69の節:春に舞う雪、その1
◆ side:博麗霊夢 ◆
魔理沙が帰ってから、どれくらい経っただろう。
障子の向こうでは、相変わらず雪が降っていた。
四月も終わり五月に入ったというのに、博麗神社の境内はすっかり冬景色のままだ。庭木の枝には白い雪が積もり、参道の石段も、朝に掃いたところからまた薄く覆われ始めている。
もっとも、今の私には関係のないことだった。
炬燵は暖かいし、お茶もある。外がどれほど寒かろうと、わざわざ出ていかなければ済む話だ。
「……まったく、魔理沙も物好きよね」
先ほどまでの騒がしさを思い出しながら、私は湯呑みに口を付けた。
魔法の森で妙な桜の花びらを拾っただの、春が来ないのはおかしいだの、しまいには自分が一番に原因を突き止めてやるだの。
いつもながら、あの魔法使いは元気なものだ。
確かに、今年の冬が長いことくらいは私にも分かっている。けれど、雪が降っているからといって、すぐに何かの異変だと決め付けるのも早計だろう。
とはいえ、魔理沙が見せてきた花びらについては、少しばかり気になるところもあった。
触れられるのに、普通の花びらのような手応えがない。妖気とも霊気ともつかない、何とも曖昧なものだった。
ただ、それが何を意味するのかまでは分からない。
分からないものを、今ここで考え続けたところで仕方がないだろう。
「……ん」
私は手元のみかんを一房口へ運んだ。
甘酸っぱい果汁が舌の上に広がる。寒い時期に炬燵で食べるみかんというのは、どうしてこうも美味しいのだろう。
外では雪が降っているけれど、こちらは暖かい。こうしていれば、別に冬が多少長引いたって――。
「……あら?」
何気なく籠へ手を伸ばした指先が、空を切った。
私は視線を落とす。
そこには、剥いたみかんの皮が幾つか残っているだけだった。
「…………」
籠を持ち上げ、底を確かめてみる。
ない。
念のため、炬燵の上も見回してみた。
やっぱり、ない。
「……もうなくなっちゃったの?」
思わず独り言が零れた。
そういえば、魔理沙が来る前から幾つか食べていた気がする。あいつが妙な花びらを見せびらかしている間にも、何房か口へ運んだ覚えがあった。
どうやら、さっき食べたものが最後だったらしい。
「……はぁ」
私は籠を元の場所へ戻し、炬燵の中で足を伸ばした。
まあ、みかんがなくなったくらいで困ることもない。お茶でも飲んでいれば、そのうち忘れるだろう。
そう思って湯呑みを持ち上げたものの、中身はすっかり冷めていた。
「……冷たい」
先ほどまで気にならなかったのに、一度そう思うと、どうにも口を付ける気が失せてしまう。
新しく淹れ直すには、お湯を沸かさなければならない。
つまり、炬燵から出る必要がある。
私は湯呑みを置き、障子の方へ目を向けた。
外では雪が降っている。屋内とはいえ、炬燵から出れば寒いに決まっている。
「……面倒ね」
そう呟いて、私はもう一度炬燵へ深く潜り込んだ。
別に、今すぐお茶を飲まなければ死ぬわけでもない。みかんだって、なければないで構わない。
暖かいところにいれば、そのうち眠くなってくるだろうし、少し昼寝でもすればいい。
そう考えて目を閉じた。
けれど。
「…………」
妙に、顔が寒い。
炬燵に入っている足元は暖かいのに、肩から上だけが冷たい空気に晒されている。さっきまでは何とも思わなかったはずなのに、頬に触れる空気の冷たさが、やけにはっきりと感じられた。
私は肩を竦め、炬燵布団を少し引き上げた。
それでも、顔までは覆えない。
「……何なのよ、もう」
小さく息を吐くと、その息が僅かに白くなった。
私は思わず目を瞬かせた。
……部屋の中なのに?
