望まぬ知恵の王 ~冒険者に憧れた蟲がやがて魔城の主と呼ばれるまで~   作:SIS

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第百五十四話 虹色の泡の夢

 

 

 気が付くと、ヌルスは闇の中を只管どこまでも落ちていた/上昇していた。

 

 

 

「ここは……どこだ……?」

 

 彼女は、魔物と化したヴァルザークと戦っていたはずだ。それが何故、見知らぬ虚空の中を漂っているのか。

 

 思い出そうとすると、ずきん、と左目に痛みが走った。

 

「そうだ……割れた、空間の破片が……?」

 

 直前の事を思い出して顔をしかめるヌルス。その目の前を、一つのシャボン玉が通り過ぎていく。

 

 虹色に輝く泡の表面、見覚えのある光景が映されていた。

 

「……アルテイシア?」

 

 そこに映されていたのは、4層の片隅で語り合う、ヌルスとアルテイシアの姿。

 

 同じような泡が、次々と流れていく。その全てに記憶が映し出されている。

 

 走馬燈のようで、しかし明らかに違う。それはいつかの思い出であったり、見知らぬ風景であったりした。

 

 

 

 アルテイシアと笑い合うヌルスが居た。

 

 アトラスと冒険をするヌルスが居た。

 

 チョッパーの面々に追いかけられているヌルスが居た。

 

 迷宮の魔物と共に、冒険者と戦うヌルスが居た。

 

 黒い翼の悪魔に連れ去られるヌルスが居た。

 

 

 

「これ、は……」

 

 身じろぎしようとするヌルスだが、動かす体が無い事に気が付く。どうやら、意識だけ……あるいは視界だけが、この世界を垣間見ているようだ。

 

 そうしている間にも、見えている記憶の時が進んでいく。

 

 

 

 アルテイシアと学院で過ごすヌルスが居た。

 

 見知らぬ冒険者と船に乗るヌルスが居た。

 

 テーブルの上で解体され、腑分けされるヌルスが居た。

 

 多くの冒険者を食らい、迷宮に根付いた邪悪な魔物となったヌルスが居た。

 

 黒い悪魔の情婦として仕えるヌルスが居た。

 

 金髪の女魔術師を●●にして●●するヌルスが居た。

 

 

 

「なんだ……私は、何を見ている……?」

 

 かつてあった過去を見た。

 

 あり得たかもしれない過去を見た。

 

 ありうるかもしれない未来を見る。

 

 ありえもしない未来を見る。

 

 時間の経過、空間の座標、その全てが曖昧で、何もかもが不確かだ。

 

 流れていくシャボン玉の数が際限なく増えていく。

 

「これは……?」

 

 シャボン玉が漂って、別のシャボンとくっつき、群れ固まって泡となる。それらはどこからか際限なく泡立ってきて、闇しかない世界に溢れていく。その全てに、見知らぬ誰か、見知らぬ世界が垣間見えている。

 

 視界を埋め尽くすほどの、シャボン玉の群れ。

 

「これは……世界なのか……?」

 

 魔術の世界で、魔力はこの世界に並ぶ別の世界から来るという。そして、悪魔王が来たという、魔界だか地獄だかも別にまた存在する。

 

 そういった、無数の、数えきれない世界が林立している様を示しているのが、この視点なのだとヌルスは気が付いた。

 

 恐らく原因は目に飛び込んだ破片。歪みの魔術の撃ちあいの果て、歪みに歪み切った空間の欠片が触媒となって、魔眼にこの世界を見せているのだろうか。

 

 あるいは、死を前にしたヌルスの見る幻なのか。

 

 何が真相なのかは分からない。だが、そんな事はどうでもいい。理屈なんて必要ない。

 

 ヌルスはただ、目の前の虹色の輝きに魅入っていた。

 

「ああ……綺麗、だな……」

 

 ヌルスの見ている前で、一つの泡がふわふわと漂ってくる。

 

