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――夜が明けた。
障子越しに差し込む淡い光に目を細めつつ、俺はぼんやりと天井を眺めていた。
昨日の出来事は悪夢だったのか、それとも現実だったのか。
……いや、胃の奥に残る不快な感覚が、すべてが夢ではなかったことを証明している。
そんな重苦しい思考に浸っていると、廊下を行き交う足音が耳に届いた。コンコンと戸を叩く控えめな音。
「おはようございます、創英さん」
声の主は阿求だった。
昨夜の取材をきっかけに、すっかり俺のことを“取材対象”として定めたらしい。
「……おはようございます。朝から熱心だね」
「はい。昨日のお話、とても興味深かったものですから。ぜひ続きも詳しく伺いたいのです」
阿求の瞳は真剣そのもの。けれど俺としては複雑な気分だった。
昨夜語った内容は、俺にとっては思い出したくもない地獄の記憶。
だが彼女にとっては学術的興味の対象。
価値観の差は分かっていても、割り切れるものではない。
「……昨日の家のこと、か」
「ええ。あの“変な家”について、もっと詳しく知りたいのです。出来れば現地調査も」
「――ダメだ」
即答した俺に、阿求は目を丸くする。
「なぜです?」
「なぜも何も、危ないからに決まってるでしょ。あんな場所に一般人を連れていけないよ」
阿求は一瞬だけ黙り、ふっと笑みを浮かべた。
「そう仰ると思いました。でも……創英さんが話してくださるなら、私は行かなくても構いません。あなたの体験を、できる限り詳細に記録させてください」
――ああ、なるほど。
危険を押してでも首を突っ込む覚悟はあったが、それでも最優先は“記録を残すこと”らしい。
それなら、こちらも妥協できる。
「……分かった。俺の体験談は全部話す。けど、現場に来るのは絶対にダメだぞ」
「はい、約束します」
こうして阿求との間に、妙な相互協力関係が結ばれた。
俺は退魔師としての経験と外の世界の知識を、阿求は幻想郷の情報を。
互いに持ち寄り、補い合う。そう思えば、悪い話ではない。
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─
その日から、俺と阿求は里を歩き回って聞き込みを始めた。
阿求の顔が利くのか、住人たちは比較的素直に答えてくれる。
「夜になると、あの辺りから呻き声が聞こえる」
「昔から時々“消える家”として噂になっていたんだ」
「入った者は戻らない――いや、一度だけ戻った者がいたらしいが……」
どれも断片的だが、俺の体験と符合する証言も多い。
阿求は一字一句漏らさず書き留め、俺は黙ってそれを眺めていた。
――正直な事を言うと、もうあの家には関わりたくはなかった。
思い出すだけで胃の奥がひっくり返りそうになる。畳の下の惨状、迫り下りる天井。もう二度と味わいたくない恐怖だ。
けれど阿求は真剣な顔で言った。
「これはただの怪談ではありません。記録を遡れば、何十年かごとに必ず“家が現れる”とある。つまり、定期的に繰り返される怪異なのです」
――逃げ切れる話ではない。
その事実にため息を吐きそうになった瞬間、阿求の澄んだ眼差しが俺を射抜いた。
「創英さん。必ず……必ず、真実を確かめてください。そして、その目で見たことを、私にすべて語ってください」
まるで信頼を丸ごと預けられたような重さに、心臓が跳ねた。
嫌だ、もう行きたくない。そう叫びたいのに、口から出た言葉は違っていた。
「……分かったよ。俺が、確かめてくる」
◆
聞き込み調査は数日に渡って行われた。
その間も、阿求は相変わらず取材熱心だった。
休憩がてら立ち寄った茶屋の席にて、今度は俺からより詳しい話を聞きたいと阿求は申し出た。
それに頷いた俺は、串団子を片手に受け答えをするつもりだったが……
