4月上旬。
ここはフランス・パリ。
厳かな雰囲気に包まれた教会の中、ステンドグラス越しに暖かな光が差し込み、色とりどりの影を床に映していた。
右側のステンドグラスには、一人の騎士が白銀の鎧をまとって聖なる剣を掲げており、背後には黄金の後光が広がっているシーンが描かれている。
中央には荘厳な天使が両翼を広げ、その瞳を穏やかに閉じている。
(こういう場所も、悪くないわね)
目を閉じて、深く息を吐く。
静寂に包まれる空間——それは普段の彼女ならば、特に何かしらを感じるものではなかったのだが、今は不思議と心地が良かった。
(……あの人に手紙を出そうにも、こうして教会に赴くだけでも尾行が5人。さすがお父様の私設部隊といったところかしら。風情もありませんわね)
溜め息が、教会の広い空間に吸い込まれる。
彼女がここに来た理由は特にあるわけではなかった。
連日のトレーニングや現担当トレーナーとの関係、そして置いてきた元トレーナーのことが気がかりで疲労が溜まっていたのか、ふと足がここに向いた程度のこと。
もちろん熱心な信者でもなく、そもそも神への信仰心など持ち合わせてはいないので、それこそ教会の荘厳な雰囲気を味わいに来た観光客レベルと言っても差異はない。
(でもこのわたくしが、こんなところに来るなんてね。自分でもおかしいとは思っているけど)
どんな困難も自らの脚で踏み越えていくジェンティルドンナにとって、神に祈ることなど今までしたこともないのだが、今回、彼女が抱えている問題は力でねじ伏せられるものではない。
(力を奮うこと自体が悪手。絡め手は得意ではありませんわ)
彼との連絡も、こうして尾行が付きまとっているので手紙を出す隙などなく、ただただ時間を持て余すほかない。
(お父様は、一体何を考えていらっしゃるの……? 実績は確かに申し分はない。でも実際に会えば、世界に名を轟かせているトレーナーとは思えない振舞いだというのに)
ジェンティルの機嫌がどんどん悪くなっていく。
勝手に目が座ってきて、苛立ちが募っていく。
ローランの指導計画や指導方法は間違いなく一流で、世界を驚かせる力があるのも頷ける。
しかし直に会って話したり、突然の質問をしたりした時には、ほとんど中身がない空虚なハリボテのようにしか思えなかった。
(トレーニングの時だけ姿を現すならともかく、あの方はその逆。絶対に姿を現わそうとはせず、無駄な会話や挨拶をするときだけ姿を現わす)
画面越しの指導は的確の一言だが、言ってしまえばそれだけだ。
トレーナーとしての能力は一流に見えるものの、本当にトレーナーなのかと疑問にさえ思える。
もちろん、一人の人間として見るなら元トレーナーの足元にも及ばないほど幼稚だ。
(いいえ、それもおかしな話ね)
これだけの期間を共にしていれば、違和感には気づく。
ジェンティルドンナも、伊達に父親や兄弟たちと幼い時から競ってきたわけではない。
ローラン・ジレーヌというトレーナーの正体について。
(わたくしの予想では、あのトレーナーは……)
そのとき、すっと足音が近づいてきた。
ジェンティルはそれに気づくと、父親の差し向けたメイドだろうと視線を向ける。
しかしそこに立っていたのは、白と黒のコントラストが印象的なローブを着た女性。
その胸元にはシンプルな銀の十字架が輝いている。
教会のシスターだ。
「こんにちは」
柔らかな笑みを浮かべたシスターは、小さく頭を下げる。
「あら、日本語? 久しぶりに聞きましたわね。わたくしに合わせなくても、そちらの言葉で会話できますけど」
「ふふ、昔日本に留学しておりまして、日本の方を見ると使いたくなるのですよ」
「そうですの。それで? 何かご用?」
正直なところ、思考に邪魔が入ったことでジェンティルは不機嫌さを増す。
それに気づいているかは知らないが、シスターは笑みを崩さぬまま続ける。
「突然お声がけしてすみません。実はあなたの背負っている運命に少々興味がありまして」
「運命? ……ふふっ」
ジェンティルドンナは鼻で笑う。
「占いの客引きかしら? 申し訳ないけれど、わたくしはそのようなものに興味はありませんの。強者にとって運命なんて関係ない。未来は、自分の力で掴むものよ」
「確かにあなたならそうおっしゃると思っていました。なのでお声がけするのもためらったのですが、……どうしても一つだけお伝えしたいことがございます」
シスターの声はどこまでも穏やかで、何かを諭すよう。
もちろんジェンティルは聞く耳を持つ気はなかったが、静謐な教会で怒りを露にするのも憚られる。
訝し気な視線を向けるだけにとどめて、聞くだけ聞いてやろうと不遜な態度をとる。
「今、あなたの運命は本来あるべき道から、大きく外れているように見えます。まるで、元あった場所の歯車が抜け落ちたかのように」
「……、なんですって?」
一瞬、ジェンティルの瞳が揺れた。
「大きな歯車はひとつひとつが噛み合って動いていくものです。ですが、何かが一度抜けてしまえば……歯車全体の動きが止まってしまう」
心のどこかがチクリと痛んだ。
いつもなら運命など、歯牙にもかけないほど意識を向けない。
それどころか、己の意思でどうとでも踏み越えられると考えていたジェンティルだが、このシスターの言葉だけは妙に突き刺さる。
(あの人と、わたくしのこと……?)
