やさしさの土俵   作:添牙いろは

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3話

 全国中学生柔道大会三連覇――その名声と引き換えに友を失った 佐藤(さとう)(きよし)は高校進学と共に柔の道を捨て――安らぎを求めて名ばかり相撲部へとやってきた。

 しかしそこは、学校側の陰謀により廃部に追いやられており――そんな渦中の外で唯一生き残った部員――しかも女子――彼女の名は 駒辺(こまべ)(けい)――彼女には相撲に対する密かな――それでいて確固たるこだわりがあった。

「あ、これは相撲じゃなくて、<おすもう>……おすもうごっこ、と言ってもいいかもね」

 慧も本来の女子相撲は水着を着用するものだと知ってはいる。けれど――

「でもやっぱり、せっかく育った胸だから……さ」

 女子として脂肪は歓迎できるものではない。だが、そこは一部の例外として。清はいまだ目を開けることはできない。直接目の当たりにすることはできない――が、慧のそこは――同学年の同性と比べても豊かに蓄えられている。

 だからこそ。

「ここにはきっと、おすもうさんの心が宿ってるんだろうな、って」

 もちろん、慧とて女子相撲の体験教室くらいには行ったこともある。だが、水着越しで組み合ったことで――これは自分が求めていたものとは違う、と諦観した。

 慧の突飛な企みは、弱みに付け込む行為ともいえる。清が軽い興味本位ではなく、かといって真剣に取り組みたいわけでもなく――逃げ場を求めてこの相撲部屋に駆け込んできたと理解して。それは、慧を含めて周知の事実である。学校全体を巻き込んだ騒動だったがゆえに。

 清が自分に抗えないことを承知の上で、慧は目を瞑ったままの清の手を取った。そして、土俵の上へと静かに導いていく。

 その歩みがゆったりとしているのは視界を閉ざした清のためだろう。彼は全神経を研ぎ澄まし――慎重に足を出し、探るように――円形に並べられているであろう勝負俵をつま先に感じ、つまずかないよう跨いで――その向こう側で手が離されたとき、足元に土の滑らかさとは異なる硬いもの――仕切り線が埋め込まれているのを感じた。

 女のコの指の感触がなくなったことで――清は落ち着きを取り戻す。少なくとも、こうして闇の中にあれば、対戦相手の姿形は関係ない。

 自分は相撲を取るためここにいるはずだ――その意識が、自然と男の腰を屈ませる。

 あ、意外とやる気だ――慧は本物の格闘家の迫力に少し怯みつつも、このチャンスを逃すつもりはない。おすもうさんの心を触れ合わせる(たぐい)(まれ)なる機会を。

「ま、そうして目を閉じてくれるのならちょうどいいハンデかもね」

 だから、合図もボクからさせてもらうよ――慧は悪戯っぽく言うが、清は少し心が高揚しているのを感じていた。それはやましい欲望からではない。目の前にいるのは同い年の女子――仮に相撲の心得を持つ相手だったとしても、自分にも柔道がある。その上でのこの体格差――特に、相撲は重量差が如実に現れる競技である。圧倒的な優位性――引くことの、視界を塞ぐという狂気――それは埋め合わせられるものなのか、さすがに無理なのか――

 これまで清は手加減なしに挑むことが相手に対する礼儀だと思っていた。過去数年、一度も負けたことがない相手だとしても。練習も見ていて、万にひとつの負け筋さえなかったとしても。

