幕間4 ジェンティルドンナの決意
あの記者会見を見届けた、その日の夜のこと。
ジェンティルドンナはホテルの部屋の扉を勢いよく開いて、ドアの前に控えていた専属のメイド――秋村サチに声をかける。
サチはジェンティルがトレセン学園に入学する前、屋敷での世話を任せていた同年代の女性だ。
かなり奥手で控えめな性格なので、自己主張があまりないのが少し心配だが、それはそれとして、ジェンティルはズンズンと足を前に進めていく。
「今からお父様に会いに行きますわ。タクシーを手配してくださる?」
「かしこまりました。……あの、お嬢様?」
「なに、急いでいるのだけど」
「その、お顔が……いえ、なんでもありません。ご用意いたします」
サチは一礼し、足早にその場を去っていく。
ジェンティルは無言のままエレベーターへと向かい、その扉が開くまでの数秒すら落ち着かない様子で爪先をそっと床に打ちつけていた。
最上階から1階のロビーへと降りる間、鏡のように磨かれたエレベーターの壁に映る自分の顔と視線がぶつかる。
そこには、気高く冷静な表情の奥に、隠しきれない焦りがにじんでいた。
ホテルの回転扉を抜けた先、冷たい外気とともに、すでに待機していた黒塗りのタクシーが目に入る。
彼女は一歩の迷いもなく、その脚で乗り込んだ。
(あの会見……オルフェーヴルさんが大阪杯でヴィルシーナさんに敗れたと言っていた。そして、彼女を導いたのは――間違いなく、私の元トレーナー。一体、何が起きているの……?)
揺れる車内で、胸の奥からじわりと広がる不安が、吐息とともに喉元を締め付ける。
(記者の質問はまるで、私との契約が完全に破棄されているような口ぶりだった……っ。まさか……お父様が?)
必ず戻る。
そのつもりだった。凱旋門賞の制覇までが約束であり、それさえ終えれば、あの人のもとへ戻れるはずだった――あの、いつもの時間へと。
けれど今、自分の居場所はどこにもない。
あの日、突然フランスへと呼び寄せられたのも、トレーナーとの契約を完全に破棄させるための謀略の1つだったのかもしれない。
(……確かめないと。今すぐにでも――!)
タクシーに揺られること1時間。
車窓には、パリの喧騒が次第に遠ざかり、代わりに郊外の穏やかな景色が広がる。
揺れる木々の影が道をなぞり、青黒く澄み切った空の下、ジェンティルの心は一層重たく沈んでいく。
ようやく車が止まったのは、父が所有する郊外の静かな別荘だった。
石造りの門を抜けると、目の前に広がるのは広い庭園。夜の風にそよぐ木々と、静かに咲く花々が、ほんのりと甘い香りを漂わせる。
月明かりに照らされた噴水の中央には、白い天使の像が立っていて、その姿が淡く光って見えた。
夜の空気はひんやりとしていて、辺りはとても静かだった。
父親の部屋には明かりがある。
すぐさまブラックカードを差し出して支払いを済ませると、静寂を切り裂きながら玄関へと向かった。
館へ続く小道に埋め込まれたランプが、早歩きで進むジェンティルの影を何度も伸ばしたり縮めたりとしていく。
玄関を通って、館の地面を踏み鳴らしながら進んでいくと、父親の部屋の重い扉が見えた。
そこを両手で勢いよく開く。
「お父様!」
けれど、その奥に父の姿はなかった。
代わりに、ゆったりとした姿勢で弟が椅子に腰掛けていた。
「姉上、いきなりどうしたんだ? そんな血相を変えて」
彼はカップの紅茶を口につけた状態で体を硬直させていたが、すぐにそれを皿の上に戻して突然の訪問客に質問を投げる。
「お父様はどこにいらっしゃるの?」
ジェンティルの焦りの声が響く。
部屋を見渡してもその姿はない。
整然と整えられた重厚な部屋の中は分厚い本が並ぶ書棚と、アンティークの木造デスク。
暖炉の上には一枚の肖像画が飾られ、部屋の中央には革張りのソファとティーテーブルが配置されている。
弟はわずかに目を細め、淡々と告げる。
「今日はローラン・トレーナーの父君、ヴィシウス・ジレーヌ様と食事中だ。今夜はもう戻られない」
その言葉を聞いた瞬間、ジェンティルの目が静かに、けれど鋭く光を帯びる。
「至急、確認したいことがあるの。会食の場所を教えなさい」
彼女の語調には怒りが滲んでいた。
しかし弟は、顔色ひとつ変えずに肩をすくめる。
「それは無理だ。今後を左右する大事な話をしている。日を改めたらどうだ?」
「なら、あなたから聞き出しますわ。知っていることをすべて」
ジェンティルの声がひときわ強まる。
「……ったく。僕も暇じゃな――」
その言葉を遮るように、彼女は一歩踏み出し、声を叩きつけた。
「わたくしと、元トレーナーとの契約について、洗いざらい話してもらいますわ」
「契約のこと? 今さらそれがどうしたっていうんだ?」
「本日、日本代表として凱旋門賞に挑むウマ娘の記者会見を拝見しましたわ。そこで、わたくしもよく知っているウマ娘が……わたくしの以前のトレーナーと出場することが発表されていた」
語る彼女の瞳は、氷のように静まり返る。
「なるほど? つまり、姉上を倒すために、元トレーナーが凱旋門賞に来るということか」
「あなたも、わたくしの依頼で護衛を部下につけていたでしょう? ならば、動向を部下に追わせていたあなたは知っていたはず。なぜ、わたくしに一切報告がなかったのかしら?」
弟はまたも肩をすくめて、深いため息を一つ落とす。
「姉上。あなたの依頼は護衛だけだったはずだ。そもそも元トレーナーが何をしようと勝手じゃないか。姉上に何の関係があるというんだ?」
「関係あるに決まっているでしょう。わたくしは彼の元に戻るつもりだったのだから」
