ばんえいウマ娘、北の大地を駆ける 作:mzk_arachne
──21──
八月中旬。
短い夏を必死に生きる蝉の声が、もう陽は落ちたというのに帯広競バ場にも響いています。いくら北海道と言っても夏であれば日中の陽射しは、そうそう内地と変わりありません。ギラギラとした光芒が、地面に濃い影を作ります。ですが、ナイター開催の今時期は第10競走ともなれば太陽は地平線の彼方で既に閉店済み。人工の眩しい光が、いなくなった太陽に代わって濃い影を地面に作りだしています。
あたしが出走するレースは第10R、白菊賞、特別競走です。
あたしに遅れて同クラスに昇格したグラムさんですが、今回は出走していません。なんでも夏は特訓に充てて別レースに出るそうです。
夏だけあって、観光シーズン真っ盛りの北海道。さすがは十勝の中心都市、帯広です。観光客が上ノ国よりもはるかに多い。観光資源としても売り出しているばんえい競バなので、スタンドにも観光客の皆さんが多めです。
パドックでジャージを翻せば、歓声も今までになく大きい。
外国語も飛び交っていて、そんな多国籍な歓声に両手を振って応えます。
そうです。寂しいからってへこんでばかりではいられません。
頑張りますよ!
勝ちますよ!
今日のあたしが曳くばんえい重量は、2900kg。
体の方は、まずまずの好調です。
天気は、晴れ。白く輝くナイター照明で星は良く見えませんが、うっすらと夜空にたなびき、風に流されていく雲が風情を感じさせます。雨は降りそうにありません。明日も圃場の水やりが大変そうです。
『高く抜けるような夏の青空から夜空に代わりつつあります帯広競バ場、場内にはまだまだ夏の熱気が残ります。第10競走は特別競争、白菊賞。本年度の期待のジュニア級10人のばんえいウマ娘たちが競います。そろそろゲートイン完了です』
『昨日は夕立がありましたが、この暑さですっかり乾いています。バ場水分が低く重バ場となりますので、橇が引きづらいかもしれませんね』
あたしは握った左右の拳で、自分の太腿をトントンと軽く叩きます。がっちり締った、あたしの武器。
「日本の米はぁ……」
そのまま右拳で左肩、左拳で右肩を。
パァン!
最後に両手が頬を張った乾いた音が、辺りに響きます。
「世界一ぃ!!」
むふんっ!と鼻息が荒れます。
あたしのルーティーンに、観客席の多国籍な歓声が一層大きくなります。
『10番カミノクニスノウ。気合充分!いい顔してますね!他の出走バも揃って気合が入っています!本レースはどこが見どころになるでしょうか?』
『そうですね、デビューから連勝している10番カミノクニスノウが今回も台風の目となれるかどうかではないでしょうか。しかし、それだけに他からのマークも厳しくなっていると思われます』
『夏の暑さに負けない熱戦に期待しましょう。さぁ各ウマ娘、ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
スターター台の上で、発走委員の持つ赤い旗が、まるで指揮棒のようにファンファーレに合わせて振られます。
『いま……係員が離れてゆきます』
一瞬の静寂。
ゲートが開きました!
『各ウマ娘、一斉にスタートしました』
結果は、3着。
係員がワラビ型とハーネスから、ばんえいウマ娘と橇とを繋ぐ胴引きやかじ棒を外しても、あたしは下を向いたまま動けませんでした。
髪から顎から汗がぽたぽたと滴り落ちては、足元の砂を濡らして、そのまま消えていきます。
『着順が確定しました。1着、4番クインルゴサローズ。2着、5番モチモッツァレラ。3着、10番カミノクニスノウ』
場内に響く着順確定のアナウンスに、あたしはまともに前が見れませんでした。いや、アナウンスで知らされる前から、この結果は分かり切っていました。それは自分が良く知っています。
3着。
着順だけ見れば、そこまで悪くはない結果です。それが全力を尽くした結果であれば、ですが。
『1着の4番クインルゴサローズですが、終始見事な曳きでした。2着は5番モチモッツァレラですが、今回は前走でのように粘り切れませんでしたね』
『クインルゴサローズはジュニアながらに将来性を感じさせる豪快な走りで、見事な勝利でした。惜しくも3着に敗れた10番カミノクニスノウですが、連勝は三でストップです。今回は奮いませんでしたね』
『終盤に巻き返して3着に入ったのは流石と言うべきですが、序盤の遅れが最後まで取り戻せませんでした。どうも動きが鈍く見えましたし、夏バテでトレーニングの疲れが残っていたのかもしれません』
解説と実況が冷酷に追い討ちをかけます。
別段、そんな意思はなくて普段通りに仕事をしているだけなのですが、あたしにとっては追い討ち同然でした。
負けた原因が疲労残りとかでしたら、どれだけ救われたでしょう。負けた理由は、そんな格好いいものではありません。
こちらに駆けよってくるトレーナーさんの足音が聞こえます。
「大丈夫か?スノウ君!!」
ふいっと向けたウマ耳に、トレーナーさんの慌てた声が届きます。
大丈夫ですよ、トレーナーさん。
身体は万全ですよ。
あたしは力なく尻尾を振るだけでした。
スタートは最高でした。
スタートだけは。
そこからは最悪でした。
目の前の開閉扉が開き、ベストのタイミングで飛び出した先に広がるのは砂のコース。35メートル先には1メートルの高さがある第1障害。その起伏の向こう、真夏の直射日光に焙られ続けて溜め込んだ熱気を未だに放出していて空気が揺らめく先に、第2障害の頂きが見えます。
