「えっ」
土屋勇二の訃報は、遅く野崎桜子に届く。
――少し前に死んだ同級生、そういえば彼あんたと仲良かったっけ。
カフェのテラス席にてそう口にしたのは中学三年の修学旅行にて一緒になったために嫌々仲直りしてから腐れ縁となった平戸緑。
情が薄めな彼女の軽い語りを前のめりに聞いたところ、その最後に土屋という苗字が現れた。桜子は思わず、大きな瞳をこの上なく丸くする。
「何、あんたあいつ死んだの知らなかったの? 中学卒業前までメチャ仲良くしてたじゃん。アタシ、なんかあんたまたキモ……変なのと付き合い出したとか思ってたんだけど」
「私達は、付き合ってなんかなかった」
「んー、ならなんだったんだってのよ、あんたら」
長いまつ毛から覗く緑の瞳の色には大きな疑問符が浮かぶ。手慰みに金色のマドラーを彼女の細い指の腹が突付いたために、薄茶色のグラスの中から高音が立った。
「友達」
「ふうん……良く分かんね」
「それは、大雑把な緑じゃ意味不明でしょうね……」
「なんつーの? ラコだって大概バカなのにさ、ちょっとえらそーでムカつくよねー」
「こういうのは遊びや勉強で身につくもんじゃないのよ……」
「……この、二股女」
「緑だって、前はそんな奴としか二人組作れなかった癖にね」
「言ったな? ……あー、ムカつく……どうしてアタシあんたなんかと一緒に居るんだろ」
「私と縁を切りたかったら、それこそ緑が誰かと付き合えばいいじゃない」
「マシな奴が寄って来りゃ、直ぐにでもそうするっての」
「結局ただの面倒くさがりなんだから……ふふ」
勇二の情報をそれはそれとしながら笑む、桜子。そういえば何時から自分は笑顔を思い出して自由に出し入れするようになれたのだろうかと、彼女はつと、考える。
「……なんだよ、じっとアタシの顔見て」
「なんでもない」
分からないということで結論付く思考の過程に、桜子は半分になった珈琲に二本目の砂糖を足そうとしている眼の前の生き物をじっくり眺めることは出来た。
いじめられっ子といじめっ子。残酷なまでにそんな二人の関係も何も変わって、それが今や悪くない。だから生きるのが面白くて笑えるのだろうなと桜子は思った。
緑とは話は合わずに、好みも違う。だが幾ら反りが合わずとも、もう嫌いではない。彼女だって、ただの虐めの矢面に立たされていただけのお調子者でしかなかったのだから。
緑がいつか秘密だぞと語ってくれた色々な虐めとかの首謀者だったらしい彼女はそれこそ、勇二がとても受からないだろうとしていた高校にて青春を謳歌しているらしく、つまり桜子と縁はもう途切れていた。それこそもう、どうでもいい人だ。
高校生として二年間も生温い空気に浸かって、そろそろ凍えは忘れた。母は落ち込むことがあって、だいぶ丸くなっている。こんなならもう、過去の全てを忘れて良かったのかもしれないと、少女も考えなくもないのだ。
「さて、と」
でも、それは出来ないからこそ、その手は組み合わされる。花のひとひらに墓標はなくても、間違いなく桜は多くの死の積み重なりの上にあるからこそ、美しい。
「……頑張ったんだね」
呟く、少しだけ幸せになった桜子は、でもあの日の願いを忘れていなかった。だから、小さなポットからミルクをなみなみと注ぎだし、一杯で居座るつもりでいる緑の前にて帰宅の準備をはじめる。
首を上げる、あの日と相変わらずなところは二つお下げ髪くらいの緑は問った。
「んー? どった。ラコ珍しいじゃん、アタシの先に席立つとか。伝票持って、奢ってくれるん?」
「それくらいしてあげるよ。私、用事を思い出したから」
「じゃ、デート終い? で、用事って何よ、それ」
「うーん……そうだね」