ふと、トレーナーの顔が脳裏に浮かぶ。
彼と共にいたあの日々。指示を出す声、隣で歩く足音、共に目指した勝利——それがすべて歯車だったのであれば、当たり前のように動いていた。
でも、今は……。
(わたくしは戻るつもりよ……必ず)
そう自分に言い聞かせる。しかし、その決意が妙に頼りない自信になっている。
まるで手を伸ばしても届かない場所に、彼が遠ざかっていくようで——。
「窺って損したわ、くだらない。時間の無駄ね」
「あなたがどう受け止めるかは自由です。ただ、心が揺れているなら、その意味を見つめるべきではないでしょうか?」
「言いたいことはそれだけ? ロマンチックな客引きですこと。解決する方法を教えるから、いくらか払えということかしら?」
「いいえ、それを解決できるのはあなただけです。そう、あなたの脚だけが……」
シスターはそのまま柔和な笑みを浮かべながら、一礼、ふかぶかと頭を下げる。
「どうか、あなたに神々のご加護を」
ジェンティルは去っていくシスターの背中を見つめるしかできなかった。
よくある日本人をターゲットにした詐欺やぼったくりの類なら、ここで金銭を要求してきてもおかしくはないのに。
まさか本当に善意で声をかけたとでもいうのだろうか。
ならばその内容は、本当にジェンティルを憂いてのものだったのだろうか。
(誰かが、わたくしの心を惑わすために遣わせた……? いいえ、それにしてはわたくしの心を見透かしているような……)
シスターの言葉が、我ながら心の中にスっと入ってきたのも気がかりだ。
頭にこびりついて離れない。
「はぁ、本当にくだらない。運命など、わたくしが踏み越えてみせますわ」
そう言葉にしても、心のもやもやは一向に晴れる兆しを見せない。
絡み合っていたはずの歯車。
それが止まったのだとしたら、あの日のことを指しているような気がしてならない。
(——間違ってなんていないはず。あの時は、そうするしかなかったもの)
瞼を閉じても、浮かぶのは元トレーナーの姿ばかり。
強者としての誇りと、心の奥底に芽生えた焦りが、静寂の中で絡み合っていく。
(帰りましょう……)
考えても仕方がないので、小さく息を吐き立ち上がる。
木製の扉に手をかけ、外へと一歩を踏み出すと、まばゆい光が目を射抜いた。
真昼前の澄んだ空には雲ひとつなく、白い石畳が眩しいほどに光を跳ね返している。遠くでは、街の賑やかな喧騒とどこか軽やかな鐘の音が微かに聞こえてくる。
(わたくしは、何をしにフランスへ来たの?)
