蒼と紅の炎   作:荒波を征く湯気

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第11話 紅き貴婦人の幻影

 5月18日、日曜日。

 東京レース場、芝1600メートル。

 快晴とまではいかないが、薄い雲の向こうから太陽が覗いている。

 

 

「先輩、来てくださったんですね」

 

 

 隣には、クラリス先輩が立っていた。

 かつてシーナを託してくれた人であり、新人だった頃のオレの指導係でもある。

 

 

「ええ、私とシーナにとって、ヴィクトリアマイルは思い出深いレースだもの」

 

 

 当然よ、と言って彼女は鼻を鳴らす。

 

 

「それにしても、凱旋門賞まで真っすぐ行くと思っていたから、ちょっと驚いたわ」

「もしシーナが凱旋門賞一本に絞っていたら、出走は見送るつもりでした。でも彼女が『走りたい』って言ってくれて。……その願いは、叶えてやりたかったんです」

「へぇ……? しばらく見ないうちにあなた、随分たくましくなったわね」

「そうですか?」

「半年前とは大違いよ」

 

 

 柔らかく笑うその表情に、胸の奥が少し熱くなる。

 色んな人に支えられて、ようやく少しだけ自信を取り戻せてきたのかもしれない。

 

 

「ヴィクトリアマイルは、あの子にとって初めてのGⅠタイトルだった。あの時の喜びようといったら、もう……ね」

 

 

 先輩は遠くを眺め、懐かしむように微笑んだ。

 

 

「去年からあの子が考えていたことを、ちゃんと叶えてくれてありがとう、後輩くん。出走理由にも納得はしてるけど、それ以上にあなたはシーナのことを見てくれてたのね――だってシーナからは、ヴィクトリアマイルのことは特に話してこなかったんでしょ?」

「はい、シーナのためにもなって、シーナの望むことは叶えてあげたかったんです。それに、彼女の家族も望んでいましたから」

「つまり、あなたの提案。ふふ、いいじゃない。ウマ娘個人の考えを尊重しつつ、トレーニングや目標達成のためのプロセスを調整できるトレーナーは少ないわ。その上で、あの子がどれだけのものを手に入れたのか、見せてもらおうかしら」

「先輩からのテスト、ってところですかね」

「採点は厳しいわよ?」

 

 

 

 軽く笑い合う。

 

 だが、その裏で胸の奥がドキドキと心音を立てる。

 

 

(このレースは、オレにとってはただの前哨戦じゃない)

 

 

 凱旋門賞へ向かう通過点でもあり――彼女と自分の絆、すなわち、ウマ娘とトレーナーの絆がきちんと繋がっているか確かめる戦いでもある。

 大阪杯ではクラリス先輩が連れてきてくれたウマ娘たちとの練習が、実のあるものになった。

 ルドルフはそれを含めてオレの力だと言ってくれたが、海外ウマ娘を見ていたら、やっぱりそれだけじゃ足りないと感じた。

 

 

(オレ自身が、シーナの本当のトレーナーにならなきゃいけない)

 

 

 先輩からシーナの後を継いで、さらに彼女に磨きをかけたと多くの人に認めてもらえるように。

 あの日から何もできずに、シーナたち皆に支えられてきただけの自分とは違うと証明するために――

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 ――時は遡り、2時間前。

 ヴィルシーナの控室。

 

 

「領域の発動のコントロールは、まだ完全ではありません」

「そうか、じゃあ去年のレースのように走ることを軸にしよう」

「去年のレースですね。わかりました」

「……」

「どうされました?」

「いや、やっぱりダメだ。今日の出走ウマ娘を見てたら、去年と今年とでは君の立ち位置が違う」

「え?」

 

 

 オレはレース場の地図を広げる。

 そこにカラフルなマグネットを置いて、シーナや他のウマ娘の動きを表した。

 

 

「シーナの枠番は13番。序盤、シーナは逃げと先行どちらで走っても不利になると思う。なぜなら去年の2冠ティアラウマ娘や他のウマ娘たちの多くが、きっと君をマークする」

 

 

 ある程度は予想していたが、現地に来てみて分かった。

 明らかに彼女たちは、シーナを意識している。

 それも当然と言えば当然だろう。

 去年の覇者であると同時に、今のシーナはオルフェーヴルを倒したウマ娘だ。

 ジェンティルと同様に警戒されるのは必然。

 

 

「……確かにそうですね。私も同じことをすると思います」

「ああ、だから君はおそらく外を走らされることになる。序盤の直線はまだいいけど、コーナーに入ればその差は不利になる。でもそれだけに留まらない」

「と言うと?」

「君になるべく外側を走らせるため、逃げ先行のウマ娘の何人かが君を"外に追いやる"走りをするだろう。もちろんスタートしてみないとどういう動きをするかは分からないけど、そのつもりで挑んだ方がいい」

 

 

 駒を動かし、コーナーに差し掛かる直前。

 シーナを表すコマを外側に置きつつ、3~4つほどの磁石を内ラチに置く。

 さらにその半分ほどを真ん中のレーンに乗せる。

 横3列に並んだ1番外側がシーナだ。

 

 

