◆ side:時崎創英 ◆
五月に入ってなお、幻想郷には春が訪れていなかった。
眼下に広がる山々は白く染まり、木々の枝には雪が積もっている。冬の間なら見慣れた景色だが、今はもう五月だ。そろそろ新緑が山肌を覆い始めてもおかしくない頃だというのに、吹き付ける風は真冬と変わらない冷たさを帯びていた。
俺は外套の襟元を押さえながら、妖怪の山の裾野に沿って飛んでいた。
「……こっちも、特に変わった様子はないか」
そう呟いて、眼下の森へ視線を落とす。
ここ数日、俺は人間の里を中心に調査を進めてきた。慧音先生や阿求と相談しながら、雪の影響がどこまで広がっているのかを調べ、住民たちから話を聞いて回ったものの、長い冬の原因に繋がるような情報は得られていない。
里で見つけた、あの薄桃色の花びらについても同じだった。
見た目は桜の花びらに似ているが、触れた時の感覚は普通の植物とは明らかに異なっている。霊力や妖力の塊なのかとも考えたものの、そう断定できるほどはっきりした反応もない。
阿求が便宜上『春の欠片』と呼んでいた、あの不可思議なもの。
結局、正体については何一つ分からないままだった。
「……せめて、もう少し数が見つかればな」
俺は小さく息を吐いた。
一枚だけでは、調べられることにも限りがある。
それならば、他の場所にも同じものが漂っていないか探してみようと考え、今日は調査範囲を妖怪の山の近辺まで広げてみたのだが……。
「……っ、風が強いな」
山肌に沿って吹き上がってきた風が、外套を大きく揺らした。
俺は身体を傾け、飛行姿勢を整える。
平地とは違い、山の近くでは風向きが頻繁に変わる。特に今日は、谷間を抜けてくる風が強く、少し気を抜くだけで進路を持っていかれそうになった。
とはいえ、飛べないほどではない。
俺は速度を落とし、山の斜面から少し距離を取った。
その時だった。
「……うわっ!?」
横合いから、ひときわ強い風が吹き付けた。
身体が大きく流され、咄嗟に姿勢を立て直す。
どうにか墜落は免れたものの、風に煽られた髪が視界へ広がり、思わず顔を顰めた。
「……ああ、もう。だから山の風は……」
ぼやきながら髪を払い除けようとして、俺は手を止めた。
何かがおかしい。
普段なら後ろで束ねているはずの髪が、肩から胸元へと流れ落ちている。
しかも、風が吹くたびに顔へまとわりついてきた。
「……え?」
俺は慌てて後頭部へ手を伸ばした。
指先が触れたのは、解けた髪だけだった。
……髪紐がない。
「……嘘だろ」
思わず振り返る。すると、少し離れた空中で、細長いものが風に翻っているのが見えた。
見覚えのある髪紐だった。
「あっ、ちょっと待て!」
俺は慌てて追い掛けようとした。けれど、山から吹き下ろす風に乗った髪紐は、思った以上の速さで遠ざかっていく。
右へ流れたかと思えば、今度は上昇気流に巻き上げられ、ふわりと高く舞い上がった。
「……くそっ、何でこんな時に!」
別に、特別な力が込められているわけではない。ただの髪紐だ。
それでも、普段から使っているものを失くすのは、あまり気分のいいことではなかった。
俺は風の流れを見極めながら、髪紐が飛んでいった方向へ身体を向ける。
……その瞬間だった。
「……ん?」
視界の端に、薄桃色の何かが映った。
白い雪の中を、ゆっくりと漂っている。
最初は髪紐が風に舞っているのかと思ったが、色も形もまるで違う。
俺は思わず動きを止めた。
「……あれは」
桜の花びらだった。
いや、正確には、桜の花びらに似た何か。
里で見つけたものと、よく似ている。
「……春の欠片?」
思わず、阿求が付けた仮の名前を口にした。
薄桃色の花びらは、雪に混じりながら、ゆっくりと俺の傍を通り過ぎていく。
俺は手を伸ばし、それをそっと摘まんだ。
指先に伝わってきたのは、あの時と同じ曖昧な感触だった。
確かに触れているはずなのに、普通の花びらのような薄さも柔らかさも感じられない。
かといって、霊力や妖力を固めたものとも違う。
「……やっぱり、同じものか」
俺は小さく呟いた。
それから、花びらが漂ってきた方向へ目を向ける。
