ばんえいウマ娘、北の大地を駆ける 作:mzk_arachne
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クリスマスは、レース直前だというのに大騒ぎでした。
帯広トレセンと帯広市共催のクリスマスイベントに駆り出されました。しかも、何台ものバ車を曳いて近くの幼稚園を訪問するイベントなのですが、そのうちの一台を曳く役を任されました。橇ではなくタイヤが付いているので、道路を進む分にはあまり負荷はかかりませんでしたが、それにしたって暗い夜道はピカピカのお前の車体が役に立つのさとばかりに電飾の施されたバ車は目立ちました。沿道からものすごく注目を集めるので恥ずかしかったのですが!
レース場でなら注目と声援を集めるのはむしろ望むところですが、それとこれとは話が別です。
まさか、赤鼻とトナカイの角をつけて、トナカイのコスプレをしてバ車を曳くとは。
今にして思い返せば、赤鼻のトナカイ特別を前にしてのトレーナーさんの言葉。あれは、このイベントがあるのを知っていたのでしょう。
トナカイコスプレのまま仕事を終えて寮に帰ってくれば、待っていたのは帯広トレセン学園寮の恒例行事、クリスマスのザンギ祭り。
ザンギとは北海道での鶏の唐揚げのこと。いわゆる普通の鶏の唐揚げと比べると味付けが濃く、揚げる前に鶏肉を醤油ベースの甘辛いタレに漬けこんで作られるのが特徴です。このタレのレシピも道内の各地方や各家庭で伝統とこだわりがあります。
今では鶏肉の唐揚げ以外にも、食材に衣を付けて揚げたものがザンギ扱いされています。
そして、帯広トレセン学園の寮では、ザンギ祭りの名の通りにクリスマスにはチキンではなく、あらゆる種類のザンギが振舞われます。鶏ムネ、鶏モモ、骨付き、骨無し、タコ、シャケ。珍しいところでは鹿肉まで。
レースに出るばんえいウマ娘には、人並みのクリスマスも年末年始もありません。
そんな普通の時間感覚を忘れてしまいそうになるウマ娘への心遣いなのでしょう。この時期にレースに出ない先輩方や寮母さん達が、帰省を遅らせてでも毎年開いてくれているそうです。クリスマスと言えばケーキなのでしょうけれども、身体作りの一環でスイーツは制限している子達も多いので、肉です。
日常がそうしたドタバタで慌ただしく過ぎていき、臨むのはBGⅡヤングチャンピオンシップ。
ジュニア級三冠の二戦目。
当然ながら、勝ちを狙って走ります。既にあたしは一冠を手に入れていますが、二冠目を狙うのを贅沢だとは思いません。
ナナカマド賞の時と同じ。進み始めたからには、前に進むしかありません。
出走権のあるシャコータングラムさん、クインルゴサローズさんは既に出走登録しています。
モチモッツァレラさんですが、彼女は北央地区選抜特別でクインルゴサローズさんとぶつかりました。
北央地区選抜特別での1着はクインルゴサローズさん。
モチモッツァレラさんは2着でないと、ヤングチャンピオンシップの出走権が得られません。
そしてモチモッツァレラさんは北央地区選抜特別で、クインルゴサローズさんに敗れたものの、2着。つまり、何かの因縁でもあるかのように、四人の戦いが再び巡ってきました。
十二月二十九日。第11R、BGⅡ、ヤングチャンピオンシップ。
本日のメインレースです。
北海道各地の選抜レースを勝ち抜いた強豪が競い合う「ばんえい甲子園」の決勝戦。
シャコータングラムさん、クインルゴサローズさん、モチモッツァレラさんも出走です。
やはりと言うか、体も心の芯も強いメンバーが出てきました。良く知っているこの三人以外だって強い人が勢揃いしています。特に強豪地区の十勝出身者が怖い。
一冠所持者として出走するあたしを、他の九人全員が見ているような気さえしてきます。いえ、確実に見ているでしょう。
前走の赤鼻のトナカイ特別では、それが分かっていませんでした。でも、もうマークされるという事がどういう事なのか、分かりました。
こっちだって出来る限りのトレーニングは積んできているのです。敗北は喰らって栄養に出来ている筈です。