「なるほど……しかし、それをすればその子たちも不利になるのでは?」

「メリットはある。コーナーだから内側のほうが遠心力が強くなるから、逆に体を預けて外を回る走り方が自然とできるとも言える。もちろんあくまで可能性……でも今回は、そのメリットがデメリットを上回るはずだ。なぜなら、出走者の中で1番強い君を外側に追いやることは、他の子たちにとっても利害の一致になる」

「わ、私が1番強いですか?」

「ああ、少なくとも2年前、オレが戦った時の君とは比べものにならない。ジェンティルドンナに匹敵、いや、それ以上かもしれない。もちろん、彼女の力強い走りとはまた違うけど……ジェンティルは圧倒。君は粘り。どんな相手にも食らいつき、離さなかった"粘り"が今は"力"さえも得ている。そうなればどんな相手にも競り勝つ。君の走りは、ジェンティルを超える」

「……私が、ジェンティルさんを」

 

 

 シーナは目を丸くする。

 その瞳がわずかに潤みを帯びる。

 

 シーナは海外ウマ娘たちとの合同練習で揉まれ、さらに強くなった。

 オルフェーヴルとの併走も始めているし、去年より力をつけているのは間違いないのだから。

 

 

「話を戻そう。コーナーで先頭に立っていればいいけど、この磁石のように外側から入った場合、君は相手の動きを見ながらいくつかの選択をする必要がある。そのまま外を走って相手に付き合うか、速度を上げて先頭に踊り出ようとするか、後ろに下がって機を見るか……どちらにせよ、遠心力がかかっている状態だ。内側の相手もそれを考慮して走ってくる」

「その時の判断が重要ってことですね」

「うん、マイルレースだから一瞬で判断しないといけない。そして向こうもそれに対する対策をしてくるだろう」

「なら、その場合は……」

 

 

 シーナはオレの話を真剣に聞いて理解していた。

 きっとジェンティルドンナを倒すために鍛えるだけでなく、多くの本を読んだのだと思う。

 専門的な知識はジェンティルほど知っているわけではなかったが、彼女は理解を進めていく。

 

 

「だけど、この中で一つだけ、相手が君についてこれないパターンがある」

 

 

 オレがそう言うと、彼女は目を見開いた。

 しかし次の瞬間には、口角を上げてニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

「ふふ、それは私だからできること、ですね?」

「ああ。今の君なら競り勝てる。さらにここに領域を発動できれば、盤石だろう」

「もしかして、ジェンティルさんにも同じようなことを提案されたことが?」

「まさか。ジェンティルはセオリー……というか、自分でなぎ倒して行った感じさ。それに当時は領域なんて知らなかったからね。今だからこそ言える」

「ふふふ、納得です。では、トレーナーさんのイメージは私も共有できました。まずは戦況を読んで、自分のポジションを確認。それから最適解を導きます。……しかし、領域については」

「コントロールができない、というか、自分からそこに入るのはまだ難しいんだっけ?」

「はい、すみません……入れたり入れなかったりと難しいんです」

「いや、謝らなくていい。それについても実は提案があるんだ。ルドルフやオグリたちにも色々聞いてさ、分かったことがあって」

「本当ですか? 聞かせてください!」

 

 

 青い瞳、その奥の輝きに応えるように。

 オレは、とある提案をするのだった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 スタンドのざわめきが押し寄せる。

 拍手と歓声が、まだ誰も走っていないターフを震わせていた。

 

 

 ヴィルシーナは軽く飛び跳ねながら、体の力を抜いていた。

 まだレースまで発走時間はある。

 

 

「すぅ、……ふぅ」

 

 

 短く息を吸い、小さく吐く。

 呼吸を整え、観客席を眺めるくらい余裕なままターフに佇んでいた。

 

 

(体が軽い……、GW明けからマイル用の練習をしてたけど、感覚を取り戻すのは早かったわね)

 

 

 急遽、出走することになった2度目のヴィクトリアマイル。

 本来であれば諦めても仕方がないと思っていた。

 凱旋門賞用のトレーニングばかりしていたため、レース本番の芝のターフに懐かしさを足裏に感じる。

 

 

(この空気も景色も懐かしい。そういえば去年の今頃は、あまり余裕がなかった)

 

 

 クラリストレーナーに担当してもらっていたとき、今のトレーナーとジェンティルドンナに何度も敗れて、G1を取れないことからシルバーコレクターとも言われた。

 

 

(そう思うと、やっぱり不思議……)

 

 

 クラリストレーナーには感謝をしている。

 あの時、必死だった自分を受け止めてくれた。

 他のウマ娘も担当している中、G1タイトルに導いてくれた。

 

 そして今、そのヴィクトリアは――通過点に過ぎないと思えるほどに、余裕が生まれている。

 それは間違いなく今のトレーナーのおかげだろう。

 

 

(このレースは、私の武器である瞬発力をさらに磨くことが目的。トレーナーさんは大敗さえしなければ、凱旋門賞への切符が危うくなることはないと言ってくれたけど……ううん、負けたくない)

 

 