 虹色に輝く泡は目の前にやってくると、不意にパチンと弾けて消えてしまう。その泡に映っていた何もかもも、一瞬で全てが消えてなくなる。

 

 何億か、それとも一秒か。その世界に在った全てが、夢幻のように闇に消えた。

 

 それだけではない。いくつものシャボン玉が、彼女の見る前で消えては生まれ、生まれては消えていく。

 

「あ……」

 

 恐らく、多くの人はこれを恐ろしいと思うだろう。

 

 自分の存在に価値が無い、意味が無い、などと本気で思う人間はいない。すべての知的生命体は、例外なく己の存在を肯定する。それが知性としての大前提だからだ。生まれてくるべきではなかった、死んでしまいたい、消えてしまいたい、という自己の否定ですら、まず己の存在を大前提とした考えに過ぎない。

 

 故に、きっとこの光景は到底受け入れられない。

 

 ここには意味が無い。全ては理由なく湧いてきて、そしてただ消える。人の見出すあらゆる価値が、ここでは何の意味も無い。

 

 だが。

 

 ヌルスは。魂無き魔物と自分を定義する彼女は。

 

 この光景に、安らぎすら覚えた。

 

「ああ……」

 

 つぅ、と温かい涙が頬を伝う。

 

 魔物は、魂無い現象に過ぎない。魔力によって生まれ、魔力によって稼働し、魔力と共に尽きる。そこに意味はなく価値もなく、残せるものはない。故に、知性や人格は、意味は必要ない。

 

 にも関わらず、心を、意味を求めてしまったヌルスは、ずっと引け目を感じていた。

 

 魂を、意味を持つ生きる者達。彼らを押しのけてでも、存在する意味などどこにあるのか。アルテイシアを救う為に目を逸らし続けていた事実、

 

 意味の無いものに、作れる未来など無い。

 

 未来が無いのなら、存在しないのも同じ。

 

 心の奥にずっとあった諦念、後ろめたさ。そしてそれが分かっても浅ましく、消えたくなかった、何かを残したかった。

 

 だが目の前に広がる虚無的な光景は、それを否定するものだった。

 

 魂とて、人間とて、世界とて、意味もなく生まれ消えるもの。紛い物の生命である魔物と変わらない。

 

 特別なものなど何もない。全ては等価値に、意味が無い。

 

 

 

 それは。

 

 全てが等しく尊いという事でもある。

 

 

 

 世界の事実がどれだけ虚無的なものでも、魂の輝かしさをヌルスが疑う事はない。彼女の信じる真実を、揺るがす事はない。無価値、無意味と断じられても、その中にヌルスは輝かしいものを見出した。

 

 だったら、成れるはずだ。

 

 ヌルスが信じるように、憧れたように。魂ある者達のように、輝かしく生きる事が。

 

 生き抜く事が。

 

 

 

「……戻ろう」

 

 ヌルスは視界を閉じて意識の内側に集中した。

 

 戻る。そして、戦おう。

 

 その果てに何が待っているのかは問題ではない。エルリックが言うように、旅の終わりを迎えたその時に、自分自身に納得する為に。

 

 無限に存在する泡の中から、自分が居た世界を見出すのはそう難しい事ではなかった。他にどれだけ存在しても、唯一無二の繋がりは決して消えない。

 

 いつでもなくどこでもないこの世界に、引き合う一本の繋がりを感じとる。途端に、時間の流れ、重力の向き、窮屈な物理法則がヌルスに絡みついてくる。

 

 超越的な視点が消えていく。垣間見た無限が曖昧になっていく。

 

 それでいい。

 

 持ち帰るのは、たった一つの確信だけでいい。

 

 

 

 意識が再び闇に落ちる。

 

 その最中、ヌルスは愛しい黄金の光を垣間見た。

 

 

◆◆

 

 

 

「……う……」

 

 そして、ヌルスは目を覚ます。

 

「どうなった……?」

 

 状況が分からない。確か、ヴァルザークとの魔術の撃ちあいに敗れたのだったか……そこから先の記憶が無い。

 

 とりあえず、まだ生きているようだ。彼は追撃をしなかったのか?