どうしてそんな事が起きたのか、自分でも分かりません。
コースに一足踏み込んで、そこでふと頭に浮かんだのは、おばあちゃんお母さんお父さん四人の妹達に猫達にどきゅーとタイシン。
どうして、あたしはここにいるんだろう。
足元がすとんと抜けたかのような、現実感の喪失。
それは一瞬にも満たない時間でしたが、それでも噛み合った歯車が仕事をしなくなるには十分でした。
ふ、と弛緩して起きる上半身。
上手く前方への力を伝えられなくなったばんえい重量は、その隙を許さずにベクトルを真下に向けて、あっという間に速度が鈍りました。
しまったと思った時には、もう遅い。
一人だけ、スタートした途端に、もう一回あらためてスタートを切るようなものでした。
他の子達が一斉に第1障害に向けて曳いている様子に、急いで追いつかなければとムキになりますが余計に力が入ってしまって、蹄鉄は足元を深く抉ってかき毟るばかり。
まるで初めて荷物を引っ張る幼いばんえいウマ娘のように、動きはちぐはぐ。呼吸のリズムは取れない。
一人だけ砂の中を泳いでいるような、力が全く伝わっていかないようなもどかしい感覚。
なんとか第1障害までたどり着いても助走で速度が稼げていない上に、元からパワーが無いのに加えて狂ったリズムでは、第1障害を越えるのにすら手間取る有様でした。
「ふぅっ!……はっ!……ふぅっ!があぁっ……!」
溺れた人間が岸に這い上がるような様で、第1障害を越えて目に入ってきたのは、続々と第2直線を進んでいく他の子達の背中と橇のお尻でした。
得意の先行策でペースを掴めない。
逆にペースが乱れている上に、離れていく橇の後端に焦り、それがさらに焦りを呼びました。
「いかせない……いかせないっ!」
第2直線でわざと何回も刻んで、なんとか自分自身のペースを取り戻そうとして、ようやく落ち着きと呼吸のリズムを取り戻せたのは第2障害直前でした。
第2障害の途中で膝を折りかけましたが、何とか堪えて、二腰で越えます。ここはトレーニングの成果でしょう。
第2障害を一気に降りきったその後はもうテクニックも何もない、意地とスタミナ任せの追込みでした。幸いにして、他の子よりも豊富なあたしのスタミナはまだ残っていました。
「だぁりゃああああっっ!」
叫びながら。
一人。
ざっし、ざっし、と重々しくもリズミカルに砂を蹴立てて、気合と共に追いつき。
また一人。
抜きました。が、先頭には届きません。
速度を上げようとしますが、足が重い。手が重い。全身が重い。自分の筋肉の癖に言う事を聞かず、金属の棒にでもなったかのようでした。
あたしの追込み劇に場内が沸きました。傍から見れば、最後尾付近からの豪快な捲りに見えたことでしょう。
あと少し。
あと二人。
もう少しで並ぶ。二人が足を止めました。
これから!と思ったら、そこは既にゴールラインを過ぎていました。
あたしは、ゴールラインの位置すら見えていませんでした。
ざりっと砂を踏みしめ、あたしの前を誰かが塞ぎました。
同期の中でも飛びぬけてフィジカルに恵まれた、あたしよりも頭半分は大きい姿。上背はばんえいウマ娘としては平均的ですが、台風が吹かせる強風にも平気で抗えそうな安定感のある足回り、みっしりと筋肉の詰まった分厚い肢体。それでいて出るところは平均以上に出ているメリハリのある豊満な体付き。
「あの~、カミノクニスノウさん?」
1着のクインルゴサローズさん。
北海道の花と言われるハマナス。北海道110年を記念して一般公募を行って多くの意見を募り、北海道にふさわしい花として制定されました。そのハマナスの別名はルゴサローズ。つまり彼女の名前であるクインルゴサローズとは『北海道を代表する花の女王』の意味合いになります。
身長もあって胸も腰回りもガッチリしており、まさに恵体といったスタイル。長く緩やかにウェーブした綺麗な芦毛。
名前通りの、大輪の花のような雰囲気をしたばんえいウマ娘です。
スッと、彼女の右手が、あたしの前に差し出されました。
「良いレースをありがとうございました~」
こちらも差し出された手を取り、互いの健闘を称える握手を交わします。
「……と言いたいところなのですけどぉ、私、強い方と闘(や)りあいたくてレースに出ていましてぇ。せっかく期待のカミノクニスノウさんと闘りあえるので楽しみにしていたのですが、残念でしたわぁ。次も腑抜けたご様子でしたらぁ……今度はぶっ潰してさしあげますねぇ」
「――ッ!」
右手に突然走った痛みに、思わず顔が歪みます。
終始にこやかなクインルゴサローズさん。
その笑顔とは裏腹に、彼女の右腕には血管が浮きあがり、握手したままの右手が油圧プレス機もかくやの剛力を掛けています。
あたしの応えはほとんど反射行動でした。
瞬時に重心が右足に寄ります。俄然、前腕筋群に力が入り、クインルゴサローズさんの岩をも砕かんばかりの握力を迎え撃ちます。
負けてたまるか。
そう意識が追い付いてきた時には、二つの右手はギシギシと音を立てんばかりに目立たず激しい力の応酬を繰り広げていました。
噛み締めた奥歯が、ぎりりと軋みます。
眉根は寄り、クインルゴサローズさんの目を真っ直ぐに睨みつけます。ウマ耳がぎゅっと絞られます。
時間にすれば、ほんの十秒足らず。
クインルゴサローズさんはにっこりと微笑み、ふっと力を抜いて、握手を解いて、
「では、ごきげんよう~」
来た時と同じように悠然と去っていきました。