……確か、あちらから来たはずだ。
風に乗って流されてきたのか、それとも別の何かに導かれているのか。
理由は分からない。けれど、少なくとも、今まで見つからなかった手掛かりが目の前にある。
俺は一度、髪紐が飛んでいった方向を振り返った。
すでに、その姿は見えなくなっていた。
「…………」
少しだけ迷った。
けれど、答えはすぐに出た。
「……仕方ないか」
髪紐は、また用意すればいい。それよりも、今はこの花びらだ。
俺は摘まんだ花びらを外套の内側へ収め、改めて周囲を見回した。
すると、少し離れたところにも、同じ薄桃色のものが漂っているのが見えた。
一枚だけではない。
雪の間を縫うように、幾つもの花びらがゆっくりと流れている。
「……なるほど」
俺はその動きを目で追った。
先ほど見つけた花びらも、今見えているものも、どうやら同じ方向から漂ってきているらしい。
少なくとも、俺の目にはそう見えた。
ならば、その先に何かあるのかもしれない。
「行ってみるか」
俺は髪を軽く払い除け、風花の位置を確かめた。
解けた髪が肩や背中へ流れ、風に煽られるたびに視界へ入り込んでくる。
……正直、邪魔だ。
とはいえ、今はどうしようもない。
俺は気を取り直し、花びらが漂ってきた方向へ飛翔を再開した。
雪の降る山裾を抜け、木々の上を越えていく。
途中でも何枚かの花びらを見つけ、その都度、漂ってきた方向を確かめた。
すると、不思議なことに、どれも似たような方角を指しているように思えた。
偶然かもしれない。けれど、何となく気になる。
俺はその感覚に従い、さらに先へ進んだ。
やがて、雪に覆われた森の中に、一軒の家が見えてきた。
「……ん?」
俺は速度を落とした。
木々に囲まれた場所に、ぽつんと建っている家屋。
周囲には人の気配がなく、屋根には雪が積もっている。
見たところ、特別変わった造りをしているわけではない。
けれど、その佇まいを目にした瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。
「……家、か」
俺は思わず呟いた。
……嫌なことを思い出してしまった。
以前、阿求と一緒に調べた、あの奇妙な家。
外から見た印象と内部の構造が噛み合わず、調べれば調べるほど不自然な点が増えていった場所。
あの時は、ただの家屋だと思って足を踏み入れたことが、思いがけない危険へ繋がった。
もちろん、目の前の家が同じようなものだとは限らない。
むしろ、普通に考えれば、ただ誰かが住んでいるだけの家だろう。
……それでも。
「……少し、慎重に行くか」
俺は外套の内側へ手を入れ、先ほど集めた花びらを確かめた。
この辺りへ近付くにつれ、漂っている花びらの数が増えたような気がする。
それが家と関係しているのかどうかは分からないが、確かめておく価値はありそうだった。
俺は木々の間へ降り立ち、雪を踏み締めながら家へ近付いた。
足元では、積もった雪が小さく音を立てる。
辺りは静かだった。風が枝を揺らす音と、遠くで雪が落ちる音が聞こえるくらいで、それ以外に目立った物音はない。
俺は家の前で立ち止まり、周囲を見回した。
「……すみませーん」
声を掛けてみる。
返事はなかった。
もう一度、少し大きな声で呼び掛ける。
「……どなたか、いらっしゃいますかー?」
やはり、返事はない。
……留守なのだろうか。
俺は戸口へ近付き、軽く手を掛けてみた。
すると、戸は思ったよりもあっさり開いた。
「……あれ?」
鍵が掛かっていない。
中を覗いてみると、薄暗い室内が広がっていた。
誰かが暮らしているような気配はあるものの、今のところ人影は見えない。
俺は少し迷った。勝手に入るのは、あまり褒められたことではない。
けれど、ここまで来て何も確かめずに引き返すのも、どうにも気が進まなかった。
「……すみませーん。少しだけ、失礼しまーす」
念のためもう一度声を掛け、俺はそっと中へ足を踏み入れた。
外の冷たい空気とは違い、室内には僅かな温もりが残っている。
誰もいないように見えたけれど、少なくとも長い間放置されている家ではなさそうだった。