 今日の出走ウマ娘を見ると、去年のティアラ路線で活躍したウマ娘や同期のウマ娘もいる。

 全員がG1レースにて1着、もしくは2着を取ったことがある。

 このメンバーで勝利を目指すのは容易ではないだろう。

 

 

「お姉ちゃーん!」

「ねえーさーん!」

 

 

 かすかに聞こえた声の方に顔を向けると、やはり今日も応援に来てくれていた。

 その隣にはすでにトレーナーと……クラリストレーナーも来てくれている。

 

 手を振ると、妹たちはもちろん。

 2人のトレーナーも軽く手を振ってくれた。

 

 

(領域のこと、トレーナーさんは何かスイッチとなるものがあったはずだって言ってた。大阪杯の時は確か、シュヴァルとヴィブロスの声が聞こえたんだっけ……練習の時には、ジェンティルさんのことを考えたりして……)

 

 

 まだまだ謎が多い領域(ゾーン)。

 おそらく心の中にある精神的な何かが、スイッチとなっているのだろう。

 正直、入れたり入れなかったりするので条件がわからない。

 

 

(今の私にできることは、自分のため、家族のため、妹たちのため……そして何より今日は、このヴィクトリアマイルを走るべきだと言ってくれたトレーナーさんのためにも勝つこと)

 

 

 凱旋門賞だけでも大変なのに、彼は調整してくれた。

 確かに出走するメリットはあるだろうが、出走しないメリットもあるはずだ。でも家族の想いや自分の想いを知って、出るべきだと言って背中を押してくれたのだ。

 

 瞳が揺らぐ。

 心に決めた炎が、内側で燃え上がる。

 

 そんな決意を漲らせていたところ。

 突如、後ろから声がする。

 

 

「へぇ~、あんたがヴィルシーナっていうのー?」

 

 

 振り向けば、八重歯が特徴的で人を喰ったような笑みを浮かべる一人のウマ娘がいた。

 黒髪をツインテール型に束ねて、ハイビスカスの髪飾りを耳につけている。

 そう言えば、トレーナーから注意するべきウマ娘の中に、この子の姿があったはずだ。

 

 

「確か、あなたは……」

「ジェリーベイレン。へへ、よろしく先輩♪」

 

 

 顎を上げてニヤニヤと笑うジェリーに、シーナは向き直る。

 

 

「よろしくジェリーさん、あなたの活躍は耳にしているわ」

 

 

 昨年ティアラ路線を走り、桜花賞とオークスの2冠を達成したウマ娘「ジェリーベイレン」。

 トレーナーからはジェンティルドンナの走りに少し似ているらしいが……。

 

 

「どうも〜、オルフェーヴル先輩を倒したヴィルシーナ先輩なら〜、わたしの口に合うかもね〜」

 

 

 性格は似ても似つかない。

 挑発の仕方も幼い。

 強者だとはわかるけど……そのオーラは小さく感じる。

 

 

「やっと美味しそうな獲物が来たんだもん。あなたなんか、パクっと食べちゃうから♪」

(この子の走りも自分の力にできるかしら? 脚質も私と同じで確か逃げ先行だったはず。ちょっと失礼だけど、レース中に観察させてもらいましょう)

「……あ、なにジロジロ見てんの?」

(あら? あの髪飾りちょっとかわいいかも。ヴィブロスが好きそうね……でも、シュヴァルにも似合うなぁ)

「ちょっと! 無視すんなよ!」

 

 

 そう言われて、ハッと気づいたシーナは慌てて、思ったことを口にする。

 

 

「へ? あ、ごめんなさい! とても可愛らしいなと思って、つい……」

 

 

 するとジェリーは顔を真っ赤にして、わなわなと口を震わせた。

 

 

「な、舐めやがって! ふざけんな、このおばさん!」

「おば!? デビューは私のほうが先だけど……確か、同い年では……?」

 

 

 歯を食いしばって涙目になり、敵意をむき出しにするジェリー。

 困惑するシーナは、頬をかいて首を傾げる。

 なんだか、子供を相手にしている感覚だった。

 

 

(ああ、そっか。挑発されてたんだ私……。昔の私なら、すぐに反応してたかもしれないわね)

「絶対、ぜぇーーったい、潰す! べぇぇぇっだ!」

 

 

 思いっきり、あっかんべーをされて目が丸くなる。

 肌に触れる風の流れさえ細かく感じる今、何を言われても特に響くものがない。

 むしろ、この会話すら楽しんでいる自分がいる。

 

 

(妹たちと小さい頃、喧嘩した時、3人でべっーてしてたわね……あ、でもシュヴァルは泣いてたっけ)

 

 

 自然と笑みがこぼれる。

 

 

「ふふふ……っ」

「むっかーー!?」

 

 

 

 シーナの笑みが過去の思い出に対するものとはつゆ知らず、ジェリーはガニ股でドスドスとゲートへ向かうのだった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 ガコン!!! 