受けて立ってやる。
強者揃いの舞台ですが、それに応じるかのようにして胸の奥から湧き出す想い。
走りたい。
曳きたい。
勝ちたい。
走って、曳いて、こいつら全てに勝ちたい。
それらが入り混じったものが、ふつふつと胸の奥で煮え立っていきます。
煮え立つそれらが鍋が吹きこぼれるようにしてドロリと溢れ出てては、ゆっくりと頭の中を上書きしていく感触。
眼の奥が徐々に熱くなる。
およそまともから離れていくというのに、うっすらと笑いが零れるのが自分でも抑えられません。
「スノウ君、逸るなよ」
トレーナーさんが、あたしの肩を軽く叩きます。
あたしの肩に置かれたままのトレーナーさんの手。
そこから、微かな振動が伝わってきます。
そうです。あたしとトレーナーさんは二人で一つのチーム。新人が二人の、完璧には程遠いチーム。
GⅡに挑戦するのは、あたしが初めてであるように、トレーナーさんだってそれは同様です。
それに思い至った途端、頭の中がスーッと冷えていきます。ヒトは他人の何かしら拙いところを見せられると、スイッチが切り替わったように意外に冷静になれるものです。先に不味いことになりかけていたのは、あたしですけれども。
「あたし、顔に出てましたか?」
「思いっきりね。やる気があるのは良いが、飲まれてはダメだ。落ち着いていこう」
ポンポンと数度、肩を叩かれます。
その言葉は、トレーナーさんが自分自身に言い聞かせているようでした。いえ、事実、そうなのでしょう。
「助かりました、さすがはトレーナーさんですね」
すー。
ゆっくりと、大きく深呼吸します。冷たすぎる空気を一気に吸うと、冷たさに慣れていない喉と肺が刺激されて咽てしまうので、あくまでゆっくりと。
年末の十勝。すでに最高気温が氷点下なのも珍しくなくなってきています。第11Rともなれば出走時刻は、日はすっかり暮れた19時半過ぎ。
容赦のない冷たさの空気が肺に入り込みます。
パドックの手前。今いる装鞍所は、控室から出てきた各選手がいったん集合して、レース前のウォーミングアップやハーネスなどの装具の装着と調整などを行う場所です。
装鞍所は屋根と業務用大型石油ストーブがあるとは言え、壁二面が大きく開口されており、ほとんど屋外と変わりありません。パドックに出た時の温度差が選手に影響しないように、体を慣らすためにもわざとそうしてあるのです。
あまり広いとは言えない装鞍所の中で、各々が好き勝手に短距離ダッシュを繰り返したり、軽いHIITやストレッチをしたりと黙々と戦闘準備を整えています。
そういう意味では、こちらも身体の戦闘準備は完了しています。
身体中の筋肉には血と酸素が送り込まれて膨れ上がりつつあり、露出した肌にはうっすらと汗が浮かんでいます。
ふー。
緩やかに長く吐き出した息は熱く、マイナス10℃近くにまで落ちた外気に触れて足元まで届かんばかりの白息となります。
そうして、今さっき、心の戦闘準備も整いました。
「パドック入場でーす!」
係員さんの声が、装鞍所に響きます。
レースはもう間もなく。
装鞍所の空気が、一気に張り詰めます。
「さて、時間だな。積み上げられるものは積んだ。あとは積んだもの全て出し切れると自分を信じろ!いっておいで、スノウ君なら勝てる!」
「はい!いってきます!」
ばんえい重量は、3000kg。
天気は、雪。
レース場の砂を蹄鉄が噛み、湿った音を立てます。
もうロードヒーティングが入っていますので、よっぽど雪が激しくない限りはコース内には積雪しません。その代わりに、降れば降るほどに雪は溶けて砂を濡らしていきます。
砂の上で蹄鉄をギュッギュッと捻って、足元の締まり具合を確かめます。
『粉雪が舞い散るあいにくの空模様、帯広競バ場。ダート直線200m、十人のばんえいウマ娘たちが挑みます。本日のメイン競争は第11競走、ヤングチャンピオンシップ、BGⅡ。ばんえい甲子園決勝戦となります。基礎ばんえい重量は3000kg。天候は雪。バ場水分は2.5%。バ場状態の発表は良となっています』
