千代に八千代に桜死ね   作:茶蕎麦

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みっつは忘れて

 重く伸し掛かってくるような深い藍色の空を一度も見上げることもなく、灼けるような日差しの下自罰のためのように鈍い歩みで桜子はその日も登校した。

 朝から無視とバイ菌扱い程度の弱火を浴び、誰かの手により遠く後ろに置かれていた机を元の位置に直してから、彼女はやっと一息。

 今日は落ち着いているなと思いながら、机の木目の丸まりをうつむき加減で見つめながら何時ものように硬直し、クラスメートが構ってこないように祈りながらじっと座って待つ。

 頭は、努めて空っぽに。活きてすらいない自分の生き方が哀れだとはもう、桜子には思えない。明日が見えずとも、人を想えずとも、それでも永らえることだけは出来る。

 奇跡のような逆転は信じられないけれども、私をもっと飽いて嫌うことも忘れて、皆勝手に幸せにでもなればいいのだと、彼女は願っていた。

 勿論、そんな多幸を願う人間たちと紙一重で異なる利己なんて叶うべきではない。だが、それでも手を組み合わせる暇を使って人が動けば変化は多分に起きるもの。

 

「えー……このクラスに、イジメがあるとの報告がありました」

「え?」

 

 桜子は、顔を上げた。どこかの誰かさんのおかげで、やる気のない教師が情報を垂れ流すばかりのホームルームに、変わった文句が。

 何もない、を堪能してばかりいた桜子は、イジメという身近な言葉に顔を上げた。シャッターのように大きく彼女の目蓋は二回ほど瞬く。

 ざわめきに、薄いオールバックヘアを頭皮ごと掻きながら、嫌々山田俊男は生徒たちに静止の声をかける。

 

「静かに。……私は皆さんのことを信じていますが、事が事です……今からアンケート用紙を配布しますので、記入した上で各々私の元まで持ってきてください」

 

 そう、これまで見て見ぬふりをしてきていた山田俊男という担任の男は、校長らにまでせっつかれて方針を転換していた。あるというなら、ないという証拠を作れば良い。

 それは、面倒など自分のクラスにないことを認めさせるために彼が作ったアンケート。

 前からから後ろへ送られていく、紙切れ一枚。名前欄のないそれにはイジメられていますか、という問いやあなたがイジメられていると思う人はいますか、等がタイプされている。

 その素っ気ない文字の列には先生の優しさすらも妄想出来ない。

 

「……はい」

 

 桜子は過たず、イジメられていますか、の隣の四角にバツをくれて、イジメられていると思う人は分からないと答えた。

 そうして後ろから返ってくる紙に自分の一枚を載せて、前へと送る。担任の先生の手に渡る前、一番前の男子が桜子の回答を知るためにかプリントを何枚か捲って確認したことには、彼女も気づいていた。

 

「協力ありがとう。それじゃあ、後は何時も通り……」

 

 以降は、起立礼着席で終わる毎日のルーチンが目の前で行われる。

 やがて天辺に数束撫で付けられたばかりの俊男の髪、去っていく後ろ姿を笑う生徒たちの声も遠く、教室の移動のためにだけゆっくり桜子は動き出した。

 教科書に資料に、ノート。毎日大切にリュックサックに入れて運んでいるそれらにはまだ、いたずら書きは一つもない。もっとも、書き込みすらも今ひとつでもあるそれらを理科室へ運ぶため抱きしめながら持ち上げた、彼女。

 

「あんさ」

「っ……」

 

 すると、視線の先にいじめっ子の顔が映り込んで、そしてそれは鋭く高い声を発した。

 平戸緑、という彼女は言わば虐めの実行犯で、人気者。それが虐めの告発があったこのタイミングで嫌われ者と面している事実に、多く他にも視線が集まるのを覚えた。

 努めて、無表情にて緑の二つお下げの先っぽばかりを見つめる桜子。何もかもにも頭を下げて生存を願う少女には機嫌を伺うことすらもう難しい。

 次の一言への恐怖で粘度が増した空気の中、一呼吸すら挑戦できずに桜子は黙す。眼前の弱さに眉をひそめながら、緑はこう呟いた。

 

「あんたじゃ、ないよね」

「……はい」

 

