ばんえいウマ娘、北の大地を駆ける 作:mzk_arachne
──47──
寮の一室。静かな寝息が二つ。
その静寂を破って、突如として流れ始めた、疾走感とどこか哀愁を感じる短いイントロ。
『♪制御不能なココロがある~』
枕元にあるスマホが、ナリタタイシンさんの名曲『感情ノ黎明』を奏で始めました。
ばちん、とONのスイッチが入った電気回路のように、あたしの目が開きます。そのままスマホを弄って目覚まし時計代わりにセットしてある曲を止めようとしますが、スマホを握った手は動きを止めます。
そのまま曲に聞き入り、頭がテンションを上げて回転を始めたあたりでようやく曲は止まりました。
「んん~……ふ、ぁあぁ~、もう朝かぁ」
向かいのベッドの中からは、グラムさんの眠たそうな声。
カーテンの向こうから差し込む光は無し。
窓の向こうはまだ暗いです。夜明けはまだまだ遠い。
それもその筈。スマホの液晶画面が示す時刻は、朝の4時。夜と朝の境界に近く、まだ夜の領域と言って良いでしょう。けしてアラームの設定時刻を間違えたりしたのではありません。
普通であれば、まだ温もりが残っている布団に潜り込んで一眠りできそうな時間です。ですが、帯広トレセン生徒はその普通の範囲内にはいません。
温かく気持ちの良い布団に別れを告げて這い出せば、ばんえいウマ娘の巨躯が温度差にぶるりと一震えします。
寮の部屋は、かなり年季が入っているとは言え温水ヒーターで夜間も温め続けられていますが、窓辺からは二重窓とぶ厚いカーテンを貫通して暖房にも押し負けずに浸み込んでくる極寒の十勝地方の夜気が静かに床を這っており、これからの過酷さを予感させてくれます。
帯広トレセンのばんえいウマ娘の朝は早いです。特にこの時期は。
でも、いくら実家が農家で朝が早い生活が長かったとは言え、4時起きは流石に眠いです。
これが始まった当初は起きるのすら大変でしたが、流石にもう慣れたもので、頭は寝ぼけていても体が自動運転のように勝手に準備を整えていきます。
最低限の身だしなみを整え、着替え、だんだんと腹ペコが近づいてきたお腹を黙らせるためにチョコバーやプロテインバーなどでごく軽くエネルギーを入れておきます。
あたしとグラムさんが共同で使うお菓子ボックスからそれぞれ一本ずつ引き出せば、
「当たりですね、トウカイテイオーさんコラボの濃口はちみー味でしたー!」
「こっちはラムネ味だわ……まぁこの間のコンポタ味よりかは、たぶん美味しいっしょ」
わざと相手に知らせずに色んな味のプロテインバーを買ってはお菓子ボックスに放り込んであり、御みくじ感覚の毎朝のちょっとしたお楽しみです。アソートで買ってあるので自分でも買った味は分からず、昨日引いた辛子明太子味プロテインバーは刺激的な不味さでした。目は醒めましたけど。
廊下に出れば、そこは暗く、まだ皆は寝静まっているかと思いきや。
先客で溢れていました。
半分くらい寝ぼけていて普段より少しばかり動きが緩慢な、ばんえいウマ娘の群れ。群れ。寝起きと夜明け前なのもあって、交わす言葉と雑談は控えめで、潮騒のように静かに姦しい。
揃ってトレセンのジャージに身を包み、普段はウマ耳の耳飾りが見えるようにしている子も多いですが、今はどの子のウマ耳も厚めのカバーですっぽりと覆われています。耳カバーだけではなく頭部全体を覆うバラクラバまで付けていて、ばんえいウマ娘の逞しい巨躯と相まって、そのままコンビニに入ると一秒で強盗扱いされそうな風体の子までいます。
「アンデスレッドさん、おはようございます」
「おー、アンちゃん、はよー」
「あ……おはよう、ござい……ます」
ゆっくり歩いていたアンデスレッドさん。
右目に眼帯を付けているのは同じですが、彼女の様子はレース中と同じ人だと思えないほどに違います。なんでもレースになるとテンションが上がり過ぎて、あんな派手な雰囲気になってしまうそうで。
ウマ娘の群れは、同じ方向を目指して緩やかに流れていきます。あたしとグラムさんも、その流れに合流。
行きつく先は、寮の玄関。
玄関ドアの手前、かなり広く取ってある風除けスペースを使って皆がウォーミングアップ中です。
あたし達もクインルゴサローズさんや同期の友人達と合流して小さなグループを作ったように 三々五々、クラスメイトやチームメイトなど見知った顔や仲の良い同士でグループを作ってはウォーミングアップをして、アップが終わったら表に出ていきます。