『ジュニア級二冠目のレースとあって観客席には、多くのお客さんが来場しております。日没を迎えてから雪が勢いを増してきていますが、皆さん、スタートを今や遅しと待ち構えている様子。バ場が湿っていますので、スピードの出るレースになりそうですね』
流れるアナウンスに場内が、ワァッと沸きます。
人が多い。
ナナカマド賞の時よりも、いいえ、あたしが走ったレースの中で一番観客が多い。
出走する子達に頑張れ、負けるな、とかけられる声援が大きい。
その声援は今までのようにパラパラと礫のように投げつけられるのではなく、音の塊がぶつかってくるかのよう。三階建てのスタンドそのものが迫ってくるかのような錯覚さえ引き起こします。
「あっは!あたし、大人気じゃないですか」
「いやいや、ありゃウチを応援してくれてるっしょ」
思わず零れ出ていたのが耳に入ったようで、グラムさんが応じます。
「あらあらぁ、皆さま、何か勘違いしてらっしゃいますわねぇ。お客様方は私の勝利を祈ってくれているのですわぁ」
とは、クインルゴサローズさん。
「あの、あの、お客さん達は私に勝って欲しいと思ってるかなって」
応じるモチモッツァレラさん。
みんな面白いことを言いますね。
今日はばんえい甲子園の決勝戦。トライアルレースを勝ち抜いた相手です。誰も彼も手ごわいに決まっています。でも、それがどうしたって言うんですか。荷が重くたって、相手が強くたって、それは前に進むのを躊躇う理由にはならず、重荷を曳いて前に進んでこそのばんえいウマ娘。
勝つのは、あたしだ。
ふーっと大きく息を吐き、ゆっくり大きく吸う。ぶはーっと吐く。
吐き出した息は真っ白く、足元まで届きます。それが十人も並んでいるのですから、まるでゲート付近だけ霧に包まれているかのようです。
あたしは握った左右の拳で、自分の太腿をトントンと軽く叩きます。
ウォーミングアップで十分に血流が送り込まれて膨れ、カットの深くなった大腿筋。
「日本の米はぁ……」
そのまま右拳で左肩、左拳で右肩を。
三角筋に上腕三頭筋。
パァン!
最後に両手が頬を張った乾いた音が、辺りに響きます。
「世界一ぃ!!」
熱くなった筋肉達。あたしとトレーナーさんが鍛えた仲間達が、ゆらりと湯気を立てて今か今かと出番を待っています。
眼の奥から後頭部にかけて、じわりじわりと熱くなる感覚。
出走が近づくにつれて、自分の眼付きが、どんどんきつくなっていくのが分かります。
それは周りも同様。ゲート内に納まって装具と橇が連結されるのを待っているばんえいウマ娘達の気迫が、まるで熱を帯びた空気のように広がっているのを感じます。
それが、さらにあたしの心を熱くします。
そうしている間にも肉体の方はスッスッと細かく浅い呼吸を繰り返して、血と肺と筋組織に酸素を詰め込んでいきます。
実況と解説は、上位人気の子達の紹介をしています。
『続いて8番人気ですが、注目の9番カミノクニスノウ』
あたしですか。
『前走は残念な結果に終わりましたがデビュー戦から好成績を収めており、ナナカマド賞、南北海道地区選抜特別を制しています。その実力は侮れず、ジュニア級の台風の目である事には変わりありません。あの"上ノ国の女傑"の孫が一強の時代を築くのか、はたまた三冠を取り合う乱世となるのか。年末の寒さを吹き飛ばす熱いレースが見られそうですよ』
普段とは違う重賞競走のファンファーレ。
音もなく空から落ちてくる粉状の雪に吸われる事なく、勇ましく場内に響きます。
スターター台の上では赤い旗が天を指し、ついで降る雪をかき回し払い除けるかのように、ファンファーレ同様に勇ましく振られます。
『予選を通過したそれぞれの地を代表するウマ娘達が今宵集結。ジュニア級の二冠目、ばんえい甲子園決勝戦。さぁ十人のウマ娘全員、ゲートイン完了の様子。ばんえいフルゲートです!すべての係員が離れまして……出走の準備が整いました』
時間がゆっくり引き延ばされるような感覚。
世界に自分一人だけになったような静寂。
ガコン!
