本屋、と言うものは私にとって、一度入ったら最低でも2千円は溶かす恐ろしい場所だ。
大型本1冊で正気に戻るか、本能のままに文庫本を3〜4冊抜き取りいそいそと会計に向かう。これで済んだらまだ軽傷。ちょっとした打撲や擦り傷のようなものだ。
しかし懐に余裕があり、かつ気になっていた本が入り口付近に平積みされ、そして手持ちの荷物が少なかった場合。財布、肩、自宅の書架に致命傷を与えることになって帰路につく。
そう、今日はそんな致命傷の日だった。
「あ、おか〜」
そしてそんな日に限って書斎には小さな来客がいる。すっかり絵本コーナーの一角が定位置になっているようで。
昼前の陽光に照らされた白い髪は優雅だ。本の重みで痛む肩を抑えながら苛立ちで眉が歪むくらいには。
「ただいま……。この間ぶり……」
「俺のとこでは2年経ってるけどな」
「小学校卒業おめでとう、中学校入学おめでとう……?」
「俺は家庭教師だから学校にゃ行ってねーけどな」
「今ちょっと、小粋なトークは無理だわ……」
ドサッとも、ドスッとも取れる音が書斎に響いた。本日の戦利品である。文庫、単行本、大型本、絵本、辞書。乱読な自分を表したような節操の無い紙袋の中身は、数万円分の重みがギッチリ詰まっている。これでも今月の生活費と相談して抑えた方なのだが。そろそろ本を買う日用の台車を検討し始めている。
重さから中身が何か、そしてその量を察したのか、ガキはドン引きの顔でこちらを見ている。
今読んでいたのは「すてきな三にんぐみ」か。ちょっと怖い表紙からは思いつかない素敵な話なのだ。うん、良いチョイス。
「それ全部本?」
「そう。絵本もあるよ」
「こんだけあるのにまだ増やすのかよ」
「なんせひとつとして同じ本は無いものでね」
小説コーナーの方には単行本と文庫が揃ってるやつとか、収録の関係で同じ話が何冊も入ってる本があったりするが、絵本はそう言うのはあんまり無い。初版とか再編集版とかは、絵本ではあまり意識していない。そこまで考え始めたら破産するし、そこまでこだわりがあるわけでは無いので。
だとしても馬鹿多いんでね、新しく買った本だとしてもさっさと本棚にしまっちゃいますよ。「新しく買ったばっかだからしばらくこのまま置いておこ〜」とかしたら最後、永遠にそのままになるからね。
サクサク本棚の隙間に新入りを捩じ込んでいく。ブックエンドが要らないくらいは既に入っているので、入る隙間を見つけるのも一苦労だ。小説コーナーはそろそろ本当に隙間が無くなるから、隣の客室を潰すことを考えないといけない。
私の口座には書斎改造用の貯金が別で存在している。
「たまにこうやって気になってた本をまとめて買うのさ。たまのご褒美ってやつ」
「読みきれんのかよ」
「図書館で読んだことがあって、気に入ったやつを手元に置くために買った奴もあるし、普通に気になった初見のやつもある。積読になるかは未来の私の気分による」
「読んでない本もあるのかよこの本棚」
「そりゃ当然あるわ。最長記録は……10数年積んでる志賀直哉の『暗夜行路』とかかな」
「置き物じゃん」
長い! 小難しい! 近代文学! の三拍子で、学生時代に調子に乗って買ってから積んでいる。生きているうちの何処かしらで読めたらいいな〜と思っているので、すぐに読めなくても問題無い。いつか読めるようになるかもしれないから。
「読むために買ったのになんで積んでるんだ?」
「読書歴が浅いお前にはわからんかもしれないが、本というのは『読めるタイミング』『読めないタイミング』があるのだ」
「でも読みたくて買ったんだろ?」
「『あ、たぶん積むな』と思いながら買うこともあるんだ。そして積む」
「もはや何のために買ってるんだよそれ」
「本能……?」
ただその時のテンション、あるいは本を買うという行為に対しての欲求。なにかよくわからない根源的な望み……。
カッコつけて言っているが、ただの無計画な出費とも言える。しかし、読むかもしれない。積むかもしれない。買ってみないとわからない。シュレディンガーの積読というやつだ、うん。
本の収納作業に戻る。
絵本は作者問わず大きさ順でまとめているが、小説や雑読本は作者やジャンルごとにまとめている。ので、前に同じ作者の別の本を買っていないかチェックしながら本棚に仕舞う。
三浦しをんはよく買っているのでコーナーが出来上がっている。し、星新一や赤川次郎のコーナーはかなり広い。
この辺りは中学生になった少年の小説コーナーの第一歩として丁度いいんじゃなかろうか。
中学生ならそろそろ薄い文庫本程度読めるようになっても普通だしな。じわじわ活字に慣らしていってやろう。
「少年、そろそろ小説を読まないか?」
「え〜」
「短いものから入っていけば負担にもならないだろう。星新一の『きまぐれロボット』とかショートショートシリーズがオススメだぞ」
「……狭い絵本コーナーはまだしも、そっちの小説コーナーって俺にとってマジの"魔境"なんだけど」