彼の眉がピクリ、と動く。
「まさか姉上、本当に凱旋門賞を勝利した後に、彼の元へ戻ろうと思っていたのかい?」
「……どういう意味かしら?」
「そのままの意味だ。父上が用意した契約書にも姉上はそう書くように念を押していたね。さらに僕にも元トレーナーへの言伝を頼んでいた時は、何の冗談かと思っていたが」
「じ、冗談なんかではありませんわ……っ!? あなたもきちんと、わたくしがローランに出した条件は聞いていたでしょう!? 凱旋門賞を制覇した暁にはローランとの契約は満了し、彼の元へと――」
「残念ながら姉上。姉上と元トレーナーの契約は、完全な破棄となっている」
「……なんですってっ!?」
ジェンティルは身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
富士山に昇る時でも、どんな強敵が現れようとも、今までそんなゾッと怖気の走る体験はしてこなかった彼女だが、この時だけは怒りとともに初めての経験をした。
「わたくしは、凱旋門賞制覇のために、あの者たちに協力する意思を示しましたわ! その期間は凱旋門賞を制覇するまでの10か月。それが、どうしてそんなことになっているの!?」
「父上の判断だ。僕が決めたわけじゃない」
弟は目を伏せて、機嫌悪そうに言い放つ。
ジェンティルは奥歯を噛みしめ、拳を作った。
だがこういう時の弟は基本的に、ジェンティルに言い負かされた時か、もしくは言いたくないことを白状させられている時だけ。
つまり、彼の言っていることは本当であり、父親の判断として自分は関わっていないというのも間違いないだろう。
「やはりお父様に直接会わせなさい!!」
「それは無理だ。僕だって、居場所は知らない」
ジェンティルはさらに拳を強く握る。
心の奥にある冷静さが、焦るなと呼びかける。
今、怒りに任せてあちこち動いても時間を消耗するだけだ。
考えられる箇所を片っ端から捜索してもフランス全土を探すわけにもいかない。
そこで弟が不意に、口を開く。
「1つ疑問なんだが、仮に元トレーナーのところへ戻れるとしても、一度自分の元から離れたウマ娘が別の担当と世界一になって戻ってきて、果たしてそのトレーナーさんは歓迎してくれるのか?」
「……っ、それは」
ジェンティルは、その純粋な疑問に押し黙る。
確かに、あのトレーナーは決して感情をむき出しにして怒鳴ったり、声を荒げるような人間ではない。
けれど、その静かなまなざしの奥でどれほど傷つき、どれほど心を砕かれるのかは容易に想像がついた。
トレーナーという立場からすれば面白くないどころの話ではないだろう。
プライドや尊厳を傷つけられても何らおかしくはない。
「僕はトレーナーの世界やウマ娘の世界は分からない。しかしながら契約関係というビジネスの目線で考えれば、その元トレーナーから見た姉上は他のパートナーを選んだように映っているはずだ」
「分かっていますわ! だから……っ、だからわたくしは、手紙を出そうと考えていた。必ず戻ると伝えるために!」
ジェンティルは何度も元トレーナーに、手紙を出し損ねていた。
父親は彼女を常に監視し、それを出す隙も与えない周到ぶり。
それでもきっと、彼の元に届けられるチャンスはあると考えていたのに。
なかなか出せずにいた苛立ちが募り、教会へ赴いた先でそこのシスターにおかしなことを言われた。
その後に、彼らがどうなっているかを知ったのだ。
遅すぎた。
そんな言葉がジェンティルの脳裏によぎる。
「これまで、外出先で書いても郵便局へ行けばすぐに止められ、荷物に紛れ込ませようとしても必ず手元へ戻ってきた。わたくしが元トレーナーとコンタクトをとらせないようにしている理由は何? 連絡さえ取らせなかったのは、あまりにもおかしいでしょう」
さすがに手紙の中身を見られた形跡はなかったが、トレセン学園の住所を書けば、元トレーナーの宛名を書かずとも突き返されてきた。
「決まっている。そんなことをしたら、元トレーナーさんの身が危ないからだ。ローラントレーナーとの契約も、彼の身を案じて契約したんだろう?」
「確かに、わたくしがあの男と契約したのは、彼に危険を及ぼす可能性があったから。でもそれは、わたくしが条件を飲んだ形となったことで何も問題はなくなったはず。正直、あなたに頼むのも癪だったけど護衛まで依頼したのだから、手紙の一つくらい問題ないでしょう」
ジェンティルは続ける。
「ローランは、わたくしという宝石を手に入れ、凱旋門賞への参加と制覇を成し遂げられる道はついた。ならば、新人トレーナーの彼とわたくしがどんな連絡をとろうと些細なことのはず。ましてや、きちんと凱旋門賞までの契約を締結したのだから」
「全て父上の計画通りだ。もう一度言うが、僕が考えたわけじゃない」
「そんな答えで、納得できるわけがないわ! あなただって、欧州のプロジェクトをローランが入ってきたことでお父様に陣頭指揮を取られたそうね? そのことを面白く思っているわけではないでしょう?」
ジェンティルドンナのトレーナーになるだけではなく、ローラン・ジレーヌの一派は弟が手掛けた欧州のプロジェクトにも参画したという。
そのことからプロジェクトの指揮は父親が代わり、ローランとの共同で進められていると、ジェンティルは聞き及んでいた。
ならば、きっと弟も父親やローランに良い印象は持っていないはずだと踏んだ。
「残念だが、姉上。父上に代わってもらったのは、僕も了承済みなんだ。もちろん、そこに怒りや憎しみなんかない。確かに指揮がとれないのはもどかしいが、父上の手腕が必要だから代わりを務めてもらっているだけだ」