居並んだ十人のばんえいウマ娘達の視界を塞ぐ、金属の扉が一斉に開きます。
『合図かかって、各ウマ娘、一斉にスタートしました』
橇とウマ娘をつなぐ装具が一斉に、十二月末の冷えた空気を震わせて、盛大に鳴り響きます。
「だぁりゃあぁぁぁっっ!!」
十人のばんえいウマ娘が、怒号と共に一斉にゲートから飛びだしました。
『お待たせしました、帯広競馬場。本日のメイン競争、ヤングチャンピオンシップ、BGⅡ。各バ、揃って良いスタートを切りました』
盛り上げようとする、勢いのある場内に実況が響きます。
実況に応えて、観客席から沸き起こる声援。
目の前の扉が開くや否や、気合と共に一気に全身の筋肉をフル稼働させます。今までのトレーニングは、この瞬間の為。
濡れて締まった砂に蹄鉄がばんえいウマ娘のハイパワーで叩きつけられて、鳴き砂のように足元で鳴ります。地面を踏みしめ、地面から押し返される力を受け止め歩を進めます。高い引っ張り強度を誇る強化繊維で編まれたハーネスが軋み、装具と橇はあちこちがぶつかり合って甲高い金属音を立て、チェーンは鳴り、まるで発進する貨物列車のようです。
3000kgは重い!
ですが、もう慣れた重みです。
猛前とモチモッツァレラさんが飛び出しました。
逃げの彼女ですが、今日はひと際速い。バ場がしっかり濡れて締まっているのもあって、3000kgのばんえい重量を物ともせずにバ群から抜け出します。
無理には追いません。
ここで競り合う必要はまだ無い。
こちらの手の届く範囲内にいるようにして追走すれば十分です。
『各バ、一斉に第1障害に向かいます』
今日は雪で砂が濡れて良バ場です。バ場が軽いという事は、パワーが無くてもスピードが出しやすいという事。つまりは、あたしの不利を帳消しにできます。
『押して押して5番モチモッツァレラ。それを1番クインルゴサローズがピタリと追う』
怒号と共にクインルゴサローズさんが押して出ます。
逃げではなく先行の彼女が今から?
調子はそれほど良いようには見えませんでしたが、それだけ今日のバ場はスピードが乗ると判断しての事でしょう。
ならば、こちらも先頭が射程圏内に入る程度には追いましょう。
ピッチを上げて第1障害に進みます。隣のグラムさんも同じ考えだったようで、こちらよりやや早めの速度で追います。
『さらにあとから10番シャコータングラム。続いて9番カミノクニスノウ』
いける。
そう思った矢先。
足の裏に違和感。
右足を一歩踏み込むと、足の裏が何かに乗っかっているかのように僅かですが確かにズレます。それは例えるなら、床の上に落ちた紙を知らずに踏んで歩いた時のような感じでしょうか。
砂が凍ってスリップしているのではありません。事実、左足はしっかりと砂を掴んでいる。
『5番のモチモッツァレラ、先行して1障害を下りました』
第1障害を登り始めて、その違和感はさらに大きく激しくなりました。
斜面に蹄鉄がかかる。地面を踏みしめる。地面を踏んだはずの爪先がカクッと落ちる。
落鉄。
脳裏に浮かんだその単語に、ゾワリと背筋が粟立つ。
シューズ裏にしっかり固定されている筈の蹄鉄がズレている。
しかも完全に落ちてたのではなく、シューズとの固定が中途半端に外れて、蹄鉄がシューズから浮いている状態でしょう。
なんで、と思いかけましたが、瞬時にその疑問を放り投げます。今は状況に対応するのみで、原因を探るのは後でする事。今は一瞬の遅れが命取りとなる。
この中途半端にふわふわ滑る感覚は危険です。蹄鉄が砂を噛んでいるのかどうかがよく分からない上に、しっかり地面を踏んでいると思ってもガタついている分、踏ん張った途端にガクリと滑る。しかもいつ完全に外れるかが分からない。
ばんえい競バのルールとして、スタートして第1障害までは足を止めることが許可されていません。もしストップしてしまったら競争中止扱いになる。
だったら!