問いにどう返そうか、少しだけ桜子は悩んだ。躊躇と、誤魔化したい心地、それらに押されて笑みも曖昧になりそうだった。
だが、同性の友達同士でもデートと茶化して言う緑の気安さ感化され、あの時私がこの子のようだったらと桜子は思ってしまう。でも、桜子は菊でも菖蒲でもない桜子である。
だからこそ、自殺したのだという勇二のために、彼女は一輪の献花として。
「私は彼のために、泣いてあげないと」
「はぁ?」
未だ温度の合わない、でもそれで良い友達から背を向けて、帰路に就くのだった。
「桜子、郵便来てたわよー」
「あ、お母さん……大丈夫だった?」
「ええ。それは、あんまり貴女とお父さんのお世話になってばかりじゃ悪いもの。郵便屋さんを迎える時もちゃんと、気をつけていたわ」
「そう……お母さん、偉いね」
「ふふ……桜子も、毎日ありがとうね」
「大したこと、ないよ」
家に帰れば家族が居る。それが嫌でたまらなかった過去が桜子にはあった。
辛辣な母に、何もしてくれない父。彼らに育まれるというより、矯正され続けているような窮屈さを覚えながら、幼さは歪んで乞い続けていたのだった。
だが、今はどうだろう。桜子の手を必死に握りながら杖を突き、子供の褒め言葉に童女のような笑みを見せる母。
そして、父は彼女のために毎日くたびれるばかりの仕事を既に換えている。振り返り、桜子は本当に変わったと思った。それこそ、変わり果ててしまったとすら、考えてしまうくらいに。
「それにしても、桜子宛ての手紙なんて珍しいわね……最近は大体携帯電話で済むし……もしかしてラブレター、とか?」
思わず桜子がぼうっとしてしまった間隙に、あの日事故に酷く打ち付けてしまった背中も丸く、母の恵は娘が直ぐにポーチに入れてしまった手紙のことを気にする。
そのことが嬉しくも虚しいのはどうしてか。上手に笑みを作り直して、桜子はこう返す。
「それは違うよ。確認したけどくれたのは、友達なんだ。中学の頃の、友達。ほら、あの頃の私って携帯電話とか持ってなかったでしょう?」
「あ、そう……だったわね」
悲しそうにする、恵。彼女はこの頃、自業を見返し悩むことが多い。此度は子供に対して十分に与えなかったことに、だろうか。何を今更と桜子は思わなくもないが、もっともこの人が死んでからの反省でなくてまだ良かったとも考える。
「それじゃ、また何かあったら呼んでね」
「ありがとう」
取っ手だらけになった家を上手く使い、ソファに母を安堵。同時に、桜子は今日もこの人を後ろから突き倒すことを我慢できて良かったとも思う。
恵の口癖になったありがとうという文句を遠く聴きながら、手を振り同階の自室へ。母の悲鳴などを聞き逃さないように扉の一部を開け放ったまま、いそいそと柴犬のペーパーナイフにてその封を剥ぐ。少女は、万感の想いを込めて、こう呟いた。
「彼と関わるのもこれで、最後」
そう、死んだらお終いなのだ。何もかも。頑張ってくれたことも、思いも期待も何も、花のように散って、それこそ残るのは。
「こんな幾ひらばかり、なんだね……勇二くん」
露わになったのは便箋二枚。友から最期にそればかりを宛てられた少女は、そこに一つ小さな歪んだ染みを作り上げ。
「いい人、だったのに……」
誰もが故人に対して口にするテンプレートを本心から用い、ようやく独り涙をこぼせたのだった。
「桜子さん、久しぶり。これは一応文だけれど、それらしい形式とか時候の挨拶とかは要らないよね。まあ、遺書みたいなものだし、少し端的でも許して欲しい」
