなんだからさ」

「はいはい」

 

 霊夢はまたみかんへ手を伸ばした。

 

 まったく。こっちは結構真面目に考えてるってのに。

 

 私はもう一度、大きく溜息をついた。

 

「……霊夢」

「何よ」

「お前さぁ、本当にこのままでいいのか?」

「……何が?」

「だから、この冬のことだよ。何かおかしいって、もう分かってるだろ?」

 

 霊夢は答えなかった。

 

 ただ、少しだけ視線を落とし、湯呑みを持ち直した。

 

 その様子を見て、私は何となく、それ以上言っても無駄な気がした。

 

「……はぁ。もういいや」

 

 私は障子へ手を掛けた。

 

「じゃあな、霊夢。私は行くぜ」

「ええ。気を付けてね」

「……おう」

 

 縁側へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 

 境内には、相変わらず雪が積もっている。

 

 私は箒へ跨がり、もう一度社殿の方を振り返った。

 

 障子の向こうでは、霊夢がまた炬燵に戻っているのだろう。

 

 ……まったく、あいつは。

 

「……春が来なくても、炬燵があればいいってか」

 

 小さく呟き、私は空へ飛び上がった。

 

 冷たい風が帽子のつばを揺らす。

 

 眼下には、白く染まった幻想郷の景色が広がっていた。

 

 魔法の森も、人間の里も、遠くに見える山々も、どこもかしこも冬のままだ。

 

 ……さて。

 

 創英がどこまで調べてるのかは知らないけど、私も負けてられない。

 

 まずは、この変な花びらが何なのか、そこからだな。

 

 私は指先に留めていた薄桃色の欠片を確かめ、箒の柄を握り直した。

 

「……待ってろよ、春」

 

 誰にともなく呟き、雪の降る空を駆けていく。

 

 こうして私は、長い冬の原因を探すため、独自の調査へ乗り出すことにした。

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