「とあるif、もうおわっちゃったんだなあ」
都心というにはあまりに田舎、東京の西のはずれにある四畳半のアパートの一室で、おれは電気代の節約を早々にあきらめて暖房をつけてしまうかどうか悩みつつ、大好きだったゲームのサービス終了を嘆いていた。古く薄い壁の隙間からそろそろと入り込んでくる冷気におれはびっくりする。もういつの間にか冬じゃないか。ついこの間まで暑い熱いと言っていたから、ついにこの世界もおかしくなったのかもしれない。日本から四季が消えるなんて嘆かわしいことだ。四季の、というか春と秋の重要性はみんなわかっていることと思うが、おれにとってはとあるifの消滅だって同じくらい嘆きたいものなのである。
「とある魔術の禁書目録」。原作の刊行はいつも変わりなくハイペースで続いているが、シリーズの人気は最盛期には遠く及ばず、アニメ化の兆しなんて全くない。これは原作が面白くないというわけでは全くなく、というかおれは新約シリーズに入ってからのほうが好きまであるのだがどういうわけかアニメ化されないのだ。何か問題があったかなあ。
そんな状況の中、我々ファンの心の支えであったのが「とあるif」だった。
次々とキャラクターボイスのついていなかったキャラに焦点を当て、アニメ化されていない部分のイベントをやり、作中の時系列を完全に無視した最高の幻想を多数作り出した。原作者書下ろしのオリジナルストーリーなんてものもあった。
もちろんすべてが完璧であったとはいえないと思うが、制作陣の「とある」愛がひしひしと感じられる、素晴らしいゲームだったことには間違いない。ごく個人的なことを話すと、おれは有村絵恋のウェディング衣装を見ることができて幸せだった。可愛かった。アニメもないのにもかかわらず、キャラクターの声が聴けたというのは奇跡だったのかもしれない。ああ、いいゲームだったのになあ。
感傷に浸ってしまうと何も手につかなくなるのがおれの悪い癖だ。
事実、この時電話がかかってこなければ何時間でもぼーっとしていただろう。そういった意味では、おれは彼に感謝しなくてはならない。
その後何があったとしても。
「いま暇?」
相変わらず男なのか女なのか大人なのか子供なのかわからない声だ。こう書くと、もしかしたらあの逆さ理事長を思い浮かべる方もいるかもしれないが、そう思った人は反省した方がいい。常人はそんなことわからないぞ。あと聖人、囚人が抜けてるし。
「そういう表現って楽なんだよね。詳しく描写するとほら、ぼろが出やすいわけでしょ。上手くぼかしてるよね」
「おいやめろやめろ」
彼は爪先という。苗字が爪先なのか、それとも爪だけなのか、そもそも日本人なのかも謎だったがおれも周りの人も誰もそんなことは気にしなかった。彼も詳しく話すつもりはないらしい。一度名前の由来を聞いてみたことがあったが、「話すと長くなる割におもしろくない」という理由で話してくれなかった。彼の話なんて全てつまらないし別にかまわないのだが。
「で、何か用か」
今日は太陽も雲に隠れているからより一層寒いような気がする。秋を、秋をくれ。
「うん、なんか妙なことになっててね。今からこっちに来てくれないかな。ね、君しか頼りがいないんだよ」
「お前友達いないもんな」
おれの部屋から彼の家まではそこまで時間はかからない。電車も車もいらないが自転車だけちょっと欲しくなる距離だ。冷たい空気の中、身体を、特に耳を凍らせながら歩くこと十数分。
「お、来たね」
部屋をノックしてしばらくするとドアが開いた。おれのアパート同様もう古いのでキシキシ鳴る。読者諸氏にはあの「東京大空襲も乗り切りましたというような木造アパート」を思い浮かべてくれれば幸いである。ここがかのアパートと違うのは住人がロリ教師でなければ隣に上里勢力が越してくることもない、というところだ。謎の光線で屋根が破壊されることもないと信じたい。
中の部屋もあの可愛らしい教師の部屋とほとんど同じなのだが彼は酒もたばこもやらない。それでこの汚さであるから異常といえば異常である。
「ま、ほら座りなよ。座れればね」
「それで妙なことってなんだ」
彼はゴミの山を漁っていたかと思うとなにか見つけ出したのか「おっ」と声を出して、それからこちらへ近づいてきた。軽く眼鏡の位置を直す。
「何とか電話越しに言葉で説明しようとも思ったんだけどね。なかなか信じてもらえないと思ったからこうして呼んだわけだ。このほうが確実だよね」
「だから何の話なんだよ」
なんとなく嫌な予感はしていたのだ。彼が持ち込む妙な事に良い思い出は皆無、しかしここまで来てしまっては聞くしかない。しかし毎回呼ばれて嫌だなと思ってもなんか来てしまうのは何故だろうか。
改まって爪先が言う。
