ばんえいウマ娘、北の大地を駆ける   作:mzk_arachne

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 第11R、BGⅡ、黒ユリ賞。

 本日のメインレースです。

 二月上旬の冷え切った空気が、設置されている業務用大型石油ストーブの熱気を押し返して、装鞍所に容赦なく入り込んでいます。

 装鞍所にいる競バ場職員もトレーナーも、勿論これからレースに臨むばんえいウマ娘も、その誰もが息をするたびに白い湯気を吐く。

 でも、まだ外よりかは、なにより早朝よりはだいぶマシな気温です。ウマ耳カバーも手袋もしなくて大丈夫ですからね。

 レースを前にして装鞍所に入ったらまず行う事と言えば、装具の装着。

 自分だけでは出来ないので、トレーナーさんや装鞍所の担当職員が手伝ってくれます。

 立った状態では、小柄とは言えばんえいウマ娘の肩回りの作業を行うにはさすがに不便なので、あたしは背もたれの無い椅子に座って装着します。

 まずはガラと呼ばれる、厚い革で出来た緩衝材を首と肩回りにかけます。ガラは衝撃を受け止める役割があるので、細長い袋のような構造になっていて中にはクッション材の籾殻がぎっちり詰めてあります。厚みがあって中身が詰まっているので、結構な重み。首の後ろから脇の上を通り、胸の外側を回り込むように、端はアンダーバストの辺りまで垂れ下がります。左右と首に当たる感覚で位置を確かめながら、幅広で厚いガラをマフラーか汗拭きタオルのように首から下げます。

 ガラは各ばんえいウマ娘の体形に合わせたセミオーダーメイド。体形が違う他の選手のはフィットしないので、使い回しは出来ません。オーダーできるので選手によっては外革を特注の専用色にしたりもする用具で、レースに出るばんえいウマ娘のお洒落ポイントの一つでもあります。あたしとトレーナーさんのチームは出来てたで予算が少ないので、標準的な革の色。手入れ用の油の染み込みも新しいです。

 位置を調整するたび、ガラに挿し込まれているワラビ型に設けられた固定フックと、そこに掛けてある重厚なシャックルがぶつかり合って、ガチャリガチャリと重い金属音を立てます。

 ワラビ型とは、これを経由して橇の荷重を受け止める装具で、橇を曳く時の衝撃が全てかかるパーツなので強度がある鋼鉄で出来ています。

 左右に一個ずつの対となり、それぞれ弓のような形状をしていて、首の後ろから胸の外側にぶら下げるような位置に来ます。いわば、鉄で出来たマフラー。

 ガラとワラビ型を介する事で、点ではなく面で荷重がかかるようにして、ばんえいウマ娘は重い重い橇を肩と胸で曳くのです。

 ワラビ型はそれだけですとどこにも固定されていないので、首にもかけらずに落ちてしまいます。

 なので、ガラの端に設けられたキャップ部分に、ワラビ型の下端を差し込んであります。あたしの使うガラには端から端までびっしりと、ガイドレール代わりに金属鋲が二列で打たれています。鋲なしの、ワラビ型を嵌めこむ部分に大きな段差をつけてあるデザインのガラもあります。その鋲の列と列の間にワラビ型を合わせたら、あちこちにあるベルトを締めてガラとワラビ型を合体させます。ワラビ型の上端同士を強化繊維ベルトで軽く締めあげれば、ガラとワラビ型は合体完了。

 この革と金属が複合した重厚な装具を、橇を曳くばんえいウマ娘全員が装着します。セッティングが大変なので、メンテナンスで分解する時や体形に合わせて再調整時以外は一度セッティングしたら基本的にガラとワラビ型はくっつけっぱなしにしています。

 胸の下にあるガラの端同士、アンダーバスト、首の後ろのワラビ型の上端同士、肩甲骨の下あたりといくつもの箇所にハーネスを繋いで、前後左右からバランスを取りながらハーネスのベルトでガラを締め上げて、ワラビ型ごと体に密着させていきます。

 トレーナーさんに手伝ってもらい、ガラから鋼鉄製のワラビ型が外れないように注意しながら、位置を調整します。ここでズレると曳く時のバランスが崩れますし、ひどい時にはばんえい重量がかかった鋼鉄製のワラビ型がズレて直に服や肌に当たって喰い込んだり、衝撃が分散できなかったりと怪我の元となります。その為、装着する時は、ばんえいウマ娘もトレーナーも真剣です。

