虐めというものには要素が多くあるが、用いられ方としては遊興が多い。
ムカつく奴を大勢で否定するのは楽しい。そんな一部の認識に周囲はそう楽しく思えなくても倣った。何せ、鉾を笑って人に向ける相手に逆らう者などそうはいないものだ。
閉鎖空間に多様性は要らないのだとでも言わんばかりの杭叩きは、対象が怒ったり泣いたり出来なくなってもしばらく続く。
そして、最中に見咎められれば良いが、そうでもなかった場合は沈黙したいじめられっ子がどうでもよくなった時に自ずと虐めは終わるものだろう。
「あ、う……」
そんな定形を過たず通ってしまった結果、三組の教室には常に視線を下に、背中を曲げて皆から遠ざかることを癖とするようになった桜子が、一人。
机から顔を上げ、のろり、と周囲を見渡してもうこの場に誰も居ないことを確認してから彼女は立ち上がった。
「大丈夫、だよね……」
また居ない時に物を捨てられることが怖くて、何と言われようとも教室に居残ることにしてからふた月近く流れている。
大事なところばかりを切られて使えなくなった水着のために、体育の時間に仮病を使うことにも彼女はもう慣れていた。
悪い噂に汚物扱いと、無視。そしていたずらと称した厄介なちょっかい。それらによって、桜子の心は折れて益々歪んだ。
「帰れる……」
最早、嫌いでたまらない人達が住まう実家だって彼女の大切な心の安置所だった。なにせ、彼らに悪意はあるかもしれないが害意はないだろうから。
もとより、少女は愛を信じたことなんてなかった。
怖いだけだった他人の全てに、今は悪意が見えてしまうくらいの重症ぶりに、しかし想われることもなければ誰も気づくことはない。
そして努めて静かに誰の険も誘わないように、ゆっくり教室から発つ。少女には何時からから変わらず、引き戸の擦れる音が大人の男の声に思えて嫌だった。
独りぼっちに、景色などない。あるのは、見直すべき己のために埋没した瞳と、ありとあらゆるものから一歩引いた認識ばかり。
空の青に高さなどなく、吹奏楽の多様な音色などにも関心は向かない。カンバスに真意を考えず、スピーカの向こうへの想像すら出来なくなるほどの鈍化は、そのまま彼女の心を表すようだ。
硝子の向こうすらろくろく見えず、それどころか反射し薄く映り込んだ、気持ち悪いとされた己の容姿からも桜子は早々と目を逸らした。
放課後の廊下に誰の姿も伺えないことばかりが、彼女にとっての救いである。
「大丈夫、大丈夫……」
自分が息をするのも辛くなっている、というのはここ最近の桜子が発見した一番のこと。
恐怖は全身に強張りを強い、自律神経なんて代物は不調になって久しい。
常に身体の置き場を考えながら世界を攀じっているような感覚。鬱々とした精神の中、ただ息の根ばかりは勝手に止まってくれないことが、桜子には不満だった。
「はぁ……」
その証拠に、ため息だけは幾らでも吐くことが出来る。
もっともネバネバした暗黒が胸に溜まっているような心地が常にしているのだから、それすら出来なければ彼女はとうに自死していたに違いない。
「ダメ」
だが、時に自殺を脳裏が脳裏に過るだけで、桜子はいやいやと首を振る。下手に斬られた後整えるために短くした髪はそれでも視界に映らなくなっていた。
駄目と口にしてこそいるが無論、何もない少女は何時だって死んでもいいと思っている。だが、それでも駄目に成りかけの彼女にだって意地が残っていた。
それは夢かはたまた妄執か。桜子は夏の茹だるような熱に急かされるように、こう呟く。
「何もないまま、じゃダメ。それじゃ、誰も泣いてすらくれない……」
この世に愛などないと思っている。だが、終わりに哀すら向けられることすらもなければ、あまりにこの世は悲しい。