俺は足音を抑えながら、奥へ視線を向けた。
すると。
「……ん?」
部屋の奥に、小さな人影が見えた。
橙色の髪。頭の上には、猫の耳のようなものがふたつ。
見覚えのある姿だった。
「……あれ? 橙?」
思わず名前を呼ぶ。
すると、その少女がぴくりと肩を揺らした。
ゆっくりと振り返り、こちらを見上げる。
「……え?」
橙は目を大きく見開いた。
そして、信じられないものを見たような顔で固まった。
「……ゆ、紫様?」
「……へ?」
思いがけない名前を呼ばれ、今度はこちらが間の抜けた声を出してしまった。
橙はしばらく俺を見つめていたが、やがて眉を寄せる。
「……あれ?」
そして、もう一度、じっと俺の顔を見た。
「……違う」
「うん?」
「声が違う!」
橙は突然、後ろへ飛び退いた。
その動きに合わせて、背後の尻尾が大きく揺れる。
「だ、誰だ、お前!」
「……いや、ちょっと待ってくれ」
俺は慌てて両手を上げた。
いきなり敵意を向けられるとは思っていなかった。
「俺だよ。創英だ」
「……創英?」
「ああ。時崎創英。前に会っただろ?」
そう告げると、橙は一瞬だけ考えるような顔をした。
けれど、すぐに首を横へ振る。
「嘘だ!」
「ええ……?」
「創英は、そんなに髪が長くなかった!」
「……ああ、まあ、それは」
「それに、紫様に似てなかった!」
「うっ」
「あと、そんな妖気もなかった!」
……そこまで言われると、返す言葉に困る。
確かに、以前の俺とは随分と様子が違っているのだろう。
髪は伸びたし、最近は自分でも妖力が強くなっていることを感じている。
しかも、先ほど髪紐を失くしたせいで、今は長い髪をそのまま下ろしている。
見慣れない姿に見えるのも、無理はないのかもしれない。
……いや、それにしても。
「……紫さんに似てるって、そんなにか?」
「似てる!」
即答だった。
俺は思わず苦笑した。
「……そっか」
最近、似たようなことを言われる機会が増えている。
最初は単なる偶然だと思っていた。
けれど、こうも繰り返し指摘されると、さすがに気になってくる。
……とはいえ、今はそれどころではない。
目の前の橙は、明らかに警戒していた。
「……とにかく、一旦落ち着いてくれ。俺は本当に創英だ」
「証拠は!?」
「……しょ、証拠?」
「そうだ! お前が創英だって言うなら、証拠を見せろ!」
俺は少し考えた。
以前会った時の話をすれば、ある程度は信じてもらえるだろうか。
けれど、橙はすでに身構えていて、こちらの説明を落ち着いて聞いてくれそうにない。
「……分かった。じゃあ、前に会った時のことを――」
「問答無用!」
「えっ?」
橙が両手を振り上げた。
次の瞬間、周囲に幾つもの光弾が浮かび上がる。
「本物の創英なら、戦えば分かる!」
「いやどういう理屈だよ!?」
俺が突っ込むより早く、橙の放った弾幕が飛んできた。
咄嗟に身体を捻り、光弾を避ける。
背後の壁へ向かって飛んでいった弾は、途中でふっと勢いを失い、消えていった。
……どうやら、室内を壊すつもりはないらしい。
それなら、こちらも余計な被害を出さずに済む。
「分かった、分かったから! 外でやろう! なっ!?」
「逃げる気か!」
「違うってば! ここで戦ったら家が壊れるだろっ!?」
俺はそう叫びながら、開け放した戸口へ向かった。
橙もすぐに追い掛けてくる。
雪の積もった庭へ飛び出したところで、俺は振り返った。
「……はぁ」
思わず溜息が漏れる。
まさか、調査の途中で知り合いに会い、しかも本人だと信じてもらえずに弾幕決闘をすることになるとは思わなかった。
……幻想郷では、こういうことも珍しくないのかもしれないけれど。
「さあ、勝負だ!」
橙は嬉しそうに笑い、両手を広げた。
先ほどまでの警戒した様子とは少し違い、今は戦うことそのものに気持ちが向いているようにも見える。
俺は風花の柄へ手を添えた。
「……できれば、話し合いで済ませたかったんだけどな」
「だったら、私に勝ってから話せ!」
「はいはい」
俺は小さく肩を竦めた。
そして、ゆっくりと風花を抜き放つ。
冷たい空気の中で、刀身が淡い光を反射した。