 ゲートが開く。

 

 

『さぁ、各ウマ娘が一斉にスタートしました! 去年の覇者ヴィルシーナは1番人気、外枠13番、ぐんぐん伸びていきます』

 

 

 ゲートから出たヴィルシーナは一気に加速し、先頭に躍り出た。

 マークされるのは分かっている。

 背中に視線が刺さる。

 逃げ先行脚質のウマ娘たちの圧を感じる。

 必死に追いかけてきて、こちらを潰そうと躍起になっている。

 

 

(やっぱり、トレーナーさんの言った通りね)

 

 

 かつて、ティアラ路線で戦ったジェンティルドンナ。

 彼女に対し、同じような闘気をむき出しにしていた頃を思い出す。

 自分だけでなく、多くのウマ娘が彼女をマークし警戒した。

 その時のジェンティルドンナの気持ちが少し分かった気がする。

 

 

(序盤の位置取り争いは重要。有利なポジションは内ラチ側だけど、ジェリーさんたち含めて3人が体を入れてくる)

 

 

 外側に回らされたなとは感じた。

 コーナーに入る前に内側を取れば、外側のウマ娘よりも当然有利ではあるし、自分を外側に追いやることができる。

 ジェリー含めた3人がまるで心の中で打ち合わせをしているかのように、三角のフォーメーションを作っていた。

 

 

(内側のバ場も大して荒れてはいないのに、先頭の子と私の横にいるジェリーさんは最ウチを走らず、少し外側の進路をとっている。私を外に追いやる形。内側を行こうにも4番手の子がブロックしているし、トレーナーさんが予想した通りね……)

 

 

 ちらと芝生に目線をやり、自分のポジションを改めて確認する。

 先頭から3番手。

 直線がもうすぐ終わる。

 このままではコーナーで外を回る。

 コーナーに入れば、そのまま追い越すことは難しい。

 遠心力で外側に引っ張られ、さらに距離のロスが生じる。

 もちろん内側のほうが遠心力は強くなるが……、彼女らも少し外側に位置取ることで、軽減しているのだろう。

 

 ジェリーベイレンのしたり顔が見えた。

 ざまぁみろと、言われているようにも思えた。

 

 

(でも、問題ない。トレーナーさんの予想があったから、対処法を考えている。私は、他のウマ娘の強さを自分に添加できる)

 

 

 そんな余裕は、去年にはなかった。

 必死に食らいついて、初めてのG1タイトルに向けて叫び続けた。

 だが、今は違う。

 

 

(体も心も余裕がある。やるべきことが見えている。走るべき場所、走るべき速度、他のウマ娘がどんなふうに動いたとしても、走るべき道が見える)

 

 

 自分の行くべき道が見える。

 光の軌跡が答えを示すかのように、矢印が伸びるように。

 このまま維持か。

 前にあがるか。

 後ろに下がるか。

 

 

『さぁ、先団がコーナーへ!』

 

 

 維持ならば最終直前で競り合うだろう。勝てる自信はある。

 だが、向こうも一筋縄ではいかない。

 G1レース、ヴィクトリアマイル。

 シニア級の実力ウマ娘たちが一堂に集うレースで、ほんの少しのロスでどうなるかはわからない。

 

 前に上がればその分スタミナが削られる。

 それに隣の彼女たちがそれに付き合ってくる可能性もある。

 そうなればバ群が伸びるので、後ろの脅威は下がるがこちらも競り合いが続く。

 

 後ろに下がって機を伺えば、最終コーナーから直線に入る広がりの瞬間にチャンスは来るだろう。

 だがそれでは同じこと。ブロックされる可能性もあれば、後ろから差される可能性が高くなる。

 

 どれも確実ではない。

 凱旋門賞2400mを走るので、スタミナでは勝つ自信はあるものの……。

 

 

(私にとって領域は、あくまで最後の詰め手。それまでのレース運びや展開の不利を、全て覆せるものじゃない)

 

 

 それこそ、オグリキャップ、タマモクロス……、果てはジェンティルドンナといった、素の力がトップクラスのウマ娘なら別だろう。

 今の自分が過信すべきものではない。

 

 

(となると、やっぱり……)

 

 

 本来なら後ろに下がって機を伺うのがベストだ。

 外に膨らむジェリーたちが、コーナーで遠心力を逃がすためにやや外に流れる。

 それを読み、意図的に半馬身下げて一瞬だけスペースを作る。

 遠心力がピークになる中盤で内ラチの狭い隙間に滑り込む。

 “外を回らされる”という不利を利用して、相手のラインコントロールを逆手に取れる。

 

 

『さぁ、後続もここで差を詰めてきている!? 早い早い! 先頭が競り合い、少しずつバ群が伸びる中、後続のウマ娘たちが上がってきています!」

 

 

 シーナは後ろをちらと振り返ったが、後ろに下がることが上手くいくとは思えなかった。

 実況の言う通り、すでに後続のウマ娘が数人あがってきている。

 このまま下がっても入れるスペースはない。それどころか潰されている。

 

 

(前に行く!!)