「畳の下から何体の遺体を見つけたんですか?」
「うっ……! いきなり重い質問だな!?」
初っ端から飛ばしてきた阿求に、俺は仰天した。
「えーっと……七、いや八……だったか?」
「“七から八体の圧死体、確認”と」
「おい、なんで俺のトラウマをあっさり記録してんだよ」
少しは驚くなりしろよ……だなんて、淡々としている様子を前に額を押さえて呻いていると、阿求は小首を傾げた。
「では、天井が落ちてきた速度は?」
「知らねぇよ! そんなもん、ストップウォッチでも持ってなきゃ分かるか!」
「“すとっぷうぉっち“が何なのかは分かりませんが、なるほど。でしたら、体感としては秒速0.5メートル程度……と」
「勝手に数値化すんな!!」
とまぁ……この調子で、阿求の質問はどんどんエスカレートしていった。
「次の質問です。創英さんの好物は?」
「……は?」
「嫌いな食べ物などもあれば教えてください」
「いや、なんでそれを今聞くんだ?」
「取材です。後世に残すために」
「残すな! そんな情報を読んで誰が喜ぶんだよ!」
「私が喜びます」
「お前が喜ぶのかよ!」
笑みを浮かべながら筆を走らせる阿求に、俺はとうとう頭を抱える。
俺の人生、未来永劫この子の記録に残るのか? 後世の学者が真面目な顔して「退魔師・時崎創英、ピーマンが苦手」なんて読み上げる光景が目に浮かんで、頭が痛い。
「くそっ。こんなの死ぬより恥ずかしいじゃん……」
「安心してください。私は真剣です」
「真剣な顔で俺の恥を刻むな!!」
……けれど、不思議と嫌ではなかった。
彼女は俺の過去を笑い飛ばすのではなく、淡々と受け止め、真摯に記録する。
だがその合間に、年相応のからかいを混ぜてくる。
その緩急に、俺の張り詰めた心が少しずつほぐれていくのを感じていた。
◆
「……創英さん」
黙々と筆を走らせていた阿求が、ふと顔を上げた。
「ひとつ……差し支えなければ、お聞かせいただけますか。あなたの家族のことを」
気を伺って紡いだのであろうその一言に、心臓が大きく跳ねる。
口を開こうとしたが、声が喉につかえて出てこない。
思い出すだけで、胸の奥に焼け付く痛みが広がった。
「……すみません。やはり辛い話ですよね」
阿求はそっと目を伏せ、筆を止めようとした。
けれど、気づけば俺は首を横に振っていた。
「いや……大丈夫だ。話すよ。父さんに、母さん。それに……絢香が、確かに生きてたんだってことを、誰かに知ってもらいたい」
深く息を吸い込み、家族の姿を心の中に呼び戻す。
俺の家族……時崎家は、引越し族だった。
ただそれは、親の転勤が理由とかではなくて……妹の、絢香の持つ特殊な力のせいだった。
正直に言えば、絢香についての気持ちは最初から真っ直ぐではなかった。
……あいつは、絢香は良い子だったよ。物分りが良くて、控えめで、それでいて賢い子だった。
けれど喜怒哀楽は隠しきれなくて、笑うときは花が咲いたみたいに朗らかに、泣くときはまるで夕立みたいにぽろぽろと涙をこぼす。
そんな普通の子だったけど、生まれつき“悟り”なんて力を持っていて……その影響なのか、心の痛みには人一倍敏感で、困っている人を見つけると真っ先に寄り添おうとする。
優しい子だったんだ。……そして、その優しさが時に、あいつ自身を傷つけることもあった。
「人ってのは、自分とは異なる相手を簡単には受け入れられないんだよ。それが、心の中を見透かしてくるような奴なら……尚更ね」
そんな力が原因で、近所とトラブルになっては引っ越し。また引っ越し。
俺にとっちゃ友達も作れないし、居場所なんてありゃしなかった。
だから、最初は絢香の力を疎んじてた。妹のせいでこんな生活なんだ、って。
……今にして思えば、最低な兄貴だった。
でもある時、引っ越し先で大きなトラブルがあって、絢香が行方不明になった事があった。
