望まぬ知恵の王 ~冒険者に憧れた蟲がやがて魔城の主と呼ばれるまで~ 作:SIS
スカーシハとエヴィリンに案内されて一行が向かったのは、世界樹の梢の方。神殿から外に出て、細い階段を慎重に上って行った先で再び洞に入る。
「これは……」
「なんか、明るい?」
洞に入った事で暗くなるかと思いきや、むしろ外よりも明るく照らし出されている事にアトラスとシオンが驚きの声を上げる。
「まぶしくは……ないな。暖かな日差しのような……」
ヴィヴィアンも不思議そうに首を巡らせるが、すぐに気を取り直して先をいく女神と族長の後を追う。
二人は、洞の行き止まりにある小さな扉の前で一行を待っていた。どうやら光は、この向こうから壁をすり抜けるようにして広がっているらしい。
「こちらに」
エヴィリンが扉をゆっくりと開け放つ。
おずおずとヴィヴィアンは、その扉を潜り抜けて目を瞬かせた。
そこにあったのは、これまでと違い装飾されていない剥き出しの樹の内部。複雑にのたうつような茶色の凹凸がむき出しになっているさまは、ここが大木の中である事を改めてうかがわせる。
その中央、床面が僅かに盛り上がり、その中に液体が満たされている。うっすらと発光するその水たまりを、ヴィヴィアンは恐る恐る覗き込んでみた。
容積としては一人分の風呂桶、といったところだろうか。見ている前でぽちゃり、と天井から一滴降ってきて、水面に小さな波紋を広げた。
「これは……」
一目見て、ただの水ではないと分かる。だが何か、と言われると分からない。一番近いのは巣窟迷宮エトヴァゼル8層で目撃した、魔力を溶かした水だろうか。だがこれは、水に何か溶けているというより、別の何かが水のように見えているような気がする。
「エヴィリン、スカーシハ様。これは一体」
「世界樹の涙、と私達は呼んでいます」
光る液体……世界樹の涙とやらに手を差し入れ、緩くかき混ぜながらスカーシハ。光源を直近にして、白いヴェールの下からその顔の輪郭がぼんやりと浮き上がっているのが見て取れた。
「世界樹の生命力が凝縮された滴を、何百年に渡って貯めた物です。死んでさえいなければ、どんな怪我でも立ちどころに治すだけの力があります。里の者達の治療に半分ほど使ってしまいましたが、まだこれだけ残っています。それに……世界樹の枝は、死に瀕した命を埋め合わせようとする性質があります。それを利用しましょう」
「え……」
「この泉に、“ヌルス様が分離した後の”アルテイシア様の肉体を沈めましょう。そうすれば涙と枝が、彼女の命を維持してくれます。あとは時を待てば、必ず」
思わぬ言葉に、ヴィヴィアンはスカーシハの顔を見返した。
「私が、抜け出した後の……?」
「ええ。説明されずとも分かりますよ、アルテイシア様の肉体は本来、命を維持できないほどの酷い傷を負っていたのでしょう? ですから肉体を維持する為に貴方が融合している。ですがそれだと、彼女の魂が癒され表に出てきた時、貴方の魂は代わりに肉体の底に沈むしかない。……それでは、彼女も救われないでしょう。ですが世界樹の涙を使えば、貴方無しでも肉体を維持できる」
「…………」
きょろきょろと、戸惑ったようにヴィヴィアンは波打つ“世界樹の涙”と、スカーシハの顔の間で視線を彷徨わせた。
ややあって、彼女は茫然と小さく、問いかけるように口にした。
「それは……許されていい、事なのか?」
「……ヌルス様」
「だって、彼女がこんな事になったのは私に一因がある。私の迂闊な行動のせいで、彼女はこうなって……私は、自分が消えるつもりで彼女と融合した。なのに私の意識は消えていなくて……それで、こんな……都合のいい……」
ぶつぶつと取り留めのない事を口にしながら戸惑うヴィヴィアン。スカーシハがアトラスに顔を向けると、彼は無言で痛まし気に首を振った。
それを受けて、スカーシハは特段優しく、静かにヴィヴィアンに語り掛けた。
「ヌルス様。別にこれは、何もずるい事はありませんよ」
「スカーシハ様。しかし……」
「そもそも、貴方と彼女を分離するのは必要な事です。貴方という健常な魂がある限り、弱ってしまった彼女の魂が表に出てくるのは難しい。貴方の願いである彼女の覚醒の為にも、分離した方が話が早いのです。その結果、たまたま、貴方もまた生き延びれる、そういう話なのです、これは」
