「先生。恋とは一体なんなのでしょうか?」 作:星のかけら
星の消えた夜空を見上げて、少女は白いため息をひとつこぼした。
雪が降り出してしまいそうなほど冷え込んだ夜の公園の、寂れたベンチに佇んで、悴んだ手を擦り合わせて吐息であたためると、そのまま口もとで両手をきゅっと握りしめた。
いつの日か、こうして先生のことを祈ったことがある。
ただ純粋に、彼の幸せだけを。
彼の幸せが、彼女の幸せだった。
彼と彼女、ふたりのための祈りが、いま冬空の下で溶けていった。
いつからだっただろうか。自分でも歯止めがきかなくなるくらいに、彼に惹かれていったのは。
いつからだっただろうか。
自分のための祈りに変わってしまったのは。
「先生。恋とは一体なんなのでしょうか?」
本日のシャーレ当番として訪れた伊落マリーは、ソファに腰かけながら開いた一冊の小説で口もとを隠して、見上げるように先生に目を向けた。
その問いにゆっくりと顔を上げた先生は、彼女の口から『恋』などという単語が飛び出たことに驚きつつも、表情だけは至って冷静だった。
「鯉?」
「はい。恋です」
「……見たことないの?」
「……? 恋とは目に見えるものなのでしょうか?」
「そりゃ鯉は目に見えるものだよ。むしろ目に見えない鯉を知らない」
「そうなのですか?」
彼は冷静ではなかった。
清純、純粋、無垢、およそこの世の穢れなき言葉全てが彼女のためだけに作られたのではないだろうかと錯覚するほどに清らかな彼女の小さくて潤いがあって思わず人差し指でそっと触れたくなってしまうような可愛らしいお口から、『恋』などという言葉が飛び出たのだ。
もちろん冷静ではいられまい。
キャパシティがオーバーしてしまうのも無理はないだろう。
なにせ彼女は立派なシスターを志しているのだ。恋などするはずがない。恋〝など〟と言ったが、恋はべつに悪いものではない。だが伊落マリーが恋をしたというのなら、その報告は先生にとってはショックだろう。
虚しい。全ては虚しい。……しかし、たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない。
彼女が恋をしたというのなら、心の底から応援し、その恋が上手くいくよう尽力する所存ではある。ただ相手が本当に彼女と釣り合うのか見極めるため大人のカードを使うことも辞さないというだけで。
「鯉は縁起がいいんだ」
そうしてオーバーフローした先生の脳内では、恋ではなく鯉だという結論に落ち着いた。
「縁起?」
「しかも美味しいらしいよ」
「美味しい」
もちろん、というのもなんだが、伊落マリーはどこぞの誰かに恋をしているわけではない。
ただ彼女は、シャーレオフィスの本棚の端ですっかり埃をかぶっていた一冊の恋愛小説を手に取り、ただなんの気なしに読み進めていただけだった。
その小説に出てくるヒロインは『恋』というものを知らなかった。その小説に出てくるヒロインは感情の起伏や口数が少なく、周りからサイボーグのようだと言われることも多々あった。その小説に出てくるヒロインは、無表情だが無感情ではなかった。
そのヒロインはあることをきっかけに、ひとりの男性をふと意識するようになっていった。
そのヒロインは、ひとりの男性に問いかけた。〝恋とは一体なんなのでしょうか?〟。
最終的にその小説で語られた〝恋〟とは、『答えのないもの』だった。わからないから理解したくなり。わからないから惹かれるのだと。最初から最後まで、わからないことの方が多いから、だからどうしようもなく好きなのだと。
そんな詭弁や欺瞞で綴られた小説が、伊落マリーの心にひとつ、大きな穴を空けた。
────恋とは一体なんなのか。
目の前にいるのは教職者であり、彼の役目は生徒を教え導くことである。
であるならば、彼女の純粋な疑問にも答えるはずであり、答えるべきである。
「先生」
「川! そう、川や池に生息している淡水魚で──」
「先生」
「寿命もとても長い。飼育魚だと100年くらい生きる鯉も──」
「先生」
真冬の澄んだ青空のような、鮮やかで強烈な、フロスティブルーのような瞳が彼をじっと捉えていた。
「恋とは一体なんなのでしょうか?」
「鯉」
「恋です」
「恋……」
鯉についてなら一般常識程度のものであれば語れる先生も、恋については語れない。