「……じゃあ、少しだけ付き合うよ」
その言葉を合図に、橙が勢いよく飛び出した。
小柄な身体が雪の上を跳ねるように動き、瞬く間に俺との距離を詰めてくる。
「はあっ!」
鋭い爪を思わせる軌道で、光弾が放たれた。
俺は風花を振り、正面から迫る弾幕を斬り払う。
光が弾け、細かな粒となって雪の中へ散った。
けれど、橙は止まらない。
左右へ大きく跳ねながら、次々に弾幕を展開してくる。
「……速いな」
思わず呟いた。
以前会った時にもなんとなく感じていたけれど、橙は小柄な身体を活かした素早い動きを得意としているらしい。
直線的に突っ込んできたかと思えば、急に方向を変え、こちらの死角へ回り込もうとしてくる。
俺は身体を捻り、背後から飛んできた弾幕を避けた。
そのまま風花を返し、橙の進路を塞ぐように霊力弾を放つ。
「わっ!」
橙は慌てて跳び上がった。
けれど、その先にはすでに別の弾幕を展開してある。
「そこだ!」
俺は指先を向け、霊力弾を一斉に放った。
橙は空中で身体を丸め、どうにか弾幕の隙間を抜けようとする。
だが、最後の一発までは避け切れなかった。
「きゃっ!」
小さな光が弾け、橙の身体が雪の上へ落ちていく。
俺は慌てて高度を下げた。
「あっ……おい、大丈夫か!?」
橙は雪の上で一度転がったものの、すぐに身体を起こした。
服に付いた雪を払いながら、悔しそうにこちらを睨んでくる。
「……うぅ」
「怪我は無いか?」
「ない!」
「そっか。ならよかった」
俺はほっと息を吐き、風花を鞘へ収めた。
どうやら、大事には至っていないらしい。
橙はしばらく不満そうにしていたが、やがて何かに気付いたように目を見開いた。
「……あれ?」
「ん?」
「その刀……」
橙は俺の腰にある風花を指差した。
「やっぱり、創英なの?」
「……だから、最初からそう言ってるだろ?」
「でも、前と全然違うじゃん!」
「まあ、それは否定しないけどさ……」
俺は苦笑しながら、解けた髪を指先で払った。
すると、橙はじっと俺の顔を見つめた。
「……本当に、創英なの?」
「ああ」
「紫様じゃない?」
「違うよ」
「……そっか」
橙は少しだけ肩の力を抜いた。
ようやく、信じてもらえたらしい。
俺もほっと息を吐き、雪の積もった地面へ降り立った。
「……それで、何でこんなところにいるんだ?」
「それはこっちの台詞だよ!」
橙はむっとした顔で言い返した。
「ここは私の家なんだから!」
「……ああ、そうだったのか」
なるほど。それなら、知らない相手が突然入ってきたら警戒するのも当然だ。
……いや、知らない相手じゃないんだけど。
「悪かった。勝手に入って」
「ほんとだよっ!」
「ごめんごめん。一応、声は何度か掛けたんだけど、返答が無かったものだからさ」
俺が素直に頭を下げると、橙は少しだけ目を瞬かせた。
そして、腕を組んで胸を張る。
「まあ、創英なら許してやってもいいけど!」
「はは……ありがとうな」
どうやら、機嫌は直ったらしい。
俺は少しだけ笑い、改めて橙へ向き直った。
「……それで、さっきの話なんだけど」
「さっきの?」
「俺の見た目が変わったって話」
「ああ!」
橙は思い出したように大きく頷いた。
「そうだよ! 何でそんなに髪が長くなってるの? それに、紫様にそっくりだし!」
「……それなんだけどな」
俺は頬を掻きながら、少し考えた。
さて、どこから話したものだろう。
自分の身に起きたことだから、何があったのかは覚えている。けれど、最初の出来事から順番に説明しようとすると、これがなかなか複雑な話になるのだ。
何しろ、俺自身が未だに理解できていないことも多い。
「……橙、紅魔館って知ってるか?」
「紅魔館? 湖の近くにある、大きなお屋敷でしょ?」
「そうそう。そこにパチュリーさんっていう魔法使いがいるんだけどさ」
橙は首を傾げながらも、黙って続きを待ってくれた。
「去年の十一月頃だったかな。その人が調合した魔法薬を飲む機会があったんだ。もともとは霊力の消耗を抑えるための薬だったんだけど、ちょっとした事故が起きてさ」
「事故?」
「ああ。そのせいで、俺の身体が女の姿に変わっちゃったんだよ」