「なっ……!?」
しかしアテが外れる。
父親だけでなく、弟までもローラン側についていることを、さすがにジェンティルも想像していなかった。
「姉上、父上はたった1代で強大な力を手にした。慎重で、時にはずる賢く、完璧主義だ。今回の凱旋門賞への動きも、すべて“筋書き通り”に進めている。姉上をローランの下に置いたのも、元トレーナーの情報を遮断したのも、最初からすべて計画のうちだったんだ」
声にならない怒りが胸中で渦巻く。
「おっと、姉上を利用したなんて思わないであげてほしいな。だって姉上も間違いのない実績を持つトレーナーがついたんだから、ウィンウィンの関係どころか、僕たちの誰もが勝者じゃないか」
間違いのない実績と言われ、ジェンティルは首を横に振る。
「いいえ、あなたにはわからないでしょうけど、あの男はトレーナーじゃないわ。事前に練られた計画など、先にシミュレートされたものなら一流のそれだけど、突然の質問にはほぼ答えられない。答えても一般の素人と何も変わらない」
「うん? それだけで疑っているのか? 姉上のフランス語のニュアンスや、日本のウマ娘の考え方が欧州と違うことだってあり得るだろう」
「それだけじゃないわ! 度重なる不快な言動の数々、本当にトレーナーとは思えないほど常識がないのよ」
感情を露にして声を荒げるジェンティルに、弟は再度肩を大きく上げて溜め息を吐く。
「姉上様は、いつから"天才"に"常識"を求めるようになったんだ?」
「……言っている意味が分かりませんわ」
「なら教えてやる。天才に常識など通用しない。常識では測れない、それこそ才能溢れるジェンティルドンナの代名詞でもあったはずだ」
「最低限のモラルのことを言っているのよ。そのようなモラルさえ欠けている人間に、わたくしのトレーナーにはふさわしくありませんわ」
「一般人である元トレーナーが基準すぎるよ姉上。歴史上、王や皇帝である人物の多くに常識やモラルがあったと思うか? 多くの者の上に君臨する覇者に常識を求めてモラルを問うのか。まさか剛毅なる貴婦人が、ここまで一般トレーナーに心を奪われていたとはね」
「……それは、わたくしに対する侮辱と受け取ってよろしいかしら?」
ジェンティルは歯噛みする。
「事実を言ったまでだ。僕らからすれば、実績がきちんと過去10年の公式記録が残っているのだから本物のトレーナーとしか思えないよ。姉上が何を感じているのかは、姉上の印象でしかない」
「なら今からでも調べては――」
「調べなんてとっくについている。何も問題ない。ローラントレーナーは紛れもなく、凱旋門賞を4度制覇した天才トレーナーだ。元トレーナーと比較して、姉上が凱旋門賞を制覇するのにふさわしい担当トレーナーはどちらかなんて、この世界の全人口に聞いても姉上1人を除いて、ローラントレーナーを選ぶだろう。なのになぜ姉上は、あのトレーナーに固執するんだ?」
それはもっともである、とジェンティルは自身の頭が冷静なのを確認しつつ考える。
だが、そうじゃない。
決して、……そういうことじゃない。
「あなたには、分かりませんわ」
固執なんてしているつもりはなかった。
ただウマ娘として、ジェンティルドンナとして。
最強に至るための、最適なカードを手に入れて……。
「はぁ……、どうやら姉上は、元トレーナーの下にいた期間で変わってしまったようだ。まるで、夢見る乙女のようなロマンチストだな」
「なんですって……っ?」
言われた言葉に、ジェンティルは凄まじい圧を発する。
明らかに不機嫌になった低い声が、その場を支配する。
だが目の前の弟はそんな圧にひるむどころか、するりと抜け出して茶化すように告げる。
「だってそうだろう? 10ヶ月もの間、自分の担当した相手が別のトレーナーと世界を獲って、その後きっとまた、快く受け入れてくれると思っていたのか? さっきも言ったが、表面上は歓迎して喜んでくれたとしても、心のなかではどう思うかは明白じゃないか。それとも、彼なら一緒に喜んで、ジェンティルドンナってやっぱりすごいなーって思ってくれるほど、お人好しなのか」
「……」
「選択肢はあった。でも姉上が選んだ道は、彼を守るために自分が離れる道だ。だったらなおのこと、本来の姉上に戻れる今の形になってよかったじゃないか。姉上は選択肢を間違ってなんかいない。姉上――ジェンティルドンナは、常に強者たる道を歩んできた」
「……目的のためにもっともよき手段をとるのは当然のこと。私は、常にそうしてきた。あの人を選んだのも……そう」
「ああ、そうだろうね。姉上はいつもそうだったよ。姉上がこれほどまでのウマ娘になったのは、元トレーナーさんの尽力あってこそだ」
それは、聞いたことのあるセリフだった。
ジャパンカップ連覇後、父親が元トレーナーとジェンティルを呼び出して、彼に辞めていただきたいと通告した時に……。
「正直、元トレーナーさんは新人ながらに凄いとは聞いた。でもそれは担当ウマ娘がジェンティルドンナだったからだろう」
否定はできない。
ジェンティル自身も、トレーナーの力だけで偉業を成し遂げたとは思っていない。
すべては自分が成しえたことであり、トレーナーというカードを上手く利用し、上手くハマっただけのこと。
そう、それこそ歯車のように。
「だから父上は言ったんだ、あのトレーナーに。ここまでだ、と」
父親の言葉を借りて、椅子から立ち上がった弟は、ジェンティルの周りを歩き出す。
