蒼と紅の炎   作:荒波を征く湯気

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お待たせしました


第3話 佐岳メイとプロジェクトL'arc

 ヴィルシーナと正式に書面で契約し、担当トレーナーとなった翌日の朝。

 オレは学園の理事長室にいた。

 

 目の前には学園を統括する秋川やよい理事長。横には秘書のたづなさん。

 そしてもう一人……、秋川理事長と同じ背丈ほどの少女が立っている。

 

 黄色いキャップ帽をかぶり、リュックサックを背負っているが、その姿勢や堂々たる雰囲気から、ただの少女ではないことが分かる。

 今まで彼女を学園内で見たことはないが、おそらく理事長と同等、もしくは近い役職と権限を持っているに違いない。

 

 

「確認。トレーナー、クラリストレーナーからの連絡を受けたが、君に今一度問いたい。世界最高峰の舞台に挑戦するというのは本当か? 非常に覚悟が必要なことだが、もう決めたことなのだろうか」

「はい、理事長。オレはヴィルシーナとともに凱旋門賞を目指します」

「承知。ジェンティルドンナのトレーナーであった君が、あのような状況になってしまったことは、我々としても遺憾であった。だが、君が前を向いてくれたことは非常に喜ばしく、日本の夢に挑むことは頼もしく思う。だが……」

 

 

 秋川理事長は苦々しい表情をして、社長椅子のような大きな椅子から降りた。

 窓にかかっていたブラインドの隙間に指を入れて外を見れば、悲しそうに呟く。

 

 

「無念。その夢に、我々は何度も挑んで跳ね返されてきた……。エルコンドルパサーくん、ナカヤマフェスタくん、多くの挑戦者が夢を見て敗れ去った。それでもなお、君は行くのだな?」

「はい、もう決めたことです」

 

 

 理事長に忠告されても、すでにクラリス先輩とヴィルシーナに誓ったオレは即答する。

 

 

(――ここで引くわけにはいかない。昨日、二人の目を見て誓ったんだ。挑み続けるって)

 

 

 もう迷いはない。言葉はもちろん、その覚悟を言外に示すだけだ。

 

 

「了承。ならば君に彼女を紹介しよう。過去、凱旋門賞に向けて数多のウマ娘を支援してきたプロジェクトL'arcの責任者、佐岳メイだ」

 

 

 秋川理事長が口を開くと同時、黄色い帽子をかぶった少女が小柄な体を少しだけ前に出した。

 

 

「ただいまご紹介に与った佐岳メイだ。URA学園強化部門所属、欧州レース分析を専門としている。よろしくなトレーナー」

「初めまして。メイさん」

 

 

 手を伸ばして握手を求めてきた彼女に、オレは腰を低くしてその手を握る。

 小さな手だったが、その握る強さと肌の感触から、ただものではないことが感じ取れた。

 白い歯を出して気さくに笑いかけてくるが、どれだけウマ娘のために尽力してきたのかが想像できる。

 

 プロジェクトL'arcとは――日本のウマ娘が凱旋門賞に挑むためのノウハウを提供し、資金などの面も支援してくれる計画の名称だ。

 その責任者たる彼女がいるということは……。

 

 

「このプロジェクトに君が参加してくれるのは心強い。私もジェンティルドンナの活躍を耳にしていてね、そのトレーナーは新人だというから驚いていたんだ」

「ありがとうございます。でもそれはきっとジェンティルドンナが強かったからで……」

 

 

 そう呟くと、秋川理事長の視線が刺さった。

 さらにメイの小柄な姿から放たれた威圧感に、手のひらにじっとり汗が滲む。

 

 

「それだけで、国内G1をいくつも取れるなら誰も苦労はしないさ。君の謙遜は、逆に他者を貶めてしまうよ? もう少し胸を張りたまえ」

 

 

 そう言われて、ハッと気づく。

 ヴィルシーナだってそうだ。彼女も必死で、クラリス先輩とともにオレとジェンティルドンナに挑んできた。

 挑戦を受けてきた側として、威張る必要はないが、過度に謙遜する必要はない。

 

 

「すみません。肝に銘じます」

「うむ! ……ふふふ、お前に聞いた通り、そして見た通りだな。やよい」

「?」

 

 

 メイさんが、満足げに頷くと理事長も誇らしげにフフンと笑っている。

 

 

「やはり学園は良いトレーナーが揃っている。特に君は、とても真面目で好印象が持てるよ。それに、私と握手しただけでも、こちらがどれだけのものを背負ってきたかを見抜いたようだしな?」

 

 