「スノウ君、後ろ、締めるぞ」

「はい、お願いします」

 ガラとワラビ型がズレないように前で抑えながら、

「よっ……と」

 ぎしっとハーネスが鳴ります。

 トレーナーさんが後ろでベルトを締めるのにあわせて、あたしも両脇の先にあるワラビ型の左右の端同士に付けておいた結束用ベルトを締めていきます。

「どうだい?」

「大丈夫だと思います、よ、と」

 腰をねじってみたり、両肩を回してみたり。立って軽くジャンプしてみたり。

 ぴったりと身体に密着したガラがズレる気配はありません。

 周りも同じように装着中なので、ガシャリガシャリとまるで鎧でも着ているかのような重厚な音が、装鞍所のそこかしこでします。

 ワラビ型と固定用のハーネスにはシャックルが取り付けられるように牽引フックがあり、そこに取り付けたシャックルを介してグラスファイバー製のかじ棒、海岸護岸用の大型消波ブロックすら吊り下げる強度を持つ高強度液晶繊維製の呼び出しと胴引きを取り付けて橇と連結されます。

 胸が左右からワラビ型に押されて、自然、前方に突き出します。ちょっと大きくなった気分ですよ。向こうで装具を付けている最中のグラムさんを出来るだけ視界に入れないようにしながら、そんな事を考えます。ただでさえ巨大な彼女の胸が左右から締め付けられて、さながらロケットの先端のように突き出している様は、そんなちょっといい気分を木端微塵にしてくれるので。

 装具をつけていても、体は軽い。関節も痛くない。肉の芯が重い感じもそんなにない。悪くない調子です。

 でも、最高の状態ではありません。

「トレーナーさん、ごめんなさい」

 思わず、口をついて出る謝罪。

「いきなりだな、どうしたんだい?」

「……本番までに調子が戻せませんでした。せっかくプランを組んでくれていたトレーナーさんに無理を言ってまで練習したのに。無理を言ったあたしがこんなザマでは、無理を聞いてくれたトレーナーさんに申し訳なくて」

「そう言う事か」

 背中越しに飛んでくるトレーナーさんの声。

「謝るなら、そこはむしろ僕の方だ。君の熱意に押されて、君を抑えきれなかった。やりたいと言ったのはスノウ君だが、やらせてみたいと思ったのは僕だ。何かを掴もうと懸命に足掻くスノウ君の姿に、スノウ君はどこまでやれるんだろうかと、どこまでもやらせてみたいと思ってしまった」

 パンパンと肩甲骨のあたりを軽く叩かれます。

「ウマ娘とトレーナーは」

「二人三脚」

「その通り」

 話しながら、トレーナーさんが後ろから前に回り込んできました。

「僕らは二人三脚でやらなければならないが、それは必ずしも片方のペースに合わせてもう片方も同じペースで突っ走れ、という意味じゃない」

 トレーナーさんは、あたしをジッと見つめます。

「たしかに、何かを目指す衝動に身を任せて全力で突っ走って、それが素晴らしい結果を生むケースはあるだろう。だけど、それは今の僕らには博打だ。スノウ君はまだ自分の調整を見極めきれなかったし、僕も自分を抑えきれなかった。互いに適切なペースになるよう合わせることが大切だった」

 あたしの前に立ったトレーナーさんは慣れた手付きで、ワラビ型とハーネスの微調整をしていきます。

 手を動かしながらも、あたしに語りかけます。

「たしかに、スノウ君は無理はした。けれども、それは無為ではなかったと僕は思うよ。リスクを取らずにリターンだけもらおうってのは虫が良すぎる。それに、そこら辺のリスクとリターンの匙加減を見極めるのがトレーナーの仕事だ。スノウ君がそこに責任を感じるのは違うさ」

 さて、とトレーナーさんが、あたしの筋肉の張りを確かめるようにあちこちをタップしていきます。

「さあ!笑っていこうじゃないか。なんだかんだで、今回はリスクがちょっと大きかったに過ぎない。それに人間もウマ娘も、かちかちに硬い方が良いってことは少ないもんだ。スノウ君はいつも通りに、調子に乗って行けばいい。ちょっと無理はしたけど強くなったんですよ、と胸を張って笑って調子に乗ればいい」

