望まぬ知恵の王 ~冒険者に憧れた蟲がやがて魔城の主と呼ばれるまで~   作:SIS

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第三十五話 晴れの日

 

 

 固まったインクを溶かしたいと考えたのがいけなかったのか。王水もびっくりな強酸性の液体と化した粘液に驚愕しつつ、机を溶かし始める前に瓶ごと取り上げて部屋の隅に放り込む。並んだ通風孔の手前に落ちた瓶はガシャン、と割れるも、零れだした内容物によってすぐさまドロドロに溶けてなくなった。しばらく粘液はシュウシュウと危険そうな蒸気を放っていたが、やがて溶解性を失ったのか、少なくとも傍目には何かを溶かす事のない謎の水溶液と化した。

 

 一応警戒しつつ、そっと適当な布で拭ってみる。布がたちまちに溶けだす……という事はなく、なんなのかよくわからない液体に塗れた雑巾を、ヌルスはくるくると纏めてゴミ箱に放り込んだ。

 

 粘液を分泌していた触手にあらためて目を向けると、ちょうど瓶に突っ込んでいたあたりが溶けてなくなっていた。遅れてズキズキと疼痛が走り、痛みにヌルスは体をブルっと震わせた。自分が耐えられない強酸性物質を分泌するとか、流石にちょっとアレである。

 

《いちちちち。思った以上に融通が効くというか、効きすぎたか。変な事考えずに、単純に黒い粘液をイメージすればいいのか?》

 

 再度チャレンジ。別の瓶に触手を突っ込み、サラサラした黒い粘液、サラサラとした黒い粘液、と念じる。忽ち、黒い汁のようなものの分泌が始まり、瓶の中身をなみなみと満たした。

 

《おお、これならなんとかなりそうだ》

 

 早速、触手数本を使ってペンを保持してみる。黒い粘液にちょんちょん、とペン先を浸して、ダイアリーにインクを走らせた。

 

 思った以上に粘液は発色がよく、滑りも粘りも丁度よくて書きやすかった。サラサラカリカリとペン先が踊り、ピリオドをちょん、と打つ。

 

 記念すべき、日記の第一文は以下のようなものとなった。

 

『日ki 今日 はじme る』

 

《…………ま、まあ、読めるのと書くのはまた別の話というしな! そもそも私はこれが初めての文字だし、多少は拙くても……多少は……》

 

 残念ながら、多少の範囲で済むかは大いに議論の余地がある。自分自身は流石に騙せなく、ヌルスはしょんぼりと触手を萎びさせた。

 

《練習するか……文字………》

 

 どうやら、悠々自適の休養期間とはならなさそうなヌルスであった。

 

 

 

 

 ヌルスが隠し部屋に戻ってそこそこの時間が経過した。

 

 その間、ヌルスは3層で確保した魔力結晶をチマチマと消費しつつ、様々な技能訓練に勤しんでいた。文字の練習もそうだが、他にも冒険者への偽装も練習が必要だ。ランクアップ直後に比べると明らかに肉体の性能が上がっているおかげで、鎖帷子等を着込む事で冒険者っぽい装いは出来るものの、どうしても動きに違和感がある。骨の無い触手型モンスターが、骨格を軸に立って歩く人間の真似をすると、どうしてもあちこちで違和感が出る。

 

 今日も一時間ほど準備体操のような動きをしてみて、ヌルスはむむむ、と内心困り果てていた。

 

《どうしても人間っぽい挙動にならない……。私から見てそうなのだから、当の人間から見るとバレバレだろうな、これは……》

 

 本人的にはシュッシュッとシャドーボクシングをしてみるが、もしこれを人間が見ていたらビヨンビヨン、と表現するだろう。

 

 骨格もそうだが、筋肉の使い方が根本的に違うのだ。

 

 人間の動きというのは、“縮める”動きである。筋肉は弛緩している状態がデフォで、そこから縮む事で体を動かす。が、ヌルスのような触手型モンスターの場合、伸ばしもするし縮みもするし、揺れるし回る。骨格に固定されていないからこそその動きは自由であり、それが逆に人間っぽさを演出する上で大きな足枷になっていた。