 ニヤリと笑う彼女に、オレは唾を飲み込んで自然と背筋が伸びた。

 やはりこの少女は、ただ者ではないと確信する。

 

 

「来年の凱旋門賞に向けて、良い風が吹くかもしれないな。だが……うーむ」 

「あの、何かあるなら何でも言ってください。オレにできることならなんでもします!」

 

 

 彼女は顎に手を当てて唸った。

 何か問題があるのだろうか……。

 黄色の帽子を深くかぶりなおした小さな責任者はじっとオレを見つめて、意を決したように頷いた。

 

 

「……わかった。教えよう」

 

 

 一瞬、言葉を選ぶように逡巡するがゆっくりと、オレを見据えながら告げる。

 

 

「おそらく来年、出場を希望するのは君たちだけではない。オルフェーヴルも、きっとまた世界を狙うだろう」

「オルフェーヴル……」

 

 

 その名を聞いただけで、全身の毛穴が総毛立った気がする。

 クラシック三冠を総なめにし、その名は欧州にも轟く――現トレセン学園最強のウマ娘の名前に。

 

 

「……彼女も挑戦するなら心強いです。実際に出場した彼女から聞きたいことはたくさんありますから」

 

 

 とはいえ、彼女が教えを請うて、簡単になんでも教えてくれるウマ娘ではないことは知っている。

 ジェンティルドンナのトレーナーの時に、ジャパンカップや大阪杯で幾度となく対戦したことから、オルフェーヴルを納得させるほどの力を、こちらも身につけなければならないだろう。

 

 

「そのことなんだが、残念ながらプロジェクトL'arcは来年、日本からの出場ウマ娘を一人に絞るつもりだ」

「えっ!?」

「結果が振るっていないことが原因なんだ。かのオルフェーヴルが2回挑戦して、2回ともその壁に阻まれた。そのことがすでに上層部で議論され、来年度予算案の最終結論が出ているんだ。すでに縮小していく予定にね」

 

 

 彼女は続ける。

 

 

「それに、来年はジェンティルドンナの出場もほぼ確定している。彼女は現在、留学中という身であって、あくまで日本のウマ娘だからね。過去10年で4回も凱旋門賞を獲得した世界的なトレーナーのついた彼女なら、きっと勝てるだろうと日和見を決めているじいさんたちもいて、困ったものだよ」

「そんな……」

 

 

 思わず口をついた言葉は、ひどく頼りなく響いた。

 理事長室の静けさが、余計に重くのしかかってきて、がっくりと肩を落としてしまう。

 メイさんはオレの反応をじっと見つめて、申し訳なさそうにした。

 

 

 「もちろん、君たちに一切の支援をしないわけではない。支援した上で、出場するウマ娘を一人に絞るだけだ。だが、おそらくヴィルシーナにとってチャンスは1度きり。そしてこの支援する中で、ヴィルシーナがオルフェーヴルや他の出場希望ウマ娘たちよりも実力が上だと証明しなくてはならない。トレーナー、そのことだけは覚悟しておいてくれ」

 

 

 冷や汗がつぅ、と流れていく。

 あのジェンティルドンナに肉薄してきたオルフェーヴルよりも、強くならなければいけない。

 そうでなければ、出場することさえ叶わないという。

 愕然としつつも、どちらにせよ後戻りはできない。進むしか道がない現状に嘆いている時間などないだろう。

 

 

「……ありがとうございます。であれば、オレにできることはヴィルシーナを強くすることだけです」

「即答か、頼もしいよ。期待しておこう」

 

 

 教えてくれたメイに感謝の言葉を伝え、深くお辞儀をする。

 

 

「ちなみに、支援というのはどういったものになりますでしょうか」

「サトノグループのVR技術があってね。それを無償で貸与するものを基本としている。ロンシャンの環境をほぼ完全に再現されていて、芝生の感触やフィードバックまで忠実だから、現地への適応に役立つだろう」

「それは凄いですね……、本日から使えますでしょうか」

「いや、すまない。年明けまでメンテナンスに入っている。今君たちにできることは、通常のトレーニングを行うことだけになる」

「年明けまでか……」

 

 

 小さく呟いて、思わず天井を仰ぐ。期待が大きかった分、落胆も大きい。

 すぐに使えたらどれほど良かったか……だが仕方ない。

 

 

「焦ることはないさ。準備期間だと思って、今やるべきことを積み重ねるんだ。幸い、今までのデータは私が持っているから、後で君のトレーナー室に運ばれるよう手配しておこう」

 

 

