午後の陽光は、徐々に傾きはじめていた。
ロンシャンの芝が金色に染まり、空気は熱を帯びている。
観客席には、すでに無数の人影がうねっていた。
紙旗が翻り、スマホで出走ウマ娘たちの情報を見たり、写真や動画を撮ったりする人々の熱気が途切れなく続く。
遠くから流れてくる注意喚起のアナウンスの中にもざわめきが混じり――それらが一体となって、会場全体を包み込んでいる。
ヴィルシーナは地下バ道を進み、レース場へ向かう。
出走まで、残り6分。
ウマ娘たちが、パドックに姿を現す。
蹄鉄が芝を踏むたび、音が地面を伝う。
「ヴィルシーナ!」
「あ! ヴェニュスパークさん、みなさんも」
ヴェニュスパーク(フランス)に呼ばれると、そこには共に練習をした仲間たちがいた。
右からウォーレアンハーツ(アメリカ)、エンシュヴィヒト(ドイツ)、ロゥレディア(イングランド)が揃っている。
「Hi, how are you?」(ハーイ、元気?)
「Lange nicht gesehen」(久しぶりだね)
「Here we go at last!」(いよいよね!)
それぞれに挨拶を交わす。
一緒にトレーニングした仲ではあるが、今日はライバルであり強敵。
すでにシーナは彼女たちの情報は頭に入れているが……当然、一筋縄ではいかない相手ばかりだ。
レースから先は、ウマ娘同士の戦いとなる。
担当トレーナーがこの場にいなくても、勝敗に影響するわけではない。
今までのトレーニングでトレーナーからは、たくさんのことを学んで吸収した。
これまでの成果を出すのだから、後は己自身の戦いになる。
だから今は……。
(レースに集中……これは私の戦い。みんなと約束したんだから)
いつか、離れなきゃいけない時が来るかもとは思っていた。
だからそのいつかが、本当に訪れただけ。
ジェンティルドンナとの契約を破棄されてからの姿を見ていれば、ダメになってしまうと思ったから声をかけた。
そうなって欲しくなかったから、契約を持ちかけた。
もちろん自分の打算的な感情はあっただろう。
しかし、契約後すぐに彼が倒れた時、もし自分のわがままが苦しませる原因になるのなら、身を引く覚悟はしていた。
(だから、トレーナーさんのことは……)
そこでふと、観客席の声援が少し大きくなった。
見れば地下バ道から姿を現したウマ娘が1人。
紅き貴婦人。ジェンティルドンナ。
トレーナーを守るために自ら突き放すようなことをした覚悟を、シーナは知っている。
だがそれをわざわざ聞くほど野暮ではない。
「あれがジェンティルドンナ、です、ね?」
しかし、ヴェニュスパークたちの瞳には警戒の色がなかった。
「うーん? あまり強く、見えない、です」
「え?」
「すごく、集中してます。でもまるで、ヴォワールで覆われている……あ、英語だとヴェール、です」
「ヴェール、ですか……?」
「はい、無理やり、ガチガチな鎧、着させ……られ、てる感じです。重そう。フォワ賞でも、あんな感じ。あれなら、日本に居た時の、彼女のが、強いです」
カタコトの日本語で伝えてくれるヴェニュスパーク。
シーナも再度ジェンティルドンナの姿を見る。
……目を瞑って集中している。
背筋をピンと伸ばし、姿勢を正し、つま先を揃えている。
特に変わった様子は見られない……が、どういうことだろうか。
「Vielleicht ist die Muskelkoordination schlecht, oder vielleicht auch nicht. Man könnte sich fragen, ob sie damit gut laufen kann」(筋肉の連動率が悪いのかもしれないかも。あれで上手く走れるか疑問を持ったりするかも?)
「Yes, she seems full of motivation…… but something is completely off. There is something fundamentally missing.」(そうだネ、やる気は満ちてるっぽいけど……何かが完全にズレている。もっと根本的な何かが、欠落しているネ)
「Well, that’s rather underwhelming, isn’t it? I could crush that with ease.」(なんだか拍子抜けですわね~。あの程度なら軽く捻り潰せますわ)
「Je ne l’ai vue qu’en vidéo, mais toutes les Uma Musume entraînées par Laurent portaient ce voile à la perfection. C’est pour cela qu’elles étaient fortes.
