「却下よ、後輩くん」
その日の夜、オレはヴィルシーナの今の担当である先輩トレーナー、『クラリス』の元に来ていた。
クラリス先輩はイギリス人と日本人のハーフで、オレの1年先輩だ。
ちなみに、オレの新人研修時代の担当でもあって、毎日毎日知識の習得でしごかれたのを覚えている。
「あなた、今の状態で本当にシーナを担当するつもりなの? ふふふ」
彼女の後ろにはアンティーク調の家具が並び、木製のテーブルには紅茶がセットされている映画の中のような部屋になっている。
そんな優雅な空間の真ん中で、オレはヴィルシーナと一緒に立ち尽くしていた。
先輩のゆるやかなウェーブのかかった金髪は宝石みたいに輝いてして、エメラルド色の瞳がまっすぐこちらを見てくる。
「ねぇ後輩くん、どうなのかしら?」
「……あ、その」
「もし答えられないなら研修時代のように、また指導してあげましょうか?」
先輩は口元で笑顔を作ってるが、間違いなく目は笑っていない。
研修時代に何度も受けてきた、指導と言う名のパワハラ(あまり痛くない教鞭の棒で、頭を永遠とぺちぺち叩かれる)を思い出す。
「……すみません、先輩。その、えっと、担当、するつもり、でした……」
「そうなの、へぇー、ふーん?」
先輩の圧に耐えつつ、隣に立つヴィルシーナをチラリ。
彼女も申し訳なさそうにこちらを見ていた……なるほど、クラリス先輩には話を通してなかったようだ。
「はぁ、まったく。勢いのまま突き進む性格は変わってないようね。それがあなたの良いところだけど、1度立ち止まりなさい」
「はい……」
2人同時にしょんぼり項垂れる。
まぁ実際、先輩の言う通りだ。
今のままで、ヴィルシーナを担当するのはオレにとっても彼女にとっても、良い結果が得られるとは思えない。
ヴィルシーナの熱にあてられて、オレも手を握ってしまったが、早計だったといえよう。
「ジェンティルドンナを担当してた頃は、もちろん良い感じで私も鼻高々だったわ――でもあの件があってから、抜け殻みたいになっちゃって心配してたのに、突然シーナを移籍させてくれだなんて」
「彼女の覚悟を受け取った感じ、です……」
「なるほどね。でも、この子の重い覚悟を受け止められるような精神状態なのかしら? 私が企画を進めていた、後輩くん励まし飲み会、をした後なら分かるけど」
クラリス先輩は腕を組みながら、首を小さく振る。
そんな企画をしてくれていたとは……。
先輩も、オレを元気づけようとしてくれていたらしい。
それは単純に嬉しく思うところではあるが……、今は苦笑いせざるを得ない。
「あなたはまだ弱ってるはずよ。ちなみに、ジェンティルドンナのトレーナーを外されてから、何を考えたの? 思ったこと、言ってみなさい」
先輩の指がスッとオレの胸を突く。
甘い紅茶の香りが漂う中、鋭いエメラルド色の瞳が、迷いを一瞬で貫いてくるようだった。
「……ずっと考えていました。自分の何がダメだったのか」
「答えは?」
「いえ、その、出ませんでした」
「そう。まぁ、そうね」
先輩は紅茶を一口飲むと、再びオレを見据えた。
「実際、あなたには問題がなかった。それは私が保証する」
「あ……。ありがとうございます」
その言葉に、オレは胸のつっかえが1つとれたような気がした。
クラリストレーナーは、オレのようにジェンティルドンナ1人ではなく、多数のウマ娘をG1タイトルの獲得へと導いている。ヴィルシーナもその一人だ。
そんな彼女に肯定してもらって、少しだけほっとする。
「それでも、移籍の件については却下させてもらうわ」
やはりダメかと、沈黙が流れる。
クラリス先輩はオレのことを案じてくれていた。
それは間違いないが、今の状態ではヴィルシーナを担当することを許してくれそうな雰囲気はなかった。
彼女が考えていることを、なんとなく察していたからだ。
そのため、何も言えず立ち尽くすしかできなかった。