「えー!あたし、そんなお調子者じゃありませんよ!」

 たぶん。

 トレーナーさんの言う通りです。けして無為ではありませんでした。

 足遣いは上手くなりました。

 力のいる悪いバ場での荷重のかけ方に慣れてきました。

 元々、バ場の状態は、あたしの走りにはほとんど影響していませんでした。トレーナーさんは、それは稀有な才能だって言ってましたが、それにさらに磨きがかかった形になります。

 実家での農作業の手伝いで、田んぼの泥みたいな足場の悪い中で動く経験が豊富だったのと、トレセン入学後の経験が合わさって、足遣いに活きてきたのでしょう。

「この数週間、かなり苦しいトレーニングだった。その分、スノウ君が掴んだものがきっとある筈だ。それを全力でぶつけてこい!」

「はい!……そうだ、調子乗りついでに、一つ、お願いしても良いですか」

 もし勝ったら、何か一つご褒美にお願いをきいて下さい。

 それを聞いたトレーナーさんは一瞬ポカンとして、ついで苦笑し、オーケーしてくれました。

 うふへへへ言質は取りましたよ。

 よっしゃー!頑張るぞー!

 ガッツポーズと共に踏みつけた地面がドスンと鳴りました。

 

 切りつけるように冷たい空気を、鼻からゆっくり長く大きく吸います。すっかり慣れ親しんだ砂の匂い。

 数拍。

 胸の中で溜めて、細く引き絞った息を、吸った時と同じようにゆっくりと吐いていきます。

 ほんの少しだけ寒さが緩んだとはいえ、まだまだ最高気温はマイナスの日々。吐き出した息は真っ白く、長い蛇の舌のように揺らめきながら足元まで届きます。しかし、それも一瞬。強い風に舞い上げられた雪の白に溶けて消えます。

 すたん、すたたん、とその場で軽くステップを踏むように足踏みします。

 大きな蹄鉄に蹴散らされて、ステップに合わせてザシザシと砂が飛び散ります。

 膝は滑らか。腿もしっかり上がる。痛みはない。少しばかり芯が重い。

 あたしは広げた左右の掌で、汗が湯気に変わって白いオーラを放っているようにも見える、自分の太腿を軽く撫でます。

 二月の凍れる空気にも負けず、十分に温まり、血流が送り込まれて心地よく大きくなってきているカットの深くなった大腿筋。

 ついで脇腹に手をやり、指を沈めようと、ぐっと腹に力を籠める。体操服の内側では、力を籠めた途端にばっきり腹筋と腹斜筋に深い溝が入って硬く締ったゴムのようになり、沈めようとした指が跳ね返されました。

 合掌ポーズの掌だけ互い違いにさせた反転合掌のポーズから、互いの掌を押し付け合うように力をかけて前腕部に上腕部に胸をほぐしながら、余計な考えを追い出していきます。

 勝ったらご褒美に何か一つ。

 あたしがトレーナーさんにあんな子供じみたおねだりと言うか、お願いをするなんて、自分でもびっくりです。トレーナーさんだって、かなり驚いていた様子でした。しかしテンションが上がったのは事実です。もしレース中に曳いていて苦しくなった時、約束が背を押してくれるかもしれません。

 でも、それはスタートには関係ありません。とりあえずは意識の外に追い出します。

 じょじょにこれから始まるレースに向けて、意識が集中していく。

 あたしは握った左右の拳で、自分の太腿をトントンと軽く叩きます。

「日本の米はぁ……」

 そのまま右拳で左肩、左拳で右肩を。

 パァン!

