蒼と紅の炎   作:荒波を征く湯気

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第9話 欧州列強と領域の圧力

 4月上旬、日本・東京――トレセン学園。

 大阪杯を勝利し、晴れて凱旋門賞への出場切符を手に入れたオレとシーナは今日もトレーニングに励む予定だ。

 数日前に記者会見も無事に終えたし、これで凱旋門賞に向けて集中できるかと思いきや、そう簡単には行かないのが世の常らしい。

 

 

「あの! トレーナーさん、一言お願いします!」

「こちらにも一言!」

「ジェンティルドンナさんとは何があったんですか!?」

「契約破棄の真相を、教えてください!」

 

 

 凱旋門賞に出場するヴィルシーナを放って、まさかのオレへの取材が殺到していた。

 学園の門の前には相当な人だかりが集まっていて、学生たちも遠巻きにそれを眺めて困惑している。

 

 理事長がウマ娘たちへの配慮を求めたり、取材も明確に断ったりしているのだが、あの人たちも仕事なんだろう。

 まぁさすがに柵を乗り越えて敷地内に侵入しようとするのはやりすぎだと思う。

 他の生徒や先生、トレーナーたちに申し訳ないので取材を受けようかとも考えたが……わざわざ傷を掘り返す必要もないし、一度受けたら骨の髄までしゃぶられるとのことで、秋川理事長から止められている。

 

 

「ごめんシーナ、オレのせいで……」

「トレーナーさんのせいじゃないですよ、あの人たちはただセンセーショナルな記事を書きたいんでしょう」

 

 

 シーナと一緒に彼らの様子を遠巻きに眺めている。

 常駐の警備員さんやたづなさんも出てきてなんとか抑えてくれているが、ここ数日はこの調子。

 会見では大人しかった記者たちだけど、オレがジェンティルを倒すなんて言ったからか、盛り上げる記事を書こうとして、ジェンティルとオレの間に何があったのか聞きたいのだろう。

 当たり前と言っちゃ当たり前だが、マスコミのしつこさは噂以上だ。

 

 

「だけど、ずっと疑問に思っていたんです。ジェンティルさん、どうして契約を破棄なんてって……」

 

 

 シーナはお昼の弁当を持ちながら、オレの横を歩いている。

 歩くスピードを合わせて寄り添ってくれているが、やはり彼女もその辺りは疑問に感じているようだ。

 これまではオレが落ち込まないよう話題にしないよう気にかけてくれてたんだろうな……。

 でも今なら答えられる気がする。

 心配してくれているシーナ本人が、オレを勇気づけてくれたし。

 

 

「移籍先のトレーナーは、世界的にも優秀だし、その方が世界へ挑むには確かだからさ。ほら、やっぱり経験があるのとないのとでは大違い。ジェンティルって感情より実利を優先するタイプだし、お父さんや家族も、そういう感じだった」

 

 

 思い出すと心にくるものはあるが、4ヶ月前に比べれば冷静に物事を見れている気がする。

 あの当時はジェンティルと離れたくない気持ちもあって、どうしようかと考えた。

 自分なりに答えを見つけようと有馬記念への出場を考え、オルフェーヴルを焚き付けることを考えたり、中山のコースに完璧に対応させるために調べ始めたりしてから、すぐ。

 あの書類が送られてきたんだ。

 一方的な契約破棄の紙が。

 

 

「直接、ジェンティルさんの口から聞いたわけではないんですよね……?」

「まぁね……。でもあの4ヶ月前の会見を見れば……ハハ」

 

 

 ジェンティルの真意は聞かずとも、テレビで見た契約解除後の自信満々の顔や、オレなんかのことを微塵も気にかけていない態度から想像できる。

 だが、それが常に最強への道に【最適なカード】を選ぶ彼女の生き方なのだろう。

 常々、オレが走りに惚れたウマ娘ジェンティルドンナが言っていたことだ。

  

 

「……い、今は、私がいますから!」

 

 

 シーナが立ち止まって、見つめてくる。

 ジェンティルのことを思い出して、辛そうな顔でもしていただろうか。

 だけど、本当にオレは恵まれている。

 心の隙間を埋めるように彼女がすぐに現れて、一緒に見返そうって言って手を取ってくれた。

 彼女がいなかったら、今頃実家に帰っていたかもしれない。

 