「世界を進むなら、その先を行くなら、その先を知る者が導くべきだ。そんなの何十億の人間やウマ娘に聞いたって、僕や父上と同じ答えを出すに決まっている」
立ち止まり、窓に目を向ける。
ジェンティルもその姿を目で追うと、少し離れたパリの街並みが窓から見えた。
「姉上。諭すようで申し訳ないが、もう未来は決定した。過去には戻れない。今、父上を探し出し、契約書のことを問い詰め、10か月後に元のトレーナーさんの元へ戻るか?」
できることならそうしたい。
しかし……。
「そんなことをしたら、ローラン一派がそれこそ元トレーナーさんを人質にして脅してくるかもしれない。大事な人を、そんな危険な目に合わせたいのか?」
良いわけがない。
危険な目に合わせたくないから。
目をつけさせたくなかったから。
わざわざ、ローランと契約してフランスまで来た。
「僕の部下たちは優秀だ。これまで元トレーナーさんに何か危害が加えられるような様子はなかったものの、常に24時間張り付いている。これからも必ず、僕の名前に賭けて守ってやる。もちろん彼に気づかれないようにはするが」
弟は窓を開けると、夜風が部屋の中にすぅっと入ってくる。
その涼しさは、熱くなっていたジェンティルの体を冷やしていった。
「姉上、僕たちは学園にいるような一般市民とは違う。一族のために力を示して、さらにもっと力を手に入れていかねばならない。僕もそうだ。そのためのプロジェクトだ。姉上も他のウマ娘と交流を深めて、一般市民の気持ちを経験できたことは良かったと思う。でも、同じ道は歩けない」
心の中に、弟の言葉が刺さっていく。
なんとか反論しようと考えるが、今までと何も変わらない、当たり前のことを言っている家族の言葉を、黙って聞いているしかできなかった。
「情に流されちゃいけない。父上が常々言っていることだろう。それは相手に申し訳ないからとか、相手のことが心配だからとか、そう言う意味だけじゃない。己の心を律し、己の感情に流されず、常に最善の選択をとり続けないといけないんだ。時には誰かに恨まれることもあるだろうけど、人の上に君臨するということは、そういった責任さえ全て背負わねばならない。姉上は何も背負っていない。元トレーナーさんの存在に甘えているロマンチストな子供だ」
そう言いきられて、ジェンティルは静かに唇を噛む。
否定はできなかった。
そもそも凱旋門賞に挑む目的はローランと契約したからではなく、ジェンティルドンナが世界を制するためであり、自分自身の目標だ。
元トレーナーを守りたいと思ったことも間違いではない。
もし仮にローランが偽者のトレーナーであっても指導自体は完璧、問題なのは突然の質問に答えられないことと、……モラルがないことだけ。
「少し夜風に当たって、頭を冷やすといい。僕は事務処理があるから、自分の部屋に行くよ。父上の部屋からは必要な資料のまとめを頼まれていてね。別荘の部屋は好きに使ってもいいとのことだ」
そう言って、弟は重厚な扉を閉めて、出ていってしまった。
1人残されたジェンティルは弟の言葉を反芻し、その場に立ち尽くす。
(間違っているのは……他でもなく、元トレーナーのところに戻ろうと考えていたわたくし……ということ?)
感情を抜き去って考えれば、弟に言われるまでもなく、そんなことは自分でもすぐに気づけただろう。
しかし心がそれを許さない。
戻れないなんて、認めたくない自分がいる。
そんな我儘な感情に気づいたジェンティルは誰に向けるでもなく、小さく苦笑した。
(彼を“守るため”……。そのためにわたくしは、彼の下を離れないといけなかった運命だったということかしら。あの男に目をつけられた瞬間から――)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
時は遡って4か月前。12月3日のこと。
ジェンティルドンナは、再度父親に呼ばれた。
それはジャパンカップを連覇した後、元トレーナーに対し父親が辞めていただきたいと申し出た、2日後のことだった。
「ジェンティル、この方が世界を知るトレーナー、ローラン・ジレーヌ殿だ」
「初めまして。ジェンティルドンナ嬢。ローラン・ジレーヌと申します」
屋敷の来客用の部屋にて挨拶してきた男、ローラン・ジレーヌ。
彼こそが父親の推薦する世界的なトレーナーであり、過去10年で凱旋門賞を4度制覇した実績を持つという。
「どうも初めまして。ジェンティルドンナですわ。それで、お父様? 顔合わせということだとは思いますが、少し早すぎるのではなくて?」
まだ今のトレーナーから返事をもらっていない現状で、すでに新しいトレーナーと顔合わせまで組まれていたことに、ジェンティルも訝しんでいた。
まるで契約解除は、決定事項であると暗に言っているようなものだ。
「ジェンティル、今のトレーナー殿には申し訳ないが、やはり誰の目から見ても彼にトレーナーを担当してもらうべきだろう。彼の返事はまだだが、返事を待たずとも、彼はきっと承諾してくれるはずだ」
予想は当たっていた。
過保護な父親のことなので、気が急いてしまったのだろうとジェンティルは思った。
「ジェンティルのことを1番考えれば、彼は自ら身を引いて、世界を知るトレーナーに託すべきだ。そうは思わんかね?」
「一般論としては正しいかもしれませんわね?」
「ジェンティルよ、このローラン殿となら、お前は世界を獲れるだろう。彼は政財界にもコネがある。欧州トップレベルのウマ娘だけが使える、一流設備を使うことだって容易だ。現地でのトレーニングを積んで、凱旋門賞制覇は着実なものとなる」
「アハハハハ! なるほど? お父様のご意見は理解しました。しかし――お断り申し上げます」