 最後に両手が頬を張った乾いた音が、辺りに響きます。

「世界一ぃ!!」

 いつものルーティーン。

 あたしのレース前の定番のルーティーンとして知られてきたのか、観客席から同じタイミングで同じ掛け声が聞こえました。

 

 朝からぐずつき気味だった空は、日没を持たずにとうとう雪を降らせ始めました。

 雪の勢いは止まらず、しかも強い風まで吹いてきました。風に巻き上げられた雪は、まるで横方向に降っているようです。幸い、観客席には火炎放射器かと思うような爆発的な熱量を発するファンヒーターがいくつも設置されています。凍える心配はありませんが、如何せん視界は悪く、観戦と言う意味ではあまり面白くないでしょう。

 そんな状態なのに観客席からの声は止みません。

 ぐっと拳を握り締めます。この声に応えて魅せましょう。ファンの声が届くのは嬉しい限りです。ついでに言えば、あたしの動きだけではなく、言葉の方にも注目してくれるともっと嬉しいですよ。日本のお米は最高なので、もっとお米を食べましょう!

 観客席の最前列で、横殴りの雪を物ともせず、トレーナーさんが手摺を握りしめ仁王立ちしているのが目に入りました。

 こちらを見つめて真剣な表情で頷く姿に、同じ動作で応えます。

 前を向く。

 思わず、笑みがこぼれます。それが柔らかいものではなく、レーススタートを目前に控えて、肉食獣めいた野蛮なものになりかけているのが自分でも分かります。

 唇をチロリと一舐め。

 テンションが上がり熱くなった頭と同じように、熱くなっている筋肉達。一途に一緒に鍛えた仲間達が、ウォーミングアップの熱も冷めずに今か今かと出番を待っています。

 先ほどの笑み同様、自分の眦が緩やかに釣り上がり、日常からレースへと脳内のモードが切り替わっていく。

 ゲートに納まって、おのおのが身に付けている装具と橇が連結されるのを待っているばんえいウマ娘達。あたし含めて十人分の気迫が、熱を帯びた空気のようにあたりに漂います。

 互いに発するそれが、さらに互いを昂らせていく。

 胸の奥の奥。自分でもよく分からないところから、ふつふつと熱が沸き立ちます。

 普段は仲の良い同期やクラスメイト達であっても、レース場に立てば互いに競い合う相手です。

 走り、歩き、進み、曳いて、そして後塵を拝ませてやるべく闘うライバル達。

 皆、そう思っているでしょう。

 でも、勝つのは、あたしだ。

 あたし以外に、あたしの尻尾を見せつけてやる。

 溢れそうな気合を示して、バサッと振られた尻尾の青毛を彩るのは、一筋の赤いリボン。妹達がプレゼントしてくれた特別なリボン。

 レースの時だけ付けるようにしている、レース付きの赤チェックリボンです。

『お待たせしました、折りからの強い風で吹雪いてきました帯広競バ場。ダート直線200m、十人のばんえいウマ娘たちが挑みます。今日のメインレース、黒ユリ賞、ばんえいグレードⅡ。基礎ばんえい重量は3200kgとなります。天候は荒れ気味の吹雪模様。バ場水分は2.3%。バ場状態の発表は良となっています。降雪時間は短いのでバ場はそこまで濡れていませんが、スピードの出るレースとなりそうです』

 荒れる風音に負けず、アナウンスが場内に響きます。

『ジュニア級オープン、帯広市の市花の名を冠する伝統の一戦』

 頑張れと風に負けじと叫ぶファンの声。それぞれのトレーナーの、お前なら出来ると叫ぶ激励。

『ばんえいフルゲートです!!』

 力強いコールに、わぁっと、スタンドと観客席が沸きます。

『本日の1番人気……』

 実況と解説が場内に響いている間にも橇が次々とスタート位置に並べられ、着々とスタート準備が整えられていきます。

『続いて2番人気ですが、注目の3番カミノクニスノウ』

 橇と装具との接続も完了。

 係員さんと、いつもの接続完了と感謝のボディランゲージを交わします。

 目の前で閉じられたゲートの扉越しに、これから踏み越えるコースを幻視します。

『前走では前評判以上の走りで、大差での1着となり圧倒的な強さを見せつけました。ヤングチャンピオンシップこそ取れませんでしたが、その実力は侮れません。乱戦の今年のジュニア級において、重賞二勝目で一際眩い輝きを見せるのか。はたまたライバルがそれを阻むのか。二月の寒さを吹き飛ばす熱いレースが見られそうですよ』