 

 地面に這いつくばった状態から、怠い躰に力を入れて身を起こす。地面に両手をついて持ち上げる体が、酷く重い。

 

 周囲を見渡そうとした彼女の耳を、ギャギギギギィ、と甲高い音が貫いた。まだ少し霞がかっている頭が一発で晴れ渡る。

 

「な、なんだぁっ!?」

 

「ヌルスさん!?」

 

 思わず上がってしまった声に、喜色を孕んだ少女の声が返ってくる。反射的に顔を向けると、腰を低く落として戦闘態勢だったシオンと目が合った。

 

 緑色の髪の少女が、そのまま横っ飛びに抱き着いてくる。それを正面から抱き留めて、ヌルスは目を白黒とさせた。

 

「わ、ぷぷっ、え、どうなってる!?」

 

「それはこっちのセリフだよぉっ! ふっ、えぐっ、ぐすっ、アトラス! ヌルスさん、目を覚ました!」

 

 涙ぐむシオンを抱きかかえながら、ヌルスは訳も分からず周囲を見渡した。

 

 そして、瞑目した。

 

 そこでは、アトラス達が今まさに、ヴァルザークと激闘を演じていた。

 

 クリーグとアトソンが前にでて、その少し後ろにアトラスが居るという変則的な布陣。クリーグとアトソンの手には武器ではなく何故か大量の魔力結晶が握られていて、アトラスは失った愛剣ではなく何故か布のようなものを両手で振り回している。よく見れば布の中には何か石のようなものが包まれている。

 

 対して、ヴァルザークの方だが。

 

『むぅ……』

 

 驚くべき事に、彼は手傷を負っていた。その体を包む黒いローブ、その左肩部分が大きく破損し、その内部にある非実体の本性が露になっている。肉体を構成している闇は渦巻くように大きく変形しており、それは見るからにはっきりと分かる戦傷だった。

 

 ヌルスは得られた情報を整理しようとして、困惑に顔をしかめた。

 

 どうやら、ヌルスが倒れた後も戦闘が続行していたのは分かる。

 

 だが……これは。もしかしなくても、まさか。

 

「……優勢、だと?」

 

「紙一重のなんとやら、だけどね」

 

 アトラスが苦笑しながら補足してくるが、信じがたい事だ、とヌルスは唸った。

 

 相手は歪みの魔術を使いこなす高等魔術師。同時に複数の魔術を発動し、放つ攻撃は防御は不可能、かすっただけで致命傷。何をどう考えても、ヌルスが離脱した後のアトラス達では戦闘が成立する事すら不可能なはずだった。

 

 だが実際はどうだ。

 

 ヌルスが呑気に寝ている間にも、仲間達は戦い続けていた。そればかりか、圧倒的な強者であるはずの彼に、一つ痛打まで加えているようではないか。

 

 何だか、ヌルスは無性におかしくなってきた。

 

 あれこれ考えていた自分が馬鹿のように思える。そうだ。彼らこそは冒険者。誰に頼まれるでもなく死地に押し入り、夢とロマンを追い求める者達。そんな彼らを、弱いから守ろう、だなんて考えるのが、そもそも最初から間違っていたのだ。

 

 よっこいせ、と身を起こす。先ほどまでの気だるさは、すっかりどこかに溶けて消えてしまったようだ。あるいは、そんなものは最初から無かったのか。

 

 優しくシオンの躰を押しのけるようにして、ヌルスはしっかりとした足取りで前に出た。膠着状態のヴァルザークとアトラスの間に割って入る。

 

「ヌルスさん」

 

「大丈夫だ、心配をかけた。流石だな、そんな戦い方があったとは」

 

 ヌルスはちらり、とアトラスの手の中にある即席のスリングショットに目を向ける。ボロ布を裂いて作ったその中には、弾頭として金色に光る金属の破片が包まれていた。

 

 砕かれたサダラーンの破片。

 