ジェンティルはいつものように笑い飛ばし、口元を笑みの形に変えて深々と頭を下げる。
「なぜだ? 今のトレーナーに情でも湧いているのか」
「クス、いいえ、そのような話ではありませんわ。まず第1に彼の答えをまだ聞いておりません。当事者である彼は今、どうするべきか悩んでいる。悩み、考え、行動し、そして必ず答えを出してきます。"よりよい返事"をお待ちになっているのであれば、それまで待つのが筋ではなくて?」
「だがこちらは世界的にも実績のあるトレーナーだ。もちろん彼の尽力もあってこそだろうが、お前のゆく道だ。ジェンティル、お前は彼の所有物ではないのだから、お前の意思で決めるべきではないか? お前自身が契約破棄を申し出れば、彼は必ず首を縦に振るだろう」
「仰る通り、彼ならそうするでしょうね。でもそれはわたくしに、一方的な契約破棄を薦めていらっしゃるということ。さすがにここまでわたくしと共に歩んできた彼に対し、あまりにも無礼でしょう」
「ジェンティル、それは情だ。情に流されてはいかん」
「違いますわ。わたくしは、常に目的のためにもっともよき手段をとってきた。今回も、それは変わらないだけ。実績があれども、それだけでホイホイトレーナーを変えるつもりは毛頭ありません。お話はこれだけ? わたくしは忙しいので、これで失礼させていただきますわ」
「ジェンティル……!」
父親が呼び止める声が後ろから聞こえるが、ジェンティルは振り向きもしない。
そのまま部屋の扉に手をかけて開けようとしたところで、ローランが声をかけてくる。
「では聞くが、ジェンティルドンナ嬢はトレーナーの実績のみでは判断せず、今のトレーナーが出した答え如何によっては、彼を選ぶというのだね?」
「可能性があるとだけ申しておきますわ」
その質問には、最低限の礼議として顔だけ振り向けて答える。
ローラントレーナーの表情は見ていない。
「それは少し、プライドが傷つくな。すでにトレーニング計画の大筋は示したはずだが」
「ええ、拝見いたしました。確かに完璧で、非の打ち所はない。でも、生憎とそれだけでは判断しませんの。もちろん、今のトレーナーがこのまま頷くのであれば、わたくしはその決定に異を唱えることはありませんわ」
ジェンティルの口ぶりは、今のトレーナーがそう簡単に頷くとは思っていないニュアンスを含んでいた。
おそらくそのことは、父親やローランにも伝わっただろう。
ジェンティルは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、その場を後にする――つもりだった。
「正直、今の段階でも断られるとは思っていなかったが、ジェンティル嬢。差し出がましいことを言うが、そのトレーナー殿に自分の担当を続けてもらいたい期待が、あなたには垣間見える」
扉を開けようとする手が、ピクリと止まる。
「そう見えたとしても結構ですわ。わたくしはわたくしの信念に従って――」
「もしもの話だが、そのトレーナーがいなくなれば、君はどうする?」
「……、どういう意味かしら?」
「他意はない。質問しているだけだ。そのトレーナーが例えば、……事故や事件に巻き込まれたら、君はどうする?」
ジェンティルは余裕だった顔色を一瞬で変える。
目つきは鋭く、強く不機嫌さを表すものへ。
「質問の意図がわかりかねますわ。お父様、このような乱暴な方にうちの敷居は高いのではなくて?」
扉から手を離して、父親に諭す。
このような発言をするトレーナーなど、早々に帰ってもらうような意を込める。
「ジェンティル、彼は他意はないと申している。乱暴な、ということは、彼が何かをするつもりだと考えているのかね?」
しかし父親はなぜか取り合わない。
そのことがジェンティルをさらに苛立たせる。
「私は世界的にも実績のあるトレーナーだ。そんなことをすれば悪評が立つし、そんな恐ろしいことをするわけがない。まぁ言い方に誤解があったようですな。訂正しましょう。そのトレーナーが、君を諦めると言えば、君はそれを認めるんだね?」
正直に言えば、ローランの声さえ聴きたくなくなっていた。
座った目を相手の男に向けつつも、手は前で揃えて、あくまでも丁寧な姿勢を崩さない。
それは、決してあなたには心を開かないという意思の表れだった。
「お前にとっても悪い話ではない。むしろ良い話のはずだ。何を拒む必要がある? やはり、あのトレーナーに入れ込んでいるのか」
「お父様こそ、何を考えていらっしゃいますの?」
父親には怪訝なまなざしを向け、その真意を探る。
「お前のことを考えているのだ。今回の話が、少し優秀程度のトレーナーからのものなら当然断っていた。だが今回は違う。こちらから依頼せずとも、世界的なトレーナーから直々にお前を担当したいと申し出てきていただいたのだ。何が不満なのだ。レースの世界でも最高峰の凱旋門賞で、幾度も担当したウマ娘を優勝に導いてきたトレーナーなのだぞ? 再三言うがジェンティルにとっても悪くないどころか、素晴らしい話ではないか」
言っていることは分かる。
だが、今の発言からローラントレーナーがどういう人物かはだいたい分かった。
目的のためには手段は選ばない。
ジェンティルももちろん、手段を選ばないことはあるが、あくまでもそれは自分に対してのみだ。
他の人間を、浅ましくも力でコントロールしようとするような人間には、軽蔑の目を向けない理由はない。