Mais Gentildonna, elle…… non. Cette force-là ne lui correspond pas du tout.」(私も映像で見ただけだけど、ローランが育成したウマ娘たちは、みんなそのヴォワールがぴったりだった。だから強かった。だけどジェンティルは、違う……。まったく、合っていない」
英語は何とか単語で推測できたが、フランス語もドイツ語までは分からない。
けれど、彼女たちが感じ取った“何か”は、確かに伝わってきた。
意味は理解できなくても雰囲気で感じ取れる。
(言われてみれば、日本に居た時のような圧とは、また違うわね……)
シーナは改めて、ジェンティルの方を見やる。
(いいえ……ジェンティルさん、あなたがどんな状況になっていようと、わたしは今日、あなたに――)
トレーナーとの契約に関してある程度事情は聞いた。
それが関係しているのかどうかはわからない。
しかし情けや同情など、彼女が最も嫌うことのはず。
(……勝ちます!)
それを分かっているからこそ、ヴィルシーナはジェンティルに声をかけることはなかった。
そして向こうからも、何か声をかけてくることもなかった――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――出走まで、残り1分。
ヴィルシーナは高鳴る鼓動を胸に、早めにゲートインする。
コンディションは悪くない。
芝の状態にも適応している。
枠は9番。逃げ先行策を考えればとても悪い枠というわけではなかった。
しかし、相手は海外のトップクラスのウマ娘たち。
ゲートに入っただけで、その圧力が身に染みるほどに感じる。
闘気とでも言うのだろうか。
芝さえ合えば、誰もが日本のG1レースで好成績を残せそうに感じる。
(だけど、それは私だって同じ……)
G1を3勝した。
ヴィクトリアマイルでの2連覇と大阪杯での1勝は決して伊達ではない。
ちらりと見ればジェンティルドンナの枠は15番。
良い位置ではないが、おそらく本来の彼女ならものともしないだろう。
しかし。
さきほどのヴェニュスパークの言葉が本当に何かを意味しているなら……。
(私が気にする必要はない……。この日のために、私は……全部利用してきたんだから!)
ガコン!!!!!
ゲートが――開いた。
「ふっ!!」
ついに始まった、20人で争う凱旋門賞。
最初の400メールは平坦な直線が続く。
ヴィルシーナは序盤の攻防戦で前目のポジションを狙っていた。
芝はやや重く感じるが問題ない。
体を傾けて内側に入りつつ、加速する。
(マークが薄い……。おそらく後ろ側にいるあの人に集まっている!)
世界各国から集まった猛者たちの中、ヴィルシーナは前目の3番につけた。
だがまだ油断はできない。
20人のうち9人が前目の策を得意としていたはずだ。
その中に、あのジェンティルドンナもいる。
ジェンティルドンナのトレーナーは現在、過去に4度も制覇している。
当然警戒はされるだろうが、ロゥレディアたちの話ではさらに敵視されているという。
ちらりと後ろに目をやると、ジェンティルドンナは枠が15番であったからか、後方の位置、やや中団以降につけている。
(足を溜めるつもり? 確かに悪い作戦ではないけど……)
完全に隊列が固まっているわけではないため、ここから徐々に上がってくるのだろう。
警戒は他のウマ娘に任せて、ヴィルシーナは自分の走りを続けていく。
(私はここをキープする。さすがに最ウチではないけど、そこは傾斜が強い場所もある。ならここが――)
最適解。
そう考えたのもつかの間。
「Oh, pardon !」
「mi scusi!」
「っ!?」
いつの間にか、狙ったポジションを奪われていた。
体を入れられ、それに抵抗する力で押し負けた。
(くっ……! 譲りたくないけど……さすがに2人同時は、厳しい)
1人なら競り合っても良かったが、2人相手なら余計にスタミナを消費する。
ここは引くしかない。
気づけば、先頭から数えて7番目の位置に押し込まれていた。
レースにおいて重要なポジション取りは優先度を決めている。
今は優先度的には4つめ、つまり最低条件の場所だ。
脚質的に差しのウマ娘が多いためこの位置につけてはいるが、もしここにジェンティルドンナが来れば勝利は絶望的になる。
(ジェンティルさんならパワーで押し返せるんだろうけど、このレースではそこで競り合える余裕はない……思っていた以上に手ごわいけど、まだ中盤で抜き返せば……っ! うっ!?)
がくん、と足が一瞬バ場に取られた。
それを見逃されないわけもなく、さらに1人、また1人とシーナの前に行く。
(上手くいかない……っ! 思い通りにいかない!)
他のウマ娘に意識が行っていた中、足元が疎かになっていた。
日本の整備されたバ場と比べて、形状の違う凹凸がある。
警戒はしていたが、一瞬の気が逸れて失念していた。
ここは中団に控え、機を伺うしかなかった。
(いいえ、まだ策はあるわ。私には、私が今まで全て背負ってきたものがある……。それはトレーナーさんの作戦やトレーニングも一緒。私は利用する。全部利用して、勝ってみせる!)