「しかしいつまでも絵本しか読まないのもジャンルが狭いだろ。絵本とはまた違った楽しさや発見があるぞ。雑学本とかでも良いし。『戦国武将の履歴書』とか」
「ふーん」
「ま、たまには適当に書斎をうろつくのもアリなんじゃないか。じゃあ私は『銀座四宝堂文具店』読むから」
「ん」
文房具と人を扱った感動ストーリー。コイツはあんまり興味無さそうだな。
*
「あ〜良かった。最高。2巻が楽しみ。やはり作者は天才」
良い本を読むと語彙が消失してしまう。本に語彙を吸われてる気がする。読後感で脳がとろけている。
「はてさてアイツはどうしてるかなっと」
途中で昼ごはんを挟んだから一度様子を見てはいるが、その時はまだ絵本コーナーから動いていなかった。さて私のプレゼンは届いたかどうか。
ちなみにお昼ご飯はオムライスだった。昨日の夕飯のチャーハンの余りに卵を乗っけたなんちゃってオムライスである。
この前行った喫茶店のオムライス、中が胡椒の入った白米でびっくりしたけど美味しかったなぁ。厚切りベーコンがゴロゴロ入っていた。
皿の回収ついでに彼の定位置に行くと、その手には絵本のハードカバーではなくソフトカバーの文庫本があった。
内心ガッツポーズをする。あ、オムライス残さず食べてくれてる。回収。
「何読んでんの?」
「あー、『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』ってやつ」
「ああ、良いね」
ちょっと意外な選択だけど、面白い本だし私も好きだ。
ペラい文庫本の小説を選ぶかと思ったら、別に薄いわけでも厚いわけでもない鳥類学者の書いた雑学本。本屋によっては文庫本コーナーじゃなく理科や科学の棚にあったりする。
言葉遣いとか、ぶっちゃけ具合が面白いんだよなぁ。しかししっかり鳥の知識はつくのだ。どこで使うかわからんけど。
表紙もカラフルで目を引くしな、なにかが琴線に引っかかったんだろう。
「長い文庫本はどうだい」
「思ったよりサラサラ読めてる。これは教科書みたいに説教くさく無いし」
なるほど、教科書に載ってるような堅苦しい? 話が嫌なのか。
私は教科書の物語文は配られたらすぐ読んじゃうタイプだったからわからない感覚だ。『盆土産』と『星の花が降る頃に』が好きだったなぁ。なんとなくノスタルジー。
「別に、なにか学んでやろうって思いながら本って読まなくて良いんだな」
「参考書でも無いんだ、好きに読めばいい。覚えたいものだけ覚えておけばいいさ、情報の取捨選択だって自由だ」
教訓や啓発なんて案外後から勝手についてきたりするし、覚えてるやつだけ覚えておけばいい。参考書や赤本は別だけどな。そういえばコイツもまだ早いけど受験が待ってる中学生か。いや、家庭教師なんだから無いのか? ボンボンの学歴はわかんねーぜ私。
「俺の周りにいた人はみんな、本に強くなる方法が書いてあることを求めてた。自分が望んだことが書いてなかったらゴミも同然だって」
「貧しい奴らだな」
本を娯楽ととるか、学問ととるか……。それにしても、やっぱりコイツの環境はあまりよろしく無い気がする。強さ? 優秀さ? に固執しているというか。学歴DVみたいな……。
だからこんな未成熟な思考なのか?
「雑魚がなにしても無駄なのにな」
「……そんな奴らに囲まれてたらお前の思想も偏って当然か」
他人の向上心や努力を否定する言葉は好きじゃないのだが……残念ながら私はたいそうな哲学や信念を持ってるわけではない。なにか教えを説くほど人生経験があるわけでもない。
あー、こういうガキの相手をしないといけない全国の教師は大変だよな……。
「今は反抗心も捻くれた思想もお年頃というやつだろうが……大人になったらお前がどんな奴になってるかは楽しみになってきた」
「なんだよお年頃って、馬鹿にされてる気がして嫌なんだけど」
「クソガキって大目に見てもらえる今が華ってことよ」
ハッと鼻で笑って、食器を片しに書斎を出ていく。
軽い舌打ちが聞こえたが、ガラ悪いなアイツ。
「あ、この食器割れてら」
皿を洗っていると、薄らと罅が入っているのを確認した。白い平皿で模様なんかも入っていなかったから見落としていたらしい。想定していない来客とはいえ、割れた食器を出してしまって、しまったなと泡のついた手で頭を掻くなどする。
まだ破片になるほど酷くはないが、ここから割れが広がって手を切ったりしたら危ないな。これどこで買ったんだっけ……シンプルなデザインだけど、重さや白のくすみの無さは安物では無い気がする。
「……結婚記念日の、あれか……」
まだ両親が生きていた頃、私がまだ暗夜行路を知らなかった頃、少ない小遣いで結婚記念日に贈ったんだっけ。陶器婚という言葉を本で読んで決めたんだ。
懐かしい思い出がフラッシュバックする。だけど、そんな思い出深い皿にあるのは罅なわけで。
「金継ぎの本、買うかぁ」
そういえば、少年は罅で手を切ったりしてないだろうか。
湿った手で開けた書斎は、無人の風の音だけが聞こえてきた。