 メイの言葉は、飾り気のない分だけ真っ直ぐ胸に届く。

 

 

「来年も、メンテナンスが終わればすぐに連絡するとも。LANEで連絡先を交換してくれるかな」

「はい! 助かります」

 

 

 スマホを取り出し、表示されたQRコードを読み込んだ。

 メイさんのアカウントのアイコンは、フランスの世界遺産、凱旋門の写真だった。

 それを見ただけで、一層身が引き締まる思いがしてどれだけ大きな夢に挑もうとしているのかを改めて実感する。

 

 

「もちろん、それで凱旋門賞に勝てるようになるわけじゃあない。実際にフランスでの地を疑似体験はできても、実際のレースとは異なる。少なくとも相手は欧州列強。いわば、その国の代表が出てくるレースさ。だから最後にモノを言うのは、トレーナーとウマ娘の実力であることに変わりはないよ」

 

 

 つまり、やはりヴィルシーナの実力を底上げすることが最優先。

 綿密な計画を立てなければ。

 

 

「今日はお会いできて、良かったですメイさん」

「ああ、私もだ。君のようなトレーナーと出会えて嬉しいよ。今度飲みに行こうじゃないか。ハハハハ!」

 

 

 えらく気に入られたようで、何かあればすぐに相談してもいいと言ってくれたメイさんと、再び固い握手をする。

 何度も礼を言いつつ、3人に別れを告げたオレは、早速凱旋門賞に向けた準備に取り掛かるのだった。

 

 

◇◇◇◇

 

 

 学園の図書室やメイさんに借りた資料をトレーナー室に積み上げ、片っ端から読み漁っていたのだが、どれだけの時間が経っただろうか。

 時計を見る間もなく、デスクに広げた資料へ目を通しながら、眉間にしわを寄せてこれからのことを考える。

 

 期間は約10か月。

 しかし、フランス遠征の期間を考えれば、実質もっと短い。

 その間に凱旋門賞で戦える実力はもちろん、オルフェーヴルをも超える力を身につけ、遠征資金を用意し、出場切符を手に入れなければならない。

 

 凱旋門賞――選ばれたウマ娘たちが集う、世界の最高峰の舞台。

 これまでに日本のウマ娘が勝ったことは一度もない。あのオルフェーヴルでさえも届かなかった夢の地だ。

 

 

「うぅ……やっぱり簡単じゃないな」

 

 

 正直、時間は全然ない。

 目の前に積まれた膨大な資料――凱旋門賞の過去レース結果、出走条件、バ場の特徴――を片っ端からめくるが、情報量が多すぎて頭がパンクしそうだった。

 これらを一つ一つ理解して、ヴィルシーナをその舞台に立たせるために必要な知識を詰め込んでいかなければならない。

 

 

「これだけ調べて、トレーニング計画に組み込んでいくなんて、本当にオレにできるのかな……」

 

 

 焦りが募るばかりで、何も進まない。

 ただただ時間だけが過ぎていき、オレは机に突っ伏して、限界を迎えた脳みそを休ませることにした。

 目を瞑れば、頭の中でグルグルぐるぐる、さきほど確認した海外のレース映像が流れる。

 次に数字が現れ、過去の記憶が流れ、ジェンティルドンナの後ろ姿が流れ……。

 

 彼女とともに合宿を行った時の海が見えた。

 

 

「トレーナーさん、大丈夫ですか?」

 

 

 清流のように澄んだ声が、意識の奥に届いた。

 顔を上げると、そこにはヴィルシーナが心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 

 

「ああ、ありがとう。オレ、エビを捕まえてくるから、タラバガニも……」

「大丈夫じゃないみたいですね……?」

 

 

 彼女の冷静なツッコミに、オレは一瞬フリーズした。

 何を言ってるんだ、オレ。

 

 

 今日は凱旋門賞に向けた特別なトレーニングなんてできないので、とりあえずはクラリス先輩が担当だった時のトレーニングを行うよう指示していたのだが、どうしたんだろう。忘れものだろうか。

 ゆっくり顔を上げると、彼女はそっとオレの額に手を当ててきた。

 スポーツドリンクを持った後の手なのだろうか。

 ひんやりとして気持ちが良い。

 

 

「無理しないでくださいね。トレーナーさんが倒れたら、元も子もありませんから」

 

 

 彼女の優しさに、オレは思わず笑みを返した。

 

 

「すまない……。初めからつまづいてたら、ダメだよな」

「そんなことありません。私のワガママを聞いてくださったんですから……私も、トレーナーさんのためにできることなら何でもします」

 

 