「実はとあるifをまたやれるんだよ」
「とあるifを?なんでまたそんな」
おれの知り合いということで爪先もとあるシリーズのオタクだ。彼もおれと同じくらいサービス終了を悲しんでいたが……
「お前、夢でも見たんじゃないか?」
おれだって勿論またとあるifをやりたいが……それは無理であると確信もしてしまっているのだ。売上やら運営コストやら、大変な問題が沢山あって、続けたくても続けられない止むに止まれぬ事情で止めてしまったんだろうと思っている。「止むに止まれぬ」で止めるとは如何なる日本語か。
「それがさ、出来るんだよね。ほらこれ」
そう言って彼が取り出したのは文庫本であった。
なんの変哲もない旧約一巻だ(一応念の為説明しておくと、とある魔術の禁書目録には無印、新約、創約と3つにわけられていて、便宜上最初のものを旧約、と呼んでいるのである。こんなものを読んでいる時点で君もわかるだろうが念の為である)。
「これがなんだよ。表紙のインデックスはかわいいな」
おれはしばらく表紙の絵に見入っていた。原作の一巻なんて本棚に並んでいるだけで最近はとんとご無沙汰だったからだ。改めて見てみると本当にかわいい。やっぱりヒロインだな。ついでにパラパラとめくってみる。
「普通の本じゃないか。これがなんだって……うん?」
見ているうちに視界がぐるぐるしてきた。
頭が痛いなんてもんじゃないくらい痛い。視界に螺旋状の渦が出現し、混乱は血流に流れ手足を痺れさせた。長時間正座した後なんかと比べ物にならない程の痺れだ。ツンツン頭がその頭にうけた衝撃とはこんなものじゃなかったかと思った。四肢は硬直し涙があふれた。気がおかしくなりそうだ。頭の中に変な単語だけ流れていく。なんだこの状態は。ぐるぐるぐる。ドラゴンブレス。聖ジョージの奇跡。あれ。イギリス。傾国の女。おれはどうして。立川。薔薇十字。第七学区……
気がつくとそこはまだボロアパートだった。てっきり異世界にでも転生したかと思ったが……
「目が覚めた?そうそう、最初はたいへんだよね」
まだ少しチカチカしていた視界がクリアになっていき、そこに爪先の爪先を捉えた。なんだそりゃ。
「気分はどう?」
「……最悪だな」
視界と共に思考もだんだんとクリアになっていく。あれほどの衝撃の原因は何だったのだろうか。たしか本を開いて……
おれの身に何があった?
「おい、これでただおれの吐き気を増大させただけなら一兆回は殺すぞ」
おれが殺意を表に出すことなんてめったにない。禁書目録のほうがスピンオフですよね?と言われたときくらいであるよ。
そのくらいの殺気を携えて爪先を睨みつけた。そんなおれを笑い飛ばして、
「ははは。とりあえずこれをどうぞ」
そういって爪先が見せてきたのはスマホだった。なんだお前あの全能神を壁紙にしてるのかよ。
「これ、見てみ?」
何かをタップしてアプリを起動させる。
一瞬の暗転から白背景、なにか四角形的な模様。そしてNOW LOADING、注意……
誰かが走り出した。妙なツンツン頭だった。
「とある魔術の禁書目録 幻想収束」
「あの野郎」と一部女子中学生から呼ばれている科学者一族の女史の声だった。お前また新約から…というかとあるifじゃん。
とあるifだった。
とあるifだった。
「ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
「うわっ泣くな!!」
こんな年になって何を感極まることがあろうか。いやあるのだ。男には泣いていい時が三回あるというが、今日この時さらに一つ追加された。とあるifが復活したときにも泣いていいのだ(ちなみにあとの三回は旧約一巻のラストと新約十巻とリバースを読んだ時といわれている)。しかしこのように自然に涙が流れてくるなんて。なんということだ。あふれる感情が涙としてあふれているがそれでは足りず口から喚き声にも似た恐ろしい声がエンドレスで垂れ流れていく。うううううううううう。
「とあるの人気が最高の世界?ここが?」
だいぶ落ち着いた後、爪先がいれたコーヒーをすすりながら現状の把握のための会話をしていたが、爪先の言うことを総合すると大体こんな感じだった。そんなばかな。どんな理屈で。
「ほらこれもしっかり見てみな」
そう言って爪先が差し出してきたのはまたしてもとあるifの画面だった。なんの変哲もないように見えるが……そういえば科学者一族のランドセルガールなんて実装されていただろうか。ちゃんと見てみるとイベントの内容は魔女たちの女神様に関するものらしい。おいおい創約まできてるにゃー。
本当にここでのとあるシリーズの人気は凄いらしい。創約までって相当だぞ。
「とすると、ここはパラレルなワールドってことか?」