 

《くぅぅ、これ以上は無理だ……。やはりある程度間近で人間の動きをもっと観察しないと……。だがそれには近づくためにもっと偽装を上手くならないと……》

 

 堂々巡りである。

 

 人間を観察しないと上手くなれないのに、上手くならないと近づけない。根本的な矛盾に直面し、ヌルスはそろそろ頭がオーバーヒートしそうだった。

 

《す、少し休もう。私はそんなに賢くないんだ……》

 

 椅子に体を預け、ぐったりと弛緩する。その拍子に籠手やら兜やら、触手で固定していた装備品がばらんばらんと転がって散らばった。地味に、それらをずっと同じ位置で固定しているのも負担である。

 

《に、人間は貧弱だと思っていたが……これらの装備を身に纏って一日中迷宮を歩き回っているんだよな? 持久力おかしくないか? どうなってるんだ彼らの躰は……ん?》

 

 ぐったりと弛緩していた触手に、不意にピリッと緊張が走る。

 

《魔素と魔力が、急に上昇している……なんだ?》

 

 迷宮に繋がる通風孔に目を向ける。現在、迷宮に繋がっている通風孔は三つ。そのうち二つは2層と3層、最後の一つは不明だが部屋にまで魔力と魔素が濃厚に伝わってくる事からも5層以降の可能性が高い。だが今は、その三つ全てから高密度の魔力と魔素が逆流してきている。

 

 あきらかに異常な事態だ。

 

 ヌルスは警戒して距離を取りつつ、本棚の頼れる論文集に手を伸ばした。幾度となく捲って覚えた索引のページを開く。

 

《確か、本にこんな事態について書いてあったような……ええと……あった!》

 

 

 

● 迷宮の更新について

 

 一年、あるいは数か月単位で、迷宮はその構造を変化させる。これは現実側の空間修正作用に対する、ダンジョンコアの適応ともいえる反応だと考えられている。どれぐらい構造が変化するか、については迷宮によってバラつきがあるが、極端な場合は階層のテーマそのものが変わり、控えめでも道や間取りが大きく変わる為、それまでのマップ等が役に立たなくなる。そのため、迷宮の更新は攻略を目指す冒険者や冒険者ギルドにとっては大きな悩みの一つだ。

 

 更新時には、人間には有害な濃度の魔力と魔素が迷宮に溢れかえる為、その最中に侵入する事は自殺行為である。よって、更新中、迷宮内で何が起きているかは、憶測するしかないのが現状である。

 

 一般的にはこの迷宮更新は、“晴れの日”と呼ばれている。

 

《そうそう、晴れの日。そうか、今日だったか……》

 

 書物の知識によって確信を得たヌルスは、興味深げに通風孔に目を向ける。確かに、2層や3層までこれだけの、それこそ可視化できそうな量の魔力や魔素があふれ出していては、人間はとても中に居られないだろう。毒の空気の中に居るようなものだ。

 

《……まてよ? 人間なら駄目でも、私なら平気なんじゃないか?》

 

 魔物はそもそも魔素と魔力から生まれた存在である。どれだけ高濃度でも、それに溺れて死ぬような事はない。まあ何らかの攻撃的な指向性をもっていたら別だが。

 

 ちらりと本に目を向ける。

 

 この書物の著者を始め、人間は更新中の迷宮に入る事はできず、それはつまり、ヌルスにあらゆる知恵を授けてきたこれらの書物でも記されていない真実が今目の前にあるという事である。

 

 その事は、ヌルスの知識欲と好奇心を酷く刺激した。

 

 それに、人がいないなら大手を振って歩き回る事ができる。今の人に見られたら偽物だと看破されるような無様な人真似でも、気にする者はいない。練習にはちょうどいいのでは?

 

《……ふむ》

 

 しばし思案して、ヌルスは出かける準備を整えた。

 

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