 

「そうだな、今はシーナがいるから、寂しくなんてない。とりあえず今日の午後からは、海外のウマ娘との合同練習だ。気合入れていくぞ!」

「はい!」

 

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 というわけで、オレたちはメイさんが呼んでくれた海外ウマ娘との合同練習に向かった。

 サトノ家が運営するVR施設で仮想空間にて行われるそうだ。

 

 施設に着いて車を降りると、またもあの2人が出迎えてくれた。

 

 

「クラウン、ダイヤ、お疲れ様。今日もVRを使わせてもらうよ」

「你好、トレーナーさん! すでに準備はできているわ、メイさんからも話は聞いてるから、サポート体制も万全よ♡」

 

 

 仕事のできるウマ娘サトノクラウンのウィンクを受けながら、VR機器のある大広間に通される。

 オルフェーヴルが使うことは今後の予定ではないらしく、ほとんど貸切状態である。

 

 

「ああ!? 電源いれるの忘れてた!?」

「クラちゃん……あれだけ自分で言ってたのに」

 

 

 と、少女らしくどこか抜けているクラウンの慌てぶりに微笑ましさを覚えつつ、オレとシーナはお互いに頷く。

 

 

「この先に、海外のトップレベルのウマ娘がいるんですね……」

「うん、去年の覇者ヴェニュスパークも待ってくれている」

「ええ、行きましょう」

 

 

 クラウンが電源を入れてくれて、機器が稼働する。

 オレたちはカプセルの中に寝転ぶと機器が閉まり、透明なガラスの向こうからサトノ家のホープたちに見送られる。

 

 

「行ってらっしゃいませ、お二人とも」

 

 

 VRの中へと意識が入りこんでいくと、宇宙のように暗い闇の中を、あらゆる色の光が視界の後ろに流れていった。

 その速度が少しずつ速くなっていって、視界が一気に開けたかと思えば、フランスの街並みとともに世界遺産の凱旋門が見えた。

 

 そびえ立つ巨大な建築物を観ながら、芝の地面に降り立つと、草の香りやその土の感触まで感じられて非常にリアル。

 ロンシャン競馬場を完璧に再現したとあって、何度ここに来てもフランスにワープしたような感覚さえある。

 

 

『ハーイ、こんにちは。やっと来たネ!』

『あれが金ピカを倒した日本の女王ですの? ふーん?』

『……全身の筋肉の、連動率……高そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない……』

 

 

 声が聞こえた方を向くと、何人かのウマ娘たちがいた。

 メイさんから受け取った名簿の記憶を、頭の中で急いで照らし合わせる。

 

 

「ウォ-レアンハーツだよ、よろしくネ! Year!」

 

 

 金色の髪が陽光を反射してきらめき、健康的な笑顔を見せるアメリカのウマ娘。

【ウォーレアンハーツ】――アメリカG1をクラシックとシニア級で1勝ずつ収めた名を持つ者。

 背丈は178cmの俺とほぼ同じ高さで、なぜか手にはバスケットボールを持っている。

 

 

「エンシュヴィヒト、みたいなウマ娘、です……。よろしく……してほしかったり、なかったり」

 

 

 次に声を発したのは、少し影のある柔らかな声音だった。

 茶髪のおさげ髪に眼鏡をかけていて、観察者のような目でこちらをじっと見つめている。

【エンシュヴィヒト】――ドイツのG1でシニア級3勝の実力者。

 160cmという平均的な身長だが、その独特の喋り方と視線の奥にある知性が、彼女を“研究者”のように感じさせる。

 

 

「ロゥレディアですわ! せーぜー、頑張ってくださいませ?」

 

 

 銀色の長髪をして、自信満々の笑みを浮かべる小柄な少女は、イングランドのウマ娘【ロゥレディア】

 イギリスのG1は数が多いが、その中でも6勝を記録している。

 ドリームジャーニーと同じくらいの背丈……の割には、小さな体を大きく見せるように胸を張っている姿に、ジェンティルドンナ以上のプライドの高さを感じる。

 

 

「初めまして。ヴェニュスパークです。会えるの楽しみでした」

 

 