そんな中、沈黙を破ったのはやはりヴィルシーナだった。
「クラリストレーナー。事前に話さなかったのは申し訳ありません……。でもジェンティルドンナを倒すためには、彼女を知り尽くしている人の力が必要だと思うんです」
ヴィルシーナはそう言って頭を下げた。
クラリス先輩はそんな彼女の様子を困ったように見つめ、紅茶のカップをそっと綺麗に書類が整えられた机に置く。
「ああ、別に不義理だ~なんて怒っているわけじゃないのよ? 後輩くんが前を向いたこと自体は嬉しいんだけど……。あ、ごめんなさい、立ちっぱなしは疲れるわよね」
先輩はそう言いながら、部屋の隅に片づけられていたパイプ椅子に手をかけた。
心遣いはありがたいが先輩の手を煩わせたくないのですぐに椅子をもらい受ける。
「あら、ありがと。それに座って、紅茶でも飲みなさいな」
クラリス先輩は小さなティーポットの蓋をそっと開ける。
部屋いっぱいに広がるのは、芳醇なアールグレイの香りだった。
ベルガモットの爽やかな柑橘系の香りが、少し緊張気味だった空気を和らげていく。
オレは出されたカップに目をやる。
乳白色のカップに注がれた紅茶の色は深い琥珀色。
彼女は優雅にティースプーンを動かしながら、一滴のミルクをそっと紅茶に垂らす。
「どう? いい香りでしょう?」
先輩に勧められるまま、オレとヴィルシーナはカップを手に取り、慎重に口をつけた。
一口飲んだ瞬間、ふわりと広がるベルガモットの香りと紅茶のコクのある深い味わい。
その余韻が長く続き、ほんのり甘いミルクが全体をまろやかにしていた。
「うん……美味しいです」
「ほんと……」
オレとヴィルシーナの言葉にクラリス先輩は満足そうに頷き、自分もカップを持ち上げる。
彼女の手元で揺れるカップが、光にきらめくたび、その光景は美しい絵画の一場面のようだった。
「良かった。落ち着いたところで、本題に入るけど、私が反対する理由は3つあるの。聞いてくれる?」
オレとヴィルシーナは同時に頷くと、クラリス先輩はその白い華奢な指を、一本立てる。
「まず、単純にシーナ。あなたの実力が足りないわ」
「……それは、分かっています」
ヴィルシーナの声が小さくなる。
彼女の戦績は悪いというわけではない。むしろ褒められるべき成績だ。
ティアラ3冠ではジェンティルドンナの後塵を拝しつつも全て2着であり、今年の5月にヴィクトリアマイルで初のG1タイトルを手に入れている。
それだけでも、多くのウマ娘の中でいえば十分すぎるほどの戦績といえる。
しかし、だ。
「中距離の適性はあるだろうけど、相手は海外の中でも選ばれたウマ娘たちが出場する世界一のレースよ。今の私の見立てでは、相当な上積みをしないと難しい」
先輩は続ける。
「次に、後輩くんの知識や経験が圧倒的に足りていない。正直なところ彼は、まだまだスタート地点に立ったようなもの。そんな子が、世界のトレーナーと渡り合えるかしら?」
「待ってください。トレーナーさんは、ジェンティルドンナをあれだけ強く育成できたんですよ? 知識や経験は負けてないはずです!」
ヴィルシーナがオレを庇って言い返すが、先輩の冷静な表情は崩れない。
その理由は、オレも分かっている。
「後輩くん、あなた、外国のレースを観戦したことは?」
「ありません。凱旋門賞のレースを一般視聴者として見たことがあるだけです」
海外のレースについて何も知識がないのだ。
トレーナーとして見たことは、一度あるかないかくらいだ。
そんな状態で担当のウマ娘に対して指導したり、一緒に戦えるわけがないと、先輩は暗に言っている。
「まぁその二つは、あなたたちの今後の努力次第と言える。だけど最後の理由……。ジェンティルドンナの新しいトレーナーについて知る必要があるわ。後輩くんは、名前くらいは知ってるだろうけど」
その話題に、オレの心臓がギュッと掴まれた気がした。
