私が初めて彼を見た時、その視線に一瞥もせずに手元の本を捲った姿を覚えている。
東京呪術高専。
その新入生である3人の1人として、私、夏油傑は教室の扉を開けた。そしてすぐ目に入る、白い髪の日本人離れした外見の男。奥にはまだ高校生だと言うのにタバコを咥えている女子も見える。この時点で少し今後に不安を感じたのは言うまでもない。
真ん中の席ということで、この濃い2人に嫌でも挟まれてしまう。し、視界に入ってくる。
「……」
本のページを捲る音だけが教室内に響く。プレッシャーを感じる。
「……それ、何読んでるんだい?」
思わず聞いてしまう。手にある文庫本はブックカバーに包まれて、表紙は見えない。そして中の文章でなんの本が特定できるほど読書家な訳でもなく、沈黙の壁を破るため私は一歩距離を積めたのだ。
ガラ悪く机に足を乗っけて、室内でサングラスをしている彼からまともな返答が返ってくるかは賭けだった。
「……『博士の愛した数式』ってやつ。小川洋子の」
賭けは思ったよりも丁寧な言葉で返ってきた。
本から目を離すことはしないが、しっかりとレスポンスがあって一瞬固まった。
と同時に、彼は意外と良い奴なんじゃないかと予感が走る。
「ああ、なんかすごい売れてたよね……どんな話だっけ?」
「博士とガキとその母親がなんかする話」
「ざっくりしてるなぁ……」
「気になるなら買って読めよ」
雑ながらもキャッチボールが続いていく。
薄いやり取りはそのまま、先生が教室に入ってくるまで続いていた。
*
「なんてこともあったよね」
「懐かしっ」
あれから時も経ち、後輩ができたり等級が上がったりと呪術師として成長し、悟とは無二の親友となっていた。
共に任務に赴き、祓い、怪我をしたなら硝子に治して貰えばいい。
私たちは名実共に最強だ。
私たちなら、どんな呪霊だって祓える。
私たちなら────本当に?
五条悟は最強だ。
私が必要無いくらいには。
彼だけひとり最強になった。
もはや私は彼の影さえ踏めない。
追いつかないと。
追いつかないと。
追いつけない。
不味い。
醜い。
何故、守らないといけない?
「傑、最近おかしくねぇ? なんかあったのか?」
「……いや、なんでもないよ。疲労が溜まってるのかもね」
「休めよ。任務なら俺が代わりに行くし」
「…………」
それじゃダメなんだ。そんなことしたら更に差が広がってしまうじゃないか。ダメなんだ、このままじゃ。
「なぁ、本当、無理はするなよ」
「してないよ。悟だってこのくらいの量、熟してるだろ」
「俺と傑は違うだろ」
「っ……何が違うんだよ!」
「、傑? どうした?」
「…………悪い。1人にさせてくれ」
自分が崩れていくのを感じる。
守るものがわからなくなっていく。
やるべき事が濁っていく。
味覚が鈍っていく、捻れていく。
つかれた。
「あー……寝たい……」
「ソファーは大型本コーナーの横だぞ」
「────え?」
*
白いクソガキとは違う、黒髪の男子が書斎に来ていた。初めての客だ。アイツだけじゃなかったのか、ここに来れる人。ますますこの現象が謎めいていくなぁ。
顔色酷いし、隈も濃い。微かに聞こえた声は疲労が深く滲んでいる。うーん死に体。
本読めるような状態じゃなさそうなので、さっさと寝るなりして休んでもらおうか。大型本コーナーのソファーは革張りのちょっと良い物なんだ。デカいし黒髪くんのサイズでもキツくはないだろう。
ただ、本人はまだ状況が飲み込めてないらしい。よく考えたら白い方の適応能力が凄かっただけで、普通はこのくらい混乱するよなと思う。突然本の森っていう情報量の塊に落とされるんだから。
「こ、こは……?」
「私の書斎。悪いこと言わないから君は休んだほうがいいね」
「は、え……?」
「はい、そこのソファーで楽にしな。今毛布と枕持ってきてやんよ」
ローディング中なのを良いことにさっさと移動させて座らせる。来客用の毛布はまだ整理してなかったはず。枕は適当なクッションでいいだろう。
パタパタとルームシューズの足音が鳴っている。さて、お疲れな彼は私が帰ってくるまで意識を保っているだろうか。
「あ、耐えられなかったか」
見事にソファーに寝転がって爆睡している。わかる。私も幼い時はそこに寝転がって昼寝をした物である。スプリングがいい感じなんだよな……年季入ってるのに草臥れてないし。
長寿なソファーより萎れている青年くんは、眠っている顔も難しそうな皺を寄せている。
毛布をかけて、起こさないようにクッションは頭の近くに置いておくだけにとどめる。今はゆっくり寝かせておこう。
昼下がり、書斎には規則正しい寝息と本を整理する音が交差していく。
「その、眠ってしまってすいません……毛布とかありがとうございます」
「気にしないで。突然ここに来てビックリしたでしょ」
起きた時パニックになるかなと思っていたけど、彼は案外冷静だった。暴れられたら対処できないので、その聡明さは助かるところだ。
律儀にお礼まで言ってくれる。クソガキとは大違いである。あれでかなり矯正されたほうなのだが……。
「自分は夏油と言います。えっと……ここって何処ですか?」
「とある田舎の一般家庭の書斎。うちの書斎はなんでか知らないけどたまに見知らぬ人が迷い込むのさ。時間経過で戻れるから安心して」
「……何かの術式……?」
「ん?」
「ああいえ、これってどれくらいで、帰れるんですかね」
「まちまち。君が2時間くらい寝てたから、あと数時間くらいかなぁ」
まぁ長くて5時間程度だった気がする。今までの経験だと。
夏油くんは礼儀正しく、しばらくお邪魔しますと頭を下げてくれた。良い子だ。あのクソガキとは大違いである。見習って欲しい。
この前も来たけど、なんか良い感じに青春できてるらしい。それは何よりだが、同時によくわからない専門的な話もされるので話についていけないのだ。
領域展開のヒントになりそうな本って何? 領域展開とは??
