絶望よ、私を愛すな。私は桜であるが、死ではない。
水の溜まりに足を浸し、雨の粒を数多負って一人闇に立ちすくむ。
そんな孤独な今こそ特別。そう、抱いた熱に白くは染まらない息を吐きながら少女は考える。
怒りで親と別れて小雨の街を傘もなく、もう進めなくなった。そんな折に叫べる言葉なんてない。
だが、胸元はうるさいくらいに激しくそれを主張する。冷たい身体にはもう意気の欠片もないのに心はただの闇を嫌う。
彼女、野崎桜子は少し傷んだ唇を動かし、こう呟いた。
「死にたく、ない……」
雨の音激しく、やっと声に成れた程度の音は暗がりに溶けて消える。
だが、桜子の小さな悲鳴にはきっと逆さにかぎ針が付いていたのだろう。出ていく際に彼女の心を更に引っかき、強かにも痛めた。
故に、真横の公園のベンチにも座す力もなく、少女はその場にへたり込む。染み込まない雨のためにチェックのスカート、そして下着までもがずぶりと濡れた。
「死にたいのに……」
あまりの冷たさに、本音が口の端からぽろりと落ちる。
ついでのように顕になったそれは、少女の諦観の末の結論だった。
分からない、見えない、恐ろしい、ならば遥か遠くの時間の先に希望なんて抱けない。
身体の間際に好きがなければこんなものであり、そして内の自分も好きでなければもうお終いでいいだろう。
そんな短慮が、出来損ないの心を酷く焦らせるのだった。
季節にも夜にも心にも関係のない雨は止まずに、それらはまるで線だったかのように音だったかのように行方知れずに桜子の周りに溶けていく。
遠い街灯をちらちらと照り返す、こんな泥に程近いもののどこが天から降りたものだろうか。
実際、ミルククラウンをそれぞれ咲かせた筈の雨粒は過去はともかくどれもこれも一定に均されてひたすらになだらかだ。
「ううぅ……」
桜子が流した涙だって、それと似たようなもの。いつか何度も連ねて人目を誘う意味となり、でも最後にはぐっしょりとするばかりの不快となった。
私は私はと、それだけではもう見ていられない年齢であることを彼女が知ったのは、幾分か遅い。
中学生は子供である。だが、そろそろ大人びて欲しいと思われる程ではあるのかもしれない。
そして、間違いのないと思い込んでいる間違いばかりの大人にとって、私のためは子供のため。
うるさい。その後に毎度お隣さんにも聞こえるわよ、と桜子の母は繋げて黙した子供にどこか自慢気にする。それが、少女にとっては殊更嫌なものであった。
「私がいじめられてるって言っても、それって……ああっ」
桜子はあまりのけがらわしさにヘアピンを、投げる。柴犬をモチーフにしたそれは、あの人が可愛いわねと褒めてくれたもの。あの女が好きそうだと思って買っただけの代物だ。
音も立てず、クチナシの合間に深く金属は消える。嫌に重い罪悪感を残し、それは闇に見えなくなった。
しかし、あんなものを逃避の先こんな場にまで後生大事に付けて来てしまったこと自体にすら、酷いそう痒感を彼女は抱く。しばらく桜子はゴシゴシと、頭を手の甲で擦った。
好きとは、支配なのか。嫌いとは逸脱に違いない。そんな早計にて絶望し、彼女が全てから目を逸したいのはどうしてか。
「っ」
あまりの頼りなさに、桜子は震える。
それは、寒くて仕方がないからだった。温もりも、触れ合いもどれもこれもがはしたなければ、なら何で心は暖をとればいい。
「愛って、なに?」
鏡を見るようにしながら、母にただ綺麗とだけ言われて育った少女は、未だに愛が良く分からなかった。
「桜子っ!」
そこに、準備と躊躇に時間をかけてやっと近くの公園にたどり着いた母、恵が桜子を見咎める。
一人のための大きな傘は光を吸い、外向けの衣服に合わない大げさな長靴からはパコパコと間抜けな音が立ち、化粧の白は嫌に目立つ。
それでも彼女の母親でしかない人は、自分が何に怒っているかも理解しないまま、動かない娘に近寄り檄した。
「何か嫌なことがあったら直ぐ逃げるマネ、やめなさい!」
怒りのままに首根っこを掴む。それが落ちた子を引っ張り上げるのに容易いのは違いない。
だが、それを躊躇一つなく行ってしまえる大人はどれだけ居るのだろう。取り敢えず、下手人の恵は多くそんな輩を身内として知って習っていた。