 

 

 咄嗟の判断。

 コーナー中央に差し掛かる寸前、シーナはコーナーの頂点を目指して速度を上げた。

 

 

『ああっと! ヴィルシーナが上がっていく! これはかかったか!?」

 

 

 当然、ジェリーたちもシーナの動きに呼応し、速度を上げる。

 速度をあげれば当然、遠心力も強くなる。

 そのため少しずつ外側に追いやられ、最終コーナーに入ったところではまだ2番手のままだった。

 

 

(問題ない。これでいい)

 

 

 ジェンティルならおそらく、その力で道をこじ開け、他を圧倒していただろう。

 かつて彼女は、よく"蹂躙の時間ですわ"と咆えていた。

 それは力、圧倒、剛毅。

 貴婦人のイメージを内包する一言だったはず。

 

 

(主導権は相手側にある。なら、私はそれを利用する。乗って差し上げましょう)

 

 

 顔に笑みがこぼれる。

 強者であるがゆえに、自分の力を試せる機会。

 強者との戦いがより自分を高みに連れて行ってくれる喜び。

 ジェンティルドンナの気持ちが、やはり分かった気がした。

 

 

(さぁ、支配の時間よ!)

 

 

 シーナはさらに速度を上げた。

 先ほどのがギアを1段階上げたなら、今は2段階目。

 ジェリーたちの顔色が変わる。

 

 

『なんと! ヴィルシーナ、さらにギアを上げた! ジェリーベイレン、5番、1番が食らいついていく!」

 

 

 やはりついてくる。

 こちらを先頭に立たせないように。

 外側に回らせるように。

 ぐっと体を入れてくる。

 

 

(読んでいたわ。それこそ待っていた動き!)

 

 

 シーナはビリビリと相手の圧を感じた。

 それは、とてつもない甘美な刺激であった。

 この相手に、自分がどこまで支配できるか。

 確かめられるのだから。

 

 

「ふっ!!」

 

 

 3段階目。

 さらにギアを上げた。

 ほぼラストスパートの勢いだった。

 まだ最終コーナー中間だが、シーナはもはやその感覚で最大速度を出力する。

 

 

『え、何が、起こって――!?」

 

 

 実況の理解を超えたらしい。

 内側を見れば1人、2人と脱落。

 後続は引き離され、食らいついてくるのは――ジェリーベイレンただ一人。

 

 

「ぬぎぎぎぎ! 絶対、潰すぅ! 絶対潰すぅっ! っ、んぅ、ぐぅうう!」

(へぇ、言うだけのことはあるわね、ジェリーさん)

 

 

 素直に感心する。

 きっとジェンティルドンナから見た自分はかつて、こうだったのだろう。

 必死で。

 歯を食いしばって。

 顔を真っ赤にして。

 硬い肉を噛みちぎる様な形相で。

 

 それを見て、自分の全てを出したいと思った。

 彼女の本域に応えるために、必要だと感じたから。

 

 

(だけど……私はまだ、領域には自由に入れない)

 

 

 耳を立てる。感覚を研ぎ澄ます。

 あの世界に自由に入ることは、今の自分にはまだ難しい。

 

 だから、彼は言った。

 大阪杯で領域へ入った時に、目に入ったもの、耳に入ったもの、肌で感じたもの、思い出したものなど、何かがあるはずだと。

 多くのウマ娘が何かをきっかけに領域に入ったのなら、何かしらのスイッチがあるはずだと。

 

 最終直線に差し掛かる。

 ジェリーベイレンはいまだ諦めていない。

 恐るべき闘志をむき出しに、凄まじい圧を発している。

 

 

「うっ、がぁ、ああああああ!」

(凄い気迫……! まだ脱落しないなんて)

 

 

 心の中に少し焦りが生まれる。

 領域に入れば競り勝てるだろうが、まだコントロールは完全ではない。

 このまま素の状態で競り合っても勝つ自信はあるものの、彼女の力が想像を超えた時どうなるか分からない。

 

 

(お願い私の身体……、あの世界に入って)

 

 

 大阪杯の時は妹たちの声が聞こえた。

 練習の時はジェンティルドンナへの負けたくない想いがあった。

 

 じゃあ、今は?

 

 何のために、走っている?

 何のために勝ちたい?

 

 オグリキャップから教わった言葉を思い出す。

 自分の中に、すでにあるはずの答え――それは。

 

 

「いけえぇっ、シーナぁああっ!」

 

 

(トレーナーさん……!?)

 

 

 不思議だった。

 彼の息遣いが、姿が、暖かさが、自分のすぐ背中にあるように。

 5万人の観衆の声援の中から、彼の声だけが鮮明になって届いた。

 

 

(そうだ……今の私は)

 

 

 瞬間、肌がざわつく。

 

 

(ここまで導いてくれた、トレーナーさんのために――)

 

 

 

 髪の毛の先まで感覚が鋭くなる。

 

 

 

(勝ちたい!)

