気づけば、ロンシャンレース場までたどり着いていた。
そうだ、タクシーに乗ってきていたんだった。
関係者用の入り口であっても、少し離れたところは観客でごった返している。
ゆっくりとタクシーが入っていくが、ここまでの道中、シーナとオレは言葉を交わした記憶がない。
シーナはスマホをいじって、誰かに連絡していた。
何か声をかけようと思ったが、邪魔しちゃ悪いと思った。
……いや、それは言い訳だ。
ジェンティルのことが頭から離れなかったからだ。
もうここまでやってきたのに、もう今さらだ。
契約が破棄された時は確かに驚いた。
しかし、フォワ賞の時にもオレは会った。
そこでオレたちは、本当にもう別々の道へ行ったんだ。
もう戻れない。今のオレは、凱旋門賞に挑むシーナのトレーナーなんだ。
そういう"運命"だったんだ。
何のためにここにいるんだと、自分に言い聞かせる。
だが、どうしても頭の中から切り離せなかった。あの手紙の内容が。
ピロン。
【クラリス先輩】
「今からレース場へ向かうわよ~。今日はファイト!」
先輩からそんなLANEが送られてきた。
ふとタクシーの窓に映る自分と目が合う。
(まずい。こんな顔をしていたら、先輩に気づかれる)
もっと取り繕わないといけない。
もし担当がジェンティルだったら、こんな立ち居振る舞いはしていないはずだ。
堂々としていよう。
タイミング的には、もしもジェンティル陣営がオレを惑わすために遣わせたのなら確かに有効だ。
これが印刷されたものなら間違いなく、相手の作戦だと思って気にしなかっただろう。
だが、あれは間違いなくジェンティルの文字だった。
彼女がそんな小細工をするとは思えない。
だとすれば、やはりあれは本物と考えるのが妥当だろう。
シーナのトレーナーになったオレにとって、切り捨てるべきものではあるが。
本当に、それでいいのだろうか。
……。
ダメだ、こんなことばかりを考えていては。
もうここはロンシャンレース場。
頭を切り替えて、目の前のレースに集中するんだ。
『安心してください。私が、あの人を倒してご覧に入れます』と言ってくれたシーナのためにも。
メイさんたちみんなのためにも。
「さぁ、行こうかシーナ!」
「はい」
声を張り上げる。
ジェンティルの事は今更どうしようもない。
割り切るしかない。
もしここにジェンティルがいたら、何があっても今は背すじを伸ばせというだろう。
虚勢でも良いから胸を張れと。
そうだ、挑まなければならない。
挑むんだ。
そしてジェンティルを。
倒すんだ……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
先輩がスマホを片手に、慌てて控室にやってきた。
「後輩くん。シーナから聞いたわよ。何があったの?」
先輩がやってきて、すぐに言われたことがそれだった。
オレが彼女に詳細を言わないから、先輩に相談したようだ。
「すみません……トレーナーさん」
そう言えばタクシーに乗っていた時にスマホを触っていたから、その時だろう。
別に怒ったりはしない……シーナが先輩に伝えたのは、きっとオレを心配してのことなのだろう。
「何があったのか言ってみなさい?」
「……」
「言っておくけど、嘘をついても無駄よ。あなたが本当のことを言っているかどうかくらい分かるわ」
だが、非常に困ったことになった。
先輩に隠し事は通用しない。嘘はすぐに見抜かれる。
オレの仕草や態度は全部、先輩に筒抜けなのだから。
「担当に心配をかけさせるのは、トレーナーの仕事ではないわよね?」
そうは言うが、言えるはずがない。
……だが、ここまでバレているなら、伝えるしかない、のか。
オレは迷いつつも、意を決して。
さきほどの秋村サチさんの言葉と、ジェンティルからの手紙のことを二人に伝えた。
……。
……。
……。
「そんな……、ジェンティルさんが……?」
聞いたシーナが愕然とする。
先輩も目を見開いている。
「……それで、後輩くんはどうするつもり?」
「今のオレはシーナの、トレーナーです。だから……ここにいます」
もちろん本当なら、助けに行きたい気持ちはある。
だが、そんなことできるはずもない。また捕まるのがオチだろう。