幸福を恐れる孤児のような魂に、永い刻を生きた半神は諭すように言葉を連ねる。
「これは正当な報酬なのです。貴方は、エンシェントの里の民、数百人を救ってくれた。いや、結果的に失われたかもしれない辺境伯領の人々の命も、多くを救ったのです。その偉業が、正しく報われるだけの事。決して、ずるいとか、そういう話ではないのです。貴方は、望みを望めるだけ、叶えてよいのです」
「いい……のか? そんな……本当に?」
「ええ、勿論。決して貴方は無理を言っている訳ではないのですから」
そっと、スカーシハはヴィヴィアンの手を取る。その右手には、今も痛々しい刻印が刻まれている。これが何なのか、スカーシハにはおおよそ見当が付いていたが、今は触れぬ事にした。
「貴方は、幸せになって良いのです。貴方自身が、大切な人にそう望むように」
「許される……のか? 一目、彼女の笑顔を見るだけじゃなくて……それ以上の事も。魔術について語り合ったり、好きな事を教え合ったり、明日の予定を話すような、そんな贅沢が……いいのか?」
「当然ですとも」
心からの肯定を、面する魂に送る半神。
つぅ、とヴィヴィアンの頬を一筋の涙が伝う。血のように赤い彼女の滴に、スカーシハは優しく微笑みかけた。
「大丈夫。きっと全部、上手くいきます。きっと」
皆がその場を後にして、一人ヴィヴィアンは世界樹の涙の傍に残った。
そっと衣服を脱ぎ捨てて裸になると、彼女は光る液体の中に躰を浸す。
冷たくも暖かくもない不思議な感じ。光に質量があったらこんな感じかと、彼女はぼんやりと思った。
目を閉じて集中する。
しばらくすると、彼女の体に異変が生じた。
背中。腹部。肩や腕のあちらこちら。
かつてマンティコアとの戦いで痛めつけられた彼女の傷跡。そこから、少しずつ、ヌルスという触手魔物が分離を始める。
一度はほぼ完全に融合した以上、そう簡単には分離できない。それでも傷跡から瘡蓋を剥がすように、古い皮を脱ぎ捨てて脱皮するように、ピンク色の触手が少しずつ彼女の体から剥がれていく。
そうすれば当然、彼女の体は損なわれるが……それを埋めるように、世界樹から枝が伸びてくる。誰に指示されずとも伸びてきたそれらはアルテイシアの欠損に触れると、根のようにその体に潜り込んだ。それらがヌルスの代わりに彼女の生命維持を行い、涙の治癒力が傷を埋めていく。
それを確認して、ヌルスは蠢きながら水槽の外へと這い出した。
ざばあ、と世界樹の涙が床に零れるが、それはたちまちのうちに消えるように消失した。ふるふる、と体を振って、触手の塊がのっそりと身を起こす。
その表面に無数の目が生じる。心配そうに水槽の中を覗き込んだ無数の瞳は、“金色”の髪を靡かせて水の中で眠る少女の裸体を確かに見届けた。
彼女の胸は静かに上下し、確かに脈打っている。あれだけ大きく欠損していた体の傷も、急激に埋まりつつある。背中や内臓の損傷はそう簡単には治りそうにないが、融合した世界樹の枝が、ちゃんと生命維持に役立っているようだ。
スカーシハの言う事は大言壮語ではなかったらしい。それを確認できて、ヌルスの心に過ぎったのは途方もない疲労感と、達成感だった。
《ああ。……良かった》
久方ぶりに蠢く触手としての躰を確かめるように動かしながら、触手魔物は水槽の横に沈み込む。そして、飽きる事なく大切な人の寝顔を見つめていた。
スカーシハが様子を伺いに来るまで、ずっと。
ずっと。
……ずっと。
こうして。
ヌルスの悲願は達成された。
◆◆
エンシェントの里に、夜がやってきた。
つい先日まで、穏やかな夜など望みようも無かった。里には怪我人が溢れ、昼夜問わず繰り返される戦いに怒声と血の匂いが溢れかえっていた。
だが今は、物音一つせず、里の全てが静寂の中に眠っている。まるで時間が止まってしまったようだ。
空には大きな満月が煌めいている。エンシェントの里から見上げる空は、結界のせいか、こころなし少し青く煌めいて見えた。
そんな良い夜に、スカーシハは神殿のテラスでお茶をたしなんでいた。