 そして――去年の凱旋門賞の覇者であり、オルフェーヴルを下したフランスのウマ娘、ヴェニュスパーク。

 最後に歩み出たのは、穏やかな笑顔と落ち着いた声を持つ、優等生のような少女だった。物腰も柔らかで、誰にでも好印象を抱かれそうだ。

 今日着てきているのは、凱旋門賞でも着用していた勝負服だろう。

 

 

 ちなみに彼女らは日本語で話しているように聞こえるが、クラウンがくれた最新のマニュアルではどうやら、会話中にほぼノータイムで、AIによって自動翻訳されているため、言語による壁がここではほとんどないという。

 サトノ家の技術力には舌を巻く。

 

 

「初めまして、私はヴィルシーナです。よろしくお願いします」

「オレはシーナのトレーナーです。よろしく」

 

 

 挨拶を済ませつつ、軽く慣らしをしながら、ヴェニュスパークが合同トレーニングの目的を語る。

 

 

『佐岳メイさんから聞いてます。今年の凱旋門賞、目指すって。私も出るので、楽しみです』

「ええ、こちらこそ楽しみです。オルフェさんを倒したあなたと戦えるなんて光栄ですわ」

 

 

 シーナが社交辞令、ではないものの、いつもの調子で返すと。

 

 

『一つ確認、です。あなたは"領域"にはたどり着いていますね』

「は、はい。領域……2週間前に、経験しました」

『そうですか。これもメイさんから聞きました。その世界へ入ったばかりだと』

 

 

 ヴェニュスパークの雰囲気が変わった。

 シーナもその変化を感じ取ったのか、表情を強張らせる。

 

 

『領域は、こんな風に私たちも入れます。今回のトレーニングでは、コントロールができるように頼まれてます。トレーナーさんもそれでよろしい、ですね?』

「それは、願ってもないことだけど……」

「領域のコントロール!?」

 

 

 シーナが驚くのも無理はない。

 オレも一部のウマ娘はできると聞いたことがあるだけで、実際に確認したわけじゃないから言わなかったのだ。

 だがヴェニュスパークという実力者が言うのなら、あり得ないどころか世界のトップクラスではスタンダードなのだろう。

 単なる理想論だと思っていたが、コントロールできれば発動するタイミングを選べるし、何より大事な画面で領域に入れないなんてことはなくなる。

 シーナにとって、実際にコントロールできるウマ娘たちがトレーニング相手なのは、これ以上ない幸運だ。

 

 

『ヴェニュは相変わらず真面目ですこと。この際ですから、はっきり言ってあげますわ!』

 

 

 横からロゥレディアが口を挟んでくる。

 銀色の髪を振りかざして、身長140cmの小柄の背丈でふんぞり返る。

 

 

『ゾーン程度、欧州のトップレベルなら、入れて当然ですのよ! 入口に立ってるだけのウマ娘なんて、ゴロゴロいますわ!』

『もう少し言葉を、選ぶべき……かも。だけど、現実はレディアの言う通りだと、思ったり、思わなかったり……」

『そうだネ。領域にたどり着いただけじゃあ、凱旋門賞では勝てないネ』

 

 

 エンシュヴィヒトと、ウォーレアンハーツが続けて言う。

 

 

「じゃあまさか、オルフェさんやジェンティルさんは、コントロールできる……?」

『はい、オルフェーヴルはコントロールできます。さらに、私たち、もっと深いところに行ける。――こんな風に』

 

 

 ヴェニュスパークが言った途端、ズンッ! と四人から発せられる圧が強くなった。

 柔らかだった雰囲気が消え、レース競技者としての目つきと顔つきになるヴェニュスパークたち。

 それには見覚えがある。

 オグリが助言をくれた時、オルフェーヴルの最終直線での時。

 そしてシーナが領域に入った時と同じだった。

 

 目には見えないが、確かにそれは“波動”として四方に広がっていて、ビリビリとVR世界の空間を揺らしている。

 シーナも目を見開いて彼女たちを見つめていた。

 

 

『レディアが先に言っちゃったですが、はっきり、言います。コントロールする、できて当たり前。そこから、領域の質を高める、深く潜る、しないと、凱旋門賞で結果を残すの、無理だと、思います』

 

 

 はっきりと告げられる世界との差。

 ようやくジェンティルやオルフェーヴルとの差が埋まったかと思えば、さらに分厚い壁が立ちはだかった気分に、オレは思わず喉を鳴らす。

 呆然とするオレの横で、シーナも唇をきゅっと結んでいる。

 

