「先生。恋とは一体なんなのでしょうか?」 作:星のかけら
なににもまして、忘れたいものごとは、なににもまして忘れ難い。
ひとしきり泣いたあと、少女はすんすんと鼻を鳴らして、窓の外をぼんやりと眺めた。
──雪が降っている。
おぼつかない足取りで、ソファから立ち上がった少女は、中と外の寒暖差で結露した窓ガラスの傍まで歩いていき、そっと触れるように手を伸ばした。
滑らかで、細く長く美しい指先で、描くように触れた窓ガラスには、書いた文字は浮かび上がらなかった。
〝Qui aimes-tu le mieux, homme enigmatique, dis?〟。
いつかのように、そんなに難しく、長ったらしい文字を書いたわけではない。
もっと簡単で、もっと短い文字だった。
たった2文字。けれど、それは詩を引用したりと、誰かの言葉を借りたわけではなかった。
それは、たしかに自分の言葉だった。
「……」
凍えるように、冷え切った窓ガラスから指を離して、少女はふっと自嘲した。
────忘れたい。
────忘れさせてほしい。
それすらも、叶わないのなら────
「いやだ」
「ふふっ。どうしても、ですか?」
「……どうしても」
夜の帳が下りる頃、シャーレオフィスの執務室では、2人の掛け合いが続いていた。
生塩ノアからされた質問に答えることは、容易いことではなかった。
かといって、難しいというわけでもなかった。
なんのことはない。彼女はただ、彼に、どんな女性がタイプなのかと問いかけただけだ。
それは仕事がひと段落ついて、彼女が淹れた珈琲を飲みながら、手持ち無沙汰を誤魔化すための単なる雑談でしかない。
しかしその程度のものであったとしても、生塩ノアは一度聞いたもの、見たもの、感じたものを、決して忘れることはない。
なればこそ、容易に話すことはできなかった。
「うーん。それは困りましたね」
「べつに困らせてはないでしょ。じゃあ逆に、君はどんな人がタイプなんだ?」
「……私ですか? ふふ、訊かなくてもわかると思いますが?」
「え、それってもしかしてわたし──」
「ユウカちゃんみたいな子が──」
彼と彼女の言葉が重なった。
彼は顔を引きつらせて、気まずそうに窓の外へと視線をやった。
彼女はほんの一瞬驚いたように目を丸くして、すぐに揶揄うような笑みを浮かべた。
「──18時23分35秒、シャーレの先生は生塩ノアの好意が自身に向けられていると、」
「やめて記録しないで、ごめんなさい」
メモ帳とボールペンを取り出して、いたずらに笑った彼女の言葉を遮って、彼は慌てて取り繕った。
彼女にとって彼の失言は、その全てが切り札たりうるもので、厄介なことに彼女の手札は無限に増え続ける。
なにしろ彼女はひとつたりともこぼさない。半永久的に記憶し続けることが可能であるからだ。
ともなれば、失言に気をつける以外の対処法は存在しない。
「では、先ほどの発言は記録しないかわりに、こちらの要望に応えていただきましょうか」
「えぐいのはやめてね」
「あら、心外ですね」
机をひとつ挟んで向かい合ったソファから立ち上がった生塩ノアは、先生が座るソファに腰を下ろして身体を密着させた。
そのまま彼の耳もとへ口を近づけると、彼女は囁くような小さな声で、吐息を触れさせた。
「今から先生に、黙秘権はありません」
「……!」
慌てて顔を離した先生は、驚いたように目を丸くさせて、くすくすと可笑しそうに笑う彼女と目を合わせた。
「そこでひとつ、先生に質問です」
ごくりと喉を鳴らした彼を嘲笑うかのような一瞬の静寂が、執務室を包み込んだ。
壁にかけられた時計の指針が重なる音と同時に、彼女は手札を整えた。
「先生。恋とは一体なんなのでしょうか?」
拍子抜けするほどに、それは純粋な疑問のように思えた。
間の抜けた表情を取り繕うこともせず、彼は彼女から目を離すことができなかった。
「……」
「ふふ。だめですよ、先生。黙秘権はありませんので」
いたずらに笑うと、生塩ノアは手にしたメモ帳をちらつかせた。
そうすると、彼は否が応でも口を開くしかなくなってしまう。
────恋とは一体なんなのか。
そんなものを理論立てて説明できる奴がいるのなら、今すぐにでもこの場に呼んでほしい、と彼は思った。
「……正直、恋がなんなのかというのを理論立てて説明できる人はいないと思うよ。同じ恋なんて、この世にひとつとして存在しないからね。つまり、統計がとれない。人の心が覗けるのなら、それを解明することもできたかもしれないけれど、『恋』と一口に言っても、その形は無数にあるわけで──」