改めて周囲を見回してみる。
障子の向こうでは風が鳴り、時折、屋根から落ちた雪が軒先で小さな音を立てている。部屋の隅には冷えた空気が溜まり、畳へ置いた手のひらにも、じわりと冷たさが伝わってきた。
炬燵が暖かいものだから、今まであまり気にしていなかった。
けれど、よく考えてみれば。
「……寒くない?」
誰に尋ねるでもなく、私は呟いた。
いや、寒いのは当たり前だ。雪が降っているんだから。
でも、それは冬の話でしょう? 今は、確か――。
「……五月よね」
私は壁に掛けてある暦を見た。
何度確かめても、五月だった。
「…………」
私は再び障子へ目を向けた。
雪が降っている。
どう見ても、冬だった。
「……おかしくない?」
今更ながら、そんな疑問が浮かんできた。
もちろん、今年の冬が長いことは前から知っている。創英にも魔理沙にも、散々そう言われてきた。
ただ、知っていることと、実際に気になることは別だ。
炬燵に入ってみかんを食べている間は、外が寒くても大して困らなかった。
けれど、みかんはなくなったし、お茶も冷めた。
お湯を沸かそうにも、炬燵から出なければならない。
それに、いつまでもこうしているわけにもいかないだろう。食事の支度もあるし、境内の雪だって放っておけば積もる一方だ。
……つまり、この冬が続く限り、私は何度も寒い思いをしなければならないということだ。
「……嫌ねぇ」
私は心底うんざりして、炬燵の上へ頬杖をついた。
冬という季節が、特別嫌いなわけじゃない。
雪景色には雪景色の良さがあるし、寒い日に飲む温かいお茶も悪くない。
でも、それは冬だから許せることだ。
五月の初めになってまで、同じ寒さに付き合わされる筋合いはない。
春になれば、もっと暖かくなるはずなのに。
縁側でお茶を飲んでも寒くないし、わざわざ炬燵へ潜り込まなくたって済む。境内の雪を掃く必要もなくなるし、何より朝起きるのが楽になる。
そう考えると、春というものが急に恋しくなってきた。
「……そうよ。何でまだ春にならないのよ」
私はむっとして、窓の外を睨んだ。
雪は相変わらず降り続いている。
こちらの不満など知ったことではないと言わんばかりに、白い粒がひらひらと舞い落ちていた。
その様子を見ていると、何だか余計に腹が立ってくる。
「もう四月も終わったっていうのに……」
口に出したところで、ふと魔理沙の声が蘇った。
『外を見ろよ。もう四月も終わるってのに、雪が降ってるんだぞ?』
「……ああ、もう」
私は額に手を当てた。
さっきまでは大袈裟だと思っていたけれど、今になってみれば、あいつの言うことも分からなくはない。
それに、創英も少し前に似たようなことを言っていた。
確か、里の人たちが困り始めているとか、何か原因があるかもしれないとか、そんな話だったはずだ。
あいつはあいつで、随分と真面目に調べているらしい。
魔理沙まで張り切って飛び出していったのだから、今頃は二人とも、どこかでこの長い冬の手掛かりを探しているのだろう。
「……物好きな連中ね」
そう呟いてから、私はもう一度、冷めた湯呑みを見つめた。
……でも。あの二人が調べているということは、少なくとも、今年の冬が普通ではないと考える理由があるわけだ。
そして、もし本当に何かの異変なら。
放っておいたところで、勝手に終わるとは限らない。
「…………」
私はゆっくりと顔を上げた。
障子の向こうでは、相変わらず雪が舞っている。
その白い景色を眺めているうちに、先ほど魔理沙が見せてきたものが、ふと頭をよぎった。
桜の花びら。
薄桃色で、触れられるのに手応えが曖昧な、妙な欠片。
あれは、確かに普通の花びらではなかった。
それに、今の幻想郷では桜なんて咲いていない。
……春が来ない場所で、春の花だけが現れた。
そう考えると、何となく引っ掛かるものがある。
「……ふぅん」
私は炬燵の上へ置いた指先で、軽く畳を叩いた。
あの花びらが何なのかは分からない。
どこから来たのかも、何のために現れたのかも、さっぱりだ。