 

『でも、安心してください。私たち、深いところにつれていくため、呼ばれました』

『やるべきことはZoneの発動が当たり前になること、そこからcontrolネ!」

『発動時間を延ばしたり、縮めて爆発力に集約させたりもできたりする……、ウマ娘によって得意不得意あったり、戦略を変えたり変えなかったりもできるかも……』

『一度深く潜り込めば感覚を忘れないうちに、何度も何度も入るべきだと思いますわ! あ、別にアドバイスしているわけじゃないから、勘違いしないでくださいまし?」

 

 

 4人が各々シーナにアドバイスを送り、柔らかな空気が流れていく。

 彼女らから発せられていた圧が弱まり、彼女たちの表情が柔和なものに戻る。

 

 

「わかりました、お願いします」

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 去年の凱旋門賞覇者ヴェニュスパーク。

 イギリスのG1を6勝しているロゥレディア。

 

 ヴィルシーナは早速、この二人と一緒に併走をしていた。

 

 ドドドドドドッ!

 

 コーナーを回り、ロンシャンレース場2400m、フォルスストレートまであと少しの地点。

 この段階で、シーナは額に汗を滲ませる。

 もちろん走っているのだから当然なのだが、その中に冷や汗が混じっているのは自分しか知らない。

 

 

(これが軽く、ですって? 確かに芝は、日本のものとは違えど……)

 

 

 これまですでに、VR世界にてフランスの芝を体験して慣れている。

 トレーナーの指導の下、レーススピードにも合わせていたため最後まで走り切れるスタミナだって確保していた。

 だが、そういう話ではない。

 軽く合わせるつもりだったにもかかわらず、彼女たちのペースが速すぎて、ついていくのがやっとだったのだ。

 

 

(これが欧州との違い……っ)

 

 

 相手は日本のように完璧に整備されていない芝で、ずっと走ってきているアドバンテージがあるとは言え、ヴィルシーナもある程度は食らいついていく自信があった。

 しかし彼女たちのペースは予想をはるかに上回っており、まだまだ世界との差を否が応でも実感してしまう。

 今までやってきて芝に慣れていたつもりが、違った。日本で言えばようやくデビューしたての段階だったのだ。

 

 

『あらー? もうお疲れかしら? 日本の女王もまだまだですわね!』

『レディア、煽るものじゃないです。ペース、落としますね』

 

 

 その心配は、ヴィルシーナの心に深く突き刺さる。

 苦痛の中で手を差し伸べてくれるヴェニュスパークの言葉は、おそらく並みの人間やウマ娘なら感謝の言葉を述べるだろう。

 しかしヴィルシーナにとっては、ロゥレディアの煽りと同様、素直に受け入れがたいものだった。

 

 

「い、いえ、結構です! はぁっ、っ、ご心配なくっ!」

 

 

 そう言ったものの、ロゥレディアのニヤケ顔が止まらない。

 

 

『まーまー! やせ我慢しちゃって。ワタクシたちに無理に、合わせなくてもいいのに?』

『もう、レディアったら……』

 

 

 ヴェニュスパークが呆れているが、こうやって煽られるのは、なんだか懐かしい気分になる。

 

 

(……ずっと前にも、同じようなこと言われた気がするわ)

 

 

 とあるウマ娘を思い出す。

 かつてティアラ路線を競い合い、その背中を追い続けた彼女の姿を。

 

 

(あの人は、煽るための煽りは、しなかったけど……っ)

 

 

 ピクピクとこめかみが疼く。

 苛立たしい、腹立たしい、悔しい。

 そんな気持ちが溢れてくる。

 

 

「ジェンティル、ドンナ……ぁ!」

 

 

 ズズズ、と脚から上半身まで、何か強い力が広がっていく。

 

 

(あの人に勝つために、私は、ここにいる……!)

 

 

 大阪杯で、オルフェーヴルとの最終直線で競り合った時と同じざわめきが起きる。

 

 

(そう、私はヴィルシーナ。シュヴァルやヴィブロスに誇れるウマ娘になりたくて……2人が誇れるお姉ちゃんになりたくて!)

