望まぬ知恵の王 ~冒険者に憧れた蟲がやがて魔城の主と呼ばれるまで~ 作:SIS
《あ……》
ヌルスは、生まれてからずっと一人だった。
人間と魔物、そのどちらにも与せず、どちらからも狙われる立場。
その事について、ヌルスが本気で恨みを覚えた事はない。どちらの事情も理解しているし、仕方がない事だと分かっていたからだ。
魔物同士喰い合う事も、しょうがない事だ。存在する上では、どうしても避けては通れない事。死ぬことそのものは拒否するが、争う行為自体は受け入れていた。
それは仮に、ヌルス自身が何かに敗北し、滅びる時も同じだったろう。
そこには憎しみも怒りも無い。ただ必要だった、それだけ。
だから。
ヌルスは存在して初めて、今。憎しみという感情を理解した。
《あああアああアあ……!!!》
倒れ伏したアルテイシアはピクリとも動かない。
魔物がゆっくりと、その体に口元を近づける。食らうつもりだ。アルテイシアを。
エルリックの時と同じように。
だが、その牙が彼女のやわらかな肉に突き立てられる直前、魔物は素早く背後へと飛び退った。間一髪で、空間を軋ませて紫色の魔力が通り過ぎて、行き止まりの壁を大きく穿った。
螺旋状に抉り取られた岩壁をちらりと見て、魔物は背後へと振り返る。ここでようやく、魔物の顔が明らかになった。
悍ましい顔だった。形状としては獅子のそれに似ているが、目は二対あり、口元は頬肉が多く、どこか人に似ていた。もしくは、頬をナイフで裂いて口を広げた人間の顔、といった方がいいだろうか。
マンティコア、と呼ばれるタイプの魔物だ。
非常に高い知性と身体能力を併せ持ち、魔術を使う魔物。しかも見た所、人間を食う事で自らの能力を高められる事を知っている。触手型魔物でさえ脳喰いを覚えた結果、手の付けられない怪物と化した。もともと凶悪極まりないマンティコアが脳喰いを覚えたら、最終的には誰にも打倒不可能な災害と化すだろう。
何故そんな魔物がここにいるのか。何故、どうして。
その全てが、ヌルスにとっては最早どうでもいい。
じゃり、と地面を踏みしめて魔物に近づく。
先ほどのように走りはしない。急ぐ理由は、もう無くなってしまったから。
『ヌルス』
マンティコアがエルリックの声でヌルスを呼ぶ。良く真似ている。何もかもが、ヌルスの記憶にあるとおりだった。
だけどそれで、ヌルスの心が微かにでも揺らぐ事は、もう無い。
《囀るな》
びし、と鎧に亀裂が入った。蠢く触手の圧力に、金属が耐えられなくなってきている。ひび割れた隙間から、無数の触手が這い出す。その先端に、ぴっ、と切れ目が入り、くぱあ、と口を開いた。
「囀ルナ」
「喚くナ」
小さな子供のような甲高い声で触手が喚きたてる。バキリ、と胴鎧に大きな亀裂が入り、その向こうから満月のように輝く黄金の瞳が、ぎょろり、とマンティコアをねめつけた。
『グルゥッ!?』
同じ魔物でも、否、同じ魔物だからこそ分かるのだろう。異常なヌルスの佇まいに、凶悪なマンティコアも思わず怯んだ様子を見せる。
だがすぐに、その高い知性故目の前にいるのがちっぽけな触手型魔物である事を理解し、にたにたと嘲笑うような笑みを浮かべる。
いくら異常個体であろうと、しょせんは貧弱な魔物。妙な魔術を使うので先ほどは思わず避けてしまったが、本来マンティコアである自分にまともな魔術は通用しない。勝ち目があるとしたら、先ほどの雌が使ったような超高密度で圧縮し高圧で循環する魔力の刃ぐらいなものだが、見た所そういった魔術を使う様子はない。
だったら大した脅威ではない。そのように考えているのだろう。
その全てが、ヌルスにとっては最早どうでもいい。
マンティコアが何を考えていようが、何をしようが、ヌルスにとっては何の意味も価値もない。理解しようとも思わない。
今は唯、目の前の塵が一秒でも長くこの世界に存在し続ける事が許容できない。
『ファイアレーザー』『ファイアボルト』『ファイアレーザー』
奪った言葉で、奪った知識で、奪った魔術を放ってくるマンティコア。四方から押し寄せてくる炎の嵐。
まともに受ければ、到底耐えられるような攻撃ではない。
『β γ α』
しかしその全ては、ヌルスの周囲に突如出現した歪みの壁によって阻まれた。
雨の降る湖面のように空間が歪み、周囲の景色が歪んで歪む。降り注いだ炎の魔術は、それに飲み込まれるようにして消えていく。
マンティコアがたじろぐ。
奪った知識に、そのような魔術の存在はない。
哀しいかな、マンティコアは人の知識を、知性を奪っただけだ。自ら育んだ訳ではない。記憶にあるヌルスという魔術師の正体が触手型魔物と知った所で、そこから想像を飛躍させる事はできない。ヌルスが、エルリックに披露していたD・レイ以外の魔術を隠していたという事を、想像する事すらできない。
一方、ヌルスも歪みの魔術を使った事で、無視できない傷を負っていた。ボルト系ほどではないにしろ、魔術の反動で触手が裂け、血が滴る。いつもであれば竦み上がる激痛が、しかし今のヌルスには響かない。