「……え?」
橙の耳がぴんと立った。
「女の姿?」
「うん。髪が伸びて、顔つきも身体つきも変わって、声まで女の人みたいになった」
「な、何でそんな薬を飲んだの!?」
「……いや、最初から女になるつもりで飲んだわけじゃないんだ。さっきも言った通り、事故だったんだよ」
慌てて付け加えると、橙は納得したような、していないような顔で頷いた。
……まあ、無理もない。
俺だって、あの時は何が起きたのか分からなかったのだから。
「それで、普通なら半日から一日くらいで元に戻るはずだったんだけど、俺の場合はなかなか戻らなくてな。パチュリーさんに調べてもらったら、どうも俺の身体が薬による変化を受け入れすぎてるらしいって話になったんだ」
「……受け入れすぎてる?」
「俺も最初はよく分からなかったよ。要するに、薬の効果が切れたら元通り、とはいかなかったってことだな」
あの頃のことを思い出す。
朝、目を覚ましても身体が戻っていなかった時の戸惑い。長い髪を寝具へ巻き込み、起き上がろうとしただけで頭を引っ張られたこともあった。
それまで当たり前にできていた動作が思うようにいかず、顔を洗うにも、朝餉を作るにも、いちいち苦労したものだ。
今となっては随分と懐かしい話だけれど、当時の俺にとっては笑い事ではなかった。
「……でも、ずっと女のままだったわけじゃないんでしょ?」
「ああ。そこからパチュリーさんが色々調べてくれて、俺の身体に合わせた薬を作るようになったんだ」
俺は指を一本立てた。
「最初の事故の後も、調整や改良を重ねた薬を何度か使ってる。『性相変成薬』っていうんだけど、それを飲むと女の姿へ変わるんだ」
「せいそう……?」
「性相変成薬。……まあ、姿を変える魔法薬だと思ってくれればいいよ」
「へぇ……」
橙は感心したように目を丸くした。
「じゃあ、その薬を何度も飲んだの?」
「うん。もちろん、毎回パチュリーさんに調べてもらいながらだけどな。薬の調整も進んで、俺も少しずつ女の身体で過ごすことに慣れていったんだ」
年末には、女の姿で阿求と一緒に年を越したこともあった。
年が明けてからは、フランとこいしが俺の布団へ潜り込んでくることに頭を悩ませ、女の姿なら少しは気楽なんじゃないかと考えて、自分から薬を使ったことさえある。
……今思えば、随分と安直な発想だった。
結局、女になったところで二人が甘えてくることに変わりはなく、問題の解決にはまったく繋がらなかったのだから。
「……創英?」
橙に呼ばれ、俺は我に返った。
「ああ、ごめん。ちょっと思い出してた」
「それで? 何で今はそんなに髪が長いの?」
「……うん。問題は、ここからなんだ」
俺は自分の髪を一房摘まんだ。
風に流された金色の髪が、指の間をさらさらと滑っていく。
「薬を使って女の姿になること自体は、何度も経験してたからな。最初ほど驚かなくなってたんだけど……二月に入った頃、今までとは明らかに違うことが起きたんだ」
「……違うこと?」
「ああ。女の姿で過ごしてたら、急に体調が悪くなってさ。頭痛や目眩が続いたり、身体がやたらと怠くなったり……それまで経験したことのない身体の変化まで起き始めたんだ」
あの朝のことは、今でもよく覚えている。
目を覚ました時から頭が重く、身体を起こそうとしただけで視界が揺れた。いつも通りに動こうとしても、身体の芯に疲労が残っているようで、何をするにも億劫だった。
最初は風邪かと思った。
けれど、そうではなかった。
女性の身体として、それまで経験していなかった生理が始まったのだ。
あれには、さすがに驚いた。
「……それで、心配になってパチュリーさんに調べてもらったんだけどな」
「うん」
「薬の効果は、もう残ってないって言われたんだ」
「……え?」
橙が首を傾げた。
「でも、女の姿だったんでしょ?」
「そう。そこがおかしいんだよ」
俺は苦笑した。
「薬の効果が切れてるはずなのに、身体は女のままだった。しかも、パチュリーさんが元に戻すための薬を何種類も作ってくれたんだけど、どれも効かなくてさ」
「……戻れなかったの?」
「うん。少なくとも、その時はな」