「彼の名前はローラン・ジレーヌ。この10年で凱旋門賞を4回制覇した天才トレーナーよ。彼の元で教えを請いたがっているウマ娘は山ほどいるわ」
その名前を聞いた瞬間、オレの拳は自然と強く握りしめられていた。
怒りではない。怖いのだ。
畏怖と言っても良いだろう。
彼と比較されると、自分自身のちっぽけさが情けなくなる。
「おそらくジェンティルドンナ自身は、誰がトレーナーでも問題なさそうだけど、彼女の家が推薦したのよね」
圧倒的な実績を誇る彼に、オレは遠く及ばない。
極東の島国で産声を上げた、まだまだ駆け出しのルーキーで、たまたま強かったジェンティルドンナのトレーナーになれただけに過ぎない。
そんなオレと、世界的に有名なトレーナーどちらに従事できるかを選ぶなら、答えは明白だ。
「そんな状態で、後輩くん。あなたは、シーナに夢を見させることができるの?」
「……」
答えに詰まる。詰まってしまう。
先輩は研修時代を持ち出して茶化すようなことはせず、オレの言葉を真剣に待っている。
「クラリストレーナー、トレーナーさんはきっと大丈夫です。信じてください」
「シーナ……あなたの気持ちは分かるけど、今は後輩くんに聞いてるのよ」
先輩がやんわり封じると、ヴィルシーナはシュンと肩を落とす。
ちょっと可哀想だが、この場は彼女に任せてもダメだ。
オレは彼女を導くトレーナーになるつもりだ。
その覚悟を見せなきゃ、話にならない。
「先輩。ヴィルシーナを心配してるんですよね」
「当然でしょう。でもあなたのことも心配してるのよ」
クラリス先輩は紅茶を口に含んで唇を濡らす。
「1週間前、あなたが契約を破棄されたことを耳に挟んで、すぐにあなたのところに行ったのだけど、覚えてる?」
「い、いえ。すみません」
まったく、全然、これっぽっちも覚えていない。
あの時は確か、先輩の言うとおり、魂の抜け殻状態だったからだ。
「声をかけても返事がなくて、揺さぶっても、叩いても効果がなかったのよね。この私を無視するなんて良い度胸だわ」
「申し訳ないです……」
「冗談よ♪ でもそんなあなたが、ヴィルシーナを連れてやってきた。正直驚いたけれど、あなたの顔にはまだ迷いが見える」
オレは静かに頷く。
やはり先輩は、オレのことを見透かしていて、全てを分かっているようだった。
できることをやろうとは思った。
それは間違いではないだろうが、確かに今やるべきことは、凱旋門賞への挑戦なのだろうかとも迷っている。
ジェンティルドンナのトレーナーには、二度と戻れないのに、追いかけるような真似をして……。
「国内G1を多数獲得しているトレーナーでも、凱旋門賞を獲得できたトレーナーはいない。そんな前人未到の快挙に挑むのに、今のあなたで耐えられるのかしら? 時間も限られ、知識も、経験も、実力も足りない。資金だって……ちなみに貯金は?」
「20万ないくらいです」
「こら、節約なさいって言ったでしょう。ま、自己研鑽の本を色々買って、時間がなくて読まずに放置しているのでしょうけど」
「なんで全部分かるんですか」
見透かされすぎて、ビックリした。
「あなたの研修をしたのは誰?」
「先輩です……」
「よろしい。その時から片鱗を見せていたもの。まぁそれは置いておいて……この先、ありとあらゆる負荷がかかってくるわよ。それに耐えきるだけじゃなく、シーナを支えないといけない。気持ちや覚悟だけではどうにもならないことばかり。それでも――」
クラリス先輩は、今までのように冗談交じりな雰囲気を一瞬で収めた。
そして、ウマ娘の人生に責任を持つ一人のトレーナーとして、オレに問う。
「あなたに、彼女の夢を支えることは、できるの?」
ごくっ、と喉が鳴った。
血の気が引き、手が震え、唇をぎゅっと締める。
できるのだろうか? 本当に、俺が……ヴィルシーナの夢を叶えられるのか?