自ら問いかける。
答えは勝利のため。
栄光のため。
(凱旋門賞で、世界に力を示すためよ)
だから、それ以外のことで心を奪われるわけにはいかない。
道すがらタクシーを拾い、ホテルの名を告げる。
車窓から流れていく街並みはどこか遠い別世界のようで、ジェンティルドンナはぼんやりとそれを眺める。
ホテルの部屋に戻ると、自主トレーニングをしようかと考えていたはずの思考は、シスターとの会話で完全に塗り替えられていた。
重厚な扉を閉め、ヒールを脱いでラグジュアリーなカーペットに足を下ろす。
部屋の中は無駄に広く、無機質なほど整っていた。
天井のシャンデリアの光が煌めくが、そこに何の暖かみもない。
「……はぁ、外出しないほうが良かったかしら」
ジェンティルドンナは再びため息をつき、ソファへと身を沈める。
背もたれに頭を預け、天井を見上げながら、教会での言葉を頭の中で何度も巡らせる。
“本来あるべき道から外れている”——抜け落ちた歯車。
以前の自分なら、そんなものを信じるわけがないのに。
「ここ最近……おかしいわね、わたくしがここまで心を乱すなんて」
自分を戒めるように言いながら、おもむろにリモコンを取る。
テレビの電源を入れると、部屋の静寂が破られた。
画面にはニュース番組が映り、アナウンサーがフランス語で淡々と何かを伝えている。
チャンネルを次々と変える。
華やかな音楽番組、コメディ、ドラマ……そのどれもが頭に入ってこない。
ふと、彼女の手が止まる。
画面から日本語が聞こえ、フランス語の字幕が浮かぶ記者会見の中継が流れていたチャンネルだ。
(凱旋門賞に出場するウマ娘の会見? こんな早い時期に行うということは、今年もオルフェーヴルさんが出てくるのかしら? それはそれで倒しがいがあるけれど)
日本の時刻が20時頃であることを考えつつ、来たるライバルウマ娘の候補を頭の中で挙げていく。
喉が渇いたので、冷蔵庫に冷やしていたコップの水を飲む。
『——ヴィルシーナさん、凱旋門賞への挑戦を宣言されましたが、その決意のほどは?』
一瞬、時が止まったように感じた。
「……ヴィルシーナ?」
慌てて画面に目をやれば、背筋を伸ばして毅然とする姿の彼女が映し出された。
会場の空気は張り詰めている。
大きなスクリーンが正面に設置され、記者たちはそれぞれカメラを構えて待機していた。
フラッシュがパチパチと光り、耳障りなほどのシャッター音が響き渡る。
『はい、私はこの挑戦を日本の勝利に変えるために、ここにいます』
その言葉が、会場の空気を締め上げる。
ヴィルシーナの声は、まるで走り出す風のように力強く、まっすぐに会場の隅々まで届いた。
記者たちのペンがノートを走り、カメラのレンズが一斉に彼女に向けられる。
『どんな困難が待っていようと、私は絶対に諦めません』
ヴィルシーナの純白の勝負服は、まるで花嫁のように気高く美しかった。
それは見覚えがある。
確か、ミューズというイベントで安心沢という人物がデザインした勝負服のはずだ。
そしてその時に誓った内容は、ジェンティルドンナへの挑戦――いや、宣戦布告。
『先にフランスへ行ったジェンティルドンナにも勝利し、必ず、この挑戦を成し遂げてみせます』
会場に静かな歓声が広がる。
彼女の言葉を飲み込んで、記者たちはその熱量を受け止めるように言葉を発することなく沈黙する。
その静寂を破ったのは、隣に立つ黄色い帽子の少女だった。
佐岳メイと名乗った少女は、ヴィルシーナの力強い言葉に続き、情熱的に語り始める。
『彼女の努力は並大抵のものではありません。プロジェクトL'arcにおける最終章、この挑戦は、彼女と日本全体の誇りをかけたものです』
ジェンティルドンナは画面に映るヴィルシーナの姿を見つめながら、クスリと笑みをこぼす。
「へぇ……ヴィルシーナさん、こちらに来るの」
小さな声で呟いたその言葉は、心の中で反響した。
ヴィルシーナの姿を見て驚きはしたが、胸の中では愉悦と歓喜が広がって、気持ちが高まっていく。
「いいわ、受けて立ちましょう」
ジェンティルドンナの口角が完全に上がった。
心が高揚し、血が湧きたつような感覚に口元を吊り上げ、微笑む。
世界を獲るためにトレーニングをしていても満たされていなかった渇いた心に、呼び水を喰らうような宣言に、いてもたってもいられないくらい昂ってくる。
「蹂躙して差し上げますわ。どれほどの力を持って挑みに来るのか、とても楽しみね?」
この相手にだけは負けたくないという気持ちが己を奮い立たせる。
かつて2回目のJCでオルフェーヴルと戦ったときも、その気持ちは彼女――ヴィルシーナから教えてもらったものだった。
当時の感情が蘇り、全開の闘志が溢れ出てくる。
(でも不思議だこと。ヴィルシーナさんの担当トレーナーは、確かクラリストレーナーだったかしら。多くのウマ娘を担当しているあの方が、凱旋門賞に挑むだなんて)
イギリス人と日本人のハーフの方だと聞いている。
そして元トレーナーの先輩であり、指導トレーナーでもあるクラリストレーナーは、ジェンティルの中でも割と評価が高かった。
そう考えると、とてもおかしい話というわけではないが、やはりヴィルシーナの覚悟を受け止めたといったところか。
(そう言えば、あの方のトレーニングを見る機会があったけど、ほんの少しだけ、わたくしが今行っているトレーニングと同じことをしていたわね……、偶然?)
