入学早々、
「佐藤くん! さあ、俺たちと一緒に柔道を――ぶおっ!?」
清もガタイに恵まれているが、声をかけてきた男はそれよりさらに一回り大きな体躯をしている。そんな屈強な男がいとも簡単にひっくり返されたことで、他の生徒たちにも緊張が走る。だが同時に――その名声が実力通りのものであることも理解した。
佐藤清――全国中学生柔道大会三連覇――卒業後はどこの名門に進学するのかと期待されていたが、まさかの
この時点で――柔道好きであれば必ずや通るあの名作――天才柔道少女の物語――誰もが知っているがゆえに学校側も先手を打っていた。
あれほどの逸材を無為にしては世間から何と言われるかわからない。ゆえに――裏で情報を流して全国から優秀な柔道家たちを招致――現役の生徒からコーチに至るまで――入学式当日だというのに正門から裏門に至るまで関係者によってガッチリ監視体制を固められた佐藤清包囲網である。
一方で、清もまた予感していた。不本意ながら、自分に対する世間からの評価は認知している。そんな自分が柔道部のない高校に進学した時点で、柔道を辞めようとしていることがバレているのではと。そこで、式典が終わり教室に移動してすぐさま担当教師に――まるでラブレターのように押し付けたものは記入済みの入部届――しかし――
「いやー、すまないね佐藤君。“相撲部”は去年末で廃部になってしまったんだよ」
馬鹿な……ッ!? 清は愕然とするしかない。ここは校庭の一角に相撲部屋があるほど大切にされていたはず……ッ!
柔道家が相撲へ転向――これなら世間も納得するはず――そんな清の考えは甘かった。比較的親和性の高い競技同士だけに、世間は納得したかもしれない。だが――柔道界は納得しなかった。
さらに悪いことに――相撲部への入部届によって清は決定的な翻意を露呈させてしまったのである。誰もが信じたくなかった。あの柔道の天才が柔道を辞めるなどと。だからこそ、準備はしながらも自発的に柔道部へ入部してくれるとどこかで期待していたところがあった。
それが裏切られたからこそ――突然開かれた教室の扉――ズカズカと下級生の教室へと踏み込んできたのは昨年の全国大会でベスト8にも上り詰めた吉田選手――仮主将――それが簡単に床に伏せられたこと――何より、清の巨体が想像もできないほどの素早さで――まるでアニメのコマが飛んだかのように――
そこから先も清はすべてが速かった。廊下に出ると、右も左も経路を塞ぐようさり気なくたむろしている立派な体格の男子生徒たち――校舎内に逃げ道はないことを見越して、清が真っ直ぐ向かったのは窓――外への脱出口を開き、降り立ったのは裏庭――そのまま裏門から逃げようとしたが、学校側もそんな不測の事態には備えていた。敷地外への出口はすべて塞がれており――しかし、ここからさらに追い込んでくるような動きはない。これはあくまで柔道部員たちによる自主的な勧誘――急ごしらえの新造団体では人手が足りないという事情もあった。校舎の外を巡回する関係者がいないことを訝しみながらも――清とて、そこまで相手方の状況を把握しているわけではない。一先ず草むらの中に身を隠し、じっと周囲の様子を窺っていた。
そして、考える。どうしてこんな騒動になってしまったのか。
それでも清は――諦めきれない。
柔道を辞めることを、諦めきれない。
清にはふたりの幼馴染がいた。共に柔道に励もうと、小学生の頃から共に歩んできた友と、そんな彼らを見守ってくれた少女が。
だが徐々に――それでも明らかに開いていく実力。
友人は焦るが、柔道において清は加減を知らない。
加減することは失礼に値すると考えていた。
例え、力量差が歴然としていても。
しかし、それは勝利を確信している者の奢りだった。
友人は清の足元に叩きつけられ続け――焦りは
そんな友人に少女は憐憫の情を抱き、献身的に支え――
“もう、何のために柔道をしているのかわからなくなった――”
清が三回目の優勝旗を手にした後に、友人は待っていなかった。
そして、少女もまた。
“勝てるとわかってる相手を叩き伏せて、楽しい?”
ひとりになった清は、柔道を辞めることを決意した。
清はもう、誰とも競いたくなかった。
しかし、スポーツである以上、誰かと競わなくてはならない。
例え個人技だとしても第三者によって採点され競わされてしまう。ただ
ならば――重要なのは『競技』ではなく『環境』――
若木高校相撲部――過去の栄光はどこへやら、相撲人口の現象に伴い部員は激減。それでも一度建ててしまった相撲部屋がもったいない、という理由で定員割れを起こしても特例として残り続けていた。
だからこそ――そのような部活であれば、きっと勝ち負けに拘ることはない。緩い雰囲気で汗を流せればそれでいいのだ。
春の日差しを遥か彼方に頂きながら、草花を枕に身をうずめて清はぼんやりと空を眺めていた。それでも、警戒だけは怠らず――どうすれば不毛な競争から逃れられるのか――そんなことを考えていると、気も滅入って眠気も来ない。
そうこうしているうちに陽も暮れ始め――さすがにこのような時間帯ともなると、学校側としても生徒を拘束するのはマズイのだろう。遠くで聞こえていた学生たちの声も夜を迎える空気の中で掠れていった。
そろそろ大丈夫だろう――身体を起こそうとしたとき、清はずっしりと心の重さを感じる。
自分は何故、こんなに強くなってしまったのだろうか――
自分に敗北した者たちは、さぞ羨むことだろう。
それでも自分は、ただ三人で仲良く過ごしたかっただけ。
清とて、敗北を知らないわけではない。
だが、忘れていたかもしれない。
そして、勝利の喜びさえも忘れてしまった。
何かと真剣に向き合うということは必然的に競うことになるのだろう。
ならば、何とも真剣に向き合いたくはない。
緩く、のんびりと――何があってもその存在だけは認められる――それが若木高校相撲部だと期待していたのに……ッ!
気づけば空もすっかり暗くなっていた。
学校を取り囲む街並みも夜へと入れ替わり、徐々に活動を停滞させていく。
清は帰る前に――相撲部屋に寄ってみることにした。
運動部もすべて活動を終えている無人の校庭を横切り、その隅にひっそりと建つ小屋の前へ。清が思っていた通り――そこに綻びはまるでなく、いつでも部活動を再開――いや、実績がないだけで、活動自体は細々と行われていたのだろう。だからこそ、ちょうどいい。大会にも出ないようなら、変に憤ることもないはずだ。
そこで、清はふと反撃の手立てを思いつく。学校側は廃部したと言っていたが、これが廃部した部室の姿か、と。まだまだ現役――清はその証拠写真を一通り撮って回ることにした。
中に入れれば活動している痕跡も残っているかもしれないが、さすがに鍵はかかっているだろう。ぐるりと外側を回っていると、少し高いところに小窓があった。高いといっても清の身長と筋力があれば中を覗けなくもない。
壁にあしらわれた細い段差につま先をかけ、指先で窓枠を掴み、背伸びして撮影を敢行する。中は薄暗いが、フラッシュを炊けばそれなりに写るだろう。写らないかもしれないが、写っていて欲しい。
然程期待することなく適当にスマホを構えてシャッターを切ると――
――画面を通して目が合った。
――というか、中に人がいるとは思わなかった。
――土俵の中央にいたその人物は――驚いて、清の方へと目を見開いている。
こんな時間までひとりで練習していたのだろうか。廻しひとつで、土俵の真ん中で四股を踏んでいたようだ。
しかし、それでも、それが唯一の相撲部員――であると、清には思えない。
何故なら――“彼女”は――女のコだったのだから――