 

 

 歓声が消えた。

 風が消えた。

 彼の声と、自分の心音だけが残る世界へ。

 

 

(来た――)

 

 

 最終直線。

 

 "領域”――発動。

 

 

 ドンっ! と足から重低音が響く。

 先頭にあがった。

 一人だけの世界が広がり、速度が跳ね上がる。

 

 

「はぁああああああああ!」

 

 

 海外ウマ娘との練習において、何度もその質を上げるためにトレーニングを続けた甲斐があった。

 周囲の時間が遅く進み、体が思うように動く。

 何人たりとも寄せ付けない圧倒的な支配が、蒼き流星を描いていく。

 

 

『ヴィルシーナ! 後続を突き放し、一人だけ抜きんでる!』

 

 

「な、なんで、なんでっ!? うぅ、っ、ぅっ、あぁ、あ!?」

 

 

 ジェリーベイレンの声が、後方へ遠ざかっていく。

 その叫びは、悲痛な嘆きで満ち満ちていた。

 それには覚えがある。

 かつてジェンティルドンナに対し、自分が抱いていた想いと同じだった。

 ふと懐かしさを感じつつも、その叫びすらも背中にして突き進む。

 

 

『強い強い! 完全に抜け出した! これは横綱相撲おおお!』

 

 

 数多のライバルを置き去りにし、一直線に。

 

 ゴール板へと――

 

 

『勝者は、ヴィクトリアの女王ヴィルシーナぁあああああああああああああ!! 見事中盤から先頭に立ち、そのまま逃げ切りだぁああ!』

 

 

 観客の歓声が、遠くで響いていた。

 風の音と、荒い息づかいだけが耳に残っていて、次第にその音たちが逆転していく。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……もう、終わり?」

 

 

 息切れはあまりしていない。軽く整えれば心拍数は元に戻っていく。

 

 

(領域……入れた。それに、今までよりもっと深かった気がする……)

 

 

 ジョギングのようなスピードで歩を進ませ、やがてウィナーズサークルの前で止まる。

 

 

(トレーナーさんに教えてもらった自分のやるべきことも、ちゃんとできた。他のウマ娘の動きを見ながら先頭に立ち、ギアを1段階ずつ上げてちょうど中間あたりで……これが、今の私の実力なのね)

 

 

 思い返せば、途中から誰もいない先頭の景色を眺めていた。

 誰かが追いついてくるかと思ったけど、そんなことはなかった。

 

 

『なんとヴィルシーナ、2着であるジェリーベイレンに対し、6バ身差の大勝! 凱旋門賞に期待が持てます!」

 

 

 実況が結果を報告し、観客の大歓声の中。

 記憶を辿り、自分が走ってきた蹄跡を眺めていく。

 もちろん勝ったのは嬉しい。

 手放しで喜びたい気持ちはある。

 

 しかし、それよりも。

 シーナの頭はレースのフィードバックを開始していた。

 自分がなぜ勝てたのか。

 途中まではどうだったか。

 終盤の入りはどうだったか。

 それらの記憶を巡らせて、回答を導く。

 

 

(良かった、トレーナーさんに教えてもらった自分の走りを、思い通りにできた。外側を走らされても落ち着いて考えれば、対処は簡単だった。それがこんなにも嬉しいなんて……ふふふ)

 

 

 もちろん嬉しいのはそれだけではない。

 途中で聞こえた彼の声が、領域へと入らせた。

 あの時の気持ちが、ドキドキと永久機関のように、自分の中をずっと巡っている。

 

 

(大阪杯の時は自分と妹たちのためだった。でも今回は、もちろん家族もそうだけど……何よりトレーナーさんに喜んでもらうために、走れた気がする♪)

 

 

 そんなヴィルシーナを、ジェリーベイレンや他のウマ娘は信じられない目で見ていた。

 

 

「な、……なんで!?」

 

 

 中でもジェリーは愕然と膝をついて、シーナを畏怖の念で見ていた。

 しとやかに観客席に手を振っていたシーナは、その視線に気づき瞳を閉じる。

 

 

「くぅうう!? ざけんなっ、ざけんなぁ……! こんなの、わたし、絶対……、ううう、うぅううっ!」

 

 

 涙目で声を上擦りさせつつ歯噛みするジェリーは、実力の差を受け入れられない唸りを発する。

 だが結果は変わらない。

 

 シーナは、ライバルたちからの畏怖の視線を背中で受けていることを気づきながらも。

 それに対し何を言うこともなく、地下バ道へ帰って行った。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 その日の夕方。

 スタンドの喧騒が遠くに霞んでいる。

 ようやく静けさが戻った控室で、私は椅子に座り、深く息をついた。

 

 

「お疲れ様~、シーナ~」

 

 

 柔らかくて芯のある、懐かしい声が聞こえる。

 

 

「あ、クラリストレーナー!?」

 

 

 扉が開くと久しぶりに聞いた声がした。

 元担当のクラリストレーナーだ。

 

 

「2連覇おめでとう、これでG1タイトル3勝ね!」

「……はい! 私、やりました!」

 

 

 尻尾を振って喜んでしまう。

 そんな自分の頭を、クラリストレーナーは慣れた手つきで撫でてくれた。

 

 

「後輩くんの元で、随分強くなったじゃない? 誇りに思うわ。だって私はあなたの元担当、そしてあなたを担当した後輩くんは私が育てたようなものだもの?」

「ふふふ、名伯楽ですね?」

 

 

 ちらりとその話の主役が視界に入る。

 

 

「シーナ、お疲れ様だった。凄かったよ」

 

 

 その顔と声がした瞬間、胸の奥の熱が上がった。

 

 

「はい、ありがとうございますトレーナーさん!」

 