「……あの時、俺は父さんに初めて本気で叱られた」
言葉を探しながら、俺は少し遠い目をした。
「血相を変えて探し回ってた父さんに胸倉を掴まれて、『兄は妹を守るものだ!』って、低い声で怒鳴られた。あの手の熱さと震えは……今でも忘れられない」
父は決して怒鳴るような人じゃなかった。
普段は冗談混じりに場を和ませ、俺と絢香が口論すれば「まぁまぁ」と笑いながら宥めてくれる。
どこか不器用で、優しい人だった。
……厄介者が居なくなって、心のどこかで少しだけ安堵してた俺には、その時の叱責は心臓に杭を打ち込まれたように重かった。
それからだ。ちゃんと妹を守ろう、向き合おうって決めたのは。
そして同時に、俺は自分を省みた。力のある奴を妬んで遠ざけたり、違う存在を嫌って突き放すのは、もうやめようって。
誰にでも分け隔てなく接しようと決めた。……不器用なガキなりに、覚悟をしたんだ。
それからしばらくは、本当に穏やかだったよ。引っ越しは続いたけど、家の中だけは温かくて。
「母さんは、いつも俺と絢香の仲を取り持ってくれた。些細なことで言い合いをすると、両手をぱん、と合わせて笑って言うんだ。『喧嘩するほど仲がいいって言うでしょ』ってさ」
その笑顔は柔らかくて、まるで家そのものを灯す灯りみたいだった。母さんがいるだけで、どれだけ救われたか分からない。
「引っ越し続きで落ち着かない生活だったけど……それでも、家の中だけは温かかったんだ」
荷造りで散らかった部屋に無理やり布団を敷き、家族四人で川の字になって寝た夜がある。
窓の外で虫が鳴く中、父さんのいびきに絢香が布団をかぶって笑って、母さんはそれを見て肩を震わせていた。
その光景は、何よりの安らぎだった。
「その頃からだったかな。絢香が俺のことを……“にぃに”って呼んでくれるようになったのは」
自然と口元が緩む。
思い出す声があまりに鮮明で、今にも耳元で聞こえてきそうだった。
『にぃに、こっちこっち!』
小さな手で俺の袖を引っ張り、庭の隅に咲いた花を見せてきた日のこと。
『うー……味噌汁、しょっぱい……』
拗ねたように口を尖らせて、自分が作った味噌汁を飲み干しながら文句を言った日のこと。
俺が笑いながら『今度は一緒に作ろうな』と言えば、顔を赤くして『……にぃにのせいだから!』と返してきた。
夜になると怖がりを発揮して、よく布団に潜り込んできた。
『にぃに、こわい夢みた……』と震えながら小さな背中を俺に預ける。
その温もりを抱きしめながら『大丈夫だ、俺がいるから』と囁いたときの安堵の顔は、今でもはっきりと思い出せる。
「あの日常が、俺の全てだったんだ」
……でも、最後の引っ越し先で全部失った。
通り魔に化けた妖魔に襲われて、父さんも母さんも……そして絢香までもが奪われた。俺だけが、生き残った。
やっと掴んだ幸せを、指の間から滑り落とすみたいに奪われて……
「守って、やれなかった」
寄り添ってやれなかった。
痛かったろうに。怖かったろうに。
あの日、俺の腕の中で血にまみれて動かなくなった姿が、鮮烈に焼き付いて……離れない。
「……絢香は、痛みを抱え込む癖があったんだ」
声が震えるのを、必死に押さえ込む。
「辛いことがあってもすぐには言わない。……俺に心配かけたくなかったんだろうな。だから余計に、俺が見てやらなきゃいけなかったんだ。俺が……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
喉がつっかえて、何も続けられなかった。
阿求はただ黙って、じっとこちらを見ていた。
筆は止まり、手も動かない。
記録者としてではなく、一人の少女として、俺の言葉を受け止めようとしてくれているのが伝わった。
「……すみません。無理をお願いしました」
やっとのことで、阿求が小さく頭を下げた。
その声音は、今までで一番静かだった。