故意や虎威の説明ならできるが、恋の説明はできない。
つまり、彼は恋を知らない。
しかし、彼女の純粋無垢な瞳が、悪気なく先生の退路を絶っていた。
「……恋は、そうだね。説明のつかないものなんだ」
「それはどういう……」
「真冬の夜空の下でさえ、手を出せば凍えることを知っていながら、手袋を外して手を握りたいと思ってしまうようなもののことなんだ」
「……?」
「えっと、つまり、あれだよ。ほら、なにごとも実際に体験してみないとわからないってことだよ」
「実際に、ですか」
先生は右往左往目を泳がせた。
詭弁や欺瞞で彼女を納得させようとしたが、彼女のまっすぐな瞳に、あえなく白旗をあげた。
こうなれば、彼女が満足するまで付き合うべきだと、そんな結論に至った。
「そう。私を恋人だと思って、実際に恋人同士がするようなことを体験してみよう。つまりこれは、『伊落マリーの擬似恋愛録』だ」
「わ、私と先生が、ですか?」
「私と、君が。まずはそうだな、触れ合いを実行しよう」
言って先生は、執務机から立ち上がり、伊落マリーが腰かけるソファまで歩いていくと、その隣へと腰を下ろした。
彼女は咄嗟に手にしていた小説を膝の上に置いて、いつもよりずいぶんと近い距離で感じる彼の匂いに、鼓動を少しだけ速めた。
「手を出して」
「……っ、はい……」
まるで手相を占ってもらうかのように、両の手のひらを上に向けて差し出した彼女の指先にそっと触れて、彼はそのまま彼女の両手を包み込むように握った。
「……ぁ」
「どう?」
問いかけると同時に彼は、左手をほどいて、右手を握り直した。
彼女の左手と、彼の右手が、指と指を絡めて繋がっている。
左手が熱を持っている。
彼女の両耳はへにゃりと折れて、ドクドクと心臓が早鐘のように音を鳴らした。
「……」
至近距離で見つめあって初めて、彼女は気づいた。
彼のまつ毛は、意外と長かったのだと。
唇が少しだけ乾燥していることにも、いま初めて気がついた。
彼の優しげな瞳が、自分を捉えていることにも。
「……まだ、よくわからないので、握っていてもいいでしょうか……?」
「どうぞ」
ふっと、いたずらに彼は笑って、ほんの少しだけ握っていた手に力を込めた。
それに相反して、彼女の手は蕩けるように握る力をなくした。
みるみるうちに赤く染まっていく、俯いた彼女の愛らしい頬に触れようと、空いた左手を上げかけた彼は、すんでのところで思いとどまり、ふと思い出したような声をあげた。
「〝恋愛は幸福を殺し、幸福は恋愛を殺す〟」
真上から降り注いだ彼のどこか不満げな声に、彼女はぱっと顔を上げた。
「……それは?」
「さあね。どこかで聞いた言葉だよ。誰が言ったのかは覚えてない」
「どういう意味なのでしょう?」
「どうかなあ。本人に訊いてみなきゃわからないけど、私は自分が苦しむか、相手を苦しませるか、恋とはそういうものだと、そんなふうに聞こえた」
「……」
彼女は押し黙った。
結局恋とは、幸せになれるものではないのかと。
沈んでいく彼女に、彼もまた言葉をかけることはできなかった。
「私は……」
幾許かの時が過ぎて、ようやく静まり返っていた執務室で、時計の針が動く以外の音が、静寂を破った。
「私は、楽しいことばかりではなく、苦しいこともあるのだと、そんなふうに聞こえました」
「──なるほど。それは素敵だ。それが君の答え?」
「いえ。まだわからないことばかりです」
ふたりの間に笑顔がこぼれて、あたたかな陽の光が差し込んだ。
未だ握り合ったままの手は、彼女の方が少しばかり力を込めて、先ほどにも増して強く繋がった。
彼女の手だけからこぼれ落ちていた熱は、いつしか彼のものとも混じり合っていた。
「あの、そろそろ離さない? さすがにちょっと、恥ずかしくなってきて……」
平静を装っていた彼も、彼女の熱にあてられて。
「──! ふふっ。まだ、だめです」
またひとつ。かわいい一面もあるのだと気づいた。
恋とは。
恋とは一体なんなのか。その答えを、彼は知らない。
その答えを、彼女は知らない。
「マリー……」
「はい。なんでしょうか」
「いや……」
恋とは、知っていくことなのかもしれない。
恋とは、答えを探していくものなのかもしれない。
恋とは──
「先生」
「……なに」
恋とは一体、なんなのか。