今度こそ警察でも呼ばれて、レース前に相手陣営に突撃したトレーナーとして、前代未聞の事件にさえなる。
フォワ賞の時だって、やっぱり行っちゃいけなかった。
だからジェンティルはオレを守るために、あえてオレを遠ざけるようなことを言ったんだ。
だがオレは自分の気持ちをぶつけることしか考えてなくて、彼女の気持ちに気づけなかった。
だからもう、ジェンティルを倒す道しか残っていない。
挑むしかない。
どんなことがあっても些末なこととして、処理するんだ。
それが、ヴィルシーナの"トレーナー"なんだ。
拳をぎゅっと握る。
「大丈夫です。オレはシーナのトレーナーですから。その覚悟は、最初からずっと……」
あの時、誓ったはずだ。
この二人に。
それをもう一度誓おう。
目が乾く。
口角筋が痙攣する。
だが関係ない。
挑まなければならない。
シーナのトレーナーとして、胸を張って、背筋を伸ばして。
挑むんだ。
ジェンティルドンナに。
「シーナ、これはオレの問題だ。だから君は、レースに集中するんだ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(……そっか)
トレーナーさんはジェンティルのことは自分の問題だから、レースに集中しろと言ってくれた。
確かにそれは"トレーナー"としては正論なのかもしれない。
(やっぱりジェンティルさん、そうだったんですね……)
私がクラリス先輩を"利用して"まで、知りたかったトレーナーさんの抱えていることを聞いてしまった。
あの人の苦しみは、自分も分かち合いたかったから。
(トレーナーさんの心の苦しみは私にも分かる。だけど、あの人はあくまでも私のトレーナーでいてくれようとしている)
あの人の心には、ずっとジェンティルドンナがいた。
契約した頃も、大阪杯のあとも、ヴィクトリアマイルのときも、フォワ賞の後も、
――いつだって、彼の心の中には紅き貴婦人の幻影があった。
(ジェンティルさんはトレーナーさんから離れた。もう戻ってこないと私も思っていた。だから私は、あの人の代わりに、あなたの心に居座ってやろうと思った。それが、間違いだった)
シーナは短く息を吸う。
「クラリストレーナー……、トレーナーさんと二人でお話させてもらってもいいですか?」
そう聞くと、クラリストレーナーは頷いて部屋を出て行った。
もちろん邪魔者扱いしたわけじゃない。
ここから先は、私とトレーナーさんの問題だから。
「トレーナーさん」
「なんだい?」
どういうすれ違いがあったのかはわからない。
でも私が、あなたを誘ったから、こんなことになってしまった。
(その傲慢な考えが、あなたを、そんな苦しい目に合わせてしまった)
結果的にあなたを苦しめる場所へ、ジェンティルさんを倒すこの場所へ連れてきたのは、私……。
「私は、卑怯な女なんです」
一瞬、私の声が震えた。
「シーナ? 何を言って……」
「実は、あなたがジェンティルさんと離れたあの日、思ったんです。もし私がそばにいれば――あなたは笑ってくれるかもしれないって。あなたの一番になれるかもしれないって」
レースに集中するべき。
それは分かっている。
「だから、私はあなたの心に入り込んだ。それが間違いだったのだとしても……私は、あなたを、私の手で救いたかったんです」
だけど、今はそれ以上に。
私たちの、大切なことを話さないといけない。
「でもジェンティルさん、やっぱり本当は離れたくなかったんですね……。離れなきゃいけない理由が何かあるのかなって思っていました。ライバルとしての不思議な繋がりというか、ずっと見てきたから分かるんです。そしたら、やっぱりって感じで……。でも私は、それをあなたには伝えませんでした」
「……」
「ほら、私ってこんなに卑怯な女なんです。あなたが担当トレーナーになって、本当に嬉しかったんです。だから、ジェンティルドンナさんの担当に戻って欲しいとは"思わなかった"。私があなたに示したのは、あなたが世間やジェンティルさん陣営を見返す、対決の提案だけですから」
手紙の内容を無理やり聞いたのも私。
それも分かっている。
だから分かる。