『出遅れていた9番カミノクニスノウ、ハナ木に足が当たっている。これはアクシデントか?』
ガギン!という破壊的な金属音。
右足を一歩進めるたびに後ろ蹴りの要領で、橇の先頭の反りかえった部分に付いているハナ木を蹴りつける。蹴りつけた衝撃で外れかけの蹄鉄を完全に振るい落としにかかります。
数歩進んだところで、何かが飛んでいく感覚がありました。右足だけわずかに軽くなったのが分かる。
違和感はなくなりましたが、これで右足はグリップ力を失いました。
『5番モチモッツァレラ先頭、1番クインルゴサローズがこれに続きます。あとはほぼ横一線。なにかトラブルがあったようです、9番カミノクニスノウがやや遅れている』
それでも何とかして第1障害は越えました。
斜面に踏ん張ってパワーで橇を引き上げないといけない障害と違って、直線ならまだ何とかなる。
違う。
頭を振ります。何とかしてみせます!
第1障害を降りる勢いを利用しつつスピードを上げて曳きます。第2障害を考えると、ここで前に出ておきたい。
かなり曳きづらく余計な力を使っている感じはありますけど、まだまだ足は残っている。この第2直線で前に出ておかないと差しの子達の末脚に負けかねない。
まだ、いける!
『うち2番、3番、外は8番。さぁ刻んだ。7番、間があいて9番カミノクニスノウが後ろです』
ここで8番手とは。
ずっと奥歯は喰いしばりっぱなしですが、内心、歯噛みします。
輓曳するのは3000kg。トレーニングで慣れてきたとは言え、腐っても重賞クラスのばんえい重量。
逸る心に任せての直行は無理です。
息を入れるのを疎かにしてスタミナを保てるほど、3000kgは軽くない。
『一旦刻んで……また歩きます』
前は周りの動きに飲まれましたけど、今日は他の子達の動きは気になりません。正確に言えば、爪先に感覚を集中させているので気にしている余裕が無い。
「おぉ……りゃあっ!!」
ズズッと3000kgが砂の上を滑る。
繰り返しのトレーニングで、確かにあたしパワーは上がっていました。
トレーナーさんの狙い通り、パワーのかけ方が上手くなったのでしょう。バイキを掛けた時に、橇が動き出すまでの時間が早い。
『5番モチモッツァレラ苦しいか、苦しい。さあ1番クインルゴサローズが追い抜いた。後ろを少し離して今、2障害の手前に来ました』
芦毛を振り乱し、咆哮しながらのクインルゴサローズさん。
『ここまで前半34秒で来ています』
長いようで短い30秒。
バ場が良いだけに時計が早いです。
あたしも早めに追撃しないと間に合わなくなる。
『1番クインルゴサローズ。2番手で5番モチモッツァレラ来て、その後10番のシャコータングラム。続々と2障害前に集まってきました』
こちらも第2障害に到着。皆と並びます。
足を止めた途端、身体中から汗と熱が吹き出し、冷たい外気に触れては真っ白い水蒸気となってあたしを包み込みます。
浅く早い呼吸を繰り返します。酸欠と疲労の溜まった体に一刻でも早く酸素を送りたい。
コンマ一秒でも長く息を整えたい。その為に、コンマ一秒でも早く最大パワーで曳き始められる練習を積んだんです。
『さあクインルゴサローズいった。挑戦始まった。第2障害上がってきた。緩やかな長い芦毛をなびかせて1番クインルゴサローズ』
ヤバい。
『先頭で2障害を降りていきます』
ヤバすぎます。クインルゴサローズさんが早すぎる。
『その後すぐ5番モチモッツァレラが降りる。一度抜かされましたがモチモッツァレラがねばるねばる』
モチモッツァレラさんはスピードは無いですが、その分、パワーと障害で足を止めない粘り腰がすごい。
彼女と障害では競い合えない。
『それからすぐに10番シャコータングラム』
焦ってはだめですよ、あたし。こうなっては得意のスピードを活かすために最終直線で一気に抜くしかない。差しスタイルは得意ではないとか言っている状況ではありません。
ふー。
はー。
十分に息を吸い込み、ググっと身体を下げて。