 重賞競走のファンファーレ。

 びょうと吹く風音にも邪魔されず、盛大に舞う雪に吸われる事なく、それは勇ましく場内に響きます。

 大きく掲げられた旗はスターター員の頭上で止まって、天を指します。

 スターター台の上でスターター員が赤い旗を振りかざし、帯広の冷えた風はバサバサとスターター員の持つ旗をなびかせます。

『さぁ各ウマ娘、ゲートイン完了の様子。十人全員ゲート内、入って揃いました。すべての係員が離れまして……出走の準備が整いました』

 ぴんと張り詰めた、緊張感に満ちた静寂がゲートに満ちます。

 気圧されそうになるほどの静かな気迫を含んだ静寂。戦士の顔となったばんえいウマ娘達の放つ気迫は、あたしの体の奥から湧き上がる熱をさらに駆り立てます。

 スタートの瞬間を前にして、大きな応援と歓声が沸き起こっている観客席。それらがすぐ近くで上がっているのに、妙に現実感が失われていて、どこかすごく遠い場所から投げかけられているかのように聞こえます。

 時間が飴のように引き延ばされた、長い長い一瞬。

 ねっとりと流れる時間。

 ガッジャン!

 居並んだ十人のばんえいウマ娘達の視界を塞ぐ、金属の扉が一斉に開きます。

 瞬間。

 橇とウマ娘をつなぐ装具が、ワラビ型とハーネスに取り付けられたシャックル達と鎖が、一斉に盛大に巨大な鈴のような音を鳴り響かせます。

『合図かかりました。各ウマ娘、一斉にスタートしました』

「だぁりゃあぁぁぁっっ!!」

 十人のばんえいウマ娘が、怒号と共に一斉に飛びだしました。

 連なって響く10個の鬨の声。

 それを彩る楽器は、それぞれが曳いている橇と装具です。

 気合と共に、一気に全身の筋肉を全力稼働させます。ずしんと鋼鉄製の蹄鉄をばんえいウマ娘のフルパワーで叩きつけられても濡れた砂は飛び散らず、爪先をしっかりと受け止めます。

 適度に硬い地面は、思い切り身体を前に進ませてくれる。

『揃って良いスタートを切った十人。ジュニア級には重い重い、全員が3200kgの橇を引きます』

 その通りです。

 重い!