どうしようもない自分の躯が転がるばかりの葬式にはきっと、一輪の花すらないだろう。そう信じる少女は、だからこそまだ死ねないだけだった。
悲鳴は無視される。助けてとは口が裂けても言えない。だが、そんなだからこそ空に向けた彼女の心よりの放言は過たず捉えられたのだろう。
白い戸の横にてそれを聞いた青年は、そ知らぬ顔して桜子に声をかけた。
「やあ」
「っ!」
短い、同級の多くより僅かに低めの声色。それに野良猫の反応のように少女は後退る。
なんだ聞くより見るほうが元気だなと思いながら彼、土屋勇二は桜子の全身を眺めた。
肩は緊張に持ち上がり、反して首は恐縮に窄まっていて酷い猫背で、多少退こうが背高の彼には彼女の右回りのつむじだって見て取れる。
媚びるような下方からの視線の奥には追い詰められた者だけが持つ危険な光も混じっており、なるほどこれは友人が三組の可愛い子と言っていたあの野崎桜子とはとても思えない有様だ。
彼は三組で最近虐めがあるとは聞いていた。だからこそ、どうにかしたくならないように寄らず関わらず六組にて平凡を謳歌していたところ、被害者との邂逅だ。
それに純粋に、可哀想だなと勇二は感想として持つ。そして、そう感じてしまったのならば、どう動くべきかというのはこの青年にとっては明白。
無言の遠慮ない視線に震えだした桜子へと真似するように、彼は頭を下げた。
「ごめん、野崎さん」
「……えっ、っと……何のこと?」
だが唐突な謝罪に、少女はますます怖じる。相手は高さと眉の太さくらいにしか特徴のない、桜子にとってよく知らない男子。
これは、名前だって分からなければ、関わることすら嫌な膂力と性欲に得意を持つという異性というものだ。
彼女にとっては、けだものが突如人の真似事を始めたようで不気味に思い、その意味すら理解できなかった。
何となく、少女のどうしようもない精神状態を察して口の端を歪めながら、勇二は真っ直ぐ正対して続ける。
「勝手に、大丈夫だろうと思ってた。だから、ごめん」
「あ……う、ううん」
虐め。その文言だけは少女の心のためにここでは形にはせず、しかし謝意の理由くらいは伝わるように、とい勇二の言葉は小さく響く。
耳にした彼女には多少の理解の色が宿った。だが、桜子は首を振る。短い髪は広がり、鳶色の楕円を作った。
「私は、大丈夫」
そして、少女は明らかな嘘を吐いて虚勢を張る。彼女のどこまでも低い視線は男の瞳を一瞬だけしか映していない。
だから、彼の主張の強い眉が苛立たしげに逆立ったことに幸運にも気づけなかったのだろう。
勇二は努めて平坦に、こう返した。
「そうは、俺には見えなかった。だから、謝ったんだ。勝手にね」
「う、うん……」
それらしくない言葉、わざとらしいロールプレイを見せられて、桜子は目を白黒させる。
先からこの男の子は変である。何か努めているような、一言にいちいち考えを載せているようなそんな風。
裏に思惑を隠してさえいる気もするが、それを暴く気力も彼女にはない。
だから、取り敢えず仮にも桜子は勇二の言葉に納得を見せる。頷きに満足した彼は、こう続けた。
「だから、ひょっとしたらこれからもキミに勝手をしてしまうかもしれない……ちょっと、覚悟しておいてね」
「これ、から?」
青年の言葉から一つだけ抜粋して、少女は内心首を傾げる。お先真っ暗の中に、よく分からないエックスワイ染色体生物がひょっこりと。
それが吉兆とはとても思えない桜子は正直に、眉をひそめてしまう。
反して、やっと桜子から哀以外の表情を引き出すことの出来た勇二は、むしろ怒りを元気と捉えて満足する。
大きめの部品たちにて少女が驚くほどに立派な笑みを模った彼は、こう告げるのだった。
「キミに悪いことには、ならないよ。絶対ね」
「っ」
何故か、断言にびくりとする桜子。