「先生」
生塩ノアは
「詭弁が長いです」
有無を言わさぬ圧力が、その美しくも可愛らしい笑顔の裏に見え隠れしている。
「ですが、私の言い方にも語弊がありましたので訂正しましょう。〝先生〟にとって恋とは一体なんなのでしょうか?」
自身の心なら、いくらでも覗き込めるだろう、と。そう言いたげに流し目で先生の瞳を捕らえた彼女は、貼り付けた笑顔を崩すことはしなかった。
べつに、名前も顔も知らない誰かたちの恋が知りたいわけではない。
ただひとり──たったひとり、目の前の彼の心を暴きたい。
その心の内を覗かせてくれるなら、こちらの心をさらけ出すのもやぶさかではないと、そんなことを考えるくらいには彼女は彼の〝恋〟に興味があった。
「……『初恋』という言葉がある。文字通り、人生で初めての恋のことを指すんだ。初恋はね、大抵の人は思い出すことすらしないし、できないような些細なものだと思うよ」
「興味深いです。その口ぶりだと、先生にとってはそうではなかったのですか?」
言葉とは裏腹に、彼女はほんの少し、心の奥底で、聞きたくないと感じてしまった。
「うん。今でも覚えてるよ」
「……」
彼のその瞳が、自分ではない誰かを捉えているのがわかったから、彼女は言葉を紡げなかった。
名前も顔も知らない誰かの恋物語など、知りたくもない。名前も顔も知らない誰かと〝彼〟の恋物語は、もっと知りたくない。
知ってしまえば、それも忘れられなくなる。
後悔はいつも、あとにやって来るからタチが悪い。
好奇心と、わずかな期待で、パンドラの箱を開いた自分の愚かしさを、ただひたすら悔やんだ。
その箱の底には、ほんの少しの希望すら詰められてはいないのに。
「鮮烈だったよ」
そう言って苦笑した彼は、彼女とは異なる世界を見つめていた。
彼女はやはり、言葉を紡げなかった。
「恋は、〝忘れられない〟もののことなのかもしれないね」
「……」
「忘れられなくて、会いたくなったり。忘れられなくて、夜眠る前に思い浮かべたり。忘れられなくて、目で追ってしまったり」
それは──それは、核心ではないだろうと、彼女はそう思った。
忘れられないことが恋だというのなら、彼女にとってその全てが恋となる。
一番の親友である早瀬ユウカの笑顔も、声も、泣き顔も、怒った顔でさえ、鮮明に思い浮かべることができる。
しかし、会いたくなることはあるが、夜眠る前に思い浮かべることはない。目で追うことはあるが、恋ではない。
なら先生のことはどうだろうか。
会いたくなるし、夜眠る前に思い浮かべるし、目で追ってしまう。
声を聞きたくなるし、触れたくなるし、触れられたくなる。
つまり──と結論づけるまでもなく、生塩ノアは先生に恋をしていた。
「……私はそうは思わないですね」
「なら君にとっての〝恋〟をぜひお聞かせ願いたい」
「──!」
しまった──と、彼女は後悔した。
上手くのせられた。いや、嵌められた。
彼の狙いは
「お上手です」
「人は成長するものさ」
「初恋というのは?」
「もちろん、真っ赤なうそだよ。私は恋をしたことがない」
お互いに、冗談みたいな笑顔を衝突させた。
彼女が賢いことを、彼は知っている。
彼がバカではないことを、彼女は知っている。
「この話はここまでにしておきましょう」
言って、生塩ノアは手にしていた手帳をポケットの中にしまうと、くるりと身体を反転させた。
どうやら形勢は逆転したらしい。
「逃げるのは君らしくない」
「心外ですが、いいでしょう、先生。今日は先生の勝ちということで」
「勝負をしてた覚えはないんだけど……」
「珈琲を淹れてきます。おかわり、いかがですか?」
「……もらうよ」
執務室から出ていく彼女の後ろ姿を見送って、彼は短くため息をついた。
引き出せたものは、〝失言〟と呼べるほどのものではなかった。
勝負の舞台に上がるには、いささか心許ない手札だ。──彼女にとっての恋とは一体なんなのか、それを引きずりだせなければ、勝ち目は薄い。
「恋とは……。一体なんなんだろうね」
──その答えを、彼は知らない。
「……」
してやられたばかりだというのに、相反して口の
「……ふふっ」
──彼は恋を知らない。
だから、いつもは嗜める彼女がらしくもなく、彼が好む甘い珈琲を自ら作った。
「……これも、忘れられそうにありませんね」
真っ黒な珈琲と、相反して明るく甘い珈琲を同じトレーに乗せて、執務室へと戻っていく彼女の足取りはいつもよりほんの少しだけ、自分でさえ気づかないほどに、軽くなっていた。