これは自分で淹れたものだ。付き人であり族長であるエヴィリンも、今は寝入っている。
代わりに、テーブルをはさんで反対側に、一つの影があった。
人ではない。
椅子の上にのっかる、ピンク色の不定形の肉塊。
元の姿に戻った、ヌルスである。
「良い夜ですね。こんな夜は、少しお喋りしたくなりませんか?」
《同意する。月が明るいと、なんだか気持ちが騒めく気がする》
スカーシハの言葉に、ヌルスは好意的に言葉を返した。
まあもとよりアルテイシアの事で、ヌルスのスカーシハへの好意は天元突破している。多分何を言っても全肯定してくるんだろうなあ、とスカーシハは微苦笑した。
《しかし驚きだ。この状態の私の言葉がわかるのだな? いや、喋っていないから言葉という訳でもないのだろうが》
「神々の中にはそもそも口を開かぬ者も居ましたので。相手の心を読む、というのはごく当たり前に行われていたことです。ふふ、それはそれとして、ヌルス様の心はわかりやすいのですが」
《自分でも複雑だとは思っていない》
触手をぴょこぴょこさせながら、ヌルスもまたカップを手に取る。触手を持ち手に絡めて引き寄せると、別の触手をカップにつっこんでごきゅごきゅ吸い上げていく。
お茶を飲む触手。
スカーシハも大分長く生きているが、初めて見る光景である。
ちょっとどきどきしながら、味の感想を問う。
「いかがですか?」
《うむ! かぐわしい香り、すっきりとした喉越し、いずれも美味、美味! ヴァーシス領での生活で人間の贅沢にはすっかり慣れたと思っていたが、上には上がいるものだな。あっ、もう一杯いい?》
「勿論ですとも」
とぽぽぽ……と半神てずからお代わりを注がれて、ヌルスはぐびぐびと飲み干す。
彼らが恩人でなければ全エンシェント憤怒まったなし、という贅沢ではあったが、当の本人達にその意識はさっぱりなかった。
エンシェントの里の守護者と人間界からの来訪者、ではなく、ここに居るのは一人の女と一匹の魔物。互いに何も取り繕わない、不思議な空間がそこにあった。
《それにしても美味である。しかし、人間の茶とて負けてはいないぞ。ヴァーシス領にお勧めの店があってだな、もしこっちに来る事があったら案内させてくれ。きっと満足していただけるはずだ》
「まあ。うふふ、それは楽しみが増えましたわ。ああでも、その時はエヴィリンをどう言い伏せましょうかしら」
《その時は私も協力しよう。なあに三人よればなんとやら、という。二人で考えればよい言い訳も思いつくだろう》
うねうね、と触手をくねらせて提案してくるヌルスに、スカーシハはふふふふ、と童女のように軽やかに笑った。
「面白いお方。……ねえ、ヌルス様。一つ、お話があるのですが」
《うむ? 何かな。何でもいいぞ》
「そうやってあんまり安請け合いするのは……いえ。貴方としては安請け合いしたつもりはないのですね」
言葉通りの何でもいいぞ、である。
アルテイシアの恩人に、恐らくヌルスは言葉一つで死地にすら赴くだろう。何も隠すことのない心の動きを読み取って、スカーシハは思わず苦笑を浮かべた。
「もう少し、自分を高く売った方がいいですよ?」
《むぅ。そうは言われても、スカーシハ様のお願いともあれば、買値は青天井だからなあ……。まあ、アトラス達への恩義も返していないから、あんまり厳しいのはやめてほしいか》
「あらあら、もぅ……」
自分の安売りはやめましょう、と言った端からこれである。
もう性分なのだろう。時間をかけて直していくしかないというか、ヌルスが自分自身の価値をもっと高く見れるようになるには時間が必要なようだ。そのあたりはアトラス達に期待である。
と、盛大に話が逸れた。
スカーシハは自分の分の紅茶を入れなおして仕切りなおすと、湯気の上がるカップを傾けながら、ある提案をした。
「……私の素顔、興味はありますか?」
「!?(ガバッ)」
「んにゅー……ぞくちょー、どうしましたきゅうに。にきっちはもうすこしねていたいです」
「い、いや、なんかスカーシハ様が男に言い寄られているような悪寒が……」
「んもーそんなばかはこのさとにはいませんよ。ほら、ねる、ねるぅ……」
「う、うーむ……ま、まあ確かに。気のせいか……」