そろそろ長い傾斜が始まる。最大斜度2.4パーセントの上り坂だ。
ここの上り方はマスターしている。
トレーナーさんに教わって、ヴェニュスパークたちとともに実践したのだ。
もう合同練習の時のように、ついていくのがやっとというわけではない。
(きっとジェンティルさんの位置なら、ここで上がってくるはず……、それは他のウマ娘が上がってくるのも意味する。ここで余分な力を使わないつもりだったけど、少しギアをあげなきゃ)
だがそこでシーナは、気づく。
他のウマ娘はどんどん上がってこようとしているのが背中にかかる圧でわかった。
だが、彼女の圧だけが背中に感じない。
(ジェンティル、さん……?)
まるで彼女は、本当に鎧でも着ているかのように、後ろへ下がっていった……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ジェンティルは自らのポジションが下がっていることを自覚していた。
(体が思うように動いてくれませんわね……。パワーのコントロールもやはりできない。最適な力が出せないから、全身が鉛のように固く重い……)
出走前に聞こえてきたフランス語や英語、ドイツ語はある程度理解できたため、会話の内容は聞こえていた。
鎧を着せられているとはよく言ったものだと、ジェンティルドンナは内心感心する。
フォワ賞の時もそうだった。
そして今はその時よりも、重い。
(結局、力のコントロールが元に戻ることはなかった……体の異常も発見できず、原因は分からないまま)
だが時は止まってくれなかった。
対処法が見つからぬまま、挑むほかはなかった。
勝つために走らなければならない。
力が上手く扱えなくても、この身体で挑み続けなければならない。
このまま戦いに身をやつしていても、結果は見えているだろう。
しかし、走り続けるしかない。
(それどころか力がどんどん落ちて……それこそ、わたくしの身体に、分厚い鉛の鎧が被せられているように)
一年前の自分なら、この程度の重さなど軽く吹き飛ばせる自信はあった。
だが今は……その力がもはや扱えない。
パワーを出すことに専念すると、無駄な労力を使ってスタミナもパワーも消費する。
(勝たなければいけないのに、それを体が許してくれない……)
この体に何が足りないのかと言われれば、……やはりあのシスターの言う通り、歯車、だろう。
その歯車が何なのかも分かっている。
ジェンティルは自らそれを、遠ざけてしまった……。
(ふっ……、不条理なものね。これまでわたくしのしてきたことが、ことごとく裏目に出るなんて)
しかし後悔はない。
それで彼を守れるなら、どうということはない。
(わたくしに残されたものは、レースの勝利のみ。たとえこの身が朽ち果てようと、裏切りの華として咲いてみせる)
それでこの分かたれた運命は……完全な終わりを告げる。
もう二度と元の場所に戻れないのだから、進むしかない。
だがもしも。
もしも――
元の場所に戻れるのなら……。
(そんなことを思うのは……我儘、かしらね)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「くっ……!」
すれ違うデジタル時計を見ると、ちょうど出走時刻の1分前。
もうすでにゲートに入っているはずだ。
観客の波に揉まれないよう関係者の腕章をつけて、以前見つけた地下バ道を入り、抜けていく。
ウィーナーズサークルの近くにたどり着いた時。
ちょうどレースが始まった。
背中と上空から歓声が渦巻く中、彼女たちの姿を見つける。
そわそわして見ていたが、中盤に差し掛かったころ。
隊列上、シーナは後ろから8番目、ジェンティルは3番目というほぼ最後尾まで下がってしまった。
「……ッ!」
それを見た時、体の奥から強い焦燥と、我慢できない苦しみが噴き上がった
首を小刻みに振る。
二人とも酷い位置だ。
ズルズルと今も後ろに下がっている。
外を回らされ、傾斜の強い場所を回らされ、良いポジションを取ろうにもブロックされている。
あれでは前に行けない。間を縫うこともできない。
シーナは前目の脚質なのに差しの位置、ジェンティルに至っては追込脚質の位置だった。
違う。
違う。
違う違う違う!!
そうだ。違うんだ!
間違っていたんだ、オレが!
ジェンティル。
君とオレの運命が別れた時から、オレは。
君のことを、ずっと。
ずっと――
諦めたくなかったんだッ!!