 しかし、この極端な足し引きの結果は清にも読めない――久方ぶりの――真剣勝負――

「――ハッケヨイッ!」

 慧の掛け声と共に、清は勢いよく地面を蹴っていた。まっすぐに、対戦相手がいるはずの場所に向けて。

 しかし――

「ッ!?」

 バランスを崩しかけて清は慌ててたたらを踏む。当然だ。柔術の達人と向き合いながら、そんな危険地帯に悠々と身を置き続けるはずがない。

 初めてのシチュエーションに驚いたのは両者とも。ここから改めて仕切り直しである。

 清は両目を塞ぐことによって――視覚を失うことで聴覚が――シャリ……わずかな摺り足にさえ清は反応する。

 これに慧は――何も見えてないはずなのに自分の方を向いてくる――けれども、正確な距離が掴めないゆえに慎重になっているのか――もう一度先ほどの突進が来れば、今度こそ簡単に転倒させられるだろう。それを彼もわかっているからこそ、同じ轍は踏ませてくれない。

 これが、男の人――同い年とは思えないほど大きく――実際、清の体格は慧よりふた回り以上大きい。だが、実物以上に――こんな大きな男のコに抱き締められたら――相撲的な意味で。だからこそ、慧の胸は昂ぶってくる。中に宿したおすもうさんの心がさらに膨らみを増すように。

 ズッ……ズッ……清の一歩は素早く、勢いよく、それでいて短い。清が力強く踏み込むと、慧は気圧されして、反射的に逃げ場を求める。目の見えない相手によって、確実に慧は“動かされていた”。

 だが――慧の相撲に関する経験は伊達ではない――清は素直に感心する。おそらく、土俵を知り尽くしているのだろう。簡単に捕まえられると思っていたが、緩急をつけた横移動によって見事に撹乱されている。擦り足でこれだけ動き回れるとはは大したものだ。これはもはや、忍び足といってもいいだろう。

 しかし――もう(たが)わない。

 ようやく、清は土俵の範囲を把握した。あとはフェイントをかけながら、確実に――

 ズッ――ズッ――重心を左右に振ることで相手に回り込ませる余地さえ許さず、そして――

「ッ!」

 僅かな隙を察すると、勘を頼りに清は瞬時に間合いを詰める。そして、暗闇の中で確かな手応えを掴むことに成功した。これで勝負は決したも同然であるが、ここで油断する清ではない。膝を裏から崩される前に、身体を丸ごとひょいと持ち上げて――それで、不覚にも我に返る。動揺したといってもいい。密着してしまったことで――清は対戦相手のことを――その容姿を思い出してしまった。

 女子と意識してしまえば、手荒な真似などできようもない。穏便に土俵の外まで――それでも、気を緩めれば自分が先に不覚の一歩を踏んでしまうかもしれない。なので、最後まで着実に――足の先で俵を感じ、その向こう側に慧を下した。

 「……ふぅ」

 相撲初心者の清は詳しいルールはわからない。だが、これは吊り出しと呼ばれる決まり手である。

「俺の……勝ちだな」

 久々に全力を出せたことに清は満足していた。明らかに対等ではないがゆえの対等な戦い――このようなぶつかり合いもあるのだと。

 しかし。

「気づいてないの? キミはとっくに負けてるんだよ……」

 一方的に勝敗を逆転させられ、清はたまらず視界を開いた。目の前の上半裸の女子に目もくれず足元を再確認。そして足元だけでなく、土俵全体を。自分が立っているのは土俵の内側で、慧は外側――その位置関係は変わらない。

 だが、清は相撲初心者である。ゆえに、知らないルールがあった。

「不浄負けといってね、廻しが外れたらその時点で負けだから」

「えっ!?」

 いや、初心者の清でもその決まり手の名前くらいは聞いたことがある。ただ、完全に意識から抜け落ちていた。

 

       ***

 

 更衣室の鍵をかけ、膝を抱えて清は蹲っている。外からの声にも耳を貸さずに。

「ごめんて。言い出せなかったことは謝るからさ」

 試合に集中していたことと、慣れない廻しという露出の多い服装ゆえに――まさか外れていたことにまったく気づかなかったとは。

 そして、落ちた廻しは慧に利用され――擦り足の中に軽い音が混ざっていたのは把握していたが、それは、慧が廻しを回収するため引きずっていただけのこと。廻しを引き寄せる度に接地面の方角へと瞬時に清が反応するので、それで隙を作れないかと目論んでいたようだ。