聞くと、彼は少し気持ちの悪い笑みを浮かべて、
「呑み込みがはやいねー。そっちの爪先がめんどくさがったな。そう、ここはパラレルワールドらしいね。あの文庫本はこの前立川の神社で偶然拾ったものでね。これが異世界への入り口になっているんだ」
そのあと、爪先の提案で外に出てみることになった。
季節としては変わらず初冬といったところで、街並みもそこを吹く風も何もかも違和感がなく、そこが逆に違和感を感じさせた。
「そうだよね。とあるが流行ってるってだけで他は何も違うところがないみたいだからね」
二人並んで歩くのは最寄り駅までの道である。彼の口ぶりから君らも察したように彼はもう何度もこの世界に来たことがあるようだった。
「最初に本に吸い込まれたときは本当に混乱したけどね。頭も痛かったし。もう慣れたけどね」
なれるほどこんな異世界に来ているのか。いやまったく異世界感はないのだが。
さて小説というのは省略表現ができるから楽である。今回は野郎二人で冬空の下に並び歩いている様子を二十分余りにわたってお届けするなんていう地獄とはならずに済んでいる。ビバ小説。
活字表現に感謝しつつ、おれたちは最寄り駅へと到着した。この東京西部においてはまあまあな規模の駅である。駅ビルの商業施設はまあまあの賑わいを見せ、ロータリーのバス停にはまあまあな人が並んでいた。要するにまあまあだ。空気の乾燥はさらにひどくなり唇が心配である。人々は急な寒さから逃げるように速足でみな歩いている。風が吹くと本当に寒くなっている。
爪先がまず連れてきたのは、駅前といえば駅前といったところに存在するアニメグッズショップ。
まず店の前に着いた瞬間に違和感があった。店にはツンツン頭がツンツンとしたその頭をツンツンとさせ、ビリビリ中学生がコイン片手に電気を走らせ、長身で物騒な苗字の女教皇さまがちょうど剣を抜こうとしているところの絵が、でかでかと飾られていたからだ。イメージとしてはあの秋葉原の巨大な大食い図書館シスター看板のごときものである。
「おいほんとに人気あるじゃねえか」
「そういう世界なんだよね」
中に入ってみても「とある」でしかなかった。おれが禁書しか目に入らない目苦しいオタクであるということを加味していただいても、それでもこの量は、はっきり言って異常だった。右に左に上に下にとキャラクター、店内を流れるのは三期の主題歌、そしてテレビで垂れ流されているのは新約の北欧での一幕である。劇場版で三時間使ってやったらしい。なんだその天国。
やばい、ここ住みたいかも。
「住みたくなった?こっちの世界に」
すべてを理解している風に爪先が言う。気持ち悪いんだよお前は。
「いや、めっちゃ住みたい。今後の生涯すべてこっちでもいいくらいだ。なんだよこれ。なんでもっと早く教えてくれなかったんだ?」
一度店を出る。再び冬の風が冷たく吹き付けてくる。
「いやね、ツンツン頭が何が何でも元の世界に戻ろうとした、その決意を我々も見習っていかないと。そうでないと胸を張ってとあるのファンだと言えないと思うんだよね。とあるifがなくなって寂しいし、とあるシリーズにもっと人気が出ればいいなーとも思ってる。でもそんな現実をかみしめて、前向いて、こんな甘ったれた世界に入り浸ってもだめなんだよ。とにかく本を買って、グッズを買って、来るべき時に備えるんだ。なんかとあるifが終わって、これで何もかも終わりという雰囲気だけれど、そうじゃないんだ。原作はちゃんと読んでるか?創約も山場だ。原作をもっと楽しめ。考察をしろ。この前買った化学の結婚を読め」
「それ作者に言ってる?」
「今回一応この世界を見せたのは、こんな希望があるってこと、こんな世界もあり得たってこと、それを知ったうえで……希望を捨てずに、まだとあるシリーズと向き合ってほしかったからなんだ」
爪先はここまで言うと、一人で歩きだし、ふと振り返って、
「もうちょっとこの世界を見て回るといいさ。僕は先に帰ってるからね」
おれは一人異世界に取り残された。
手足が冷たい。とぼとぼと歩く道にもとあるシリーズが溢れていた。
爪先の言うこともわかる。
ここはあまりに出来すぎだ。違和感しか感じない。しかし同時に魅力的でもあるのだ。おれが思い描いていた世界、夢に見ていた世界であることには間違いない。
おれは、とあるの何が好きでこんなにも心酔しているのか。
おれはこの先原作が終わってもとあるが好きでいられるだろうか。
おれは何を求めてとあるシリーズを追いかけているのか。
自問自答は異世界の冬空に吸い込まれていく。おれは駅からだんだんと離れる、少しずつ寂しくなっていく通りをただ真っすぐに歩き続けた。
冬の風は冷たく、空に増え始めた雲は重く暗い。