よくわからなかったので「14歳からの哲学入門」を渡しておいた。遅い厨二病だったんだろうか……。
「暇つぶしに本でも読んでなよ。ここはなんせ書斎だ」
「あー……、本には詳しくなくて」
「適当に気になった奴選びな。それともなんか題名だけ知ってるやつとかない?」
そう聞くと、彼は考えるように顎に手を当て、目を細めた。その顔はなんだが、なにかを懐かしんでいるような……穏やかだが心が握られたような、そんな雰囲気。
訳アリ少年がここに来る条件なのかね……カウンセラーになった覚えはないんだが。
「『博士の愛した数式』、だったかな……友人が、昔読んでて」
「名作だね、その友達はセンス良いよ。うちにもあるから、持ってこようか?」
「お願いします」
何度か読み返した名文なので、居場所は覚えている。広い書架の中からすぐに薄い一冊の文庫本を取り出すと、彼に渡した。その速度に少し驚いているのが面白いな。
「ありがとうございます」
「ん、何かあったら呼びな。書斎にいるから。……ああ、本を雑に扱ったら、ダメになったページ分まつ毛抜くからな」
「エッ」
まぁ真面目そうな君には杞憂だと思うが。念のためな。
*
トン、と表紙と本体を揃える音がする。どうやら読み終わったらしい。
私もキリのいいところまで読んでいた「西の魔女が死んだ」を一度閉じて、大型本の棚へ顔を出す。
「読み終わったかい」
「あ、はい。お返しします」
「うん、丁寧にありがとね。……疲れは取れたかな」
「少しは」
「何を頑張ってるのかは知らないけど、そこまで無理はするものじゃない。君はまだ若そうだし、体は大切にね」
長い年月付き合っていく身体だが、消耗品であることにも変わりない。視力や関節、内臓は労わって過ごしたほうがいい。まぁ深夜まで読書に費やすことも多い私が言っても反面教師にしかならないが。
それにしても、彼は過剰に自分を追い込んでるように見えるし、自愛して欲しいものだ。
「…………でもそれじゃ、追いつけないから」
「……ちょっと座っとけ」
「?」
「これでも読んで待ってて」
そう言って近くの棚にあった「世界で一番美しいシャチ図鑑」を渡し、書斎を出た。目指すはキッチンである。
そして数分で戻ってきた。手にはマグカップ2個。淡く湯気が立っている。甘い香りが書斎に満ちていく。
「はい、ホワイトモカ」
「ホワイトモカ」
「スタバのインスタントのやつ」
「スタバ」
困惑のままセリフをオウム返しする夏油くんを放置して、あったかいマグカップを啜る。うん、ホッとする。
「じゃ、話を聞こうか」
「話?」
「今ならおねーさんが君の愚痴なり聞いてあげるよ。吐き出したいこと、あるだろう」
おねーさんはちょっと調子乗ったかな……と自分の歳に心がキュッとなりつつ、夏油くんのほうをジッと見る。
数時間寝たくらいでは取れない目の下の黒。やつれた顔にボサボサの髪。これでもかと「何かありました」と見た目が物語っている。
「どうせもうじき君は自分の場所に帰る。その前に関係ない私に好き勝手吐き出して帰るのも良いだろうさ」
「…………そこまでしてもらう訳には」
「多少なりともスッキリして帰るか、そのボロボロな姿で帰って残った私を心配させるか、どっちがいい?」
「…………」
良心に漬け込む形で悪いが、こういう手合いは責任感が強いからね、誰かの為だと思わせて話させないとずっと言葉を飲み込み続けるだろう。
大人として、何かを抱えている子どもは放っておけない。お節介だろうけどね。
「友人に、追いつけ、なくて」
「うん……」
ポツポツと、彼は現状を、して思いを吐き出し始めた。
親友がどんどん1人で遠くへ行ってしまうこと。
守るべきものが愚かで醜く感じてしまうこと。
自分ができることをやろうとしても、その手段は自分にとって苦いものでしかないこと。
それでも手を休める訳にはいかないこと。
辛さ、責任、劣等感、弱み。
随分ひとりで考えたのだろう。整理された思考と、ぐちゃぐちゃの感情。それでも私に伝わるようにしっかり言葉にしてくれた。
私はそれを黙って聞いている。
この一角には、父親が趣味で取り付けたステンドグラスの窓があった。
薄く色のついた光が、俯く彼を照らしている。
告解室のようだな、と感じながら、しかし私はシスターや神父のような高尚な存在ではないのだ。
マグカップは冷め始めていた。