望まぬ知恵の王 ~冒険者に憧れた蟲がやがて魔城の主と呼ばれるまで~ 作:SIS
「ば、馬鹿野郎……っ!!」
全てが消える寸前に、何かがヌルスの背中を引っ張った。
力強く引っ張られると、闇が遠のいていく。それに従って、意識が明瞭さを取り戻す。
地面に投げ出され、ヌルスは激しく息を吸った。隣では、アトラスも同じように床に転がされ、四つん這いで喘いでいる。
そんな二人を引っ張り出したのはクリーグだ。彼は息を乱しながらも、二人の無謀な突撃を強く咎めた。
「アホかお前ら!? あんな化け物に無策で突っ込んでどうにかなる訳ねーだろ!?」
「す、すまん、助かったクリーグ……」
「すまない。飲まれていた……」
ぜいぜいと息を整える三人。と、そこでパン、パン、と手を打ち合わせるような乾いた音が響いた。
音の出元に顔を向ける。
《Bene factum, bene factum. mirabilis. Vix credere possum te tam prope mihi accessisse》
悪魔の王が、さも上機嫌そうに手を叩き、こちらを見つめていた。
明らかな侮りだが、こうまで圧倒的な存在感の差を見せつけられると、腹も立たない。
そのシルエットが、じわりと闇に溶けだしているのが見えた。時間制限がある、というのはどうやら本当らしい。問題は、当の悪魔王がそれを全く意にも介していない事だが。
拍手が止む。
《Itaque nunc nostra vices sunt》
悪魔王が右手を差し伸ばすと、その掌に周囲の闇が圧倒的な密度で凝縮される。それは瞬く間に、一振りの剣の形をもった。光を吸い込む、空間そのものを剣の形に切り抜いたかのような、漆黒の剣。
ヌルスは息を飲んだ。あの剣は、今手にしている、黒の槍に似ている。
悪魔王はゆっくりと剣を大きく振りかぶると、横一文字にそれを薙いだ。
まだ彼我の距離は十分にある、切っ先など届きそうにもない。だが、戦慄に押されるようにヌルスは仲間達に叫んだ。
「伏せろ!!」
言って、黒の槍を手に前に出る。
悪魔王が剣を振るった軌道上を、黒い旋風が刃のように吹き荒れている。押し寄せるそれに向かって、ヌルスは伸ばした触手を支えに立ち向かった。
「う、ぐぅうううううう!!」
「きゃあああ!?」
「ヌルスさん!?」
まるで壁が猛烈な勢いで押し寄せてくるような衝撃。背後で仲間達が悲鳴を上げるが、あいにく構っている余裕がない。
まさかと思うが、たかが剣圧でこの威力なのか。ヌルスはガタガタと震える黒い槍を必死に抑え、紫色に怪しく輝く切っ先を剣風へと押し当てた。途端、それまでの圧力がウソのようにすぱりと切っ先は闇を切り裂き、千切れた衝撃は大きく左右へと散っていった。それに巻き込まれた壁面やステージが、粉みじんになって粉砕されるのを見送り、ヌルスは膝をついた。
「ふぅーーっ、ふぅーーーっ!!」
肩を激しく上下させ、荒く息を吐きつつもヌルスは悪魔王を睨みつけた。
変わらずその眼窩で燃える蒼い炎を見ると、本能的な恐怖に怖気が走る。だが、今まさに生命の危機にある中で、ヌルスの闘志と敵意は恐怖を凌駕していた。やけくそになっているともいう。
このまますり潰されるぐらいなら、一糸報いてやる。
そんな覚悟ともいえない決心を胸に、ヌルスは槍を杖のようにして身を起こした。
感心したように悪魔王が唸る。
《Sunt quidam qui convictiones habent. Mihi placet, te paulum docebo》
再び掲げられる腕。今度は左腕だ。
一体何をするつもりなのか、いや、その前に先手を取る、と触手翼に紫の魔力結晶を輝かせるヌルスに呼応するように、悪魔王の両目が怪しく輝いた。
「が……っ!?」
途端、金縛りのように彼女の体が動かなくなる。指先が痺れ、黒い槍を取り落とす。それだけでなく、魔眼が勝手に発動した。両の目が闇の中でそうと分かるほどに赤く輝き、強制的にその深度が引き上げられる。
迷宮を、悪魔王を、物質に宿る僅かな魔力までもが、手に取るように見える。それは同時に、ヌルスの精神におびただしい負担をかけた。
その視界の中で、ゆっくりと悪魔王が掲げた左手を動かした。
指先に魔力をこめ、滑らかに空中に魔法陣を描いていく。ヌルスの目には、それが何かしらの意味を持ち、魔術回路と同じように周囲の魔力へと働きかけているのが見えた。強制的に、その原理を目を通して頭に、魂に刻み込まれているよう。
「あ……ぐ……?!」