「いいんだ。むしろ……話せてよかった」
涙こそ落ちなかったが、胸の奥の何かがほどけるのを感じた。
家族のことを語るのは辛い。だが、その記憶を誰かに託せたことで、ほんの少しだけ救われた気がした。
そんな俺を、阿求は真っ直ぐに見つめる。
「あなたの家族のこと、そして妹さんのこと……大切に残します。記録に残された存在は、未来の誰かの記憶となり続けます。だから、あなたの父君も母君も、絢香さんも、ここに生き続ける。私は……そう信じています」
その言葉に、胸が熱くなった。
忘れたくない。風化させてはならない。
そう、強く心に刻み込む。
「……創英さん」
一度目を閉じ、すぐに見開いた阿求は、静かに語り出す。
「今我々が調査をしている”あの家”は、記録に残す価値があります。ただの怪異ではないでしょう。真実を知る必要があります」
そう言い切る阿求の声音に冗談を感じない。
俺は、黙って頷いた。
「分かった。ただし、あの家には俺一人で行く。阿求は絶対に巻き込まない。着いてくるにしても、家の前までだ。いいな?」
「……はい。では――必ず戻ってきてくださいね」
微笑む阿求の横顔を、俺はしばし見つめていた。
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それからも里で聞き込みを行い、同時に里の人間達とある程度交流を深めることが出来た。
そうして里での調査も粗方終わったある日の事。
その日も一日聞き込みを行い、日も傾いてきたという事で屋敷へと戻る事となった。
日が落ちるにつれて街並みの影は長く伸び、橙から藍へと移り変わっていく。
そんな、どこか物寂しい景色を背に、俺と阿求は足を並べて歩いていた。
そのときだった。
遠くから土煙を上げながら駆けてくる影が二つ見える。
息を切らし、必死の形相をした里の子供たちだった。
「た、助けてください!!」
俺たちを見るなり、二人は縋りつくように飛び込んできた。小さな肩が震えている。
「どうした、何があった!?」
「妹が……俺の妹が、あの家にっ!!」
――その瞬間、鼻の奥に血の匂いがよみがえった。
全てを失ったあの日以降、病室でも、宗家の屋敷でも忘れることが出来なかった鉄の臭いが、唐突に胸を締め付ける。
視界の端で光が歪み、遠いところで絢香の叫びが反響するように聞こえてくる。
思考が追いつかないまま、それでも足だけが先に動こうとした。
筋肉が反応し、重心が前に傾く――それは反射的な動きだったのかもしれない。
だが同時に、胸の奥では何かがぷつりと切れて、代わりに冷たい決意が染み込んだ。
守れなかったあの日の自分を、もう二度と許したくないという感情が……頭の中を支配していた。
「創英さん! 今から向かうのですか!?」
背後から阿求の声が響く。
必死に呼び止める声が震えているように思えて、俺は振り返った。
阿求の顔には不安と戸惑い、そして恐怖が滲んでいる。
当然だろう。彼女にしてみれば、得体の知れない“怪異の家”へ何の準備もなしに再び向かうなど、正気の沙汰ではないからだ。
……だが。
「俺はな、阿求」
言葉を絞り出す。
「妹を……絢香を、守れなかった。目の前で全て奪われたんだ」
吐き出すたび、胸の奥の古傷がずきずきと疼く。
阿求は言葉を失い、ただ俺を見つめている。
「だから、今度は――絶対に助ける。例え、それが誰かの妹であったとしても」
柄を握る手に力を込めた。
「そうしなきゃ、俺は……俺のままでいられなくなる」
阿求は唇を噛み、何かを言いかけては飲み込むような仕草をする。
理解してしまったのだろう。止めたい気持ちと、俺の決意を無碍にできない思いの間で、彼女は立ち尽くすしかなかった。
「……必ず、戻ってきてください」
絞り出すようにそう告げ、阿求は小さく頭を下げた。
俺は頷き、子供たちを連れて駆け出した――。