 

 彼の声を聞くのが嬉しくて、ピコピコと耳が勝手に動いてしまう。

 

 

「ふふ、それじゃシーナ、後輩くん、私は先に帰らなきゃだから、またね」

「え、もう帰っちゃうんですか?」

「仕事が溜まりに溜まってるのよ。学園に戻ってチェックしていかないと」

 

 

 肩が凝っているようなジェスチャーをして、んへぇー、と面倒そうな顔をする。

 美人なのだけど、それだけじゃなくて、表情がコロコロ変わるところが魅力の一つなのよね。

 立ち上がって、クラリストレーナーに駆け寄る。

 

 

「忙しいのに来てくださって、今日はありがとうございました……♪」

「いいのよ――後輩くんの採点もしたしね?」

 

 

 いたずらに微笑んで、彼女は去って行った。

 残った私たちは、しばしホットドリンクを飲みながら、今日のレースの振り替える。

 

 

「改めてトレーナーさん。今日の私の走りは、どうでしたか? 今回は自分でもびっくりするくらい、思い通りに走ることができたんですよ?」

「ああ、素晴らしかったよ。途中で一人だけ抜け出した時は驚いたけど、君の走りは完璧だった」

「やった♪ それから、トレーナーさんの言った通りにしたら、領域に入ることができたんです!」

「本当!? それは良かった、自分のパフォーマンスを自分で出せたのは、実のある収穫だ。その感覚を忘れないようにね」

「はい♪ これも全部トレーナーさんのおかげです」

「そっか……」

 

 

 あの時、トレーナーさんの声が聞こえた。だから領域に入れたって伝えたかったけど、それはちょっと内緒にしておきたかった。

 だって、恥ずかしいし。

 私だけの秘密に……♪

 

 

「……ふぅ」

 

 

 手に持っているホットココアを飲む。

 甘くて美味しい味が喉の奥に広がる。

 

 

「……なぁ、シーナ」

「はい、なんですか?」

 

 

 改まって、不意に声をかけられる。

 

 

「オレは……君の本当の"トレーナー"に、なれただろうか」

 

 

 その言葉は、彼の心の吐露に聞こえた。

 笑っているはずなのに、その笑みの奥に深い傷跡が見えた気がした。

 

 それもそうだ……ジェンティルドンナとの契約を切られてから、私のためにずっと頑張ってきてくれた。

 彼はずっと、一人で戦い続けてきたんだ。

 

 

「いや、すまない、こんなこと君に聞くべきじゃなかった。忘れてくれ」

 

 

 あぁ……まただ。

 この人は、いつもこうして自分を責める。

 あの時の痛みを、誰にも見せないまま抱え続けてるんだ。

 

 

「……私は、あの時からずっとあなたを担当トレーナーだと思っていますよ。トレーナーさんは、違うんですか?」

「いや担当だ……。だけど、そういうことじゃないんだ」

 

 

 言いたいことは分かる。

 でも私にも上手く言えない。

 

  

(優しいのに、自分のことだけは本当に不器用で……苦しんでいる)

 

 

 自分の功績を、いつも他人のものにしてしまう。

 きっとジェンティルさんとの契約を切られた際に、マスコミや世間の評価が彼を無視したのも影響しているのだろう。

 たまたまウマ娘が強かった。

 新人トレーナーがその波に偶然乗っかっただけと。

 “私の努力の結果だ”って言ってくれるのは嬉しい。

 だけど――その優しさの奥にある悲しみを思うと、胸がとても痛くなる。

 

 

 

「せっかく勝ったのに、暗い雰囲気にしてしまったな。外の空気を吸ってくるよ」

「待ってください」

 

 

 咄嗟に、彼の腕を掴んでいた。

 止めた手の震えを、彼が驚いたように見つめる。

 その瞳の奥――逃げ場を探しているような、寂しい光。

 私は、それをもう見過ごしたくなかった。

 

 

 ……前に、お父さんが言っていた。

 緊張を解いたり、辛い気持ちを慰めるのは簡単なこと。

 だけど、それは一時しのぎにしかならない。

 本当に立ち直るには、その痛みに一緒に立ち向かわなきゃダメだと。

 一緒に立ち向かう人がいないとダメだと。

 

 

 ――だから私は、彼の心を奪ってやろうと思った。

 

 

「……トレーナーさん、もしかして、私をただ褒めたら喜ぶ子供だと思ってません?」

「え!? いや、そんなことは」

 

 

 思わぬ反論をしたからか、トレーナーさんは驚いていた。

 もちろん怒ってなんかいない。

 ニヤニヤとした笑みを浮かべて、からかうように口角を上げる。

 そう、例えて言うならヴィブロスのように。

 

 

「いつもですけど、トレーナーさんは“自分の力じゃない”って言って、“シーナが頑張った”って言いますよね?」

「それは……」

 

 

 そう言いかけた彼の声は、少しだけ掠れていた。

 その不安そうな表情を、私はまっすぐ見つめる。

 

 

「褒められるのは嬉しいです。でも“褒めるだけで満足するウマ娘”だと思われてそうで、ちょっと嫌です」

「そういうつもりじゃないんだ……すまない」

 