金縛りになった中で、ヌルスの右手が一人でに動き出した。まるでマリオネットのように、ぎこちなく動く指が虚空に陣を描く。その軌跡が光り輝き、魔力へ干渉しているのが魔眼越しに見えた。
ぐっ、と肺が強く圧迫される。見えない指が喉元に突っ込み、かき回されているような違和感。嗚咽すら許されず、彼女の意志とは関係なく、言葉が喉から吐き出される。悪魔王は薄く微笑み、それに重ねるように自らも言葉を紡いだ。
「《AB RA HA DA BRA》」
呪文詠唱と共に、両者の間で雷鳴が轟いた。悪魔王の放つ雷鳴と、ヌルスの右手から放たれた雷鳴が、激しく宙でぶつかり合う。その二つは全く同じ威力で拮抗。次の瞬間、激しい爆発とともに相殺した。飛び散った雷鳴が火花のように降り注ぎ、悪魔王とヌルス、その近隣へと落ちた。
悪魔王は吹き付ける爆風に小動もせず、ヌルスの小さな体は強く弾き飛ばされ、ステージの上を転がる。仲間達と遠く離れた場所へ転がっていく彼女に、アトラスが悲鳴のような声を上げた。
「ヌルスさんっ!!! ……ぐぁっ?!」
駆けだそうとしたアトラスは、しかし数歩も走る前にその場に崩れ落ちた。闇に飲まれかけてから力が戻っていないのだ。クリーグもシオンも、アトソンも顔を青くして状況を見守るばかり。
そんな仲間達に完全に興味を失ったように、悪魔王が体全体でヌルスへと向き直る。その青い視線に見下ろされながらも、ヌルスは震えながらも立ち上がった。その右手は、不相応な魔術を強制的に使わされた反動で、指が黒く焦げている。ちらりとそれを目の当たりにしたヌルスが、憤怒に目を金色に輝かせた。
「よくも……っ!!」
《Nunc, ecce quaedam quaestiones ad recognitionem》
再び悪魔王が左手を掲げる。それに対し、ヌルスは左手で懐から紫色の魔力結晶を取り出し、触手を籠手のように纏わせた。
何のつもりか分からないが、今の一連の出来事でコツと原理は掴んだ。強制的に見せられた陣と魔力の流れは、頭の中に刻み込まれている。難解で不可解な魔術ではあるが、一つだけはっきりしている事がある。
破壊力と制御性においては、ニコライ式のそれを上回っている。およそ人間が扱う事を想定していない、壊れた蛇口のような大出力を前提とした術式。そして都合がいい事に、ヌルスはそんな、暴れ馬のような魔術属性を知っている。
悪魔王の指先が再び陣を描く。それに対し、ヌルスは紫の結晶をペンのように手繰り、虚空に光の文字を描いた。
《AB RA HA ……》
「ボルテックス……」
《DA BRA》
呪文詠唱と共に、再び放たれる悪魔の雷撃。輝ける滅びそのものに、ヌルスは心の奥底からの怒りと共に、黒く輝く閃光を解き放った。
「……ディスラプター!!」
闇の亀裂そのものが、迫りくる死へと浴びせかけられる。死をもたらす雷を、“滅び”そのものたる黒い魔撃が飲み、ついには悪魔王の一撃を凌駕する。空間そのものを引き裂く死の顎が、その御許へと歩み寄った。
悪魔王の左手がその一撃を受け止めるが、なおも黒き雷鳴は猛りを上げてのたうつように迸る。
いける。
ヌルスは希望と呼べるような手ごたえを感じる。
だが……。
《Mirabile!》
一括と主に、闇よりなお昏き黎を称えた指先が、歪みの魔力を握りつぶし四散させる。最後の足掻きのように暴走した魔力が空間そのものに亀裂をいれ、悪魔王を虚空の向こうに引きずり込まんとするが、それは寸前で闇によって上書きされる。一瞬、どくん、と脈動するように空間が歪み、それによって時空断裂の破綻は力づくで抑え込まれた。
「……そん……な……」
その様子を、ヌルスは絶望と共に見届けた。左手を覆う触手は反動によって消し飛び、その下の指は痙攣し動きそうにない。
何より全身全霊の一撃を、それもこれまでもずっと頼りにしてきた歪みの魔術を片手で握りつぶされた衝撃に、彼女の敵意はついに底をついた。
「アルテイシア……ごめ……」
ふらり、とその体が傾ぎ、床へと倒れ込む。
一方、悪魔王はヌルスの一撃を受け止めた己の左腕に視線を向けていた。
所詮、紛い物を媒介に生み出した仮初の肉体……しかし、まごう事無く今ひと時は悪魔王の肉体である。
それに、一筋の傷が入っていた。
悪魔王が舌先で傷を確かめるように舐めると、その舌先から一筋の青い血が流れ、床へと数滴の雫を垂らした。
ぐわっ、とその口元が歪む。
それは、壮絶なまでの喜悦だった。
《……ridiculus. Tanta laetitia! HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!!!!!》