耐えがたいほどの痛みを堪える方法は二つある。
一つは、麻酔だ。痛みそのものを感じなければ、辛くはない。
もう一つは。その、耐えがたい痛み以上の痛みで、上書きする事だ。
その痛みが何か、言うまでも無いだろう。
《エルリックも。エミーリアも。……アルテイシアも。いい奴だった。いい奴らだった。こんなところで、あんな死に方で死んでいい奴らじゃ、なかった》
ぎょろり、と血走った黄金の瞳がマンティコアを睨みつける。その眼窩から、一筋の血涙が滴った。
『グルルゥ!?』
《わかってるさ。冒険者というのはそういうもの。私自身、冒険者の死から生まれた存在だ。今更、非難できる権利も無い。だが……》
ギリ、と杖を握りしめる触手に力が入る。ぼこりと触手が膨らみ、根のような無数の細い触手が枝分かれして杖へと絡みついていく。
《貴様は。ここで滅ぼす》
『グガアアア!』
マンティコアが雄たけびを上げて飛び掛かってくる。魔術が通じないなら、自慢の肉体でヌルスを叩き潰そうというのだろう。
選択肢としてそう悪くはない。マンティコアは巨体に似合わない素早さで、瞬く間にヌルスとの間合いを詰める。この距離では、歪みの魔術は自爆が怖くて使えない。そしてヌルスとマンティコアの質量差は十倍以上。片や最弱の魔物、片やその名を轟かせる強豪の魔物。白兵戦になれば結果は見えている。
その全てが、ヌルスにとっては最早どうでもいい。
「α」
口の生えた触手が言葉を紡ぐ。言霊に応じて、杖に嵌め込まれた魔力結晶が怪しく輝いた。
マンティコアがその黒目がちな瞳を見開いた。この距離であの魔術を使うなど正気とは思えない、そういった驚愕がありありと伺える。
この邪悪な獣に判断ミスがあったとしたら、ほかならぬ自分が喰らった人間が、どのような心理で、どのような覚悟で自分の前に立ちはだかったか、それを知っていながら理解しなかった事だろう。
所詮は獣。自らの命より大事なモノが人にはあり、そしてそれを守るとき、あるいは失ったとき、人がどうするか、マンティコアは理解していなかった。
魔術の前に叩き潰す、と鋭い爪をはやした前足が振り下ろされるが、それは金属の杖で受け止められる。特殊合金製の杖はマンティコアの剛腕にもよく耐え、火花を散らし傷を受けながらもその爪を止めて見せた。
「γ」
『グゴォオオ!』
しゅるり、とマンティコアの尾が伸びる。先端に鋭い毒針を有したサソリの尾が、死角からヌルスを串刺しにしようと迫りくる。
だが、ヌルスにそもそも死角など存在しない。巨大な眼球など後付けのものだ。世界を、視覚にも聴覚にも頼らず認識している触手型魔物に、認識角度の制限などない。
そして迎撃手段も存在する。
「αγβ」
新しく口が生えた触手が、早口言葉のように呪文を詠唱する。放たれた炎の矢が、迫りくるサソリの尾を撃ちぬいた。爆発が生じ、毒針が半ばから折れて砕け散った。
そんなの知らない、とマンティコアが叫びをあげる。
『グガア!?』
「β」
そしてヌルスは淡々と最後の言葉を詠唱した。
杖の触媒が怪しく輝き、紫色の魔力が迸る。至近距離で発動した歪みの力が、マンティコアの体をぐにゃりと歪めていく。
だが距離が近すぎる。その歪みはヌルスにも及び、杖やヌルスの躰の一部も、歪みに巻き込まれて捻じれていく。
不思議と痛みはない。ただ、有るべき形がそうでないという、想像を絶する不愉快さだけがあった。そしてそれは、ヌルスの痛みを上書きするようなものではない。
魔力がさらに高まる。矢の形を取らず、直接標的を巻き込むような形で収束した魔力が、マンティコアを中心に雷鳴を放った。激しいスパークと紫の光が、暗黒の闇を照らし出す。
直後。
その雷鳴の軌跡をなぞる様に、ヌルスの視界は砕け散った。
マンティコアの体が、落として割れた陶器のようにガラガラと霧散する。柔らかい毛皮も、硬い骨も、目を見開いたままの顔面も、硬質で鋭利な破片となって床に飛び散る。
ヌルスの体もかなりの範囲が巻き込まれた。特殊合金の杖も触手も関係なく罅割れて砕け、触手だけが迅速に燃え尽きて灰になる。本体も巻き込まれ、黄金の瞳も抉られるように消失した。鎧は最早跡形もない。
喪った体積は凡そ三分の一。傷口から、思い出したように赤紫の血が噴き出す。
だけども。
それでもヌルスは、死ななかった。
遅れて、思い出したようにマンティコアの残骸が燃え上がる。上級魔物だからか、それとも他に理由があるのか、蝋燭のような炎を上げて肉片が燃え上がる。全てが燃え尽きた後には、妙な形の魔力結晶が残された。
心臓のような、植物の種のような、有機的な形状のそれはヌルスも初めて見る。それを拾い上げてしばし観察した後、ヌルスは適当にそれを自分の傷口に捻じ込んだ。ずぶずぶと肉に沈んでいくそれに関心はもはやなく、触手を引きずるようにしてヌルスは床を這って行った。
彼女の下へ。
「アルテイシア……」
一本だけ残った口付き触手で語り掛ける。
その声にこたえるように、少女がうっすらと、力なく目を開いた。