心臓が早鐘のように打つ。
視線が下に落ちそうになるのを、必死で耐えた。
逃げたくなる気持ちを振り払うように、拳を握りしめる。
「トレーナーさん……」
そんなオレに、心配してかヴィルシーナが手を出したり引っ込めたりしていた。
クラリス先輩は、小さくため息を吐いて、優しく微笑みながらヴィルシーナに語り掛ける。
「シーナ、ここからはトレーナー同士の話し合いをしなくちゃならないみたい。申し訳ないのだけど、部屋の外で待っていてくれる?」
「は、はい……わかり、ました」
ヴィルシーナが部屋を出て行く。
時刻は19時を回ったところ。
彼女の背中を見送った後、クラリスは静かに息をついた。
その目はどこか遠くを見つめ、深い思索にふけっているように見えた。
しばらく無言で立ちつつも、やがてその口を開く。
「ヴィルシーナの気持ちなら、トレセン学園のみんなが知っている」
ぽつりと呟きながら、椅子に座って、一冊の雑誌を手に取った。
「ヴィクトリアマイルに勝利して、彼女は喜んでいた。念願のG1初タイトルだもの。それはそれで素晴らしいことだと思う。でも、あの子はここに特集されているイベントで宣言したわ」
それは、とあるイベントの記事だった。
ビューティ安心沢さんが開催したBDC・ミューズオーディションについて、まとめられている。
「誰に伝えたかは、火を見るよりも明らかだった。いえ、むしろあの闘志は、火そのものだったわね」
そこでミューズとなり、勝負服を手に入れたヴィルシーナは、メッセージを送ったのだ。
『貴方に勝つのは私、この勝負服に懸けて誓う――』と。
「だけど、ジェンティルドンナは今、凱旋門賞に向けて海外に行ってしまった。その後、彼女がどうなるかは分からない。世界王者が、はたまたそうでないかはともかくとして、リベンジのチャンスは、ほぼ1年後。その時までに何が起こるか分からない。もしかするとどちらかがピークアウトを起こすかもしれない」
クラリスは手元の紅茶を手に取り、一口飲む。
オレも釣られて湯気立つ紅茶に目をやった。
「シーナはそれを理解しているけれど、それでもまだ諦めていない。だから、私は夢を叶えてあげたい。でも、私には彼女にできることがないの……」
オレは黙って聞いていた。
「私は他のウマ娘たちも担当している。だから、シーナの願いを全身全霊で支えてあげることはできない。ヴィルシーナが目指しているのは凱旋門賞……。国内のG1とはまるで違う、全く別次元のレース。そこに割く時間は、私にはあまりにもないわ。来年デビューする子たちも、もう決まってるしね」
クラリスは申し訳なさそうに目を閉じる。
「だから、あなたがヴィルシーナと一緒にやってきて驚いた。なんだか、運命って言葉を信じたくなるほどに。ヴィルシーナを担当してくれたら、私は嬉しく思っている。でも、その一方で、あなたもきっと苦しむことになる」
先輩の言葉の重さが、胸にじわりと染み込んでくる。
「まだあなたはルーキーよ。凱旋門賞に特化して取り組んだとしても、世界が相手では勝てる見込みは薄い。それなのに、無理して凱旋門賞を目指して、他のトレーナーたちが国内G1を取っていったら、あなたは一人取り残されてしまう。これはゲームじゃない。あなたの人生。トレーナーとしてのキャリアが揺らぐのよ」
先輩は立ち上がり、オレの前に立つ。
見下ろしてくる目は優し気で、その手がそっとオレの頬に触れた。
「国内G1での実績は、ジェンティルドンナの戦績があるだけ。それも、あくまであなたの評価じゃなくて、彼女の実力があってこその結果だとみんなが思っている」
クラリスの言葉は、どれも厳しく、重く響いた。