「まぁいきなりですから、急に決めるのも難しいでしょう。ではこういう条件はいかがでしょうか。来年の凱旋門賞にて、ジェンティルドンナさんを必ずや優勝させてみせます。ですからたった10ヶ月の契約ということで。それなら、その後に元のトレーナーの下に戻ることもそこまで難しくないでしょう」
「ほうローラン殿、それは短期契約の短期移籍、ということですかな?」
「そうなります。もちろん今のトレーナー殿にも話を通さねばなりませんが、ご納得いただけますかな?」
ジェンティルがさらにいっそう睨みつける。
勝手に決めるな。
そう声を出そうとした時、それを察してか父親がさらに口を挟む。
「それに関してはこちらが何とかしましょう。ジェンティルが結んでいる契約なのだからこちらが行うのが筋ですからね」
「ありがとうございます。さすがお父上、お話が早い」
「お父様、お待ちになって。何を勝手に話を進めていらっしゃるの?」
それからしばらくのあいだ、父親とジェンティルの口論が続いた。
だが言葉を交わすたびに感情がぶつかり合い、話は平行線を辿るばかり。
やがて、ローランがふと高級腕時計に目をやり、落ち着いた声で言った。
「夕方にはフランスへ戻らなければなりません。ですので、それまでにお返事をいただけますか?」
彼の言葉は、猶予であると同時に、暗黙の圧力でもあった。
答えは決まっている、とその場で言い放ちたい欲求を抑えて、部屋に戻った彼女は静寂の中で一人きりで考える。
当然だが、今のトレーナーに相談などできない。
彼のことだから、そんな話になっていると知れば、絶対に離れないと言うだろう。
それこそ彼を、大きな危険にさらすことになる。
(厄介な相手に、目をつけられたものね)
父親から聞かされた話では、ローラン一派は政財界にもいくつかのコネがあるという。
たった一人のトレーナーを排除するくらい、そう難しくはないだろう。
ジェンティル自身がずっと彼を傍に置いておけるならまだ安心だが、父親があの様子では、一族の力を借りることもできない。
今のトレーナーのこと、これからのこと。
答えを出すには、あまりにも時間が足りなかった。
頭の中を整理する。
ここで重要なのは2つ。
世界に力を示すこと。
そして、今のトレーナーを護ることだ。
(10か月……、その期間だけ、彼の下を離れる。そう考えれば……)
選ばなければならない。
やがて、与えられた猶予の時間が過ぎようとしたところで、ジェンティルは再び客間の扉を開く。
重たい足取りだった。
足は迷いながらもまっすぐにローランの前へと進み、決意を宿した瞳を向ける。
「答えは決まったかな、ジェンティル殿?」
ローランが穏やかに問いかけてきた。
「……あなたに、10ヶ月間協力すれば、わたくしのトレーナーに何もしないと約束していただけますかしら?」
声が詰まる
喉がひっつく。
だが、たった10ヶ月間。
一時的に彼の下を去るだけだと考え、それを希望に言葉を紡いだ。
「もちろん。まぁそもそも何もするつもりはありませんでしたが……協力していただけるのなら、それこそ100%何も起きることはありません」
その物腰は柔らかく、それだけに、どこか不気味でもあった。
“協力しなければどうなるか”など、ひとことも言っていない。
けれど――言わなくても伝わる。
他人が聞けば、彼女の深読みだと笑うかもしれない。
だから、それを訴えたところで意味はない。
それに、唯一対抗できそうな父でさえ完全に向こう側の人間であり、ジェンティルに味方する者はいなかった。
それでも。
(それでも、彼を守るためなら、わたくしは――演じるしかない)
ジェンティルは静かに目を閉じ、震える指先を握りしめながら、決意の言葉を口にした。
「ええ、よろしく……お願いしますわ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
父親の部屋の隣にある大広間から、バルコニーに出たジェンティルは、その時のことを思い出しつつ、夜のパリの街並みを眺めていた。
漆黒の夜空には無数の明るい星が瞬き、都会の空とはまた違う様相が見える。
(お父様が契約者本人の意思に反して解除を申し出た、と報告すれば、確かにトレーナー側も学園側もそれは問題だとして、元のさやに戻ることはできるでしょうね。だけど、おそらくお父様の思惑とローランの求めるもの、その利害が一致している今、やはり悪手となる)
夜風を浴びて、ジェンティルは髪の結び目を解く。
ドーナツのような円形に束ねた髪が、するりと重力に従う。
彼女のふくよかな胸に沿って流れるように落ちた髪は、柔らかな質感が見て取れる。
(ローランの目的は、このわたくし……)
あの男にとって、5度目の凱旋門賞制覇。それを達成できる、もっとも可能性の高いウマ娘として選ばれた。
しかしそれだけで、はない。
あの男の言動や視線を感じれば嫌でも分かる。
ジェンティルドンナという存在。
その肉体、その力、そして――その血脈。
髪を夜風にたなびかせ、彼女は遠い日本の地にいる彼に、淡い想いを馳せる。
(確かに甘かった。そもそも、戻れるなんてなぜ思っていたのかしら? わたくしが、ただそう望んでいただけに過ぎないというのに)
10ヶ月の契約で帰ってくれば、あの人なら待ってくれている。
それが当然だと思っていた。
(仮に10ヶ月で戻って来ると伝えても、結局わたくしは彼よりもローラン陣営を選んだ風にしか映らない……)
どちらにせよ、自分のことをあれだけ真剣に考えて、あれだけ懸命だった彼を裏切るような行為でしかなかった。
(おそらく、政財界の方々の目を気にしたインタビューを見たのなら、わたくしのことはとんでもない裏切り者に見えているでしょうね)