 その問いが、今回の面倒事の発生源が自分ではないか聞いてきているのだというのは、流石に桜子にだって分かる。

 嘘ではない。何せ彼女は、虐めが未だ続いていることがまたあの母の耳にでも入ってしまえば、見捨てるどころか今度こそ本当に捨てられてしまうかもしれないと妄想している。

 死にたくても、野垂れ死ぬのは嫌だ。そんな、末期の選り好みを行っている少女の気持ちなんて、普通一般には分からない。

 

「そ」

 

 だが、見下げ果てている視点から見ても、こんな下らない生き物が反逆を行うことなんて考えられないとは思えた。それに、急かされたが正直なところ彼女にはどうだっていい。

 緑は一つ薄い唇から発したばかりで特に何もすることなく、踵を返す。地面を覗き込もうとしているかのような猫背のまま、桜子は彼女の嫌に良い香りを浴びた。

 

「いかないと」

 

 俯きなるべく周りを見ないまま、回れ右をして理科室へと彼女は震えている足に力を入れて動かす。

 ぎくしゃくとした動きはバカにしている大勢の笑いを誘い、誰かから丸まったプリントが投じられる。頭に当たったその柔らかい感触だって心に痛かったのはずっと前のこと。

 どうでもいい者たちが、思い通りにならない蠢きを見せる中、少女はもう孤独を感じるばかり。死にたい、死にたくない。そんな相反を抱きながら役割のために動くだけ。

 桜子には意識もまるで体の外にあるかのような離人感に襲われることも多々ある。それも、まるでここに己が居るべきではないと身体と心が勝手に悲鳴を上げているかのようで、辛いものだった。

 

「勉強、しないと」

 

 それでも、少女は励もうとする。曖昧な未来という約束なんて少女は知らない。だが、学舎にある以上規定はあるのだ。そこから洩れてしまえば、また目立って叩かれてしまう。

 好きでないことでも、それに打ち込んでさえいれば見逃してもらえるのならば、一生笑顔になれずともそれでいい。

 姿勢的にも前を見ることの出来ない桜子はそんな結論を束ねて今を歩むための杖にしていた。けれども、乏しい少女に導はなく。

 

「あ……う」

 

 彼女は廊下に出たことに気づくが、通う黒い影たちはどれもこれも似たりよったりの存在ばかり。それらとすれ違うだけでは縁の結びは救いの綱は、未だどこにも引っかかることはない。

 倣えずにただ細い息をしてばかりの少女は、辛いとすらも言えなかった。

 

「ふぅ」

 

 用事がなければ、放課後にまで教室に居残ることなどそうはない。

 そして、そろそろ桜子は遊興の対象としては今ひとつとみなされるようになっているのだろう。むしろ先生らが怠惰にも動いたこともあり、危険物となったのか。今までからすれば驚くほど何もなく、彼女は独りぼっちになれた。

 少女の静寂の中に、歓声等はない。学生等の営みを遙か遠くに、桜子は今やっと静かに息を出来ると思った。

 

「はぁ」

 

 溜息も、そっと。悪い自分なんかが人の中一息吐くのも申し訳ない。譲ることこそ人の美徳であるならば、端にて息を潜めることこそ正解だろう。己を苦しめながら彼女はそう、信じている。

 別段、正しいことに拘っている訳でもないだろう桜子が、自分にこう言い訳してしまうのは、ある種滑稽なことである。

 ただ間違っていることを見咎められて痛みと共に正されるのが嫌だから気をつけているだけなのに、もっともらしく。

 それでも、正しいことさえ続けていればもっと飽きられて忘れられて一人安堵出来ると少女は盲目にも考えているのだった。

 

「いこ」

 

 陰鬱に沈んでいても呼気が完了したならば、その分だけ前には進める。

 心は空で胸は空気で一杯。ならばと、のろりと桜子は立ち上がった。途端にぎしりと、痛む身体。何時だって、彼女は恐縮に全力過ぎて強張りきっている。

 今日も空は青く澄み渡り、深く遠くて少女にとっては最早海の底よりも非現実的。よく考えなくてもその向こうには宇宙があり、太陽があって、星々が瞬いている。

 しかし、雨粒と身体を灼く光線ばかりを気にしていれば上など全く気にしないでも良いのだと言わんばかりに、桜子は一瞥以上を行わない。

 木目入れ違いの見慣れた教室の床ばかりを望みながら、彼女はおおよそ白い廊下に出た。

 

「お、野崎さん。昨日ぶり」

「あ……うん」

 