「な……なんだ……」
爆発したかのように轟く哄笑。その感情に呼応したかのように翼に輝く銀河が煌めき、星が次々と超新星爆発を起こす。空間に振動が轟き、凍り付いた大河が砕け散り、岩盤が隆起する。
天変地異のような歓喜を前に、アトラスが気おされて首を竦める。
ぐらぐらと空間を揺るがせて哄笑する悪魔王。一しきり笑うと、ソレは倒れ伏すヌルスの姿を天上より見下ろした。
《Mihi placet. Te concubinam meam faciam.》
その右手に握りしめていた黎き剣が唐突に消滅する。無手になった悪魔は、銀の魔女へと手を伸ばした。
が。
それは彼女に届く前に、墨が水に溶けるように、霞が日光に解けるように消失した。ポゼッションの限界が近づいているのだ。
肘まで消失した己の腕を見下ろし、悪魔王は嘆息して今度は左手を伸ばした。血の滴る左腕が銀の少女に近づき、それと同時に闇が少女の体を包み込んでいく。それが何を意味するのかは、あまりにも明らかである。
「ま、待て……っ!」
いくら消滅目前といえど、悪魔王の闇に飲まれればどうなるか分からない。もしかすると、本当に地獄だか魔界だかに連れ去られてしまうのかもしれない。
血相を変えてアトラスが立ち上がろうとするが、数歩歩いたところで膝砕けになって倒れ込む。クリーグやアトソンは息を飲むだけで動けない。誰もが、悪魔王の威圧に飲まれて身動きできないでいる。
その中で。
最も矮小な存在が、羽ばたくように軽く大地を蹴って駆けだした。
シオン。
親の顔も知らない、孤児院の少女。たまたまアトラスにその才を見出されただけの孤児が、ただ一人、悪魔王へ向かって走り出す。
彼女は駆け寄りながら、ヌルスの取り落とした黒の槍を拾い上げた。羽根のように軽いそれを握りしめて、一目散にヌルスと悪魔王の間へと駆け込んでいく。
「うちの、妹分に……」
悪魔王がそこで初めて、シオンに意識を向ける。うるさい蠅を払うように左手が降りぬかれ、取り巻く闇がシオンの手足へと絡みつく。
だが、シオンの脚は止まらない。激情をもって闇を振り切り、彼女は歪みの刃を煌めかせた。
「汚い手で触るんじゃないわよ、このエロ悪魔ーーーーーっ!!」
一閃。
悪魔王の左手を断ち切り、シオンはその下を掻い潜ってヌルスの元へとたどり着いた。彼女の体を抱え上げ、全力でその場を離脱する。
銀の少女が手元を離れていく様を、悪魔王は悠然とその青い瞳で見送った。
その存在感が、急速に薄れていく。天を覆う翼の宇宙は星の光が消え失せ、闇の外套は薄れゆく。その体には幾重も亀裂が入り、急速に色あせる。
ポゼッションの制限時間だ。
いくら9層の執行者、規格外の魔物を生贄にして降臨しているとはいえ、悪魔王という文字通りの超存在を長期間この物質世界にとどめておくことは不可能である。
久方ぶりの遊戯の終わりを前に、しかし悪魔王は満足げだった。
《Quamquam paulum frustrans, bonum oblectamentum fuit》
地に落ちた腕が、溶けるように消失する。悪魔王の体もまた、足元からふわりと煙のように消えていく。その中で、変わらず蒼く燃える炎が、アトラス達、そしてヌルスを必死に庇うシオンへと向けられた。唇の無い口元に、酷薄な笑みが刻まれる。
《Viri fortes. Prosperus eris. Sed hodie numquam oblivisceris》
言葉は理解できなくとも、悪魔が何を言っているかはアトラス達には分かった。
お前たちは、今日の事を忘れる事はできない。
永遠に、悪魔王の恐怖に怯え続けるのだと。
アトソンが恐れに息を飲み、その通りだとクリーグが唾を飲んだ。
そして、アトラスは。
「上等だ」
剣を手に立ち上がる。どれだけ悪魔王が強大な存在であろうと、心だけは屈さないと強い視線を返す。
「地獄に帰るがいい、悪魔王。お前の存在を胸に刻んだうえで、私は成すべき事を成す」
「そういう事よ。あんたみたいな裏ボス、私の人生にゃおよびじゃないのよ」
シオンがアトラスに続いて啖呵を切る。
闇を前に怯えていた弱き命が吠えるものだ、明確な悪意と侮蔑を瞳に燃やしながらも、しかし悪魔王は愉快そうに哄笑した。
《HAHAHA………HAHAHAHAHAHAHAHAHAHA!!!》
その姿が消えていく。やがて笑い声も遠く残響へと変わりゆき、天を覆う闇の翼はそこにはない。
後にはただ、シンとした静寂だけが残された。