 

 

 偽りの直線を抜けて、最後の直線に入ったその瞬間。

 

 

「世界の頂点に、立つのよ!!」

 

 

 内側からあふれ出る力に、彼女は身を任せた。

 

 "領域"の発動。

 周囲の時間が遅く感じ、世界から1人取り残されたような意識の中に入り込む。

 自身の鼓動が耳の奥にまで聞こえ、神秘の世界に入った。

 VR世界でも現実世界と同様に、周囲の速度が遅く感じられることに驚きを感じつつも、二人よりも前に出る。

 

 

『いいですね……。それがあなたの領域……では、こちらも』

『へぇ、なら少し本気を出してさしあげますわ!』

 

 

 そんな声が聞こえたかと思えば、両側にいた二人の動くスピードが再び同じになる。

 オルフェーヴルとの対決でも似たようなことは起きていた。

 おそらく、領域に入った者同士ならば、その差が縮まり、通常のレースと変わらなくなると考えていいだろう。

 ここからは、領域の質が高い方が勝つ。

 実力差があると漠然と分かっている状態では、競り合っては分が悪いと考えたヴィルシーナはさらに前へ進み――。

 

 

『ここからが本番です』

「!?」

 

 

 バチィイン! と、二人に挟まれた瞬間、一歩後退してしまう。

 何かに弾かれたように後ろへ下がり、ぐんぐん上がっていく二人の背中を見せつけられる。

 

 

 そのままゴールへ。

 ヴェニュスパーク、ロゥレディアがほぼ同着。

 その後に、5バ身の差でようやくゴールを通過した。

 

 

「かはっ!? はっ、ぅぅ、はぁ、……ぁあ」

 

 

 領域に入った反動か、息が乱れ、喉の奥から何かが込み上げる。

 吐きそうだった。

 酸素が足りないのはわかったまではいいが、呼吸がままならない。

 心臓がバクバクと音を立てて、肺が軋むように痛みを発する。

 

 

『まだ領域の反動に慣れていないですね。かなり、疲れたでしょう』

『入りたてにしてはなかなかだと思いますわ! あ、別に褒めてるわけじゃありませんのよ?』

 

 

 まだ、足りない……。膝を曲げて、こちらに優しい言葉をかけてくるヴェニュスパーク、煽るような言葉を投げかけてくるロゥレディア、この2人に届く気がしない。

 世界の壁はまだまだ分厚く、高く、そして速かった。

 息を整えつつ視界の端に2人を捉えて、先ほど起こった現象――もとい、弾かれたような感覚について問う。

 

 

「さっき、あなたたちのゾーンに挟まれて……、なぜか後ろに押された感覚がありました。あれは一体……?」

『うん、気づいてくれて、良かったです。今回の併走、それ、気づいてもらうためでした』

 

 

 ヴェニュスパークは和やかな笑みを浮かべる。

 

  

『ゾーンとは、確かに到達点です。だけど、レース中に複数人のウマ娘が発動した場合、互いのゾーンがぶつかり合います』

「ぶつかる……? なら、私が弾かれたのは……」

『そうです。あなたが弾かれたと感じたのは、よりゾーンの強い側が、あなたの発動していたゾーンに押し勝ったのです』

 

 

 説明を聞いても、正直なところまだ完全に理解はできていない。

 もしレース中に複数人がゾーンを発動した場合、その衝撃と反動はポジション争いどころではないだろう。

 物理的な触れ合いではなく、実力そのものの差が可視化されて、押し負けるような感覚で捉えられるようなものか。

 

 結局のところ、それに打ち勝つためには相手よりも強いゾーンの質の高さ、すなわち、どれだけ深い場所に到達できているかが鍵となる。

 自分はまだ、入口に立ったに過ぎない。

 

 

「では……もう一度、お願い、します……」

 

 

 まだ酸素は足りないが、無理やり息を整えてヨロヨロと立ち上がる。

 視界は明滅して、焦点が定まらない。

 

 

『少し休みましょう。焦ってもダメです。慣れることが先決です』

「……っ、くっ、でもっ」

『ゾーンは頑張れば慣れるもの、じゃないです。疲れたままで入っても、意味ないです』

『入るのが当たり前になるには、レース中を再現しないといけないんですのよ? あなたは本番でも連続で2400mを走るのかしら』

「…………、わかり、ました」

 

 