 流石の3200kg。

 足を進めるたびにハーネスとワラビ型を通して、肩と胸にガツンガツンと、歩調と同じリズムで小刻みに衝撃が叩きつけられます。

 でも、今日は幸いなことに砂が濡れて締まった良バ場です。ただでさえばんえい重量が大きいので、重いバ場ではないのは幸いです。

 バ場が軽いのでパワー勝負にはならず、スピードが出しやすい。スピード勝負なら、あたしでも太刀打ちしやすいです。

『1障害を降りて5番アンデスレッドが先行します。7番クインルゴサローズ。並んで4番シーニーグローム、6番マネーマーケット、8番ビッグアイアン』

 しかし、スピードが出しやすいという条件は皆も同じ。

 いつもの如く、レース前とは全く違うアグレッシブな様子を見せながらで、猛前とアンデスレッドさんが飛び出していきました。

 逃げや、前のめりの先行を得意なスタイルとする子達も後に続いていきます。

『先頭集団は一団となって、1障害から2障害の中間過ぎています。その後、2番のシャコータングラムです』

 あたしも先行が得意なので前めに出たいところですが、無理には追いません。

 トレーニングで曳いているとは言え、腐ってもばんえい重量3200kg。

 あたし達ジュニア級にとっては最大級の重さです。その重さは伊達ではありません。無理にペースを掴む争いに加わろうと追いすがれば、後半に持たなくなるでしょう。

『あと1番、3番カミノクニスノウ、外に9番。2番手以下もほとんど離れず、全ウマ娘、最初の障害を降りていきます』

 実際、バ群は長めの一塊り。

 順位自体は遅いですし、先行と言うにはやや後ろ気味になってしまいましたが、そこまで離されてはいません。

 先頭のアンデスレッドさんまでだって、まだまだ十分にこちらの手の届く範囲内にいます。

 この追走のペースで、

「いけ、ます!」

 一呼吸ごとに、喰いしばった口の端から吐き出される白い息。

 しっかり踏ん張れる頼りがいのある砂をザグ、ザグと踏みしめて走ります。

『一旦刻んだ先頭5番アンデスレッド。2番手以降も一旦刻んでまた歩きます』

 続々と先頭集団が足を止めます。

 いくら良バ場とは言っても、ばんえい重量を帳消しにしてくれるほどではありません。皆、第1障害から第2障害への直行は無理だと分かっています。

『各ウマ娘の吐く息が白く見えます。日中は最高気温プラスでしたが日が落ちて再びマイナスの帯広競バ場』

 あたしも刻みます。

 焦らず急いで、冷たい空気で咽ないように注意しながら、短い呼吸を繰り返して息を入れる。あちこちで足りないと叫んでいる身体中に向けて酸素を送り出す。ぼうっとしかけていた思考が見る見るうちにクリアになっていく。

 足を止めていると、体内に籠った熱が一気に噴き出します。

 全身、頭から足先まで肌から汗が吹き出し、吹きつける冷たい風雪で急激に冷やされては真っ白い水蒸気となります。左右を見れば、コースのそこかしこで真白いオーラに包まれているばんえいウマ娘達の巨躯。

「よぉ……い、しょおっ!!」

 気合一発。

 ズズッと3200kgが砂の上を滑る。以前は苦戦していた重量ですが、今なら振り回されずに扱えます。バイキを掛けた時に、橇が動き出すのが早い。

『十人がほとんど横並びで、今1障害と2障害の中間』

 他の子が足を止め始めたのを見計らって、また刻みます。素早く呼吸を整えたら、また進みます。焦らずに一つ一つの動作を丁寧にやっていきます。

 バイキを掛けるとガツンと襲ってくる衝撃。重いけれどスムーズに前に進む橇。

『各ウマ娘、刻みながら来ましたが5番アンデスレッドが先頭できました。後ろほとんど離れず、集団まもなく2障害の手前』

 長い芦毛を風に嬲られるに任せて、ネコ科の猛獣のように低く唸りながら先頭を追撃するクインルゴサローズさん。

『ほとんど距離をとらず十人一団で、さあ2障害の手前に集まります』

 ぜはー、ぜはー、という荒々しい呼吸音が左右から聞こえます。

 二月の風も、横殴りの雪も、レースを駆けるばんえいウマ娘の過熱した肉体を冷やすには足りません。

 風も、雪も、あたし達の魂を冷やすには足りません。ばっきばきにアドレナリンがキマって昂った頭を冷やすのにも全然足りません!

『ここまで前半62秒で来ています!2番手以下ほどなく集まった。さあ、問題はここから!』

 その通り。

 問題はここから、です。

『各ウマ娘、息を入れて挑戦が始まった!』

 さあ、さあ、ばんえいウマ娘の見せ場ですよ。

 闘争心で燃え盛る頭を冷やす方法は一つだけあります。それは、どいつこいつもぶち抜いて1着でゴールするという事。

『7番クインルゴサローズ、6番マネーマーケット、3番カミノクニスノウ、4番シーニーグローム。外は2番シャコータングラム』

 でも、焦りは禁物。心の中で吠える闘争心に縄をかけて乗りこなします。ここで逸って追いかけたところで、息の入れ方が足りません。

『クインルゴサローズが膝をついた!6番マネーマーケットも膝をついている』

 次々と挑戦を始めた子達に、3200kgが襲い掛かっています。

 あのクインルゴサローズさんでさえ手こずる重量です。半端な準備では、あたしも膝を折るだけでしょう。

『ここで上がってきたのは2番のシャコータングラム!いま2障害を越えて、先頭で下った!』

 流石はグラムさんです。

 溢れるパワーで、きっちり一腰で第2障害を越えました。

『立て直して7番クインルゴサローズ、6番マネーマーケット』

 障害の頂きで魅せたグラムさんの誇らしげな横顔。グラムさんが障害を越えていく後ろ姿に、目の奥が燃えあがるようです。

「あっはぁ……」

 口角が吊り上がって、楽しさと苦しさが混ざった奇妙な笑いがこぼれます。

 休憩は十分。最後に調息して、ググっと身体を下げて。

「……いき、ます、よぉ。んーー、だぁらぁっっっ!!」

 バイキを掛けた途端、全身の筋肉が膨れ上がります。肩と首周りに装具が喰い込みますが、それも一瞬。

 じゃらぁん!と派手な音を立てて、橇が障害の斜面を上ります。

『前3人の後に4番シーニーグローム、3番カミノクニスノウが上がっていく』

 一歩。

 踏ん張る力は、鼻の奥から血を噴きそうになるほど。強烈な負荷を曳こうと踏ん張った足を伸ばそうとするたび、足のあちこちの筋肉が束ねたワイヤーが撓るように動くのが分かります。