具体的にはパワートレーニングにおける坂路ダッシュで、一定のリズムを保ったまま駆け上がっていく練習だ。
特に珍しいトレーニングではないものの、ローラン・ジレーヌから受けた指導方法の中にこの基礎が、"同じリズム間隔"で含まれていたはず……。
そんなことを考えつつ、ジェンティルはクラリストレーナーの登場を無意識に待つ。
だが。
そこに現れたのは、彼女ではなかった。
「…………え?」
カメラが動き、次にフォーカスされた人物。
その姿を視界に収めた瞬間、ジェンティルは驚きに目を見開いた。
胸の奥から肌の隅々までが、ざわめく感覚に襲われる。
『初めまして。ヴィルシーナのトレーナーです』
ジェンティルの視線の先。
そこに映し出されていたのは紛れもない、かつて自分と共にトゥインクルシリーズを駆け抜け、父親の意向で自分との契約を解除されたはずの――
「どうして、あなたが……?」
元トレーナーの姿だった。
『トレーナーさん、今回の大阪杯にてヴィルシーナさんはオルフェーヴルさんに勝利しました。正式にプロジェクトL'arcにおける凱旋門賞への出場ウマ娘に決まりましたが、担当するトレーナーとして意気込みをお願いします」
『はい、シーナが昨年の凱旋門賞で好成績を残したオルフェーヴルに勝利できたことは誇りに思います。同時に、彼女が凱旋門賞で必ずや日本の悲願を達成できると信じ、誠心誠意支えていきたいと思っています』
その言葉に、会場の記者たちも感心したようにうなずく。
そして、次の質問が投げかけられる。
『日本ウマ娘新聞です。ではトレーナーとして、どのようなサポートをされるのでしょうか?』
『はい、まずは――』
ジェンティルドンナは、記者の質問やトレーナーの回答が頭に入ってこなかった。
なぜあなたが、そこにいる?
なぜヴィルシーナさんの担当に?
何がどうなっているの?
そんな疑問ばかりが湧いてきて、グルグルと巡る思考が止まらない。
胸がざわつき、心のどこかがひりついてくる。
『毎朝ラジオ新聞です。トレーナーさんのサポートを受けておられる中、ヴィルシーナさんは逆にトレーナーさんをサポートされることはありますでしょうか』
元トレーナーの服は、かなり高級なブランドもののスーツだった。
フランスの有名ブランドのもので、しっかりと体にフィットし、動きやすさを兼ね備えた一着。
光の加減でほんのりと艶めく生地が、高級感をさりげなく主張している。
かつてジェンティルドンナの家のパーティに呼ばれた場合を考えて、ふさわしいスーツのブランドを教えてほしいと元トレーナーに聞かれたことがあったが、まだ呼ばれるには至っていないと伝えながらも、いくつかのブランドをピックしてあげたのを覚えている。
そのうちの1つに違いないが、それを彼は今、身に着けている。
堂々と、少し肩を張るようにして。
一応勝負服であるとはいえ、ミューズの衣装である純白のドレスを着たヴィルシーナの横で、だ。
『ええっと、そうですね……』
その質問にヴィルシーナは一瞬だけ言葉に詰まり、少し恥ずかしそうに下を向く。
照れを隠すように、指先でドレスをつまみ、ほんの少し揺らした。
頬をかすかに赤らめながら、言い淀んでいる姿に、ジェンティルドンナは画面から目を離せなかった。
『お昼も食べずに、私のことを支えてくれるので、妹たちのお弁当と一緒に……お弁当を作ってあげています』
彼女の答えに、会場が和やかな空気に包まれた。
記者たちの間から「おお……」や「仲いいなあ」といった声がもれる。
それはまるで、仲睦まじい夫婦の惚気話を聞かされているような、どこかくすぐったい雰囲気だった。
シーナという愛称で呼んでいるかと思えば、ヴィルシーナが笑いながら照れるその姿、そしてトレーナーが微笑みながらその笑顔を見守っている光景。
柔らかく、どこか温かい、親しげな雰囲気。
その笑顔がジェンティルドンナの胸に、小さな痛みを引き起こす。
(何、これは……?)