けれど、何となく。あれを辿れば、何か分かるような気がした。
理由を説明しろと言われても困る。
ただ、こういう時の勘は、案外外れないものだ。
「……まあ、そうね」
私は小さく頷いた。魔理沙が何を調べようと、創英がどこへ行こうと、それはあの二人の勝手だ。私まで同じことをする必要はない。
けれど、今のままでは困る。
何しろ、寒い。それも、いい加減うんざりするほどに。
「……ああ、もう!」
私は勢いよく炬燵布団を跳ね上げた。
途端に冷たい空気が足元へまとわりつき、思わず顔を顰める。
「寒っ……!」
やっぱり寒い。
想像していたより、ずっと寒い。
私は腕を擦りながら立ち上がり、障子を開けた。
吹き込んできた風が頬を刺す。
境内には、朝よりも厚く雪が積もっていた。鳥居の向こうまで白く霞み、見慣れた神社の景色が、まるで真冬に戻ってしまったかのように見える。
私はしばらく、その光景を睨んでいた。
「……いい加減に春になりなさいよ」
当然、返事はない。
ただ、冷たい風が吹き抜け、軒先から落ちた雪が小さく崩れただけだった。
……まったく。こうなったら、仕方がない。
何が原因なのか知らないけれど、いつまでも冬を続けられては迷惑だ。
春が来ないというなら、来ない理由を探して、さっさと終わらせてしまえばいい。
私は障子を閉め、部屋の隅へ置いてあった御幣を手に取った。
続いて、いつものお祓い棒や札を確かめる。
大袈裟な準備をするつもりはなかった。どこへ行けばいいのかも、まだ分かっていないのだから。
ただ、何となく進むべき方向は見えている。
魔理沙が持ってきた、あの花びら。
あれと似たものが、どこかにあるような気がする。
ならば、まずはそちらへ向かってみればいい。
「……よし」
私は最後に炬燵を振り返った。
ついさっきまで、あそこから一歩も出るつもりはなかった。
けれど、今となっては、あの暖かさに戻るだけでは満足できそうにない。
戻ったところで、外が寒いことに変わりはないのだから。
「帰ってくる頃には、少しくらい暖かくなってるといいんだけど」
そんなことを呟きながら、私は玄関へ向かった。
戸を開けると、冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。
思わず肩を竦めたものの、今更引き返す気にはならなかった。
私は雪の積もった境内へ足を踏み出し、空を見上げた。
灰色の雲が、幻想郷の上空を覆っている。
そこから降り続く雪は、まるで春の訪れを拒んでいるかのようだった。
「……さて」
私は御幣を握り直し、軽く息を吐いた。
どこへ向かうべきか、確かなことは分からない。
でも、こういう時は、あまり難しく考えない方がいい。
何となく気になる方へ行ってみる。
何か見つかれば、その時に考える。
いつも通り、それで十分だ。
「……行きましょうか」
私は地面を蹴り、雪の舞う空へと飛び上がった。
冷たい風が袖を揺らし、頬を撫でていく。
神社の屋根が足元へ遠ざかり、白く染まった山々と森が視界の向こうへ広がっていった。
五月のはじめ。
本来なら、幻想郷のあちこちで花が咲き、暖かな陽気と心地よい風が吹いている頃だ。
それなのに、今はどこを見ても冬のまま。
……まったく、冗談じゃない。
「春を返してもらわないとね」
私はそう呟き、何となく気になった方角へ身体を向けた。
理由は分からない。
けれど、あの妙な桜の花びらが、どこかで春と繋がっているような気がする。
だったら、まずはそれを確かめればいい。
創英も魔理沙も、きっとそれぞれのやり方で調べているのだろう。
でも、私には私のやり方がある。
余計なことを考えるのは、何か見つけてからで十分だ。
私は風を切り、雪の降る幻想郷の空を飛んでいく。
目指す先に何があるのかは、まだ分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
――私は、もう寒いのにはうんざりだった。