望まぬ知恵の王 ~冒険者に憧れた蟲がやがて魔城の主と呼ばれるまで~   作:SIS

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第百十四話 幼き日々の終わり

 

 

「ヌル……さん……」

 

 蟲の羽音のような、微かな呼気のような小さな声。

 

 それでも、アルテイシアの呼ぶ声を、ヌルスは確かに聞いた。生きてる。まだ。

 

「アルテイシア……。皆の仇は、取ったよ……」

 

「ロ……ショ……憎ま……いで」

 

「大丈夫。彼なら無事だ。きっと今頃5層に逃げ延びてくれてる。あそこはまだ人が多いから、きっと誰かが助けてくれるさ」

 

 ヌルスの言葉に、アルテイシアは安堵したように微笑んだ。

 

 満足したような微笑みだった。

 

 駄目だ、と誰かがヌルスの心の片隅で囁く。心残りが無くなれば、彼女は直ぐにでも……。

 

「大丈夫、アルテイシア。助かる。急げばまだ5層にアトラス達が居る、アトソンさんは腕のよいクレリックだ。今から治療すれば大丈夫。きっと助かる」

 

「……ルス……さん」

 

「大丈夫。まだ間に合う。だからもうちょっと頑張ってくれ。頼む。お願いだから。一生のお願いだ、何でも言う事を聞くからさ……アルテイシア……頼むよぉ」

 

 半欠けの眼球が、透明な液体で潤む。滴る血とは別に、澄んだ滴がぽたぽたと床を濡らした。

 

 分かっている。

 

 ヌルスは三分の二になっても生きていた。

 

 でも人間は。半分にならなくとも、死ぬ。

 

 よく知っている事だ。人間は。最弱の魔物よりも、ずっと弱い生き物だと。

 

 ヌルスの懇願を聞いて、アルテイシアはくすり、と微笑んだ。力なく右手が何かを探すように持ち上げられたのを見て、ヌルスはそっと触手でその指を包み込んだ。

 

 冷たい。まるで、氷のようだ。

 

「暖かい……」

 

 きゅ、と握り返してくる指にも力が無い。伝わる脈も、呼吸も、どんどん弱くなっていく。

 

 ギシギシとヌルスの心が軋む。

 

 こんなはずじゃない。こんな事になるはずがない。だって、アルテイシアはヌルスより強かった。ヌルスより優れた魔術師で、仲間も居て、いつか命を落とす事があればそれはヌルスの方が先のはずだった。

 

 だけどそれでも、アルテイシアは人間だ。

 

 弱くて儚い、それでも迷宮という困難に挑む、人間という生き物。

 

「駄目だ、駄目だ、駄目だ……! 死んだら駄目だよ……! 死ぬのだけは……!」

 

「ねぇ。ヌルスさ……お願……ます……」

 

「! なんだ、何でも聞くぞ! 触手に二言はない! だから……!」

 

 縋りつくようにして体を寄せるヌルス。一言一句聞き逃さまいとするヌルスに、アルテイシアは小さく、その願いを囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私の。脳を、食べて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヌルスの体も意識も、何もかもが凍り付く。その言葉の意味を理解するのを、心が全力で拒絶する。だけど、それは許されない。

 

 アルテイシアの、最後の願い。

 

「伝えたかった、事。言いたかった、事。たくさん、あるから……それに……」

 

「あ……ああ……あああ……」

 

「そう、すれば……貴方と……ずっと、一緒に……」

 

 その言葉を最後に、アルテイシアは瞳を閉じた。小さく吐いた息と一緒に、彼女の魂が出て行ってしまったかのように。

 

 腕から力が抜ける。

 

「アルテイシア!!!」

 

「…………」

 

 息は、脈は、まだある。

 

 だけどそれは、どんどん弱くなっていく。

 

 

 

 何かをするなら、今しかない。

 

 

 

《出来ない……出来る訳が無い!! アルテイシアを食べるなんて、そんな……そんな事……っ!! どうしたら……どうすればいい!! ああ、考えろ、考えろ、そんな手段がなくてもどうにかしろ!》

 

 ぶるぶる震えながら、ヌルスは必至に意識を走らせる。

 

 現実逃避かも知れない。それでも、このまま彼女の遺言を実行するのだけは、断じて受け入れられない。

 

《そうだ、逆転、いつもの逆転だ。アルテイシアは自分の脳を食べろといった、その逆は……アルテイシアが私を食べたら……そうだ……》

 

 ぴたり、とヌルスの震えがとまる。

 

 黄金の瞳が、アルテイシアの体を見下ろす。

 

 彼女の致命傷は、腹部の刺し傷。マンティコアの毒針による裂傷と大量出血による出血性ショックが直接的な原因だ。毒が回った事で臓器不全も起きているが、脈自体は止まっていない。

 

 ならば。

 

《魔物は、あくまで疑似的な生物のシュミレーションで……私は、触手型魔物だ。死は、停止は、肉体の損傷による活動の停止で……魂は、また別にある……そうだ……》

 

 しゅるり、と触手が伸びてアルテイシアの傷口に潜り込む。体内に潜り込んだ触手の先端が細かく枝分かれし、それがさらに枝分かれ、細かく際限なく分岐していったそれは、やがて物質としての形を失い、エネルギーそのものになっていく。それと引き換えに、彼女の体内に残されているマンティコアの毒を吸い上げていく。

 

《魔物には、魂はない。だから……私が、アルテイシアの損壊した肉体を補填すれば……彼女の一部になれば、あるいは……》

 