「やっ!」
ブラウスの襟を引っ張って尚暴れる娘。逃げるために捩った先端、肘が母の頬を掠めた。
恵にはそれが弱者の抵抗でなく暴力的な否定に映る。火花のようなものが怒りとして彼女の脳裏に明滅し、母は誰かがよく口にしていたような言葉を迷いなく吐いた。
「何が嫌、よ! 私のほうがあんたみたいな子が娘で嫌よっ!」
親は子を選べない。だが、恵は良性をのみ子としたかった人間である。都合の良いままごとこそ、彼女の理想であった。
だから、見目は自分譲りで良けれども、こんなに弱くて理解できない子供は真に嫌である。親の機嫌を伺うように見上げてくるその視線ですら、気持ちが悪かった。
「う、うぇ……」
恵が二つ目のボタンが弾け飛ぶ程力任せに引っ張った結果として、首を締め付けられた桜子はえずく。
仕方がないと離してみれば、濡れそぼった娘はそのままげほげほと息を吸うことに懸命になった。
だがここに至ってもこの親に罪悪感なんてない。むしろこれくらいで弱々しいところを見せてくるなんて、私では有り得なかったのに、とすら考えて見下す。
果たして、他人を測るための物差しが彼女には自前のものしかないのだろうか。しかし故にこそ大人に反省なんて欠片もなく、恵は先の娘の必死の請願を踏みつけるようにこう言うのだった。
「虐められたからって何? 情けない……どうせあんたも悪いところがあったんじゃないの?」
喧嘩両成敗。恵には何事においても理不尽にもそう決めつけられて口を尖らせてきた過去があった。だが彼女は今となっては一理あったとしてそれに納得している。
なら、明日休ませてとただ頭を下げる娘に語らせた理由が確かに虐めによるものであるとすると、この少女にもそれ相応の悪があったに違いない、と冷たく親のはずの人は考えるのだった。
「うっ、うぅ……」
どうせダメだと思っていたけれど勇気を出してお願いをしたところで一蹴され、心配すらされず泣いて逃げたら追いかけられ、更に詰られる。
桜子にとって、そんな全てが母に対する絶望だ。期待はなかったけれども、それでも彼女は親だから血液や模型であること以外にも繋がるところはあると考えてはいたのに。
「ほら、しゃんと立ちなさい!」
そんなこと下らないと、何より涙を見下げる恵の零度の視線が物語っていた。
こんなに私が頑張って育ててやっているのにどうしてこんなにコイツは駄目なのだろう、と本心までは口にせずとも侮蔑の気色で持って示しつつ冷たい体温は細い手首を拾う。
だらりとした体躯を、それでも抵抗をしなくなったことにばかり気を良くして、しばらく黙したまま彼女は彼女を引いていく。
泣き声すら雨音に飲まれるようになってから恵は、我が子ながら親の望む子供の真似すら出来ないなんて、あまりに子供が下手くそというものだな、と振り向きもせず考えていた。
「……明日もちゃんと、学校に行くのよ」
三階建ての我らが家の前に着いて、ようやく親は子にそれだけ命令をする。
恵にとって子の思いよりそれこそが大事。
何せ、信用できない他人は不足を見つけるとそこを突こうとするもの。
もし、この娘が考えたくもないが引きこもりにでもなってしまったら、周囲にどう言い訳をすればいいのか。
まかり間違って親が悪いとされてしまったら、それこそ私が外を出歩けなくなってしまう。
自分がそうなら、他人も同じという女の尺度はやはり狂っていた。だが、臆病者は何より自分の小心を知ることを避けるもの。
「ほら」
愚かにも、彼女は玄関のノブにかけておいたバスタオルをまず自分のために存分に使ってから、桜子に向けて放る。
ばさり、と上がらない頭に乗っかった、生乾いたもの。あまりに思い通りにならない全てに、少女はにへりと口を歪めてしまう。
「はい……」
そして、桜子は最悪から逃れるために、嗤いながら嫌を諾するのだった。
雫が足元の水溜りの上、自嘲の水面に吸い込まれるように落ちる。
親は子を選べず、また子は親を選べない。喧嘩両成敗ならば、果たして子の悪因はどこから来たのだろうか。
そんな全てに目を瞑り生きることの出来る図太さこそ、大人なのだろうかと少女はぼうと思いながら、とびきりの寒さにぶるりと震えた。