 

 意地悪な言い方をしてみたら、トレーナーさんは分かりやすく肩を落とす。

 きっと私の機嫌を損ねたと、思っているんだろう。

 全然違うのに。

 

 

 腕を私に引っ張られて、そのままおとなしく座る彼に微笑む。

 

 

「いいですか? この勝利は私の力だけじゃないんです。あなたがいなければ、私はここまで強くなってません」

 

 

 私もジェンティルさんに何度も敗れて、折れかけた。

 何度も泣いて、立ち上がった。

 妹たちの前では気丈に振舞っていたけど。

 

 一人じゃ絶対ダメだった。

 それでも前に進めたのは、クラリストレーナーがいて、家族がいて、常に誰かが傍にいてくれたから。

 "私の心"に、皆が一緒にいてくれたから。

 

 

 決してその場しのぎの気分転換とかじゃない。考え方を変えても解決しない。

 負けた事実も、辛い事実も、全部を受け止めて、ただ前に進むしかない――でもそういったことがどれほど辛いのか、私は知っている。

 

 

「マックイーンさんも言ってました。ウマ娘とトレーナーは、一心同体だって」

「あ、ああ」

「今の私のように、自信を持ってください。私のためにも、あなたを信じてください。確かにジェンティルさんは強かった。でも、それは――あなたが担当トレーナーだったからです。今の担当ウマ娘である私が断言します」

 

 

 そっと、一歩近づく。

 

 

「現に、それを今の私が証明しています。オルフェさんを倒した大阪杯もそう、今回のヴィクトリアマイルもそう。去年のティアラ2冠ウマ娘に6バ身ですよ! どうですか?」

「確かに凄いけど……」

「それも、全部私だけの実力だと?」

「……そうだ、君の力だと思っている」

 

 

 ダメ。

 まだ彼の心の奥に、深い影が残っている。

 “そんなことない”と、誰かが叫んだって、きっと届かない。

 私も同じだったから、わかる。

 

 

「ではトレーナーさん」

「なんだい?」

 

 

 何を言われるのかと、少し怯えたような瞳。

 それがまた、愛おしくて。

 ちょっと抱きしめたい気持ちさえ出てきた。

 

 私の方が断然年下だけど、保護欲なのかしら――守ってあげたくなる。

 ……いや、そんなことをするよりももっと。

 

 

「私の走りは――」

 

 

 大事なことを、問うべきだ。

 

 

「あなたの心の中にいるジェンティルドンナさんを……忘れさせることが、できましたか?」

 

 

 ――その瞬間、空気が止まった。

 ココアの香りが部屋に静かに漂う中、トレーナーさんは目を見開いていた。

 そう、彼の心の中には間違いなくあの人がいる。

 紅き貴婦人、ジェンティルドンナの圧倒的な走りが鮮明に残っている。

 その存在が、彼を縛っているのなら――。

 

 

「もちろん私は、ジェンティルさんの代わりになるつもりはありません。私は、あの人を超えるつもりです」

 

 

 彼の肩が、かすかに震えた。

 私は一歩も引かず、まっすぐ見つめる。

 あの人の姿を上書きする。

 トレーナーさんの心には、常に私が一緒にいる。

 

 彼に、そう思ってもらいたいから。

 

 

「あなたの今のウマ娘は、私です。ヴィルシーナです。私だけを見てください。 私だけで、あなたの心を満たしてください。今日だって、あなたのために頑張ったんですから」

「シーナ……」

「私じゃ、ダメですか……?」

 

 

 そこまで言うと、ようやく彼の表情が少し緩む。

 その瞬間、胸の奥があたたかくなる。

 

 

「そうか……ありがとう、シーナ」

 

 

 そして彼は、憑き物が取れたように微笑む。

 

 

「今日の君の走りは、確かにオレの中のジェンティルを忘れさせていた。これからはもう、君のことしか見れないかもしれない」

「! 本当ですか!?」

「ああ、君がそこまで言ってくれるなら、オレも自分の力を信じれそうだよ」

「はい♪ じゃあもう“自分は何の力もない”なんて思わないでください。私が、あなたの強さを体現し続けますから」

 

 

 きっと、すぐには消えない。

 でもいい。焦らずに。

 何度でも言ってあげます。

 何度でも見せてあげます。

 私で、あなたの心が埋め尽くされるように。

 ジェンティルさんを、完璧に忘れるくらいに……。

 

 

(……ねぇ、トレーナーさん。あなたの心の中で、私は――1番になれましたか?)

 

 

 私は彼の腕をおもむろに取る。

 

 

「そういえばこの後、家族で食事に行こうと思ってるんですが」

「そっか、行っておいで」

「何言ってるんですか、トレーナーさんも来るんですよ?」

「え、オレも?」

「ええ、だってもうほとんど家族のようなもの。――あなたは私の、パートナーですから♪」

 

 

 手をぎゅっと握った。

 その温もりが、胸の奥まで染みていく。

 笑顔のまま、凱旋の道を歩き出す。

 

 紅き貴婦人の幻影をも霞ませる――ヴィクトリアの、蒼き女王として。

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