あたし達もそれに倣います。
ドアを開けて、一歩踏み出した、その途端。
露出していた顔面を引っ叩かれたのかと思わず勘違いしてしまいそうな、痛みが襲ってきました。
そこは寒い冷たいと言ったレベルを超えている空間です。
空気が痛い。
冷たさが刺さる。
まさに凍れるという表現が合う、厳冬期の十勝地方の暴力的なまでに冷え切った空気が頭蓋骨を締め付けるように、ぎしぎしと身に沁み込んできます。
「ぐっはぁぁ!さっぶぅぅ!相変わらず、やっべーっしょ」
「ああああ頬っぺたが痛い!寒い!」
きゃいきゃいと喚くたびに、もうもうと白い息が吐き出されます。
あたし達だけはありません。
あちらでキャー、こちらでワー。同期や先輩達が楽しそうにはしゃぐたびに、そこには水蒸気が霧のように立ち込めます。
鼻からゆっくりと息を吸うと、鼻腔に侵入した冷気に触れた所がパキパキと凍っていく感触が分かります。
天を仰げば、暗く、高く。
雲は少なく、地上の熱をどこまでも高く放り上げてやると言わんばかりに、澄み渡っている。
ウォーミングアップして温まったはずの身体から、急速に熱が奪われていきます。下に防寒着を着込んでいるとは言えジャージの防寒性能は、夜明け前の凍れる寒さの前には紙切れ同然に感じます。芯まで冷え切る前に、身体を動かして熱を生産して対抗しないと。
道内でも暖かい地方出身で道東の寒さに未だに慣れていないあたしやグラムさんは今にも凍りつきそうなのに、厳寒地帯出身のクインルゴサローズさんやモチモッツアレラさんは至って普通の顔をしているのが理解できません。
「それでは、皆さまぁ、準備はよろしいですかぁ?ロード行きますわよぉ」
ガッキ、ガッキとシューズ底の刻み蹄鉄に蹴られては、すっかり凍り付いた氷の地面が氷片を飛ばします。寒すぎて互いにくっつき合えず地面の上でも粉状のままの雪がふわふわと飛び散ります。
先頭のクインルゴサローズさんの合図に、ぉー、といくつも重なる掛け声。
そのうちのいくつかはビブラートがかかっています。
「あらぁ?聞こえませんわぁ、尻尾落としましたの?!トレセーン!ファイッ!!」
『オー!』
「ファイッ!!」
『オォーー!!』
帯広トレセン学園名物、冬季早朝トレーニング。
東の空がうっすらと紫からピンクに変わっていき、夜の黒が追い払われ始めた頃合い。夜明け前の静寂を破ってばんえいウマ娘の声が幾重にも響くのが、冬の帯広の名物です。
無数のばんえいウマ娘が地面を蹴りつける地響きが、払暁の帯広の空気を揺らします。
「スノウさー、最近なまら頑張ってるっしょ。無理しとらん?」
しばらく走っていると、隣のグラムさんが問い掛けてきました。
「ええ、まぁ、大丈夫ですよ。ありがとうございます。たしかに負荷は上げてますけど、圃場の実習が少なくなってる分を増やしてるようなものですし」
「ふーん、したらば良いけどさー。なんとな~くスノウの尻尾の毛艶が悪くなってるような気がするんよねぇ」
「あらあら、お喋りとはだいぶ余裕があるご様子ですわねぇ。でしたらぁ、もっとペース、上げますわねぇ」
「ちょ、ま、ローズ!ちょっと速いべさ!」
この時期、冬季早朝トレーニングは、毎朝行われます。
トレーニング自体は毎朝行われていますが、体調と負荷からの回復もあるので、参加するか否かは各自とそれぞれのトレーナーの判断に任されています。その為、参加人数は一定しません。
あたしは、ほぼ毎朝の参加です。
レストが少ないトレーニングにトレーナーさんは良い顔をしませんでしたが、トレーナーさんの指示は絶対に聞く、隠れて自主トレしないという約束で認めてもらえました。
判で押したように、まずはロードワーク。体を温めて柔軟性と筋出力を高めてやるのは、とても大切です。
ロードワークでは、この後に向けての体の慣らしと、冷えた空気を思い切り吸い込んでも喉と肺を傷めないような呼吸法の練習です。
疲労物質と熱の溜まった筋肉に血流と酸素を送り込もうと大きく呼吸をしても、凍てついた空気がそのまま肺に入ると容赦のない冷たさが内臓を突き刺します。なるべく鼻からの吸気で喉と肺が痛まない程度に空気が温かくなるようにして吸い込み、出来るだけ早く呼吸して酸素交換を繰り返せるように。その自分なりのやり方とサイクルを探して、体に叩き込みます。