 一歩。

 最大のパワーを振り絞ろうとして太腿とハムストリングスが震えます。後ろから引っ張られて広がろうとする肩と腕を締めようと大胸筋が、上半身を後ろに持っていかれまいと踏ん張る腹筋がこれまで以上にパンプアップします。

 一人抜かしました。

 全身を使って全力での輓曳。天板を踏み、第2障害の稜線を越える。

『そして1番。開いて8番ビッグアイアン、9番。5番アンデスレッドは第2障害に残っています』

 第2障害を降りる勢いを殺さずに駆けます。濡れた地面を強く踏みしめ、砂を鳴らしながら曳きます。

 身体中のあちこちが燃えるように熱い。

『前の一団、残り30メートル切りました。3番カミノクニスノウが上がってくる。苦しい6番マネーマーケット、4番手に後退します』

 まだです。

 まだ前にいます。でも、まだ力も残っています。

 前にいるのは残り二人。クインルゴサローズさんとシャコータングラムさん。

 酸欠で視界の端が暗くなっていても、ウマ耳に聞こえる音で分かります。

『内から7番のクインルゴサローズ抜けるか』

 喉も肺も、新鮮な空気を求めて痛いほどに訴えます。欲望に負けて大きく吸ったら、咽て酷いことになる。頭の片隅で生き残っている冷静さが、迂闊な呼吸を押し留めます。

『外2番シャコータングラムが引き離す』

 激しく流れる血潮が引き起こした耳鳴りの向こうから、トレーナーさんの叫びが聞こえた気がしました。

 残っている力を出し切るなら、今しかない。

 そうですよね。

 奥歯を噛み締めて、溜め込んでいた全力を足に注ぎます。

 腿をしっかり上げ、前傾して体重を踏み出す足に乗せる。足を打ち込み、反動で一気に足を伸ばして、曳く。

『その内3番のカミノクニスノウ!抜け出したか』

 猛るクインルゴサローズさんに並び、抜きました。

『残り10を切った』

 隣のレーンにいるグラムさんの背に並びかけます。

「いかせません、いかせんませんよぉっ!」

「負けねー……ウチは負けねーっしょぉ!!」

 あと5メートル。

 ここからは、全てを振り絞ってスッカラカンになった先にある我慢比べ。

 視界は狭く、色が失われた暗いモノクローム。ウマ耳に届く音は虚ろでどこか現実感がない。全て放り出したら、とても楽でしょう。それでも、胸の奥の奥から声がして、それがあたしの心と体を衝き動かす。

「「ぅうわああぁぁぁぁっっ!!!」」

『3番のカミノクニスノウ。一歩、二歩、前に出た』

 体中の酸素やエネルギーなんて、とっくの昔にガス欠です。

 でも、これが、競バ場を駆けるばんえいウマ娘の花道。

 走りたい。

 曳いていたい。

 そして、勝ちたい。

「勝つのはぁっ!あぁたしだあぁっっ!!」

『3番カミノクニスノウ、いま1着でゴール。ナナカマド賞に続いて、今期重賞二勝目です』

 雄叫びと共に橇後端がゴールラインを通過した途端、疲労が大波のように押し寄せてきました。崩れ落ちそうになるのを、膝に手をついてなんとか食い止めます。

『2番シャコータングラム2着』

 ゼハッゼハッと心臓が激しく脈打ち、喉が鳴ります。

 流れ落ちる汗は、吹き付けて溶けた雪と混ざって、全身を濡らしています。

『7番クインルゴサローズ3着』

 あたしは、なけなしの力を振り絞ってグイと顔を上げました。

 勢いの衰えない風が、粉雪が、顔を叩く。

 それらを真っ向から受け止めて、両の拳を空に突き上げました。

 こちらに駆け寄ってくるトレーナーさんの顔が濡れているのは、あたしと同じで、溶けた雪だったのでしょうか。

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