しかしそう考えれば、彼がヴィルシーナと組んだことは結果的に良かったのかもしれない。
奇しくも、自分の傍から離れ、その自分を倒すと宣言し、完全に敵対する形となったのだ。
ローラン側からしたら、ジェンティルドンナが戻る場所を失ったと映っており、元トレーナーをダシにすることもできなくなった。
もし彼に何かあれば、真っ先に疑われるのは彼を邪魔者として排除したジェンティルドンナ陣営、もといローラン一派となる。
(わたくししか担当したことがないあの人と、わたくしに何度も敗北を喫したシーナさんとの組み合わせは、おそらくお父様やローランたちには何の懸念もしていない。それどころか、別の担当ウマ娘を連れてレースに出てくれた方が後腐れがないと、喜んでいるかもしれませんわ)
あの彼――元トレーナーは、もしかするとそういう運命の下に生まれたのかもしれない。
ジェンティルドンナを育てあげ、今度はそのジェンティルドンナ陣営を倒す立場にいるのだから。
(どういういきさつかは分かりませんが、ヴィルシーナさんはおそらく、わたくしに対する勝利を目指している。そしてあの人――元トレーナーは、きっとわたくしや父に対する復讐、あるいは、担当を変えたのが間違いだったと証明しようとしているのかしら? あの目は、……そんな気迫を感じた)
記者会見で見たあの瞳の奥は、自分を倒す覚悟で溢れていた。
それはヴィルシーナの頂点への道であり、元トレーナーの再起への道でもあるだろう。
(次にあなたに会うときは、わたくしは……あなたの前に立ちふさがることになる)
もちろん勝ちを譲るつもりはない。
本来、世界に力を示す目的としては、凱旋門賞で勝利を目指すことは変わらない。
しかしこんな数奇な巡り合わせになるとは予想だにしていなかった。
(ヴィルシーナさんのために尽くす彼と、その彼のためにお弁当を作るヴィルシーナさん……。あなたの隣は、以前までわたくしの場所だったのに……もう、戻れないなんて)
いつもなら彼の隣にいたのは自分だった。
なのに、今は他のウマ娘、しかもあの彼女が仲睦まじく占領している。
会見中だというのに、あの仲の良さを思わせる雰囲気は尋常ではない。
まるで新婚ホヤホヤともいえるほんわかとした間柄が垣間見え、ジェンティルの心をざわつかせる。
胸の奥で鈍痛が襲ってくる。
あの場所は、ローランに目をつけられなければずっと自分のものだったはずなのに。
心が、かき乱される。
思い出すだけでも苦しくなってくる。
(わたくしは彼を守るために……この道を選んだ。選んでしまった……。あなたのためにと選んだのに、なぜわたくしは、あなたの傍にいることができないの……)
胸に手を当てる。
もちろん、今になって他の道があったかと言えば、残念ながら思いつかない。
選ばざるを得なかった。そう考えるしかない。
会見時に、きゅっと締め付けてきた"答えの出ない感情"を、心の深い場所に押し込めていく。
もう戻れない。何度もそう言い聞かせるしかなかった。
自分のかつていた場所は、ライバルであった彼女がすでに座っている。
(今後を左右する会議も、元トレーナーがヴィルシーナさんを連れて、凱旋門賞に参戦したことを受けてのもの。そう考えるのが自然)
父親も、きっとこのようなことになるとは想像もしていなかったのだろう。
(お父様は力を手に入れるために何でも利用してきた。今回はローラン一派の力を手に入れようとしていて、そのためにはたとえ家族であっても、実の娘であっても、利用したって何もおかしなことはない。ましてやローラン本人が、世界的なトレーナーとして崇められているのだから、お父様にはこれ以上ない好条件だった)
彼女は、一瞬だけ目を瞑る。
(そして今、力を示すのに最適な好敵手が現れたとなっては、むしろそれを踏み台にすることを考えているでしょう。でも、もし彼が勝利しようものなら、どのようなことをするかは想像がつく。まさか彼を守ろうとした結果がこんな巡りあわせになるなんて……)
父親の思惑、ローランの目的。元トレーナーとヴィルシーナの凱旋門賞への挑戦。
細い糸を通すかのように巡り合わせられた、数奇な運命。
あのシスターが言っていたように、自分の運命は、本来あるべき道から大きく外れているのだろう。
だがそれはあまりにも理不尽で、残酷だった。
まるで神のいたずらか、自分の運命が恣意的に操作されているようにさえ思えた。
「クク……、ハハッ、アハハハハハハッ!!」
ジェンティルは狂ったように笑い、夜の闇にその声が響き渡る。
ここまで自分を翻弄するこの運命に対し、心の内から溢れる怒りに包まれた。
口角が勝手に上がっては、自分を追い詰めた家族とローランが闇の中にいることを想像し、ただ告げる。
「ああ、可笑しい……っ! わたくしを思い通りにしようと、お父様たちも随分大胆なことをなさりましたね? 世界的なトレーナー? 政財界のコネがある? ホホホ、わたくしの本来いたはずの場所を失わせ、大事なカードを奪ったあげく、わたくしをカードとして利用したかったのかしら? それでわたくしが従順になると思って?」
凱旋門賞の前哨戦、フォワ賞にて圧倒的な勝利を目指す。
そして凱旋門賞の制覇にて世界に力を示す。
しかしそれだけでは足りない。
「今度はこちらがあなた方を利用して差し上げますわ。手始めにローランの正体を暴きだし、それを追求するところから始めましょうか? 弱みを握られているなら、こちらも弱みを握ることで対等とまではいかずとも、その差は縮まるはずですもの」
クック、とジェンティルは笑みをこぼす。