それは微笑みの中で彼の目蓋の肉に埋もれかけた真剣な瞳が彼女を射抜いていたからだ。
この人は何かが、気持ち悪いくらいに違う。それは温度差か、波長か。
兎にも角にも無視だけは出来そうにない意志の強さばかりを感じ、少女はよく分からない申し出を受け入れることにする。
桜子はどうせ、言の通りにこれ以上悪くはならないのだという諦観から頷いて、ふと最後に問いを付け足した。
「分かった……あ、そうだ。あの、名前……」
「そうだね。こっちだけ色々知ってても不公平だ。俺は、土屋勇二。六組の男子だよ」
「……思い出した。足、速い人……」
「あー……そうだね。陸上部だし、ちょっと前の体育祭では活躍してたかもね。まあ、そんな奴だから憶えておいて」
「うん……」
このよく分からない男子は、駆けっこが好きな人。そう判じ、彼女は何となく納得する。
あんな辛いだけのことを好きにしているこれはやっぱり変わり者。だから私に構うし、変な言葉ばかりを操っているのだろう。
そして、変人の言葉なんて話半分に全てを忘れようと内心決めた、薄情にしかなれなかった桜子は再び見上げる視線を降ろす。
そんなつれない様子に勇二は頬をかき苦笑しながらこう続けた。
「はは……まあ別に俺のことなんて、何時か忘れても構わないけれどさ」
それは本心から来るもの。どうせ一期一会は擦れ合いばかりで教訓以上の意味は残らず、それで良いから仕方ないと思い。
だがそうは、ならなかった。これより土屋勇二という男子は野崎桜子という女子にあまりに深いものを残すのだから。
それを知らずに方や鬱々と、方やのほほんと。変わり者にされてしまった二人は、話すこともなくなるとその場で疾く別れるのだった。
「じゃ、元気でね」
「ん……」
去る彼。幸せだった過去と実感が断絶しているため、どう付き合っていたかすらも忘れていた男子というものの一つは、想像、いや妄想すらしていたよりずっと与し易かった。
それが、勇二という人間のパーソナリティから来ているのであれば、それはひょっとしたら有り難くすらあったのかもしれない。
色々とおかしかったけれども、穏やかではあった相手。何時殴られたり唾を吐かれたりするのかビクビクしていたのだけれどもそんな怯えは無用だった。
なら。
「私……もっと、ちゃんとしてれば良かった、な」
震え、自虐は始まる。やっぱりそんなマトモになれない自分は悪い。ばってんだらけの頭の中の通信簿に、また一つバツが足された。
桜子は制服の上から、二の腕を強く引っ掻く。きっとあの男の子はいい人で、ならばそれに真っ当に対せなかった自分は悪。
そんなのだから、虐められるのだと、懊悩はまた落ち込みの材料になる。
「死んじゃえばいいのに」
やがて、独りの結論は何時だってそこに行き着くのだった。
それが誰かとは、明言しない。口に出してしまったらそれこそ直ぐに本当になってしまいそうだから。
でも、繰り返したその言葉は極度の落ち込みの中でも力持って吐き出される。
誰彼の部活動の響きも弱まれども、暮れの気配は遠い青の下。広い窓ガラスが風で僅か揺れる中。でもその最低の言葉は誰も拾ってくれやしなかった。
だが、本心の吐露は独りぼっちでも意味があるのだろう。僅か持ち直した桜子は結論を次善のものに修正し、こう続ける。
「もっと、良くならなきゃ……」
母が駄目と言ったのだから、良くなろう。彼らが嘘つきと言い張るのだから、正直者にならなければ。
そうでもないと、次にはこの命すら見捨てられて、無惨に殺されてしまうかもしれない。いくら死にたくても、だからこそ綺麗に死ぬ自由すら奪われてしまうのは、嫌だった。
もし、私がそれでも駄目で決して幸せになれないとしても、何時かは。
「そしてどうでもいい人に、なりたい」
それは瑕疵だらけの彼女にとって、間違いのない言葉だった。