 彼女の言葉に、オレの胸が少し軽くなった気がした。

 

 

「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいよ」

 

 

 ヴィルシーナはタオルを握りしめながら、小さく頷いた。

 その姿を見たら、ここで止まるわけにはいかないと思えた。

 

 

「君を支えたいんだ。先輩にも、君にも誓ったからね」

 

 

 オレはもう一度資料を手に取り、やる気を振り絞った。

 ……その矢先、ヴィルシーナがスッと手を伸ばし、オレの資料を遮った。

 

 

「トレーナーさん、少し休憩しましょう」

「いや、でも――」

「いいえ、ダメです。お昼に挨拶しに来てからずっとやってるじゃないですか。もう夜ですよ」

「…………………………え?」

 

 

 ヴィルシーナに言われて、オレは思わず時計を確認した。

 針はすでに夜の8時を指しており、窓の外は真っ暗だ。

 

 

「あ……あれ? ほんとだ、もうこんな時間か……全然気づかなかった」

 

 

 これまでずっと資料を見ていて、積み上げられた分厚い本の束が、そこかしこにヴィルシーナの背丈を超えるタワーを作っていた。

 朝からただひたすら、調べることに没頭していたようだ。

 それを自覚した途端、急に空腹感が押し寄せてきた。

 長時間、集中して資料を見ていたせいで、すっかり食事を取るのを忘れていたのだ。

 

 

「うっ……なんか、急に気持ち悪くなってきた……」

 

 

 目の前が少し暗くなり、立ち上がろうとした瞬間、ふらりと足元が崩れそうになる。

 視界が揺れて、地面が傾いているように感じた。

 ギリギリで体勢を保ち、何とか自分を支えようとするが、力が入らない。

 

 

「トレーナーさん!?」

 

 

 ヴィルシーナの声が響く。すぐに彼女が支えようとしてくれた。

 彼女の温かい手が肩にかかり、優しく引き寄せられる。

 

 

 「だ、大丈夫だ……」

 

 

 無理に強がってみるが、目の前が回っているのは自分でも分かっていた。

 しっかりしなければと思うのに、体が動かない。

 

 

「ダメです、トレーナーさん。無理しないでください。こちらへ」

 

 

 ヴィルシーナはオレを誘導し、近くにあったソファに座らせてくれた。

 優しく支えてくれる彼女に、力を抜いて身体を預けると、ソファの柔らかな感触が伝わってきて、少し楽になった気がした。

 

 

「すまない、ヴィルシーナ……ほんの少し休めば回復するはずだから」

「大丈夫です、気にしないでください。お水を少しお飲みになって、まだお辛いなら、寝転んだ方が良いかもしれません」

 

 

 ヴィルシーナは持っていたペットボトルの水をオレに飲ませてくれた。

 喉に潤いが染みわたってとても美味しい。

 

 

「ありがとう。少し横になって休むよ……」

「あ、少しだけ待ってください」

 

 

 オレはゆっくりと深呼吸をしながら、横になろうとした。

 しかし、彼女は横になろうとするオレの頭を優しく制止し、自分の体を割り込ませる。

 

 

「?」

「こっちの方が、きっと楽ですよ」

 

 

 彼女は優しい声で囁き、ふわり、とソファに座った。

 ちょうどオレが横になると頭が着く位置で、だ。

 その行動に少し戸惑いながらも、そのまま頭を預けることにした。

 これ以上無理をしても仕方ないと思い、彼女に甘えて力を抜いていく。

 

 

「いかがですか? 辛くはありませんか?」

「ああ、大丈夫。とても楽だよ……ありがとう」

「ふふ……どういたしまして」

 

 

 彼女の太ももはしっかりと引き締まっており、トレーニングで培われた力強さを感じさせてくれた。

 だが柔らかさと温かさも同時に伝わってきて、その心地よさが気持ち良い。

 

 

 オレはゆっくりと目を閉じた。

 ヴィルシーナの太腿の温もりに包まれつつ、彼女の肌がほんのりと汗をかいていることに気づく。

 少し汗ばんだ肌が、心地よい香りを漂わせていた。

 まるで、清らかな朝の風が吹き抜けるような、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。

 

 

「無理せず、目を閉じてくださいね」

「ああ、すまない……」

 

 

 ヴィルシーナの優しい声が、再び耳に響く。

 その言葉に従うように、静かに瞼を閉じれば、太ももの柔らかな感触と、ヴィルシーナの存在が穏やかな安心感を与えてくれた。

 少しずつだが、体の力が抜けていくのを感じ、さきほどの気分の悪さもいつの間にか消えていた。

 呼吸が穏やかになり、無理に頭を使わず、ただリラックスするだけでいいのだと自然に理解できた。

 

