「これをやろう」
「……布?」
いつものように書斎で本を読む少年に、手のひら大の布の塊を渡す。手触りのいい藍色のそれは、私が用意したちょっとした贈り物だ。
「高校入学祝い。早いけど貰っとけ」
「って……なんだよこれ」
「ブックカバー。文庫本サイズ」
最初にガキが書斎に現れてから、早いのか遅いのか2ヶ月程度が経っていた。
やり取りも多くないし、数度しか会っていないとはいえ、こうして読書の合間に雑談を挟む程度の仲にはなってきたのだ。そんな彼は高校? 高専? 入学直前らしく、じゃあなにか渡すかと買ったまま放置していたブックカバーを渡すことにした。
入学祝いにしては雑で適当だが、このボンボンに変に気取って高いものを渡しても経済格差が見えそうで嫌だった。なんかよく見ると着てる服もお高めのブランドっぽいんだよな……。
「外でも本読めって?」
「単純に手汗なんかから保護するのにでも使えよ。あと栞もついてるから便利だぞ」
最近の本に紐の栞……スピンはあまりつかなくなった。新潮文庫くらいしか積極的に採用していないから、自分の栞を選んでみたりするのもまた読書体験のひとつだろう。
帯なんかを使ってもいいだろうが、ブックカバーのものを使った方が紛失や跡がつきにくい。シンプルな紐の先には糸でできた花飾りが細やかについている。
すこしそれが可愛らしいが、まぁ男が使ってても違和感は無いデザインだと思う。布の素材は麻のような、和の雰囲気を感じるものだ。文具店で買ったしっかりとした造りで、長持ちするだろう。
「なんか、着々と読書家に仕立て上げられてる気がする……」
「人聞きの悪い。才能があったってだけだろ、文字に抵抗が無いのは良いことだ」
長文に対する許容量というのは、読書で鍛えられもするが才能も大きい気がする。
1000字程度で長文と感じる人もいるし、10000字読んでも足りない人もいる。どちらが偉いとかそういうのは無い。ショートショートも長編も、格差は無い。
しかし読める量が増えたら、読める本が多くなる。楽しみにできる本の母数が増えるのだから、許容量が長くて悪いことは無いとも思う。だからこそ子どものうちからどれだけ文や本に触れていたかは、かなり重要だと思っている。
遊びたい盛りの肉体全盛期男子中学生が、絵本から突然薄く無い文庫本に飛べたのは、かなりポテンシャルに寄ると思う。教科書の物語文さえ長いと感じ、集中できなくなる子だって少なく無いはずだ。理解力や関心を継続する力は一朝一夕で育つものでは無い。
少年、お前才能あるよ。
しかし鍛えられるということは衰えもするのである。
子どもの時は700や1000ページなんのその。読了後すぐ別の本に飛べる力を持っていたのに、最近は朝のニュースページを読むだけでもしんどい……なんてことになったら悲しい。文字に対する体力はじわじわと衰えていくのだ。
高校なんて他に誘惑もいっぱいあるだろうし、家庭教師ばかりだったコイツにとっては同年代と関わる数少ない機会。確実に本に対する興味は薄れる。
別に友達と遊んでて読書が疎かになっても悪く無いのだが、このクソガキ、家の影響かまだ情緒が育ち切ってない節がある。対人とは情緒を育てるにかなり有効な手段だが、未熟な情緒はつけ込まれやすくもある。思考に対する防御力が低いのである。
あと次にここに来た時に「本なんてソシャゲの下位互換じゃん」とか言い始めたら悲しいので。私が。
「あー、まぁ貰っとく。ありがと」
「うんうん、クソガキだったあの頃とは違って育ってきたじゃないか」
「うっせー! クソガキって言うな!! バーカ年増!!」
「まだクソガキだったわ。次年増って言ったらテメェのお綺麗な顔面凹むと思えよ」
「ひぇ」
さて、雑談はここまでにして本を読むかぁ。
あ、今日は私もお休みの日なので読書に耽れるのだ。この前大量に本を買ったから積読消費が捗るね。「古本食堂」でも読もう。そういえば神保町って行ったことないなぁ。三島由紀夫とかがお気に入りだったお店とかあるらしい。古本の聖地はいつか行ってみたいけど、何万持ってっても足りなさそう。
「なんかオススメない? やっぱ文庫本コーナー魔境過ぎんだけど」
「小説なら『愛なき世界』とか『神のダイスを見上げて』、雑学なら『眠れないほどおもしろい百人一首』とか。中間で『発注いただきました!』とか?」
「レスポンス早過ぎてちょっと引く」
「お前の末路が私だよ」
いずれオススメ図書を脳内で纏める(特に誰にも聞かれていない)ようになるだろう……。読書感想文で苦労しなくなったら一人前。ビブリオバトルで相手を推薦文で殴ることに快感を見出したら末期だ。
「『深夜特急』にしよ」
「聞いた意味」
せめてオススメ本を探すくらいの逡巡は見せて欲しかった。もしかして私のオススメって信用されていないんだろうか。みんな文句無しに面白いのに……。
「ブックカバーってそういえばどうやって付けんの?」
「ああ、教えてやろう」
ブックカバーの付け方、貴方はどこから? 私は書店の店員さんから見て盗んだ。
紙のブックカバー装着は見ていて美しい作業だと思う。布はあそこまで複雑じゃないがな。基本的に買った時にカバーは付けない派だ。すぐ書架に仕舞うから題名見えなくなるし、紙だから手汗に勝てなかったりする。でもたまにマイナーチェンジで書店カバーの柄が変わってると「おっ」ってなる人。アイドルの衣装チェンジみたいな立ち位置に書店カバーがあるかもしれない。
「あ、エッセイなのかこれ」
「いわゆる紀行小説ってやつで、旅の行程を書いてる」
結構色んなところに行ってるから、出不精な私は感心してしまう。フットワーク軽すぎるこの人。
仕事柄英語はできるし、大学でやったからロシア語も日常会話程度ならできる。しかし海外旅行に行く気にはなれないんだよなぁ。外国書籍コーナーなら書斎にあるんだけど。
ロシア文学を現地言語で読みたくてロシア語をとったけど、文豪の語彙力は外つ国の小娘が簡単に理解できるものじゃなかったわ。あれで翻訳家にはなれないなって痛感したんだよなぁ。元気ですかドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」……。
「…………いいなぁ」
確かに中学生で海外は厳しいよなぁ。まぁ大人になったら存分に行けばいいさ。私みたいに大人になっても行かない人もいるが。異国こわい。
それにしても、こいつも高校生かぁ……数回しか会っていないのに、なんなら私の方では半年も経っていないのに。彼はどんどん成長していく。この時間ジャンプがなんなのか、書斎に現れる現象は何故なのか。どうして、私と彼なのか。
わからないことを分からないままにしておくのは少しモヤっとする。超常現象が起きているのは確実だし、ファンタジーじみた体験をしているのも確かだ。
でも、それにしては穏やかな時間で、変わり映えのない日々なわけで。
彼の成長を伸びた背や低くなった声で感じながら、互いに別の本を別の場所で読んでるだけ。たまに彼の思考を手助けするくらい。
「いつか年齢も追い越されるのかね」
既に背は抜かれているのでなんとも思わないが、彼の世界での彼はどんな毎日を過ごしているんだろうか。環境があまりよろしくないことは察しているので、はやく大人になって抜け出して欲しい。
若い芽は潰されてはならない。
なんせ三十路の女には少し、今の君が眩しかったりする。