 そうしたらいじめられっ子は、待ち構えていたのかもしれない勇二に見つかる。ただでさえ切れ目の合間の青年の瞳は、柔和な歪みに隠れていてその色もろくに覗えない。

 ただ、桜子とて笑んでいるというのは理解できたので、先日の印象もありそれほど恐ろしいものとは思えなかった。クラスメートがよくするようにわざとらしく厭な風でもない。

 もっとも、不信に縋って生きている少女にはいくら対象が機嫌良くても、これなら直ぐには打たれないだろうという程度にしか楽観できないもの。そもそも何者とも関わりたくないのが今の桜子だった。

 努めている無表情の中にそんな、心の根っこをどうして伺ったのだろう。笑顔を苦いものに変えて勇二は言った。

 

「……嫌そうだね」

「そう?」

「うん。野崎さん、俺とはあんまり話したくないみたいだ。まあ……それでもちょっと時間貰っても構わないかな?」

「えっと……」

 

 行動も鈍化すれば、思考も遅い。自罰こそルーチンとして確立出来ていても、彼女は会話にはめっぽう弱くなっていた。

 黙って返答を待つ彼に遅れながら、桜子は言葉の意味を呑み込んでみる。

 勇二はどうやら自分の心を多少感じてくれて、その上で控えめに求めてきている。どんな用事かは分からないが、それが解決できればきちんと解放されると予測出来るくらいの、押しの弱さを彼女は覚えた。

 

「うん」

 

 だから、諾とする。久しぶりの自発的な頷きは思ったよりも深く、勇二に真面目な子なのだなと勘違いさせた。

 微笑み再開させて、勇二はこう言った。

 

「あー……まず、昨日言ったけど野崎さん、俺のこと結構忘れちゃってたかな?」

「それは、えっと……」

「まあ、きっと覚えてて印象と顔ぐらいって感じか……結構どうでもいいもんね。大変な時の他人とかさ」

 

 まるで、全てを知っていると言わんばかりの断じ振り。内容を含めてバカにされているようで、勇二という男子の発言はどうにも桜子の癇に障る。

 もっとも、興味のない生物の低めの啼き声を感じるだけで、年頃の少女のおおよそは不快に思うもの。見ていられないものではない顔からそっぽを向いて、桜子は呟いた。

 

「そう、かな」

「そうそう。いじめられっ子が、助けにならなかった他人を気にかける必要なんて、ないし」

「っ!」

 

 モーションもわざとらしく頷いて、勇二はそんなことを言う。弱みが知られていたことをやはりと思いながらも、他人に腹を見せられない乙女はびくりと怯える。

 反応に、意外を覚えた青年は笑みを半分くらいにして本当のところを述べるのだった。

 

「あー……バレてないと思ってたのか……野崎さんのこと、そこそこ他のクラスでも噂になってたよ」

「う……」

 

 自分のことが噂になっているというのを恥じるというのは一般的。そして、噂になっているのが恥部である虐められているという事実であるのは更にいただけなかった。

 途端に、顔を赤くする桜子に、この子は少しズレているとだけ感じる勇二。見目のいいズタ袋が多少紅潮しようが、愛らしく思わないところがこの青年らしさである。

 遠く、下駄箱にて騒ぐ他人を一度見てから、彼はあっけらかんとこんなことを伝えた。

 

「あ、そうだ。せんせーにチクったのは、俺だから」

「え?」

「いや、教頭に直に伝えたら、流石に問題にはなるもんだね。ハゲせんせーも、これで少しマシになりゃいいけれど」

 

 淡々と続きを語る勇二に、桜子は目を丸くする。それは少女にとって、今日の一番の大事。虐めの事実を認められてしまうこと、最悪それが親にまで伝わってしまうかもしれないことに、何度恐れをなしたことか。

 無論、目の前の男子はそもそも虐めの恐ろしさも、自分の境遇も何も知らないのだと桜子は思う。しかし良かれと思った行為が悪い結果を生むのは、少女にとって身近なこと。

 考えなしと思えてならない異性に対して、失望しながら彼女はこう問った。

 

「どうして……そんなことしたの?」

 

 それは虐めというものを身近から取り除こうとしたから、だとは思える。とはいえ、それだけだとするならば、あまりに桜子に対する配慮が足りていないというものだ。

 了承もなしに、相手から虐めを剥がそうとするなら、そこに痛みが生じる可能性を見て然りと思うのは当事者がためか。といっても、そうでなくても一言は欲しかったと女の子は唇を知らず尖らせる。