 そして、オレの意識は次第に遠くなっていくのだった。

 

◇◇◇◇

 

 ヴィルシーナは膝の上で安らぐトレーナーの寝顔を見つめながら、小さく息を吐いた。

 彼がどれだけ自分のために尽力しようとしてくれているか、ヴィルシーナには痛いほど分かっていた。

 

 

(授業が終わって、昼に挨拶をして、そこからトレーニングをしていたけど……夜に見に来たら、昼間よりも高い本と書類の山に埋もれていたからビックリしちゃった……きっと朝からずっとあの調子だったのよね)

 

 

 彼の真剣な眼差しや、物事に全力で向き合う姿は、ジェンティルドンナのトレーナーだったころから、ヴィルシーナがいつも見ていたものだった。

 いや、それよりもっと前から……。

 

 

(あのトレーナーさんが、私の担当になってくれたなんて不思議……。ジェンティルさんもどうして、契約破棄なんかを……? 何か理由がありそうだけど、連絡先は分からないし二人のことに私が首を突っ込むわけにもいかないわよね……)

 

 

 トレーナーの眠る顔にそっと手の甲を当てながら、ヴィルシーナは心の中で静かに思いを巡らせる。

 

 

(ジェンティルさんとの模擬レースで敗れた時も、見かけていたけど……あの時は、それどころじゃなかったから)

 

 

 彼女がトレーナーのことを初めて見かけたのは、まだ彼がジェンティルドンナの担当になる前だった。

 偶然彼を見かけたその瞬間から、彼に何か運命的な特別なものを感じていたのだ。

 

 

(もし担当のトレーナーさんがつくとすれば、あなたかなと、勝手に想像したこともあったけど……あなたは、彼女のトレーナーになってしまった)

 

 

 だがあの時、ジェンティルドンナの圧倒的な強さに衝撃を受け、彼女を超えるためにできることを考えるだけで、シーナは精いっぱいだった。

 その間に、彼はジェンティルドンナのトレーナーになってしまった。

 それ自体にショックだったわけではない。

 ほんの少し歯車が違えば、もしかしたらトレーナーになってくれていたのかもという漠然とした感情だった。

 

 

(本音を言えば、少し寂しさを感じていました。だから、自分から誘っておいて変ですけど……未だに信じられない)

 

 

 ジェンティルドンナのトレーナーとしての厳しい日々は、断片的にだが知っている。

 その結果として彼がどれだけ努力し、尽くしてきたのかを、ヴィルシーナはジェンティルドンナと共にクラシック、シニアと走ってきて目の当たりにしてきた。

 その間、彼がどんなに辛い時も、決して弱音を吐かず、ただジェンティルドンナのために動く姿に、彼の強さと優しさを感じていた。

 

 

(かつて、ジェンティルドンナのトレーナーだったあなたが――私の前に何度も立ちふさがってきたあなたが……、今度は私の味方なんですよね)

 

 

 ジェンティルドンナの契約を破棄させられ、抜け殻になってしまった彼を見て、ヴィルシーナは思わず声をかけた。

 

 

(もちろんジェンティルドンナに勝ちたい気持ちは、揺るぎのないものだけど……)

 

 

 クラリストレーナーは優秀だが他のウマ娘も多くいて凱旋門賞に挑むのは難しい。それは分かっていた。

 しかしながら、担当しているウマ娘がたくさんいても。システム的に指導を体系化しているようなベテラントレーナーに、凱旋門賞への挑戦を担当してもらう選択肢もあった。

 他にも、外部からのトレーナーで、それこそジェンティルドンナのように外国人のトレーナーを助っ人で呼んでくる選択肢もあった。

 

 

(私が、あなたに声をかけた理由は、それだけじゃない……)

 

 

 ジェンティルドンナとの契約を破棄されてからの姿を見ていれば、彼はこのままではダメになってしまう。

 そうなって欲しくなかった。

 トレーナーと一緒に凱旋門賞に行けば、ジェンティルドンナの真意も分かるはずだから。

 

 

(……この感情は、なんなのかしら)

 

 

 少しずつ胸の中で湧き上がってくるものがあった。

 それは、ただの尊敬や心配ではなく、もっと深い感情。

 もし彼が自分のトレーナーになれば、心の中にあった小さな穴が埋まるような気がした。

 まるで小さな歯車が、大きな歯車と重なり合って回り始めるように。

 ヴィルシーナは少し戸惑いを覚えながらも、同時にその気持ちに抗うことができなかった。

 