 砕けてもなお、その神秘は健在。黄金の光を纏う破片を打ち出せば、成程確かにある程度の破壊力は得られるだろう。全く持ってヌルスは思いつきもしなかった。

 

「まあ、やけくそというか。ダメ元というか、はは。色々手を尽くして一撃与えるのが精いっぱいだったけどね。あと数秒もあれば全滅してたかも」

 

「だけどおかげで私が間に合った」

 

 それが事実だ。

 

 胸いっぱいに仲間達への敬意を満たしながら、ヌルスは先ほどからじっとこちらを見つめているヴァルザークに視線を向けた。

 

 どうやら彼も、何か思う所があったらしい。不意をつくでもなく、こちらの様子を観察している彼に、旧来からの友人のように語り掛ける。

 

「どうやら、手ひどくやられたみたいじゃないか、ヴァルザーク。どうだ、惰弱、脆弱と見限った人間に一泡吹かされた今の気分は? 私は正直、とても爽快な気分だ」

 

『……事実は、事実だな。否定できない。例え次の数秒、私の反撃で彼らが全滅する運命にあったとしても、痛手を負わせられたのは事実だ。そして、その数秒に、君が間に合ったのも。ああ、全く持って、不愉快極まりない』

 

 言葉とは裏腹に、ヴァルザークの口調は軽やかだった。彼は肩口の傷を瞬く間に復元して見せると、アトラス達の事は目に入らないかのようにヌルスへと向き直る。

 

『しかし、よくぞ目覚めた。崩壊した空間の概念片が目に入ったのだ、そのまま魂を砕かれて御仕舞だと思っていたが……ああそうか、君、魔物がベースなのか? そもそも砕かれる魂が無かったか』

 

「魔物の人権侵害で訴えるぞコラ」

 

 銀髪を逆立ててヌルスはぷんすこした。

 

 アルテイシアにも似たような事を言われたことがあるが、いくらなんでも酷い言い草だとヌルスは思う。魔物にも尊厳はある、本当の事だとしても言っていい事と駄目な事があるはずだ。

 

『ふむ。となると、何か見たか? 確かその肉体は魔眼持ちだったな。欠片を介して、何か面白いものが見えたのではないか?』

 

「いやぜんっぜん覚えてない。……だけどまあ、何か、良いものを見た気はする」

 

『やはりな。ふむ、ヌルスよ。君が何を見たか非常に気になるが……それはこれから試してみる事にしよう』

 

 数秒の沈黙。

 

 早撃ちの申し合わせのような静寂の後に、同時に両者が動いた。

 

 ヴァルザークが放つのは、燃える炎と凍てつく氷が混ざり合う、矛盾の一撃。同時に、アトラス達への牽制も忘れない。隙をつこうとする彼らの機先を制するように、赤い雷が撒き散らされ、アトラス達の目の前に落ちた。飛び散る破片から顔を庇うようにする彼らだが、ヌルスは信じて退避するようには呼びかけなかった。

 

 それに対し、ヌルスが放つのは紫色に輝く光……ではない。鋭い光が表裏反転したような、黒い閃光。それは黒い氷炎をガラス細工のように打ち砕き、対消滅して衝撃波を撒き散らした。暴風のような風に、ヌルスの銀髪が棚引いて揺れる。

 

 その結果を前にヴァルザークは三眼を見開き、今しがた激突した魔術の手応えを確かめるように、右手の指を蠢かした。

 

『……完全に互角だと? それに今の様子……いや、術式そのものは変わらない。出力される結果だけが変化した? 君……いや、なんだその顔は。おい、まさか』

 

「うむ。……なんだこれ?」

 

 こてん、とヌルスは首を傾げる。

 

 自分が放ったのは間違いなくD・レイのはずである。だがしかし、実際に発生したのは全く違う魔術であった。

 

「おっかしいな。いつもと同じようにやったんだけど……相殺できたっていう事は、威力が上がったか? 負担はいつもと変わらない……いや、かなり軽いか? ふぅむ?」

 