しかしその裏には、彼女の深い考えとオレへの気遣いが感じられた。
手の暖かさに少し甘えつつも、自分が今、目指そうとしている道が、支えようとしているリスクが、どれほど大きいものかを実感する。
「あなたのトレーナーとしての人生も大事なのよ。だから、私にはあなたに凱旋門賞を目指すヴィルシーナを託すことはできない。ましてや、今の状態のあなたにはね」
先輩を見つめた。
彼女の想いを知りつつ、自分の状況を改めて示してもらったことに感謝するしかなかった。
オレは、ヴィルシーナに声をかけられたとき、まだふわふわしていたのだ。
「無謀な挑戦をしようとして、ウマ娘を壊して、トレーナーを辞めてしまった人もいたわ……。あなたとヴィルシーナの二人とも、同じような道を歩むかもしれないと思えば、私は怖いのよ。それでも本当に、あの子と一緒に歩むつもりなの?」
迷いがありつつも、彼女の手を取ってしまった。
進むべきかどうか、覚悟を決めたつもりになって……その実、何も考えていなかったことを自覚する。
「ありがとうございます、先輩。心配してくださって、嬉しいです」
クラリス先輩の言葉は、オレの心に深く響いた。
悲しげな眼差しで見つめられて、彼女の気持ちがひしひしと伝わってくる。
先輩が本気で心配してくれているのは、よく分かった。
クラリス先輩が言ったように、無謀な挑戦をしたトレーナーの末路は、ウマ娘を壊して、キャリアを失ってしまうのだろう。
もしも自分がそうなったとき。
ウマ娘に対する申し訳なさと後悔の念が、どっと押し寄せることが容易に想像できた。
「……でも」
それでも、オレは前に進まないといけないと思った。
思い起こすのはジェンティルドンナとともに歩んだトゥインクルシリーズの記憶と、彼女の背中。
そして、ヴィルシーナがオレたちに挑戦してくる姿だ。
「オレがこれからお伝えすること、聞いてくれますか?」
そんな言葉が、口をついて出た。
もう後戻りできない気がした。
迷いが深くて、動き出すことに怖さがあった。
「……ええ、いいわ。言ってみなさい」
その上で、オレはどうするべきなのか。
ゆっくりと口を開く。
自分の考えというより、今感じている想いが、勝手に吐き出されていく。
「ジェンティルのトレーナーを外れてから、何をするべきか考えることができていませんでした。何がいけなかったのか何もわかんなくて、時間だけが過ぎて、実感が湧かなくて……」
「そう……」
「このまま消えてしまいたいって、思っていました。慰められる言葉も、優しい言葉も、全部気持ち悪く感じて……でも、さっきの先輩の言葉には救われました。オレの尊敬する先輩の言葉だから、胸に響きました」
椅子から立ち上がり、彼女を見据える。
「それと同じように、ヴィルシーナも、オレを救ってくれたと思います。彼女は、オレを利用するなんて言いつつ、オレに目標をくれたんです」
自分でも分かるほどに、目に力が戻ってくる。
声に本来のハリが戻ってくる。
「確かに先輩に言われるまで、なんとかなるだろうと思っていました。何かをしないといけないって。ジェンティルドンナを追いかけて、凱旋門賞で相まみえたら、また会えるかもなんてことも思っていて……情けないですよね。そんな状態でヴィルシーナを支えるなんてできやしないのに。先輩の言う通りです」
忘れていた、大地に立つ足の感覚が元に戻っていく。
握り拳を作る力加減を思い出していく。
「先輩のおかげで、やっと思い出しました。ジェンティルドンナのトレーナーをしている時、あの子の涙も、背中も、悔しそうな顔も見てきたことを。彼女の想いは、ジェンティルドンナの横でオレも受け止めてきたんです」
背筋が伸び、体が勝手に胸を張っていく。