 

(……トレーナーさん)

 

 

 彼の顔をじっと見つめると、心臓が少しだけ早く鼓動を打った。

 彼の温かさに包まれている今の瞬間が、どこか甘く、心地よく感じられた。

 しかしその一方で、彼がどんなに自分に尽くしてくれても、彼がかつてジェンティルドンナに捧げたものがどれほど大きかったかを、ヴィルシーナはよく理解していた。

 

 

(もしあなたが、ジェンティルドンナのトレーナーであり続けたいと思っているなら、私は……)

 

 

 ヴィルシーナは静かに目を閉じ、彼の寝顔を見つめながら、心の中で答えを出さずにいた。

 ただ、今のこの瞬間、彼と一緒にいることが心地よく、ただその温もりを感じるだけで幸せだと、素直に感じていた。

 

 

(私は、あの人に一度も勝てなかった。最初は勝てると信じていた……、でもあの模擬レースの時に見せつけられた圧倒的な差。それを覆すまで、私は止まれない)

 

 

 でも、今の彼が無理をしているのだとしたら――。

 自分のわがままが、彼を苦しめているのだとしたら――。

 罪悪感で胸がいっぱいになる。

 

 ジェンティルドンナを倒す――彼女にとって、それは長い間抱えてきた目標だった。

 けれどその目標は、一人では決して叶えられない。

 

 誰かの支えが必要だった。

 それが彼なのであれば、こんなに嬉しいことはない。

 

 彼と一緒に夢を叶えたい。

 そのために、自分ができることは何だってするつもりだった。

 

 

「ん……」

 

 

 ふと、彼が微かに動いた。

 寝息を立てながら、安堵したように表情が緩んでいるのを見て、ヴィルシーナの胸にほんの少しの安らぎが広がる。

 

 

(トレーナーさん……わたし、頑張りますから)

 

 

 そっと彼の髪を撫でながら、ヴィルシーナは心の中で小さく誓った。

 彼の努力が無駄にならないように、自分も一層強くなり、この夢を叶えるための力をつけなければならないと。

 

 

◇◇◇◇

 

 

 目が覚めると、最初に感じたのは、膝の上に乗せられた頭の心地よさだった。

 ふわりと温かく、柔らかな感触に包まれたその場所に、意識が少しずつ戻っていく。

 だが、身体がまだ少し重く、頭もぼんやりとしている。

 何が起こったのか、うまく整理できないまま、目を閉じたままでいると、耳元で聞こえた声が現実へと引き戻してくれた。

 

 

「後輩くん、また何も食べないで倒れそうになったんでしょう」

「そうみたいです。お水もあまり飲んでなかったみたいで……」

「まったくもう。昔から、そういう癖はたまにあったのよねぇ。まぁあの一件から、あまり食べてなさそうだったし仕方ないとは思うけど」

 

 

 それは、クラリス先輩とヴィルシーナの声だった。

 ゆっくり目を開けると、すぐ近くにクラリス先輩が立っていて、手にコンビニの袋を持っているのが見えた。

 その袋からは、弁当の形がうっすらと透けて見える。

 

 

「あ、クラリス先輩……」

「あら、おはよう」

 

 

 ぼんやりとしたまま声を絞り出す。

 目をこすりながら身体を起こそうとすると、膝の上に乗せられていたヴィルシーナの手が、スッと引かれた。

 そうだ、ヴィルシーナが膝枕をしてくれていたんだ。

 思わず申し訳なく感じ、少し恥ずかしくなった。

 

 

「ヴィルシーナ、すまない……迷惑をかけた」

 

 

 そのまま頭を下げると、ヴィルシーナは優しく微笑んでくれた。

 

 

「大丈夫です。気にしないでください」

 

 

 その柔らかな微笑みに、少しだけ気が楽になる。

 クラリス先輩は無表情で、手に持った袋を軽く振りながら言った。

 

 

「晩ご飯、買ってきたから。食べるでしょ?」

「あ、ありがとうございます……」

 

 

 意識が完全に戻りきっていないものの、しっかりとした声を出そうと息を整える。

 体は重いが、先輩の顔を見ているうちに、ようやく現実が戻ってくるのを感じた。

 クラリス先輩は微笑みながら、近くの椅子に腰を下ろし、お弁当を優しく渡してくれた。

 

 

「はい、どうぞ。しっかり食べて、今日のところは休みなさい。理事長のお話もまた後日聞かせてもらうし、あとあの本も片づけておくから」

「い、いえ先輩の手を煩わせるわけには……」

 