 自分の体が今までで一番悲鳴を上げていることに気づき、二人の説得にしぶしぶ頷くしかなかった。

 これまでのトレーニングとは違うことが理解できる。

 ゾーンとはレース中に発揮する世界であり、そこに至るタイミングは当然レース中でなければならない。

 ならば、疲れている状態で走り始め、仮にゾーンに入れたとしても、レース本番と同じ質を発揮できるかといえば否だ。

 やみくもに慣れれば良いわけではないのは、そのとおりだと納得する。

 

 

(くっ、こんな体たらくじゃ……)

 

 

 己の未熟さと不甲斐なさに歯噛みしていると、トレーナーが近づいてくる足音に気がついた。

 

 

「シーナ、彼女たちの言うとおり休みながらやろう。オレにはゾーンの感覚は分からないが、今の君の顔色や疲れを見れば、休ませるべきだと判断する。休んでほしい」

「はい、ありがとう、ございます……」

 

 

 息を整えて、ようやく立ち上がれるようになるまでトレーナーが傍についていてくれた。

 

 

「大丈夫。君は確実にジェンティルに近づいている。今の彼女が、どういうトレーニングをしているかは分からないけど、オレの記憶にいるジェンティルには、追いついているよ」

「トレーナーさんの記憶の……あの人と同じ……」

 

 

 そう言われて、胸の奥にふわりと火が灯るような感覚が広がっていった。

 追いついている。

 あの人の担当トレーナーだった彼がそう評価してくれたのなら、もしこの今の実力でジェンティルドンナと相まみえていたなら――去年のシニア級ジャパンカップでも、あの頂きの争いに名を連ねることができたかもしれない。

 

 そんな想像がよぎった瞬間、胸の中にこらえきれないものが波のように押し寄せて、思わず息を吸い込んでしまった。

 抑えようとしても口角がわずかに上がってしまう。

 

 もちろん、冷静に考えればその比較対象は、約半年前のジェンティルドンナ。

 今の彼女とは違う。だから、浮かれてばかりではいられない。

 

 けれど――。

 自分の記憶に焼きついている、あの高みにいた彼女と肩を並べたと認められたことが、どれほどの意味を持つのか。

 心の底にあった不安が、一枚一枚剥がれていくような、そんな感覚に胸の奥が暖かくなった。

 

 

「でも半年前のジェンティルと比べても安心できないよな」

「いえ、そう言ってもらえて嬉しいです。ひとまず、私たちの記憶の中の、あの人に追いついているなら、次は――追い越すまでです」

「そうだな、追い越そう。オレももっと頑張るから、必ず2人で世界の頂点に立とう」

 

 

 神妙な面持ちで呟くトレーナーに、目を細めて見つめる。

 

 

(あなたは、いつもそういう顔をしていますね……。ジェンティルさんのことを心配している時も、私を気遣ってくれる時も、どんな時も――真剣で、優しくて、ちょっと不器用で)

 

 

 今のトレーナーと契約した時のことを思い出す。

 彼が落ち込んで、心ここにあらずといった状態でぼんやりしているところに、声をかけた時のことを。

 

 

(さっきの話を聞いた時、やっぱりトレーナーさんはジェンティルさんのことを考えていた。一方的に契約を破棄されても恨むことなく、心配するほどに……、こんなに優しい人との契約を切るなんて)

 

 

 こんなに考えてくれるトレーナーから、ジェンティルドンナがなぜ離れたのかは、やはり考えてもわからない。

 実績や経験という力が、そんなに魅力的だったのだろうか。

 価値観は人それぞれだが、元担当トレーナーに対する扱いとしてはあまりに不義理だと、思う。

 何か理由があるのかもしれないと以前にも考えたことはあるが……。

 

 

(そう……、これは私だけの戦いじゃない。トレーナーさんにとっても、世間や世界相手に見返す戦いでもあるのよ……!)

 

 

 彼女に勝ちたいと言ったら、辛いはずなのにトレーナーになってくれた。

 会見ではジェンティルドンナを倒すとまで宣言し、その覚悟を見せてくれたトレーナーは本気で世界の頂点を目指すために支えようとしてくれている。

 

 

(あの人たちが、トレーナーさんを切ったことは誤りだったと世界に示すために、凱旋門賞で勝つ! それが、私が履行しないといけない。トレーナーさんとの約束なんだから……っ)

 

 

 再び、シーナの瞳に闘志が灯るのだった。

 

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