 触手がアルテイシアの体と融合していく。

 

 どんどんとヌルスの体がアルテイシアに潜り込んでいく。明らかに彼女の体積以上の質量が消えていくが、それはつまりヌルスの思惑が上手くいっているという事だ。生命エネルギーと化したヌルスの触手と融合した事で、損壊した内臓が復元していく。

 

 思った通りだ。

 

 肉体は、魂に従属する。歪みの魔術の反動が魂を傷つけた結果、傷が癒えぬように。

 

 ならば、アルテイシアという魂に従属したヌルスの体は、彼女の一部となる。厳密には魔力の塊に過ぎない魔物では完全なものではないが、だからこそ融通が利く。所詮仮初だからこそ、何にでもなれる。

 

 だがそれは同時に、ヌルスという個の消失を意味する。

 

 つまり、死だ。

 

《…………》

 

 それを受け入れるのか? ヌルスは自問自答する。

 

 嫌に決まっている、死ぬのは嫌に決まっている。死にたくないから、ずっとここまでがんばってきたのだ。でも。

 

《アルテイシアをここで失う方が……ずっと嫌だ……》

 

 生まれてから、苦しい事、辛い事、そして楽しい事はたくさんあった。

 

 アルテイシアと出会って、彼女と過ごした日々は猶更、楽しくて苦しくて、笑顔ばかりだった。イレギュラー魔物に遭遇して酷い目にあったりもしたけど、一緒に冒険して、仲間達と笑い合って、正体を受け入れてくれて、その全てが満たされていた。アルテイシアに出会って、ヌルスは孤独ではなくなった。

 

 それは、幸福の記憶だった。

 

 その思い出には、きっと、命を差し出す価値がある。

 

《そうだ。きっと私は、君に出会うために生まれてきたんだ》

 

 ヌルスが死にたくなかったのは、この世界に生まれた事、意思を持った事を無にしたくなかったから。自分が居ても居なくてもよかったのだと、自分の存在は世界に何の影響も与えないのだと……自分の存在意義は何もなかった、そういう事になるのが嫌だったからだ。

 

 だから死にたくなかった。何かを残したかった。

 

 ……故に。

 

 ここで、死を恐れる必然性はない。

 

 

 

 意味はあったのだ。残せるものはあったのだ。

 

 ヌルスが生まれた事に、答えはあった。

 

 

 

《ごめんね、アルテイシア。君はきっと怒るよね。でも君が悪いんだからな? さきに死んじゃうから……だから残された私が何をしたって、文句は言えないよな?》

 

 アルテイシアの傷口に、触手がどんどん消えていく。一方、残されたヌルスの本体は、俄かに崩壊を始めていた。マンティコアの毒を、ヌルスで引き受けたからだ。

 

 遅効性の猛毒が、ヌルスの肉体の機能を次々と蝕んでいく。だけどヌルスの心を満たすのは、消滅や激痛への恐怖ではなく、穏やかで満たされた充足感だった。

 

 怖くはない。

 

 もう何も怖くはない。

 

 ここで消えるとしても、ヌルスの存在はアルテイシアの中に残り続ける。

 

 きっと残された彼女はその事をヌルスと同じように怒るし拒絶するだろうけど、もうそれは仕方ない。

 

 生きていれば。生きてさえいれば、きっとそのうち折り合いがつけられる事だと、ヌルスは信じる。

 

《ありがとう、アルテイシア。君と出会えて、よかった》

 

 全ての触手が、アルテイシアの体に吸い込まれる。

 

 同時に、残されたヌルスの本体が、灰となる。ざあ、と音を立ててその場に降り積もるそれは、まるで季節外れの雪のようだった。

 

 

 

 誰も居なくなった迷宮の奥で。

 

 少女が一人、眠り続けている…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇に閉ざされた迷宮の最奥。

 

 魔物達も息をひそめる闇の中、ゆらり、と起き上がる人影があった。

 

 がくん、がくん、と首や腕をあらぬ方向に曲げながら、よたよたと身を起こす誰か。

 

 銀に変色した髪を振り乱し、壁に身を預けるようにしてなんとか起き上がると、傾いだ首をゴキリ、と音を立てて本来の位置に戻す。

 

 赤紫色の瞳が、自分の手を見下ろす。信じられないものを見るように、“彼女”は目を見開いた。

 

「あ……ああぁ……。どう、して……なんで……」

 

 そして顔を抑えるように、その場に崩れ落ちる。血を吐くような慟哭が、迷宮の奥深くに響き渡った。

 

「あああ……あ……ああああああ! う゛ぇほっ、げほっ……ああ……えほっ、あ゛ぐぅ……あ、ああ……あぁあああああああああーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!」

 

 

 

 その慟哭を理解する者はいない。

 

 ただ、闇だけが彼女の嘆きに耳を傾けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一部 巣窟迷宮の魔術師 ~完~

 

第二部 彷徨の禁術師 に 続く

 

 

 

 









<作者からのコメント>

 これにて、望まぬ知恵の王、第一部完了となります。第二部は一週間ほどお休みを頂いた上で、3月18日から投稿開始になります。申し訳ありませんが、一身上の都合で二部からは三日おきの更新になります。
 ヌルスは、アルテイシアは果たしてどうなったのか。巣窟迷宮エトヴァゼルに残された不可解な謎の真相は。その全てが明らかになる、第二部 彷徨の禁術師。どうかご愛読頂けますよう、引き続き物語を送り出していきたいと思います。


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