『何だか自信満々に見えたが何か閃いたとかじゃなかったのか君ぃ!?』

 

「いや、なんだか今ならなんかこう、凄い事が出来そうな気がしたんだ。実際出来ただろう?」

 

 実の所、根拠があった訳ではない。目を覚ましたらなんだかさっぱりした気分で、今なら何だか凄い事が出来そう、何ごとも上手くいきそう、そんな感じ。

 

 事実、今のヌルスは凄く頭が冴えているという自負がある。

 

「それはそうと。ヴァルザーク、お前と私で同じ歪みの魔術を使いながら結果が、現象が違うのはなんとなく理由が分かったぞ。聞く?」

 

『……そんな風に話を振られて、私が聞かずにいられないと分かっていってるだろう、君は』

 

「はははは、お互い研究者気質のようだからな。はは」

 

 ヴァルザークが文字通り攻撃の手を収めるのを見て、ヌルスは朗らかに笑った。

 

 一方、いまいち緊張感の無い展開に、クリーグが困惑したように呟く。

 

「なんだ、ヌルスの奴。時間稼ぎか……?」

 

「いやぁ。多分裏とか何でもない本心じゃないかな」

 

「ヌルスさん。マイペースだから……」

 

 背後でひそひそと仲間達が囁き合っているのが聞こえて、いやあごめんね、とヌルスは内心で頭を下げた。

 

 別に時間稼ぎとかではない。素人意見の仮説なので、専門家であるヴァルザークの話を聞きたかったのだ。

 

 彼がヌルスを唯一の理解者とするように、彼女から見ても彼は唯一の先駆者なのである。

 

『で、なんだその仮説とやらは』

 

「うむ。まあ簡単な話だが……私が元魔物で、お前が元人間。結果の違いはそこから来ているのではないか?」

 

『何……?』

 

 そう。ヌルスはアルテイシアと融合して人間の躰になったが、思考までもが人間のそれになった訳ではない。世界の認識も、感覚も、魔物のそれが残っている。

 

 ヴァルザークもまた、同じなのではないか。いくら人間を捨て、魔物になったとしても、その認識、感覚は人間のそれを引き継いでいる筈である。

 

「一度な。アルテイシアがD・レイを使った事があるんだけど、その時もなんか、雷属性っぽく発動してたんだ。同じ術式、同じ杖を使ったにも関わらず、だ」

 

 そう、忘れもしない4層での事。今思えば、あそこで軽率に応じた事が破綻の始まりであったのだが。

 

 あの時、アルテイシアが放ったD・レイは、妙な雷のような形で現れた。その時は術式が不完全だったからとか、そういうのが理由かなと思っていたが、ヴァルザークの使うそれを見た今はその意味が分かる。

 

「魔術には解釈が大事だ。より強く、より鮮明に、より破壊的なイメージを確固たるものとする事で、魔術は完成度を高める。釈迦に説法だがな」

 

『……そうだな。基礎中の基礎、語るまでもない事。己の技量に不安を抱いていれば結果も不安定になる。魔術に限らず、あらゆる行いに通じる事だ。それが?』

 

「つまりだ。お前達人間は、既存の概念に縛られすぎる……というより、歪みの概念、無の概念、異世界の概念……そういったものをイメージできないのではないか?」

 

 ヌルスの指摘に、ヴァルザークは一瞬言葉を失い、なるほど、と人間だった頃の習慣で顎に手を当てた。

 

 彼自身、過去に懸念した事がある。

 

 安全性を担保すればするほど魔術はつまらなく有り触れたものになっていく。その果ては、精霊術と出来る事は変わらない、と。

 

 彼はそこから、より根源の問題、人に扱えぬ根源の歪みを直接行使する事こそが魔術の神髄ではないのか、と考えを発展させたが、ヌルスの言うのは根本的な前提への疑問だ。

 

 そもそも、人間の感覚、概念が凡庸なのではないか、と。

 

 そして魔物へと変じた今だからそれに応じる事が出来る。

 