「……負け、ません、よぉ、おぉらぁっっっ!!」
ガツンと骨まで響く衝撃。バイキを掛けた途端、全身の筋肉が膨れ上がります。
『それから2番、3番、6番、9番カミノクニスノウ上がって来た。8番、7番。後続の挑戦始まった。その後ろ4番が第2障害に寄りました』
一人抜かした。
蹄鉄の無い右足が滑る。
ヨレそうになるのを懸命に左足で踏ん張って堪える。
びきびきと張り裂けんばかりに力を振り絞る太腿から脹脛から痛みが伝わってくる。ハーネスごと上半身を後ろに引きづり倒されそうな重量を、腕と背筋で引き戻し、全身全力で輓曳する。どこもかしこもが焼け付くように熱い。
ぐっ、と一歩。
ぐっ、と一歩。
「こ、れで、どう、だぁッ!」
『残り30メートル』
第2障害の稜線から見れば、先頭集団は一歩先を行っています。
『一団から抜けた1番クインルゴサローズ。早い早い、すでに三バ身のリード』
でも、ここからは下り坂と、平坦な直線。
『5番モチモッツァレラ追いかけて2番手。そのすぐ後ろ10番シャコータングラム』
第2障害を滑り降りた勢いもそのままにグギュッ、グギュッを濡れた砂を力強く踏みしめ鳴らしながら駆け、曳きます。
胸が苦しい。
『1番クインルゴサローズいったん刻んだ。が、すぐに歩き出す』
駆けるのはそう長くは続きません。下り坂では味方だった背後の重量はすぐ敵に変わって足を引っ張り、あたしの足の回転が落ちる。
それでも、歩みは、
「止める、ものかぁあぁっ!」
一人。
また一人。
橇が滑りやすい良バ場なら、ペースが落ちても止めさえしなければバイキのパワー勝負にならなくて済む。
『9番カミノクニスノウが懸命に追い上げる。2番、3番を、ここで抜いた!6番逃げるが苦しいか』
喉はカラカラ。激しい呼吸を繰り返したせいでざらつくように痛い。
雪が降っている気温なのに全身汗だく。身体中の筋肉が熱い。
それでも刻みません。刻んでいる暇なんかありません。
足はまだ残っています。
あの三人に、前を行く皆に追いつくんです。追い抜くんです。
『先頭は依然三バ身離したまま1番のクインルゴサローズ。残り僅か!入線しました。そのまま歩みを止めずに今……ゴール!』
例え負けたとしても、追いつけないとしても1メートルでも近くに。一歩でもそばに。
「ぐ、ぬ、ああぁぁぁぁぁっ!!!」
『2番手争いはどうか。際どいか。5番モチモッツァレラ、懸命に懸命に歩く』
あと10メートル。
『5番モチモッツァレラ入線しました。が、ここで足が止まった。そこに10番シャコータングラムが追い付く。5番モチモッツァレラ足が動かない。かわした、10番シャコータングラムがかわして入りました、ゴール!』
喰いしばった口の端から、蒸気機関車のように白い息が吹き出します。
『5番モチモッツァレラも頑張りました、3着でゴール』
あと5メートル。
『6番逃げるが、歩みが止まった。後ろを突き放せない』
もう実況はまともに聞こえません。
耳に歪んで響くのはゼハッ、ゼハッという自分の喉の唸りだけ。
でも、足は動きます。
『9番カミノクニスノウ止まらない、6番に並んできました。6番懸命に逃げようとするが、動けない』
バランスの崩れた状態で歩き続けたせいで右足が痛い。が、無視します。まだ、これくらいなら無視できる。
体がゴール板を過ぎる。
でも歩き続ける。
あたしの、ばんえいウマ娘のレースは、橇を全部曳ききるまで終わりません。
『9番カミノクニスノウ、足は止まらない。かわした!6番をかわした。今、入線してそのまま4着でゴール』
4着。
天を仰ぎます。
静かに静かに降ってくる無数の白い欠片が、肩と言わず顔と言わず降りかかります。ヒラヒラと落ちてはあたしに触れる端から溶けて水となり積もることはなく、あたしの顔を濡らします。
ごくごく小さな川があたしの顔に形作られ、鼻の両脇を一筋ずつ流れていきました。
顔を戻した時、目に入ったのは、駆け寄ってくるトレーナーさんの姿でした。