望まぬ知恵の王 ~冒険者に憧れた蟲がやがて魔城の主と呼ばれるまで~ 作:SIS
展開する触手翼は一枚だけ。
紫色の魔力結晶をセットした翼を広げて、ヌルスは迷宮の壁へと向き直った。
見た目と違いこの肉壁は強度が高く、普通の魔術では破壊は困難。逆に言うと、普通ではない魔術の試し撃ちの標的としては持ってこいという訳だ。
しかし、術式の展開が終わり、全ての準備が完了しても、ヌルスはなかなか実行に踏み切れないでいた。
「……ふぅー……」
一つ深呼吸をし、それでもなかなか踏ん切りがつかない様子の彼女。
「どうしよう……上手くいかなかったら……」
どうしても振り払えない懸念が口をついて出る。
全てはそれに尽きる。
触手翼が、完全に独立した魔術回路として機能するかどうかは存分に検証した。結果としては、ほぼ間違いないと言える。アルテイシアの魔眼でも確認した。
それでも、もしかすると、という不安はそうそう拭えない。
これで、失敗したら代償を支払うのがヌルスだけの問題であれば何も躊躇いはしない。しかし実際にはそうではなく、そして巻き込む相手に判断能力が今現在失われているという問題が、どうしても彼女に二の足を踏ませていた。
歪みの魔術、始原の魔力は魂を損なう。癒えぬ傷を刻みつけ、術者の命を奪う。
アルテイシアから教えられた、血塗られた魔術の歴史。今のヌルスはアルテイシアと融合している、魂の無い魔物であるヌルスはどれだけ傷ついても死にさえしなければ傷を癒せるが、アルテイシアの、人間の肉体はそうもいかない。ほんの僅かな逆流が、致命的な損傷になりかねない。
アルテイシア本人であればなんとかできるかもしれないが、ヌルスに彼女ほどの魔力制御能力はない。肉体は一緒でも、やはり才能というものに大きな差がある。モンスターマシンに乗れば、誰でも同じような記録が出せる訳ではないのだ。
それに。
もし。もしもだ。歪みの魔術の制御に失敗し、肉体が傷ついたとして。もしそれを治療できる……修復できる、そんな事があったら。
それは、つまり。
ヌルスが取り戻すべき魂は、もう。
「……!」
ブルブルとヌルスは頭を振って思索を振り払った。奈落に飛躍しかけた意識を切り替える。
それは今考える事ではない。
「……ふぅ。落ち着け。落ち着け……危険を冒す必要はある。さっき実験して分かったじゃないか、触手翼は魔術を二つまで同時詠唱できるが、威力は落ちる。やはり全体的に見て攻撃力は大きく低下していて、7層のフロアガーディアン戦において、D・レイを運用可能にしておくのはほぼ必須事項だ」
気持ちを落ち着かせるために、理論を再確認する。
7層のフロアガーディアン。部屋の構造を見ても、一般的な迷宮の話を聞いても、恐らく撤退不可能である可能性が高い。今までのように様子を見て、無理そうだったら引き返す、という手が取れない以上、使える手札は全て最初から全投入すべきだ。
あらゆる観点で考えて、ここで歪みの魔術が発動できるか確認する事は理にかなっている。危険性を恐れるあまり歪みの魔術を封じたままボスに挑んで敗死してしまっては、何の意味も無い。
それがわかっていて、尚。
ヌルスは踏み切れずにいる。
「…………ふぅ。……くそっ。こんなに意気地なしだったっけ、私」
調子にのった結果失敗した事はいくらでもあるが、基本的に理論と理屈に従って生きてきたはずである。ただ死なない為に生きるヌルスからすれば、逆に言えば死にさえしないのならばあらゆるリスクを許容できる、そのはずだった。
己の手を見下ろす。
相変わらず、自分の体とは思えない細い指。白い肌。うっすらと血管が浮かび上がる肌は、艶やかで柔らかい。ピンク色でヌメヌメと粘液に塗れているヌルス本来の体からは、あまりにもかけ離れている。
それでも、少しずつ馴染んできてしまった。触手を内部で蠢かせて籠手をそれっぽく動かすよりも、この白い指を手繰って杖を握る方が容易くなりつつある。
「…………っ」
ぎゅ、とヌルスは指を握りしめて、覚悟を決めた。
「頼む。アルテイシア……私に、君を守らせてくれ。頼む……」
最後にもう一度深呼吸して、ヌルスは目を閉じた。
そして再び開かれた赤紫の瞳に、もう躊躇いはない。
触手翼が、ざわ、と蠢く。
「D・レイ」
呟くように囁き、魔術を発動させる。蟲の鳴くように呪文詠唱が奏でられ、紫色の魔力が収束していく。
術式を発動した翼が、ぴっ、と小さく血をしぶかせる。人間のものではない赤紫の血……アルテイシアの肉体そのものへの反動は今の所はない。