このままだとあなたは、このレースを"苦しんだまま"見ることになる。
「お弁当を作った時だって、ミューズの服を着た時だって、もうトレーナーさんは私のトレーナーさんだと考えていました。でも、あなたの心はずっとジェンティルさんに向いていた。最初から、私が入り込める隙間なんてなかったんです」
どうしようもないからって、諦めるなんて。
そんなの、ジェンティルさんのトレーナーさんらしくない……。
私の担当である以上、あなたはジェンティルさんを倒さなければならない。
でも本当にそれでいいんでしょうか。
ウマ娘を導くトレーナーとしては、私を送り出すのは確かに正しい選択なのかもしれないけど。
あなたという人間は、どう思っているのか聞かないといけない。
「あなたは優しい人です。だから、家族の前で私を担当だと言ってくれた。だけど、私の担当である以上、あなたはジェンティルさんを倒さなければならない」
「そうだ。オレは"シーナのトレーナーとして"――」
「ではジェンティルさんの本心を知った今、あなたは本当にジェンティルさんを"倒す覚悟"はおありですか?」
「っ!!」
我ながら、とんでもなく意地悪な質問だった。
だけど、この問いに対する答えで、トレーナーさんの本心が分かる。
「……ッ! ……ッ!!」
トレーナーさんは、拳をぎゅっと握っていた。
目を見開いて、言わんとしている言葉が勝ってに喉を戻っていっている。
それはきっと、理性と本能の狭間。
……良かった。
"トレーナーさんが、答えられなくて"。
「ありがとうございますトレーナーさん。ここですぐに『倒す』って仰ってたら、私はあなたにガッカリしていました。だって、私が好きになったあなたは、その優しさで自分を苦しめてしまう人ですから。そんなあなたを、私は尊敬しています。私だって、ジェンティルさんの想いを知って『私だけを見てほしい』なんて言えません」
トレーナーさんは小刻みに、首を横に振り続ける。
そんな顔しないでください……。
私も本当は、ジェンティルさんにあんな事情がなければ、あなたと一緒に走りたかった。
「ジェンティルさんは、本当はきっとあなたをずっと待っていたんだと思います。だけどあの日、私がその間に割り込んでしまった。ジェンティルさんからあなたを奪ったのは、私なんです」
胸は苦しい。
離れたくない。
だけど、自然と笑顔が出る。
運命という言葉が本当にあるのなら、ここまで連れてきてくれたことが運命だったのだと思う。
ここから先は、別の道……。
「あなたがこの十か月間、私のそばにいてくれたことは嬉しかった。本当に、嬉しかったです……♪」
「シーナ、待ってくれ……、オレは!」
「もしトレーナーさんが私を選んで──私の我儘が、あなたを苦しめるのなら、私は私を許せません」
トレーナーさんが目を見開いた。
呆然として私を見ている。
きっと彼の眼には、ジェンティルドンナさんと同じように映っているのかもしれない。
だけど、その裏の事情は違う。
ジェンティルさんこそ、あなたの本当の担当ウマ娘。
運命のウマ娘だった。
それが今回で、はっきりとわかっただけ。
「心配しないでください。あなたが教えてくれたことや、積み上げてきたものがある限り、私は走れます。だから、あなたはジェンティルさんのところへ行ってあげてください。彼女には、あなたが必要です。あなたが担当している本当のジェンティルドンナじゃないと、勝っても意味がありませんからね」
それは本心だった。
あのフォワ賞の時のようなジェンティルさんが相手だったら、勝った気にならない。
ジェンティルドンナには、本当の、運命のトレーナーさんが必要なんだと本能で感じたのも本当だ。
「大丈夫、私は大丈夫です」
だから最後に、はにかみながら、私は小さく笑った。
「あなたがトレーナーになってくれて、私は、幸せでしたから――♪」
そう言い残して、私は背を向ける。
扉を開けて、部屋を出る。
扉がゆっくり閉じていき。
――どうか、追いかけてこないで。
あなたのためにも、ジェンティルさんのためにも。
どうか。
どうか……!
パタン、と。
扉が閉まる。
「……」
そう、それでいいんです……トレーナーさん。
今まで。
ありがとうございました。