体全体で息を大きく吸い込み、視線の先――真紅の勝負服をなびかせるジェンティルドンナに、力の限り叫んだ。
胸の奥から、己が望む魂のすべてをぶつけるように。
「ジェンティルドンナァああああああああああーーッ!!」
届くはずのない声。
本当は出走前に声をかけたかった。
だが間に合わなかった。
もう今しかない。
聞こえるはずもないが、ルドルフやクラリス先輩の言う通り。
空間を飛び越えて届くことを、信じて――。
「負けるなぁあああああああああああああ!!」
狂騒の渦を切り裂き、中空を突き抜ける。
ジェンティルの耳に届いているとは思えない。
それでも。
叫び続けた。
「オレは!!! 君の!! トレーナーだぁあああああ!!」
彼女はオレを守るために“悪役”を演じ、自分の想いを殺した。
オレの前でわざとあんな酷い言葉を吐いて、彼女の想いは微塵も感じさせなかった。
その言葉には、誰にも分からない痛みと誓いがあった。
裏切ったふりをしていた彼女の瞳の奥——それにオレは、気づけなかった。
「何があっても!」
目をぎゅっと瞑れば、あの日のしたり顔の笑顔が浮かぶ。
「君に何を言われても!」
真っ直ぐに、傲慢に、勝利を目指していた頃の彼女の笑顔を。
「たとえ、世界を敵に回しても!」
オレが頼りなくても、最後には頷いてくれた彼女の姿を。
「オレは君の、トレーナーなんだ!!」
過去の記憶が胸を突く。
初めて勝利したデビュー戦。
シンザン記念から始まり、桜花賞、オークス、秋華賞のティアラ3冠。
「誰にも渡さない! 渡すもんか!」
続くジャパンカップではすでに現役最強と称されたオルフェーヴルに勝利した。
「もう二度と君のトレーナーを"諦めない"!」
大阪杯での再度の対戦も制した。
「オレの、大切なウマ娘なんだ!」
2度目のジャパンカップでは最強に君臨した。
そして――
「だから負けるな! 本当の"力"を取り戻せ、ジェンティルドンナァァァァァ!!」
その瞬間、彼女の瞳が揺れた。
鎧の奥に封じられていた火が、静かに、しかし確かに燃え上がる。
運命の歯車が
元の座標に
――戻った
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その時、ヴィルシーナやヴェニュスパークたちは見た。
いや、感じ取ったと言ってもいいだろう。
風が止み、世界が止まったように感じた。
共に走っていた全員が、一瞬だけ呼吸を忘れた。
――ズオォオオッ!
ジェンティルドンナの体躯から、まるで巨大な赤い何かが、爆炎のように噴き上がる。
それは、彼女を覆っていたヴェールを焼き尽くすように。
重くのしかかっていた鎧を粉砕し、剥ぎ取っていくように。
内側から溢れる紅き奔流が、彼女を包み込んだ。
「ふんっ!!!!!」
空気が揺らぐ。
大地が鳴動する。
爆音とともに、ジェンティルドンナが弾丸のように前へと飛び出した。
その瞳には獰猛な闘志が燃え滾っていた。
『Gentildonna remonte dans le peloton!』(ジェンティルドンナがポジションを上げている!)
実況が叫ぶよりも早く、観客のどよめきが波のように押し寄せた。
彼女の周囲の空気はまるで熱を帯びたように、歪みが生じている。
ヴェニュスパークたちは、その姿に息を呑んだ。
驚き、感心し、そして――笑みを浮かべる。
「What was once missing in her has now returned!?」(彼女に欠けていたものが、戻ったネ!?)
「Die Muskelkoordinationsrate hat sich vielleicht deutlich verbessert!」(筋肉の連動率が明らかに改善したりしてるかも!)
「Je vois…… c’est donc ta véritable apparence? Gentildonna」(なるほど……それが君の本当の姿なんだね? ジェンティルドンナ)
「Oh, this is getting interesting!」(へぇ、面白くなってきたじゃない!)
ズズズッ――!
ジェンティルの周囲の空気がうねり、同時に各ウマ娘たちの体からも異なる“色”が立ち上がる。
それぞれの“領域”が目覚め、ジェンティルを中心に競り合いが始まった。
圧がぶつかり合う。
目に見えぬ壁同士が衝突し、きしみ、火花を散らすように――。
力負けした者は弾かれるように後方へと退き、自らのポジションを保つことすら難しくなる。
「はぁあああああああ!」
その中心を――ジェンティルドンナが切り裂いた。
雄叫びを上げながら、圧を踏み荒らし、盤面を制圧していく。
何人たりとも止められぬ剛毅なる貴婦人が、その脚で突き進む。
紅き猛炎の進撃が、世界の壁を蹂躙していく。
(ジェンティル……ドンナ!)
ヴィルシーナは目を見開いた。
それは、かつて共に走った日々の“彼女”だった。
懐かしい、けれど――恐ろしい。
内なる炎を解き放った、本当のジェンティルドンナ。
圧倒的な力の奔流の中で、ヴィルシーナは必死に耐える。
体が軋む。
息が詰まる。
(私も、上がらないといけないのに……!)
しかし、世界の頂に立つ者たちの“領域”が彼女を押し潰すように迫る。
空気が重く、前に進めない。
(くっ……うぅ、苦しい……!)
ジェンティルドンナの背中が、どんどん遠ざかっていく――