『なるほど。一理ある。だがそれは君も同じ……いや、そうか。……君は、魔物だったな』

 

「ああ。無から生まれた魔物。死ねば灰になるだけの仮初の命。空から降る雨も、流れる川のせせらぎも、平野を焼く炎も、吹きすさぶ嵐も、天から降り注ぐ雷霆も私は知らない。だけど、世界の歪み、この体を捩じ切る歪みの力の恐ろしさは、誰よりも知っている」

 

 そこが分水嶺。

 

 ヌルスは恐らく、元となった人間の脳に刻まれていた知識由来でしか、五大属性の源を知らない。代わりに、歪みの力は誰よりも身をもって知っている。初めて紫色の触媒を覗き込んだ時、浅慮の代償としてこの身をズタズタに引き裂かれた痛みは、今でも鮮明に思い出せる。

 

『なるほどな。元々人間よりも魔力そのものに近しい生まれの差が、明確な違いとして魔術に顕れた。納得のいく話だ。そして、欠片を目に受け、始原の魔力そのものに関して何らかの視点を得た事で、より完成に近づいた。興味深い話だ……だが、君は一つ、大事な事を失念している』

 

 す、とヴァルザークが魔術の構えを見せる。ヌルスも応じて触手翼を展開した。

 

『いまの問答、私にとっても天啓だぞ?』

 

 相殺する二つの歪みの魔術。だが、先ほどはむしろ優勢気味ですらあったヌルスの黒閃が、今度は押され気味である。なんとか相殺しつつも、ヌルスは余波をさけて一歩下がらざるを得なかった。

 

 蜃気楼のように揺らぐ空間。その向こう側のヴァルザークの姿が、いびつに歪んでみえる。

 

『はははは。イメージが、確信で魔術の精度に影響が出るというならば、君の言葉は私にとって福音だった。見るがいい、我が魔術はさらなる境地へと達した!』

 

「ちょ、ちょっと何やってるのよヌルスさん!?」

 

 呵々と笑うヴァルザークに、背後のシオンから困惑したような非難が飛ぶ。クリーグとアトラス、アトソンは、もうお終いだあ、といった感じで頭を抱えていた。

 

「まあ、何。なんとかなるさ」

 

 対して。ヌルスは動揺も見せずに落ち着き払っていた。ぱんぱん、とドレスについた埃を払って落とす。

 

 今の話、ただ単に好奇心を満たしたかっただけではない。それに加え、いくつか確認したかった事が確認できた。

 

 ……ヴァルザークが、何らかの手段で迷宮内部を監視していたのは間違いない。問題は、それがどのような手段で、どこまで見ていたかだ。

 

 そして、その方法は分からないにしろ、どこまで、かはほぼ確証が持てた。

 

 ヴァルザークは、敬虔な知識の探求者だ。未知の、規格外の存在を前に追求せずにはいられない。それはヌルスの存在、歪みの魔術についての態度が顕著だ。

 

 ならば、とヌルスは己の手に握りしめた黒槍に視線を向ける。

 

 彼は何故、黒槍、そして9層でのヴェル=ザラゴスとの闘いについて触れてこない? 特に悪魔の魔術など、彼からすれば垂涎の知識であるはずだ。

 

 またヌルスの正体についても当初曖昧な認識だった。8層でアトラス達に助けられた後、長々と話し合った中でヌルスの正体については詳細に情報交換している。あれを聞いていればそのような事はあるまい。

 

 つまり、奴はそれらを見ていない。推測するに、自ら作り出した魔物……執行者といったか、3体のボスや他の魔物の視点か何かをハックしていただけで、それらが倒された後の情報までは把握していないと見た。つまり彼はヌルスの武器を単なるレアドロップ品だと思っているし、まだ見ぬ魔術を隠し持っている事も知らない。

 

 ならば、勝利の鍵はそこにある。

 

 黒の槍。

 

 悪魔の魔術。

 

 奴の知らない知識の源泉をもって、巣窟迷宮の魔術師を打倒する。

 

 

 

 

 

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