 

 言葉が言い終わらないうちに、クラリス先輩はまるで無意識のようなジットリした目を向けてきた。

 

 

「何か言ったかしら? 後輩くん?」

 

 

 その視線に背筋が伸び、思わず言葉を引っ込めてしまう。

 

 

「すみません、お言葉に甘えます……」

「よろしい」

 

 

 クラリス先輩は満足そうに微笑み、その顔の裏に隠された圧力を感じた。

 思わず頭をかきながらも、その笑顔に少し安心してしまう。

 すると、クラリス先輩は少しだけ真剣な眼差しを向け、静かに言った。

 

 

「……頑張りすぎないようにね。あなたにシーナを託したのだから、責任を果たしてもらわないと困るわ。自分の体を大切にしなきゃ、その責務も守れないわよ」

「はい、すみません」

 

 

 その言葉が胸に深く響いた。

 自分の限界を越えようとしていることに気づき、その言葉が深く心に沈み込んでいく。

 オレはそんな先輩やヴィルシーナに支えられているのだと思えば、安心したような気持ちになり、明日からまた頑張ろうと心に誓った。

 

 

「といっても、あなたのことだから、また明日から頑張ろうとするのは目に見えているわ」

「め、面目ありません……」

 

 

 今、まさに考えていたことを先輩に言い当てられて、オレは苦笑いせざるを得ない。

 

 

「そういえばシーナ。あなた、確か妹さんたちにお弁当を作ってなかったかしら?」

 

 

 ヴィルシーナの妹たちといえば、シュヴァルグランとヴィブロスのことだ。

 二人ともトレーナーの間では注目の姉妹で、ヴィルシーナの活躍もあってか期待されている。

 

 

「えっと、そうですね。たまにですが、作ることはあります」

「そう、その時だけで全然良いのだけど、ついでに後輩君にお弁当作ってあげてくれないかしら? また朝ごはんもロクに食べず、お昼ご飯すら食べ忘れるのは目に見えているもの。あ、材料費は私が出すから」

「え、ええ、それは構いません。二人分作るなら三人分もあまり変わりはないですし……それなら毎日作りましょうか?」

 

 

 オレはヴィルシーナと先輩の両方を交互に見た。

 

 

「い、いいのか?」

「はい、ちょうど妹たちにも毎日作ろうかなって、思っていたところなんです」

 

 

 なんだか申し訳ないが、ヴィルシーナが良いなら……と、続いてオレは先輩を見る。

 

 

「それなら材料費は、オレが出しますよ」

「後輩くん、貯金は?」

「に、20万です……」

「フランス遠征に向けてなるべく貯めておきなさい。何が起こるか分からないんだから」

「はい……」

 

 

 ジェンティルドンナの時は、彼女に連れられてランチには良く行っていた。

 彼女の行きつけの店で、彼女の筋肉に合う良質な料理を、一緒に頼んでいたのを思い出す。

 だがこれからは、おそらくコンビニ弁当続きになると考えていたところだったから、正直ヴィルシーナに作ってもらえるのは本当にありがたい。

 

 

「そういえば妹たちって、シュヴァルグランとヴィブロスのことだよな?」

「はいそうです! ご存じなんですね。シュヴァルったら茶色いものばかり食べるし、ヴィブロスはトキめいたものしか食べないんですよ。どう思いますか。まったく」

 

 

 そんな風に言っているが、ヴィルシーナはとても嬉しそうだった。

 話すたびに、頬の緩みが抑えきれない様子で、彼女がいかに妹たちを大切に思っているのかが伝わってくる。

 

 

「この前だってヴィブロス、テスト前なのに『お姉ちゃん、一緒に買い物行こうよ』って言うんですよ。そりゃ行ってあげたい気持ちはありますけど、やっぱりヴィブロスにもちゃんとした大人になってほしいですから、先に勉強をさせて――」

 

 

 オレと先輩はヴィルシーナの話を聞いて笑みをこぼす。

 聞いているこっちまで笑顔になるほどに、3人が仲の良い姉妹なのだということが分かる。

 

 

「ヴィルシーナもそうだけど、妹さんたちも君のことが大好きなんだな」

 

 

 何気なく口にした一言に、ヴィルシーナが目を丸くする。

 

 

「そ、そう思いますか?」

「うん。二人のことをちゃんと考えているヴィルシーナに、妹さんたちも甘えているのは、それだけ信頼してるってことだ」

「……ありがとうございます。でも、二人のことを甘やかしてばかりで、このままじゃいけないなって思うんですけどね……」

「そんなことないよ。とても素敵だと思う」

 