心臓の奥でじわじわと広がる違和感に、ジェンティルドンナは無意識に胸元に手を当てた。
その痛みは鈍いのに鮮やかで、まるで棘が刺さっているかのように引っかかって抜けない。
自分でもその感情が何なのか分からない。
喜びでも、怒りでも、悲しみでもなく。
まるで、そう――歯車が、軋む音を立てて動かなくなっていくような……。
そんな会見も半ばに差し掛かったところで、フリーの記者がとある質問を切り出した。
『トレーナーさんは以前、ジェンティルドンナさんを担当されていましたよね? どういった経緯で契約が解除となったかはあえて聞きません。ですが――次の凱旋門賞では、確実に彼女と対決することになります。その相手に向けて、トレーナーさんから何か一言、いただけますか?』
その瞬間、空気が凍りつく。
誰もが息を呑み、場内が静寂に包まれる。
それについての質問をしてはならないと明言されたことはない。
だが誰も話題にしなかったのは、暗黙の了解があったのだろう。
それでもこの記者が一線を踏み越えたのは、何のしがらみもないフリーの記者だからか。
あるいはただ対立煽りをしたいだけの愚か者か。
どちらにせよ、その問いを聞いた全員が息を潜める。
あのジェンティルドンナに一方的に契約を解除されたトレーナーが、かつてその赤き貴婦人の背中を追い続けたヴィルシーナを連れて、凱旋門賞という舞台に挑むのだから。
カメラのレンズが、音もなく寄っていく。
グッとフォーカスされる。
そして彼は立ち上がり、静かに口を開いた。
『――はい。シーナと私は、必ずジェンティルドンナを倒します』
「っ――」
その言葉が放たれた瞬間、眩しいフラッシュが何度も何度も焚かれ、場内に衝撃が走る。
どよめいた記者の何人かが慌ただしく退席していくのが視界の隅に映る。
おそらく朝の新聞の1面にでも載せるのだろう。
しかし、ジェンティルドンナの世界は、その一言だけで止まっていた。
――倒す。
かつて隣にいた彼が、今は別のウマ娘と肩を並べて、自分を倒すと言った。
静かに着席したトレーナーは、それ以上何も言わない。
だがその視線がまっすぐカメラに向けられた時、彼女はそれが“自分に”向けられていると錯覚する。
会見はその後も続いたが、ジェンティルドンナの耳には、もう何も届かなかった。
『――それでは、そろそろ時間も迫ってきておりますので、会見を終了とさせていただきます。ありがとうございました」
気づけば、いつの間にか会見は終了して、次の番組が始まっていた。
どれだけの時間が過ぎたのかは分からないが、ジェンティルドンナの中で何かが変わっていく。
彼女はただ黙って、流れ始めたテレビショッピングの番組を消して、黒い画面を見つめ続ける。
スクリーンに映っていた自分の顔は、完全な無表情。
映っているのが自分だと認識するまでに、少し時間がかかった。
「………………」
近くに置いていた鉄球を、視線や頭も動かさずに手に取る。
いつもなら、精神統一のために丁寧に圧縮していくはずだったそれが――
バキィンッ!
「っ!?」
均一に力を込めたはずだった。
なのに、まるで乱雑な力が加わったように、鉄球は歪な破片となって床に散る。
ガラン、ガラン……と転がる金属音が、部屋の中に虚しく響く。
ジェンティルドンナは震える手を見つめる。
胸が熱い。頭も重い。
心の奥で、名もなき感情がざわついている。
ヴィルシーナが挑みに来ることは嬉しい。
それは嘘じゃない。
けれど、彼が……あの人が、彼女の隣にいるなんて、想像すらしたことがなかった。
元気にしていることは喜ぶべきなのだろうが、仲睦まじい二人の姿、彼の微笑み、ヴィルシーナの赤く染まる頬――
そのひとつひとつが、自分の中に“答えの出ない感情”を積み上げていく。
「抜け落ちた、歯車……」
教会で聞いたシスターの言葉が脳裏に蘇る。
ジェンティルドンナは、ずっと出せずにいた1通の手紙を、そっとカバンから取り出し、何も言わずに机の引き出しに仕舞い込む。
――まるでその気持ちごと、奥深くに閉じ込めるように。