 そこにやっと、幼さと愛らしさを覚えた勇二はやっとそれらしく笑んでから、言った。

 

「いや、それで君が助かればいいと思ったし、そうでもなければ……」

「なに」

「俺が死ぬ気で助けるだけだから」

「はぁ?」

 

 眼の前の人物は確かに他人であり、殆ど初対面ですらある。しかし、それは間違いなく死ぬ気で助けるつもりと語った。それは、どうしてか。

 これは自分の偏りを悦に感じる変人か、それとも常を逸してしまっている壊れた人間なのか。人生経験の少ない桜子がそれを瞳ばかりで理解するのは難事である。

 それでも意志の強さはしかし整いきらない眉や表情の真剣不動に現れていた。

 もう、何に対しても笑わずに、彼は真っ直ぐに本音を述べる。

 

「嫌なんだよ、俺。もう虐めとか。本当は目に入るのだってヤダ」

 

 実感の籠もったような、重さを持った言葉はまるごとため息のよう。だからこそ、桜子は青年の言を受け取れた。

 察するに、この人も虐めというものを受けたのだろうか。だが、それだけで他人の虐めに介入するのはいただけないと思う。

 そう、桜子は思うが、しかし。こうも考えざるを得ないのである。少女は高い温度に急かされたかのように、言った。

 

「なら土屋君っていい人、だね」

「あー……所詮俺なんていい人仮面中身なし、ってところだよ」

「どういうこと?」

「最低でも、ヒーローじゃないってこと。ただの自分勝手な生き物だよ」

「む」

 

 己を最低と定義している生き物の前に、似たような卑下が置かれた。鏡合わせですらない、似ても似つかないそれに桜子はむっとする。

 いい人というのだって勝手というのは少女の理解の内。その上で、この男子は良いと褒めたというのに。

 窓越しに斜光の温度は昼時よりも弱まっているだろうが、暑い。そして、何より心のムカつきがこれまで以上に己を急かしている。本当は止まるべきと思っているが、それでも彼女は顔を真っ直ぐ上げて、口を開ける。

 少し振りに見た空は殊の外、青いだけでも綺麗だった。

 

「それでも、キミはいい人だよ」

「あー……誰かを助けるのが、自分のためでも?」

「うん。それだって、いい人」

「はは……雑な決定だけど……本当なら、こんなもんなのかなあ」

「うん」

 

 云。この世は是で良い。否定は簡単であっても、実際に眼の前にあるものに一々ケチを付けるのはあまりに暇人に過ぎるものだ。

 陸上部の青年は、きっとサボタージュして、ここに居るのだろう。それくらいは、外で校庭にて楕円状に駆け続けている誰彼を目の端に入れさえすれば、分かること。

 そして、それは自分に余計なお節介をするためであり、ならば良しということでいいだろうと桜子は勇二の言葉の通りに粗雑に認めていた。

 暮れの手前に新たな光明は降らない。だが、目に馴染んでいた筈の当たり前が印象を変えたこと、そしてそれが見下げていた少女のおかげであれば、瞬きすらも勿体なかった。

 勇二は頭を下げるように視線を合わせてから手を伸ばし、こう思いを伝えた。

 

「気が変わったよ。俺は助けじゃなくて、野崎さんの友達になりたい」

「えっと……」

 

 自然、その大きめの手は握られない。それは、実は五十を軽く超している彼の握力を恐れてのことではなく、ましてや悪意を感じてのことではなかった。

 単純に、異性というものとの久方ぶりの接触に女の子が照れただけ。ためらいに初めて、可愛らしいな、という感想を持ってから手を引っ込め、青年は諦めずこう続けた。

 

「……ケータイ持ってる?」

「持ってない」

「あー……何となく、理解。ただ、何かあった時のためにも俺の連絡先、渡しとくよ。勿論、無理にかけなくていい」

「うん……」

 

 そして、懐から取り出したメモ帳から切り取られた一枚をそっと桜子は受け取る。おそらく今日予定している買い物なのだろう、洗剤の商品名や野菜達の文字等が踊るその下に、数字が十一並んでいた。

 桜子だって眼の前の野暮ったいこの人物が、自分を恋しいまでに欲していることはない、とは分かっている。そして、友達というのは気軽に作られて当たり前だって、子供の頃から思っていたのだけれども。

 

「ありがとう」

 

 自然に口から溢れた少女のその感想は、何より放課後の自由へと真摯に響くのだった。

 

 

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