橙は俺の顔をじっと見つめた。
先ほどまでの好奇心に満ちた表情とは違い、少し心配そうに眉を寄せている。
「……それ、大丈夫だったの?」
「まあ、体調が悪かった時は大変だったけどな。パチュリーさんも真剣に調べてくれたし、俺もできるだけ無理しないようにしてたよ」
もっとも、あの頃の俺がどこまで大人しくしていたかと聞かれると、少々自信がない。
パチュリーさんにも咲夜さんにも、随分と心配を掛けてしまった。
「……で、その後どうなったの?」
「色々あって、最終的には男の姿へ戻れたんだ。パチュリーさんにも薬を全部預けて、それで一段落したと思ってたんだけど……」
俺はそこで一度、言葉を切った。
橙が続きを促すように身を乗り出す。
「……思ってたんだけど?」
「今度は、薬を飲んでないのに女の姿へ変わっちゃったんだよ」
「ええっ!?」
橙の声が雪の積もった庭へ響いた。
「な、何で!?」
「……それが分からないから困ってるんだよ」
俺は困ったように笑った。
あの夜、身体の奥から熱が広がってきた時には、何が起きようとしているのか、すぐに分かった。
何度も経験してきた、性相変成薬による変化とよく似た感覚だったからだ。
けれど、あの時は薬なんて飲んでいなかった。
それなのに、身体は確かに変化した。
今まで薬によって引き起こされていたはずの現象が、何の前触れもなく、自分の身体だけで起きたのだ。
「……最初は俺も驚いたよ。薬を飲んでないのに、何でまた女になってるんだってさ」
「……うん」
「でも、それから少しずつ、自分の身体が変わる時の感覚を掴めるようになってきたんだ。今はある程度、自分の意思で男と女の姿を切り替えられるようになってる」
「……そんなことができるの?」
「できるようになっちゃった、って言った方が近いかな」
橙は目を丸くしたまま、俺を見上げている。
その視線を受けながら、俺は小さく息を吐いた。
「……ただ、どうしてそんなことができるようになったのかは、まだ分かってないんだ。薬を何度も使ったことが関係してるのか、それとも、もともと俺の身体に何かあったのか……」
パチュリーさんも、随分と調べてくれている。
けれど、薬の効果が切れているにもかかわらず身体が変化する理由については、まだはっきりした答えが出ていない。
そして、奇妙なことはそれだけではなかった。
「……それに、最近になって、俺の身体には霊力以外の力もあるって分かったんだ」
「……霊力以外?」
「ああ。魔力と、妖力だよ」
「妖力!?」
橙の耳がぴんと立った。
「創英って、人間だよね?」
「……そのつもりなんだけどな」
俺は苦笑した。
「霊力は前から使ってたし、魔力の操作も少しずつ覚えてきた。でも、妖力については心当たりがないんだ。そもそも、自分の中にそんな力があるなんて、少し前まで知らなかったくらいだからさ」
「……じゃあ、私がさっき感じたのは?」
「多分、それだと思う。今はなるべく抑えるようにしてるんだけど、完全に隠せてるわけじゃないみたいでな」
橙は何かを確かめるように鼻をひくつかせ、それから俺の周囲をぐるりと回った。
背後へ回ったところで、長い髪を不思議そうに眺めている気配がする。
「……髪も、薬のせいで伸びたの?」
「最初に女の姿になった時はそうだったよ。ただ、その後は男に戻っても髪が長いままでさ。今じゃ、すっかりこの長さが当たり前になっちゃったな」
そう言って、俺は肩へ流れてきた髪を軽く払った。
普段は後ろで纏めているから、ここまで邪魔になることもないのだが……。
……ああ、そういえば髪紐、飛ばされちゃったんだったな。
今さらながら思い出し、少しだけ溜息が漏れる。
「……創英?」
橙が俺の顔を覗き込んだ。
「ああ、いや。何でもないよ」
俺は気を取り直して笑った。
「……まあ、そんなわけでさ。見た目が変わったのも、妖力があるのも、俺自身まだ調べてる途中なんだ」
「……ふーん」
橙は腕を組み、難しそうな顔で考え込んだ。
しばらくしてから、ぽつりと呟く。
「……よく分かんない」
「……はは。正直だな」
思わず笑ってしまった。