(1つ懸念なのは……鉄球を圧縮しようとし破砕してしまったこと。力のコントロールが少しおかしくなっていますわね……。ま、おそらく一過性のものでしょうけど、しばらくトレーニングを続けていれば直るでしょう)
手をグー、パーと握ったり開いたりを繰り返しつつ、彼女は今あるカードをどのように使うかの算段を立てる。
「わたくしのやることは変わらない。利用される分、利用して差し上げます」
赤き貴婦人の瞳が、月明かりを反射して妖しく光る。
手を腰より低く広げ、静かに、しかし堂々と強者の構えを取る
まるで闇の中から獲物を見下ろす百獣の王のように嗤う。
その笑みはただの嘲りではなく、己の運命すら飲み込み、全てを蹂躙する者としての誇りとプライド、そして狂喜に満ちていた。
静かに。
深く。
獰猛に。
白い歯を覗かせたその笑みは、夜の闇さえ怯む――
「この脚で、この力で、くだらない謀略も、くだらない運命も! 何もかも蹂躙してみせますわ!」
悲痛な声をひた隠すような、美しき咆哮となるのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
彼女が再びタクシーを呼んで別荘からホテルへ帰っていくのを眺めながら、ジェンティル弟は密かに父親と連絡を取っていた。
「父上、ジェンティルがこちらに来ました。元トレーナーが凱旋門賞に乗り込んでくることを記者会見を見て知ったようで、彼との契約のことを聞かれました」
「そうか……契約の完全な破棄について、知ってしまったということだな」
ジェンティルの乗るタクシーが停車で後ろのランプが光るのを眺めながら、弟は静かに告げる。
「ええ、隠し通すのも不可能だと思い打ち明けました。申し訳ありません」
「構わん。いずれは知ることになる。このタイミングではなかったがな……、元トレーナー殿がまさかジェンティルを倒しに乗り込んでくるとは、正直に言って想定外だった」
だが父親の声は冷静だ。
激高したり慌てていたりする様子はない。
「すでにご存じかと思われますが、クラシック戦線でジェンティルに何度も後塵を拝していたウマ娘です。名前は――」
「ああ、ヴィルシーナといったな。直近の成績では、春のG1大阪杯にて、3冠オルフェーヴルを倒したそうだ」
「オルフェーヴル……確か2度も凱旋門賞で2着になったあのウマ娘ですよね? ……我々の計画に大きな狂いが生じるのでは?」
「そのことでローランたちと話をしたのだが、勝利する自信はあるようだ。ヴィルシーナもオルフェーヴルも、ジェンティルがかつて幾度も倒した相手だと言ってな。……安心したよ」
ヴィルシーナはクラシック戦線やシニア級で言わずもがな。
オルフェーヴルも一昨年のジャパンカップと去年の大阪杯で勝利している。
そのどちらも元トレーナーが担当している時だが、その時点でのジェンティルよりも、今の方がはるかに実力は上のはず。
そして、ローラントレーナーの実績を鑑みれば、勝利は盤石と言いたいのだろう。
「では、今後の計画にも問題はないと」
「ああ、その結論に至った。向こうもこちらをかなり信頼してくれている」
弟は小さく頷きながら、元トレーナーの動向について報告する。
「では次に、元トレーナーですが、部下からの情報ではおそらく7月後半にこちらへ来るようです」
「7月後半か、それは好都合だ」
「ええ。それから、彼らを援助するのはプロジェクトL'arc――、その支援団体に、サトノ家が確実に協力する模様です」
「フランスの芝を再現できるVR施設の開発処だったな」
「はい、他にもシンボリ家やメジロ家、噂ではダイイチルビーというウマ娘を輩出した華麗なる一族、などなど名家に支援を求める声がかけられています」
「その声をかけている人物は?」
「佐岳メイ。URA学園強化部門所属、プロジェクトL'arcにおける現場責任者です」
「……ふむ。今は放っておこう。どこかの名家が参加するような、大きな動きがあれば伝えてほしい」
「了解しました」
「ところで、ジェンティルの様子はどうだった? 問題があるとすればジェンティルの動きだ」
「怒り狂いそうになっていましたが、情に流されていることや元トレーナーの下にどのように戻るかなど現実的な話をしたところ、ある程度は飲み込んだようです。しかし、ローラントレーナーに対する不信感があったため、そちらには何か動きを仕掛けると思われます。ジェンティルが何を考えているかは、父上なら予想がつくでしょう」
「そこは奴の手腕にかかっているな。まぁ、万が一にもあの子が彼の強さの秘密を知ったとしても、凱旋門賞まで残り半年と考えれば大きなことは何もできないだろう。ジェンティルの目的は、凱旋門賞での勝利だ。登録もすでに済ませてあるし、ましてやレースでの勝利を譲るなんてことはない。秘密を知ったとて、結局はその力を利用せざるを得ないはずだ。ジェンティルなら、必ずそのカードを選ぶ判断を下すだろう」
「しかし、ジェンティルが我々へ意趣返しをする可能性もあるのでは」
「そうだな、だがそれでも計画に大きな狂いはない。念のため監視は続けろ。もしそのような兆候が見られれば、報告してくれ。私の部下たちも今のうちにお前の指揮下へ回す」
「分かりました。では最後に……"彼の護衛"の数は、いかがいたしましょうか」
弟が聞くと、それについては父親は、迷うことなく告げる。
「うむ。念のため、数は3倍にしろ。絶対に奴らを近づけるな」
多くの方に懸念されているかもしれませんが、ジェンティルドンナはハッピーエンドを迎えますので今はどうかご容赦を