油断は禁物。最後まで警戒を怠らず、いつでも触手を切り離せるように覚悟しながら、ヌルスは魔術の発動を見守った。
発動工程に不自然な点はない。紫色の魔力が収束されて粗削りな力の塊になると、前方に向かって照射される。魔術の閃光は何度も見たように空間を捻じ曲げ、着弾地点の肉壁に螺旋状の傷跡を残した。
と同時に、ざらあ、と展開していた触手翼が灰に還る。反動に耐えきれなかったのだ。
カラン、と埋め込まれていた魔力結晶が地に落ちる。ヌルスは肩を抑えるようにして、その場に蹲った。
実験の結果は。
アルテイシアの肉体は無事なのか。
「…………」
膝をついたまま、ヌルスは右手を開いたり閉じたり、その動きを何度も確認する。ついで目を閉じて、瞑想するように集中した。
……痛みは無い。
灰になった触手翼だが、その崩壊は本体まで届いていない。展開した触手の、自切点というべき境界線から向こうは浸食される事もなく、既に傷口も閉じている。
何も、問題はない。
「成功だ」
実験は成功した。
ヌルスは改めてその事を口に出して噛みしめるように確認し、ついで猛烈な脱力感に襲われて膝だけではなく、両手もついて床に這いつくばるようにして項垂れた。
「ふぅ、ふぅ、……ふぅーーーーーっ。緊張したぁ……」
安堵すると同時に、ドバドバと汗が出てくる。額に浮いたそれを拭いながら、ヌルスは上気した顔でほわんと微笑んだ。
「やった。なんとかなった。はは、ははは。やったぞ」
D・レイは歪みの魔術としては最弱だが、それでも通常の攻撃魔術とは比較にならない。何より始原の魔術の特性である、現実を上書きするという特性は唯一無二だ。仮に相手が何かしらの魔術的な攻撃手段・防御手段でこちらの出力を上回っても、それを後だしで凌駕できるという事の意味は大きい。
とにかく、これで7層フロアガーディアンに挑む準備はすべて整った。
あとは、ヌルスとフロアガーディアン、どっちがより上位の化け物かで全てが決まる。
「……待っていてくれ、アルテイシア。必ず、君を迷宮の外に連れ出す手段は見つけて見せる」
少なくともその方法は7層には無かった。未だ見ぬ8層と9層に思いをはせて、ヌルスは改めて強く決意した。
決行は明日。
今日は一度研究室に戻り、ゆっくり休む事にする。
そして、運命の時がやってきた。
再び訪れたフロアガーディアンの部屋の前。一度足を止めたヌルスは、杖を握りしめながら入口から内部を伺う。
部屋の様子に変化はない。
ドーム状の部屋の中央、肉々しい下り階段が一定のリズムで脈動を繰り返している。覚悟を決めて、ヌルスは部屋へ踏み入った。
「変化は……ないな」
突然入口が閉じるとか、何かが襲い掛かってくるという事はない。部屋の奥を見ても転移陣が出現する事もない。やはり、ここはただの入口に過ぎないようだ。
実は変な下り階段は即死トラップ的な落とし穴の一種で、出現したフロアガーディアンに落とされないように戦う、という展開も想像しなかった訳ではないが、やはりそうではないらしい。
となると、このドクンドクン脈動している肉の中に、入っていかないといけない訳だが……。
「……うーん。アルテイシアは嫌がりそうだな、これ」
穴の前でしゃがみこんで内部を伺う。得体の知れない粘液に塗れた階段は、ギリギリ人一人が通れるか、といったサイズだ。肉と粘液をかき分けて奥に進むようになっているようで、全身ベトベトになりそうである。
ヌルスは気にしないが、アルテイシアは間違いなく嫌な顔をするだろう。
「仕方ない。後で好きなだけボコってもらおう」
どんどん積み上がっていく負債に眉を顰めながら、ヌルスは肉の階段へと足を踏み出した。
ブーツの足先が、肉に触れる……その瞬間。
「わあ!?」
きゅ、と肉が蠢き、窄まるようにヌルスの下半身を咥え込んだ。そのまま彼女の全身を吸い込むように飲み込んでいく。
逃げ出そうにも時すでに遅し。あっという間に彼女は全身を飲み込まれ、肉の管に体を包み込まれていた。
「(し、しまった、即死トラップの類だったかこれ!?)」
脱出しようとしても、手足が動かせない。狭すぎて触手翼も展開できず、呪文を詠唱しようとすると大量の粘液に口をふさがれて息すらも危うくなる。
「(ま、不味い、このままだと、死……!?)」