けれど、それも無理はないだろう。
説明している俺自身、分からないことだらけなのだから。
「……でも、女の姿になれるっていうのは本当なんだよね?」
「ああ」
「……今も?」
「うん。今でも変われるよ」
「……見せて!」
橙は目を輝かせた。
さっきまで難しい顔をしていたのが嘘のようだ。
「……今ここで?」
「うん! 見たい!」
「……まあ、いいけど」
俺は苦笑しながら、橙から少しだけ距離を取った。
「じゃあ、ちょっと驚くかもしれないけど」
「うん!」
橙は期待に満ちた顔で頷いた。
俺は一度、深く息を吸った。
それから、身体の内側へ意識を向ける。
最初の頃は、薬によって引き起こされていた変化だった。
けれど、今は違う。
身体の奥にある力の流れを感じ取り、普段は抑えているものを、少しずつ解き放つように意識する。
胸の奥から、温かな感覚が広がっていく。
何度も経験してきた、あの変化の前触れ。
今では、それが始まる瞬間も、ある程度自分で分かるようになっていた。
「……え?」
橙が小さく声を漏らした。
俺は目を閉じたまま、身体の変化へ意識を集中させる。
骨格が僅かに変わり、身体の重心が移っていく。肩幅が狭まり、指先が細くなり、服の内側で体格が女性のものへ変化していくのが分かった。
長い髪が肩を滑り、背中へ流れる。
呼吸に合わせて胸元の感覚も変わり、喉の奥には、いつもとは違う声の響きが生まれていた。
以前なら、この感覚だけで随分と戸惑ったものだ。
けれど、今はもう、慌てずに受け止められる。
俺はゆっくりと息を吐き、目を開けた。
「……と、まあ。こんな感じなんだ」
自分の口から出た声は、普段よりも高く、柔らかいものになっていた。
俺は片手を持ち上げ、細くなった指先を確かめる。
……うん。今回も、問題なく変われたらしい。
ただ、目の前の橙はそれどころではなかった。
「…………」
目を大きく見開き、口を半開きにしたまま、ぴたりと固まっている。
尻尾まで動きを止めていた。
「……橙?」
返事がない。
「……おーい。大丈夫か?」
俺が顔の前で軽く手を振ると、橙はようやく我に返った。
そして。
「ええええええっ!?」
雪の積もった森に、驚きの声が響き渡った。
「ほ、本当に女になった!?」
「……だから、そう言っただろ?」
「で、でも! さっきまで男だったじゃん!」
「うん。自分でも不思議なんだけどな」
「何でそんな簡単に変われるの!?」
「最近になって、ようやく慣れてきたんだよ。最初からできたわけじゃないって」
俺がそう答えると、橙は俺の周囲をぐるぐると回り始めた。
正面から顔を覗き込み、横へ回って髪を眺め、今度は背後から身体つきを確かめる。
その様子は、初めて見る珍しいものを前にした猫そのものだった。
「……本当に創英なの?」
「ああ。中身まで別人になったわけじゃないよ」
「声も違う……」
「それも変わるんだ」
「……すごい」
橙は小さく呟いた。
それから、何かに気付いたように顔を上げる。
「……あっ!」
「ん?」
「紫様だ!」
俺は思わず目を瞬かせた。
「……え?」
「やっぱり、紫様にそっくりだ!」
橙は興奮した様子で俺の顔を見上げた。
「髪の色も、目の感じも、顔つきも! さっきも似てると思ったけど、今はもっと似てる!」
「……そんなに?」
「うん! 最初に見た時、本当に紫様が来たのかと思ったもん!」
迷いのない即答だった。
俺は思わず額に手を当てた。
「……参ったな」
以前、魔理沙にも似たようなことを言われた。
それに、パチュリーさんやアリスも、俺の身体に起きている変化について、何か気になる様子を見せていた。
ただ、橙の場合は少し事情が違う。
八雲紫を身近に知っている彼女が、こうしてはっきりと似ていると言うのだ。
単なる他人の空似だと片付けるには、少し気になる。
「……橙。そんなに紫さんと似てるのか?」
「似てるよ! ……でも、声は少し違うし、よく見るとやっぱり創英なんだけどね」
橙はそう言って、もう一度俺の顔をじっと見つめた。
その視線に、俺は少しだけ居心地の悪さを覚える。
「……そっか」
思わず苦笑が漏れた。