思い出すことも怖くなっていたジェンティルドンナとの日々の中で、幾度となく対戦したヴィルシーナの姿が鮮明によみがえる。
ヴィルシーナの覚悟。
彼女の震える声。
あの真剣な眼差しが、頭を離れなくなる。
「ヴィルシーナの悔しさ、今のオレなら分かります。オレは悔しいんです。ジェンティルドンナを奪われたこと。だけどヴィルシーナは、そのジェンティルドンナに何度も1着を奪われても、何度敗れても、立ち上がってきた。そんな彼女のように、オレももう一度立ち上がりたいんです」
「あなた……」
諦めるなんてしなかった。
諦めてなんてやらないと走り続けたウマ娘。
ヴィルシーナのように。
「ここで逃げたって、たぶんオレはもう前に進めないでしょう。きっとジェンティルドンナのことばかり考えて、もう二度とウマ娘を担当しようなんて思えない気がするんです。だから、これはオレにとって【トレーナーを諦めない】ための挑戦です」
そして、力強く宣言する。
「だから先輩の想いを継いで、オレがヴィルシーナを支えます! 彼女と一緒にジェンティルドンナに挑戦します!」
言い終わったあと、沈黙が流れた。
オレの想いを聞いたクラリス先輩は静かに目を閉じ、柔らかな溜息を吐く。
「そう……これだけ忠告をしても、進むのね?」
鋭い睨みが胸を突きさす。
だが、オレはその視線を真正面から見つめて、こう返した。
「はい!」
その瞬間、クラリス先輩は上品に、そして嬉しそうに笑った。
「……ふふふ、あははは! 覚悟は完全に決まったようね?」
勢いよく振り向き、髪を乱したクラリス先輩は、痛くない教鞭の棒を手に取った。
「そう、その目、姿勢、表情。それでこそ、後輩くんね。戻ってきたじゃない」
それをオレの頭の上にぺち、と置く。
厳しかったけど、きちんとトレーナーとして活躍できるよう指導してくれた日々、そしてその先輩の優しさを思い出す。
「本来のあなたに戻れば、そう言うと思っていた。ううん、そう言ってくれると信じていた。あなたはほんと、昔から生真面目なくせに、やると決めたらやるんだもの」
気恥ずかしいことを言われて思わず頬を掻く。
これからの道がどれほど険しいものであるか、それは分かっている。
だが、それでも自分は進むべきだと思った。
「決めたからには、とことんやりなさい。困ったことがあれば、どんな手を使っても協力する。その代わり、中途半端は許さないんだから」
目をそらさず、しっかりとクラリス先輩の想いを受け止める。
彼女と握手をして、その願いを心の奥へと流し込んでいく。
「相当厳しい戦いになる。でもあなたたちなら乗り越えられると信じて、正式にヴィルシーナをあなたに託します。彼女の夢を、叶えてあげて」
彼女の言う通り、相当厳しい戦いになることが予想されるため、今日からやることは山積みだ。
早速、何から手をつけるか考えていかねばならない。
「シーナ、入ってきていいわよ」
クラリス先輩が呼びかけると、おずおずと扉を開いて、ヴィルシーナが顔を覗かせた。
ゆっくりとこちらの様子を伺いながら入ってくるその瞳は、さきほどと打って変わって、輝きを見せ始める。
「ヴィルシーナ。正式に、これから君を支えるトレーナーになった。よろしく頼む」
そう伝えると、ヴィルシーナは口元を両手で抑え、目を見開いた。
だがすぐに平静を装い、自らの胸に手を置いて――凛とした佇まいで正式な挨拶をする。
「はい! ヴィルシーナ、承りました。これからよろしくお願いしますトレーナーさん!」
もう迷いはなかった。
ふわふわした足元も存在しなかった。
オレは彼女の夢を全力で支えるために、挑戦すると誓う。
ジェンティルドンナに、勝つために。