まさかこのまま丸呑みされて消化されるのか。悲壮な未来を覚悟したのも束の間、あっさりとその末路は否定される。飲み込まれた時と同様に突然、彼女は束縛から解放された。新鮮な空気を吸い込む暇もなく、重力がその手足を掴んで引き寄せる気配。
「え、わ……きゃあっ!?」
落下の間隔はほんの数秒。状況を把握する前に浮遊感に襲われ、柔らかい地面に尻もちをついたヌルスの口から可愛らしい悲鳴が漏れる。
落ちた先の地面は柔らかくぷにぷにしている。落ち着いたヌルスが手をついて身を起こすと、ふにょん、と地面は柔らかく変形した。
「な、なんだこれ……何かの頬肉?」
困惑しつつ、ヌルスは周囲を見渡す。
どうやら、この空間は何かしらの光源があるようでぼんやりと周囲が照らされている。といっても、一面ピンク色で何が何やら。どことなく親近感を思わせる色合いの構造物が周囲を構成しており、激しい凹凸が周囲に存在している。7層全体を構成する肉の壁よりもさらに内臓の一部っぽい。
見上げると、20mほど上に天井があった。そこからなにやら長い筒のようなものが伸びていて、先端から粘液を滴らせている。しかし見ている前でそれはするすると引っ込み、天井と一体化してしまった。自分があそこから落ちてきたのだと理解して、ヌルスは周辺の観察に戻った。
「なるほど。ここがフロアガーディアンとのバトルフィールドか。灯があるのは迷宮の親切かね。あんなふうに丸呑みで輸送されたんじゃ松明は消えてるだろうからな」
服にべったりはりついた粘液を見下ろしてため息をつく。傷モノとは違うが、アルテイシアの体を穢してしまったような不快感。が、見ている前でそれらの粘液は忽ち蒸発し、気が付けばさっぱり清潔爽やか。髪もべとべとしておらず、さらさらである。髪に指を通したヌルスは困惑に目をぱちくりさせた。
「……なるほど。こういうのもあるのか」
納得して身を起こす。ふにふにする地面はちょっと歩きづらいが、逆に言えばコケてもダメージを受けなさそうだ。
「さて。ここのフロアガーディアンはどこかね?」
普段ならば、挑戦者の侵入を感知して青い光が現れるのだが、とヌルスは周囲を見渡した。しかしながら、いまだにその前兆はない。
もしかしてこの小山みたいな隆起を越えて移動しないといけないのだろうか。面倒くさいなあ、とため息をつくヌルスだったが、観察を続けるうちに違和感に眉をひそめた。
「……揺れてる?」
カタカタ。
カタカタ……。
しっかりしない足場にいるせいで実感が無かったが、何やら、身に纏ったローブに取り付けられた金具が小刻みに音を立てている。
最初は僅かな振動だったそれは、どんどんと勢いを強め、最後にはまるで地震のような揺れとなってヌルスを襲った。立っていられず地面に這いつくばる彼女の目の前で、周囲を取り囲むように存在していた隆起が、埃を巻き上げながら崩れていく。
否。
違う。崩れているのではない。
これは。
「まさか……!?」
『サテ。混沌ノ申シ子ヨ。査定ノ時間ダ。ソノ神髄ヲ以テ、我ヲドウカ楽シマセテオクレ』
闇の向こうで、ソレは子供のように好奇心と嘲笑に目を輝かせながら、魔導球を見下ろした。
その魔導球には麗しい銀髪を靡かせた、赤紫の目をもった女魔術師の姿が映し出されている。
目を見開くヌルスの目の前で、地形が変形しながら隆起していく。
正確に言えば、それは地形ではなかった。あまりの巨大さに、ヌルスが勝手に地形の一部だと思い込んでいたのだ。
そして今も、それはただ、身じろぎしながら身を起こしたに過ぎない。
「在り得ない……大きすぎる……」
見上げるヌルスに、巨大な影が掛かる。
持ち上げた半身は、天井を擦る程の巨躯。数値にして太さ5m以上、長さにして20m以上。蛇がそうするように頭付近を持ち上げただけでそのサイズなのだから、全長は100mを軽く超えているだろう。
その先端は二つに大きく裂け、ゴツゴツと硬い甲殻に覆われ。
側面には無数の点のような模様が何十個も一列に並び、黒真珠のように輝き。
亀裂の内部で、真っ赤な鞭のような器官が、しゅるしゅると出入りを繰り返す。
あまりの巨大さに、それらが当初、ヌルスの中では結びつかなかった。ややあって、その特徴が、巨大な蛇、あるいは地虫の類を示す事をようやく理解する。
地響きを立てながら、大いなる者がちっぽけな器を頭上から見下ろす。その何十もの瞳はそろって、惚けた顔で茫然と見上げるヌルスの顔を映し出していた。
地竜(ワーム)。
ワーム・オブ・グレイテストワン。
それが、7層に差し向けられた、“執行者”の名である。