最近、時崎家について調べる機会が増えている。
古い記録を辿るうちに、自分の知らなかった家の歴史が少しずつ見えてきた。
けれど、それでも分からないことは多い。
そして今度は、八雲紫との関係まで気になり始めている。
……まったく。
調べれば調べるほど、疑問ばかりが増えていくな。
「……帰ったら、もう少し調べてみるか」
俺は小さく呟いた。
時崎家のこと。
自分の身体に起きている変化のこと。
そして、八雲紫との関係。
今のところ、どれもはっきりした答えは出ていない。
それでも、こうして新しい手掛かりが増えた以上、放っておくわけにもいかなかった。
「……創英?」
橙が不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いや、何でもないよ」
俺は小さく笑った。
今ここで考え込んでも、すぐに答えが出るわけではない。
それよりも、まずは目の前の異変だ。
「……そういえば、橙」
「ん?」
「この辺りで、変な桜の花びらを見なかったか?」
「桜?」
「ああ。こんな時期なのに、雪の中を漂ってるんだ」
俺は外套の内側から、先ほど集めた花びらを取り出した。
橙はそれを覗き込み、目を丸くする。
「……なぁにこれ?」
「俺も分からない。けど、普通の花びらじゃないみたいなんだ」
「ふーん」
橙は興味深そうに鼻を近付けた。
けれど、すぐに首を傾げる。
「……変な匂い」
「分かるのか?」
「うん。何か、変」
それだけ言って、橙は花びらから顔を離した。
どうやら、正体までは分からないらしい。
「……そっか」
俺は花びらをしまい直そうとした。その時だった。
「……あ」
橙が空を指差した。
「あれ見て、創英!」
「……え?」
俺は振り返った。
すると、雪の降る空から、薄桃色の花びらが一枚、ゆっくりと漂ってきているのが見えた。
先ほど見つけたものと、同じものだった。
「春の欠片……」
俺は思わず目を細めた。
花びらは風に流されるように揺れながら、木々の間を抜けていく。
その動きを追っているうちに、俺はふと気付いた。
……また、同じ方向から来ている。
山裾で見つけたものも、この家の近くで見つけたものも、そして今漂ってきたものも。
少なくとも、俺が見た限りでは、似たような方向から流れてきているように思えた。
「……なるほどな」
俺は小さく頷いた。どうやら、まだ先がありそうだ。
「……橙。悪いけど、俺はそろそろ行くよ」
「えっ、もう行くの?」
「ああ。ちょっと調べたいことがあってさ」
俺は花びらを掲げてみせた。
「これが、今の長い冬と関係してるかもしれないんだ」
「冬?」
「そう。いつまで経っても春が来ないだろ?」
「……ああ、そういえば」
橙は空を見上げた。
雪は相変わらず降り続いている。
「確かに、ずっと寒いね」
「だろ? だから、原因を探してるんだ」
「……ふーん」
橙は少し考えるように首を傾げた。
それから、こちらへ顔を向ける。
「そっか。じゃあ、気を付けてね!」
「ああ。ありがとうな」
俺は笑って頷いた。
橙も小さく手を振ってくれる。
先ほどまで弾幕を撃ち合っていたことが、何だか少し可笑しくなった。
「……それじゃあまたな、橙」
「うん! またね、創英!」
俺は地面を蹴り、雪の降る空へ舞い上がった。長い髪が風に広がり、肩や背中へ流れていく。
女性の姿にも、以前ほど戸惑わなくなってきた。それに、最近はこの姿の方が、身体の中にある力を扱いやすいような気さえしている。
……それが何を意味するのかは、まだ分からないけれど。
「……さて」
俺は前方へ視線を向けた。
雪雲の向こうから、また一枚、薄桃色の花びらが漂ってくる。
その先に何があるのかは分からない。
けれど、今は少なくとも、進むべき方向が見えていた。
「……行ってみるか」
俺は風花の柄へ軽く手を添え、さらに速度を上げた。
背後では、橙の家が木々の間へ小さくなっていく。
冷たい風が頬を撫で、長い髪を大きく揺らした。
それでも、俺は振り返らなかった。
——春の欠片が漂ってきた、その先へ。
長い冬を終わらせる手掛かりを求めて、俺は再び雪空を飛んでいった。