 その時点で勝負は決着している。それでも、慧はそんな形で中断させたくなかった。せっかくの<おすもう>ということはある。だが、それでだけではなく。

「それに、ほら……ボクも色々見られてたから」

「……申し訳ありません」

 先に覗いたのは男子の方――その点を責められると清には何も言えない。けれど、慧とてそれを責めているわけではない。

「正直に言うね。ボクも恥ずかしかったよ」

「申し訳ありません」

 清には謝ることしかできない。そんな男子に、慧は優しく訂正する。

「けどね」

 そして、その先まで。

「恥ずかしいのを承知でお願いしたいんだ。これからも、ボクと<おすもう>を取ってほしいって」

 扉越しでは、清に慧の表情は見えない。それでも、声色から伝わるものはある。彼女は中に水着を着るつもりはない。見て、見られて、恥ずかしくないはずがない。だとしても。

「……ダメかな」

 そんな切実な思いに――清は応えられる自信がない。彼女を前にして、相撲に対して真摯でいられる自信が。

 しかし、それは――一頻り悩み、俯き、不甲斐なさを思い知らされた上で――自分が決めることではない、と清は気付いた。すべては、彼女が判断すること。失うものは何もない――身を投げるような覚悟で立ち上がると、清は内側から扉を開く。

 そんな清の姿を見て、慧は――

「ありがとう。嬉しいよ」

 帰り支度を整えて出てこられては、慧にも引き止めようがない。けれど、土俵から逃げ出したそのままの姿で――再び土俵へ向かうための姿で――

「けれど、自分は……」

 清は恥ずかしさのあまり目を見て話すことができない。何しろ、廻しは土俵の脇に落としたままであり、新たに制服を着こんだわけでもないのだから。それでいて、両手をまっすぐに下ろし――羞恥に震わせながら拳を力強く握りこんで――

 慧は、清が<おすもう>から逃げることなく扉から出てきてくれた時点で大団円だと思っていた。自分を――<おすもう>を受け入れてくれたものとして。しかし、どうもそうではないらしい。逆に、男子の方から慧に審判を求めているような――彼女にとって、それ以上望むことはないというのに。

 慧は、清が何に悩んでいるのか察するのが少し遅れた。なので、それに気づいたとき――ついあけすけに。

「あっ、ボクだってドキドキしてるんだからねっ。ほらほら、乳首だってこんなに――」

「駒辺さんっ!?」

 女子の方から胸を張られて、清は思わずそちらを見てしまう。そして思い出してしまう。胸と胸を――彼女の言うところのおすもうさんの心を重ね合わせた感触を。どうにか忘れよう――競技に専念しよう――雑念を振り払おうとしても、その誘惑は年頃の男子を捉えて話さない。下心をもって<おすもう>と向き合っていることを隠すことができない。

 だからこそ。

「苗字呼びだなんて……ボクたち、こんなに恥ずかしいところを見せあった仲なんだから」

 そう言って――慧は心の距離だけでなく身体の距離も詰めていく。すべてを受け止め合うつもりで、女子はその胸を男子に預け、そして――男子が気にしているであろうところを――スポーツマンとして、競技に邪な動機を持ち込んでいること――雄の昂ぶりを抑えることができない自分が許せないのだろう。

 だからこそ、慧が許し、受け入れた。自ら、両手で包み込むことで。その感触に、清はビクリと腰をすくませる。が、引くことはない。

 そんな清に、慧は微笑んで。

「これからはボクのこと……」

 澄んだの瞳に清は息を呑む――が――

駒乃波(こまのなみ)って呼んでほしいな」

 これには、清も苦笑い。けれど――彼女を四股名で呼んでいる間は、廻しひとつの彼女と――駒乃波と向き合うことも許される――そんな気がしていた。

 

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