「さて、本当は謝りたいんだけれど、でもまずは、ありがとう。俺なんかと友だちになってくれて嬉しかったし、なんかどんどんいい風に君が変わっていくのが楽しかった。正直なところ、やっぱり俺と君は違うんだってちょっと寂しいって気持ちもあったけれど、概ね桜子さんとの関わりには満足だった」
「ただ、君が俺のことをいい人だと信じて背中を押してくれたことは、辛かったかもしれない。頑張っていくうちに分かったよ。思う通りになるのって、無理だって。そもそも、一番の正解っぽいものを知っているだけにさ」
「そういえば俺、多分死に損なってないよね? 結構ちゃんと準備して誰にも気付かれないようにしていたから、大丈夫だとは思うんだけれど……間違って植物人間にでもなっていたら嫌だなあ」
「まあ、間違っているというなら、そもそも俺が生きていたことが間違えていた。蓋をされた世界の中の物質が他を損ねず在りたいなら、そもそも生じないのがきっと一番。生まれたら直ぐに死ぬべきだったっていうのは、都合のいい人になろうと思ったその直ぐ後には気付いていたよ」
「でも、中々親に生まれてきてごめんなさいって言いづらくってさ。それで悪くならないよう窮屈にずるずると生きていたところ、桜子さんと出会ったんだ」
「それからずっと俺、君と友達をやれていたよね? 今も友達だと思ってくれていたら嬉しいな。何せ、ここのところの殆ど生きているのが桜子さんのためでしかなかったから」
「結構、勉強が出来ること気にしてばかりいる人達の中って居辛くってさ、それでも何か不都合が起きないよう努めていたらまた嫌われたんだ。後で思えばそんなの、格好つけて自分は違うとか考えてた俺が悪いんだけど」
「どうしようもないよね。誰かが嫌われるのを嫌って嫌われるなんて、人の好悪を操作しようとしてたバチが当たっただけだ。でもそれに加えて生まれて初めて落ちていく成績に焦った結果、本当に俺は壊れちゃったよ。どうしたって外に出れなくなったんだ」
「調べてもらったら病気なんだって、俺。考え過ぎだって。つまりこれまでの全ての懊悩は病巣でしかなく、やっぱり、いい人になんてなれなかったんだ」
「思い返すと結局のところ、君の願いは呪いであって、俺の病を助長しただけなのかもしれない。そんなの、認めたくはないけれどさ。でも、今だってどうにかしていい人になりたくって仕方ないんだ。壊れていて、本当にごめんね」
「ただ、俺には悔いなんてないよ。辛くて、それでも君のお陰で生きることが出来た」
「だから、もっとどうでもいい人になるためにこれから死ぬけれど、ありがとう」
「ああ、そういえば桜子さんは信じられる人は出来たかな。そうなら嬉しいけれど、もしそうでなかったなら、俺は主張をちょっと曲げる」
「たとえ生きるのが悪くても、だから生きている間に正解なんてどこにもなくたって」
「俺は間違いなく、桜子さんに死んで欲しくはない」
「だから、俺の代わりに信じられない世界だって、頑張ってくれ」
「ううっ……信じ、られないよぉっ!」
川の流れが永遠でなければ、愛なんて儚いもの。一番に信じたかったものは、ひとひらに呪いを残して絶える。
彼のためにも辛くても悲しくても幸せになるしかない彼女の涙は、中々止まらなかった。
人の終わりが死であるならば過日の野崎桜子もその時終わってしまったのかもしれない。
だが、呪いと言祝ぎがそっくりなように、積もった花弁の底に新たな熱は生まれるもの。
人一倍命を頑張り続けるようになった桜子はこれ以降、時にこう思うようになった。
ああ、千代に八千代に桜死ね。だから私は、今を生きられる。
少年は、彼女のための土になりました。それにだけは、なれたのです。
やがて彼女は彼を忘れず幸せとなり……それでめでたしめでたしであるかは、どうかご一考していただけると個人的にありがたいです。