ロードワークが終わって学園のグラウンドに戻ってきた頃には、グラウンドは、地平線から頭を覗かせた太陽の放つ温かみのないオレンジ色で染められています。
グラウンドで行うのは、ズリ曳き運動と攻めウマ練習。
ここで合流したトレーナーさんと一緒に、一時間ほどみっちりとズリ曳き運動です。
トレーナーさんの合図に合わせて、曳き、止まり、また曳く。
身体中を血が駆け巡り、脹脛も太腿も肩も腕もパンプして膨れ上がり、バキバキに張った筋肉には太く血管が浮き出ます。
平地競争で走るウマ娘、特にトゥインクルシリーズを走っているウマ娘のような伸びやかな、飛ぶように早く走れそうなすらりとした脚に比べれば、随分と太くごつく鈍重そうに見える事でしょう。毎日のようにガラとハーネスを体に喰い込ませ、砂の上に膝を折る事も日常茶飯事で、肌には無数の打ち身に擦り傷切り傷があって当たり前。
でも、それらを全部ひっくるめて、ばんえいウマ娘の、あたしの誇りです。
鍛えあげてきた証です。
そして、まだまだ鍛える余地のある未熟者の肉体です。
だから今もこうして、後ろにへたり込みたくなるほどの負荷を曳いて、これ以上は止めとこうと甘く脳裏に囁く声をトレーナーさんの叱咤にぶった切られながら、一歩ずつ足を前に進めます。この程度の負荷、先輩達ならいける筈。だったら、あたしも鍛えればいける筈。
いつもこの頃になると、もう体中が発熱して熱くてたまらず、ジャージなんて着ていられません。
ジャージを脱いで薄手のトレーニングウェア姿だと、流れる熱い汗はすぐに水蒸気に変わって立ち昇っていきます。それをオレンジ色の朝日が横から照らし出すと、グラウンドで練習している誰もが揺らめく炎に包まれているようで、朝靄の中に幻想的な風景を描きます。
どうして冬季早朝トレーニングが行われるかと言うと、こうやってばんえいウマ娘の発達した筋肉をフル稼働させても、オーバーヒートの心配がないからです。寒さは厳しく容赦なく体力を削ぎに来ますが、あたしはしっかりとトレーニング出来る機会を逃したくありませんでした。
ズリ曳き運動が終われば、場所を移しての攻めウマ練習。
攻めウマとは、実際のコースに設置されているのと同じような障害一つだけが置かれている練習コースを走るトレーニングです。
ぐるっと橇を引いてコース出口から入口まで戻る必要があるので、載せた負荷は軽め。
それでも、何度も何度も障害を越えるのは、言葉が出てこなくなるくらいにキツイです。
一回、障害を乗り越えるたびに、心臓も、肺も、身体中の筋肉も、どこもかしこもどっぷりと疲れがたまってきます。
障害の途中で足を止めそうになるたびに、トレーナーさんの励ましに背を押されて、時には言葉の鞭で尻を叩かれて、歯を食いしばりながら坂を登ります。
所詮、あたしはどこにでもいる普通のウマ娘。
鋼のような意志もなければ、粘り切るだけの根性も、無双できるような力もない。あたし一人きりでは到底やりきれないトレーニングでしょう。でも、トレーナーさんがいれば、話は別です。へこたれそうな時には、あたしの足を進ませてくれる。本当に危ない時は、足を止めてくれる。
前走のインフラ保守に感謝しよう記念では、圧倒的な勝利を納める事が出来ました。
レース後のミーティングでは、刻み方が以前よりも上手くなっていると褒められました。他の子のペースに惑わされずに、スルッと刻めていたそうです。地道なトレーニングの積み重ねで心肺機能が鍛えられたのでしょう。あたしも刻んだ時に回復しやすくなっている実感はあります。効率的に息を入れられれば、それだけ曳いている時間を延ばせます。
加えて、ヤングチャンピオンシップなどと比べるとばんえい重量が軽く、軽重量戦だったので得意のスピードを活かしやすく好走に繋がったのだろう、とはトレーナーさんの分析です。
それはある意味で、あたしの弱点も示していました。
ばんえい重量が増えた途端、他の選手以上に厳しくなる。
次走は、黒ユリ賞。
グレードはBGⅡ。
ばんえい重量は3200kg。
ヤングチャンピオンシップをしのぐ、今までも最もばんえい重量の重いレースになります。圧勝での1着となったインフラ保守に感謝しよう記念より確実に厳しいレースになるのは想像に難くありません。
それでも、思う存分に走りたい。
レース場で曳きたい。
勝ちたい。観客席の前で輝いてみたい。あたしだってやれるところを見せたい。
だから、それまでに、多少の無理をしてでも積み上げられるものは積むんです!