 

 そう言うと、ヴィルシーナは照れくさそうに顔を赤くする。

 うつむいて頬をかく彼女の表情は、どこか妹たちの話をする時よりも――素直で、嬉しそうだった。

 

 

「それなら、トレーナーさんのほうが……」

「はいはい、褒め言葉の交換はそこまで」

 

 

 不意にクラリス先輩が手を叩いて割り込んできた。

 鋭いツッコミに、オレは思わず背筋が伸びる。

 

 

「あなたたち、少しは自覚してる? 凱旋門賞に挑もうとしているトレーナーが、頑張りすぎていきなり倒れちゃってるんだから」

「そ、それは……」

 

 

 オレは小さく声を漏らし、視線を下げる。

 ――ただ、今はその雰囲気が、妙に心地よかった。

 自分が倒れたことで二人に心配をかけたのは間違いない。

 それでも、こんな風に気遣われ、叱られるのは、どこか懐かしい気もする。

 

 

(……そういえば、ジェンティルドンナのトレーナーの時も、こんな感じだったな)

 

 

 少し怒った顔でトレーニングをしてくれたり、世話を焼いてくれたり。

 時には厳しく指導してくれるが、ドジを踏んでしまう自分を見て、呆れるというよりは困ったように笑うジェンティルの姿を、ふと思い出す。

 その一瞬、胸にわずかな痛みが走る。

 だが、それは今さらどうにもならないことで――。

 

 

「明日からはちゃんと食べなさいね、後輩くん?」

 

 

 クラリス先輩の声が、頭の中の思い出を掻き消した。

 

 

「はい、分かりました」

「よし。じゃあシーナ、後は任せるわ」

「えっ、先輩、帰るんですか?」

 

 

 クラリス先輩は立ち上がると、こちらを振り返ってニヤリと笑った。

 

 

「私は後輩くんが食べ終わるまで監視していなくても平気でしょ。代わりにシーナが、ちゃんとお世話してくれるわ」

「あ、はい。もちろんです」

「ごめんね、ありがとう。じゃ、頑張りすぎないように」

 

 

 突然の指名に戸惑いながらも、ヴィルシーナはしっかりと頷く。

 クラリス先輩の足音が遠ざかり、ドアが静かに閉まった。

 

 

「はは、先輩って昔から強引な人なんだよな」

「でも、あの様子だとトレーナーさんのこと凄く心配してますよ。私の担当トレーナーだった時も、あんな風にずっと気にかけてくれてましたし」

 

 

 そう呟くヴィルシーナが小さく笑うと、オレも小さく笑い返す。

 箸を取る。温かいご飯を一口入れた途端、身体に力が戻る気がした。

 

 

「美味しい……」

 

 

 無意識に呟くと、ヴィルシーナが目を細めて笑う。

 

 

「よかったです。食欲が戻ってきたなら安心ですね」

「ありがとう。でもずっと見てなくても大丈夫だぞ。休んでていいから」

「いえ、私は平気です。少しぐらい見守らせてください」

 

 

 そう言って、ヴィルシーナは膝を抱えて座り直す。

 その姿になんだか安心して、少しだけ頬が緩む。

 

 

「あの、トレーナーさん」

「ん?」

「これからは、私のこと『シーナ』って呼んでくださいませんか? その、特に意味はないんですけど……」

 

 

 ヴィルシーナは一瞬言葉を詰まらせて、小さく目を伏せる。

 

 

「……なんだか、そう呼んでもらえたら、もっと頑張れる気がするんです」

 

 

 目線だけをこちらに向けて、彼女は真っ直ぐにオレを見つめていた。

 

 

(確かに先輩もそう呼んでいるし、その方が自然か)

 

 

 そう考え、オレは上目遣いのようになっているシーナに頷いた。

 

 

「分かった。じゃあこれからはそう呼ばせてもらうよ。シーナ」

「……っ! はい!!」

 

 

 よーし、と両手を小さく持ち上げて奮起している彼女を見ながら、オレも再度決意する。

 

 

(……これからだな)

 

 

 シーナと一緒に、凱旋門賞でジェンティルドンナに勝つ――そう誓ったんだ。

 心も体も、こんなところでへこたれてはいられない。

 

 

「明日から、また頑張るよ」

「頑張りすぎは禁物ですけどね?」

「わかってるって」

 

 

 言いながら、弁当を平らげる。

 するとシーナは、どこか嬉しそうに微笑んでいるのだった。

 

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