蒼と紅の炎   作:荒波を征く湯気

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第4話 超集中状態-領域(ゾーン)-とは

 12月21日の土曜日、ヴィルシーナとのトレーニングを続けて、約2週間が経った。

 昼近くになっても日陰に残った霜は溶けきらず、きらきらと陽の光を反射している。

 青空の下で凍えた枝が微かに揺れ、時折枯葉が風に舞う音が耳に届いて、寒さの中に微かに感じる陽射しの温もりが、まるで冬の贈り物のようだった。

 

 クリスマスと年末年始まであと少し。

 クラリス先輩から受け継いだヴィルシーナのデータから、凱旋門賞に向けたトレーニングを少しずつ入れて動き出している。

 

 

「はっ、はっ、はっ、ふっ、ふっ、ふっ……」

 

 

 2400mコースを走るヴィルシーナは、かつてジェンティルドンナが行っていた15-15を行っている。

 1ハロン(200メートル)を15秒平均のペースで走って適度な負荷をかけるトレーニングであり、かの貴婦人は正確にそのタイムを体内時計で測っていたが……。

 

 

「シーナも、ちゃんと15秒だ……!」

 

 

 そのライバルであるシーナもまた、正確なラップタイムを刻んでいた。

 さすがジェンティルドンナと競り合っただけのことはあると、今更ながらに実感する。

 

 

(凄いな……、でもこれで喜んでたらダメなんだよな)

 

 

 こんなにも優秀なウマ娘ばかりを担当できるのはトレーナーとしては嬉しいことだが、挑むのは世界最高峰の舞台、凱旋門賞。

 この才能を無駄にしないようにと気持ちだけが逸り、内心焦ってばかりで落ち着かない。

 今この瞬間も何か他のことができないだろうか、次の準備をしておかないといけないなとか頭の中の自分がせわしなく働いている。

 

 

「トレーナーさん、今のはどうでしたか?」

 

 

 息を整え、首元のタオルで汗を拭きながら近づいてくるシーナ。

 慌てて向き直ったオレは、手元のストップウォッチの画面を見せながらサムズアップする。

 

 

「うん、完璧だよ。今の感覚を忘れないように」

「ありがとうございます! 本当はもう少し走りたいですけど、気持ちだけ焦っても仕方ありませんからね。そろそろお昼にしましょうか?」

 

 

 午前中のトレーニングがもうすぐ終わるため、その切り上げのクールダウンだった15-15だったのだが、ヴィルシーナは小走りでお弁当を取りに向かった。

 尻尾を左右に大きく揺らしながら走っていく後ろ姿が、微笑ましく思える。

 

 

(シーナも焦っているのか……。でもやっぱりジェンティルドンナと戦ってきただけのことはある……精神力が強い)

 

 

 彼女は自分にやれることをやろうとしている。

 その上で自分を追い込みつつも、焦りを感じさせない姿勢と態度に感服しつつ、見習わないとと考える。

 

 

(ジェンティルは、強者の余裕があったからな……。こっちが焦ってばかりで、逆に落ち着くよう言われたり、あ、でも手をこうぎゅっと握って力のコントロールをしたこともあったな……あの手、意外と柔らかくて優しかったな)

 

 

 ふとあの頃の記憶を思い出すが、またも彼女のことを忘れられないを自覚して、無理やり頭の中からかき消した。

 今はヴィルシーナの担当トレーナーだ。

 過去に想いを馳せている場合ではないと、拳をぎゅっと握る。

 

 

「お待たせしました」

 

 

 彼女は軽く髪を整えながら、こちらに歩調を合わせてくれる。

 シーナはシーナでこちらの様子をうかがっているようにも見える。きっとオレの体調を気にしてくれているのだろう。ジェンティルドンナの時は疲れている姿を見せないようにしていたが、今は甘えてしまっている自分がいる。

 トレーナーとして気をつけなければならない。

 

 扉を押し開けると、室内の暖かい空気が肌に触れた。

 外の冷え切った風とは違い、じんわりと体がほぐれる感覚に思わず息を吐き出す。

 暖房の音がかすかに耳に入る中、目に留まったのは、自動販売機の上に貼られた販売価格改定の張り紙。

 今月から少し値上がりしたらしいが、そんな情報はさっさと脳みそのゴミ箱フォルダに捨てて、奥の二人席に向かう。

 

 

「ふぅ……」

「大丈夫かい?」

「ええ、大丈夫です。トレーナーさんも、リラックスしてくださいね」

 

 

 椅子に座って小さく息を漏らす彼女の様子に、トレーニングが厳しくないだろうかなど考えるが、ジェンティルドンナと競い合った彼女にそんな心配は無用かもしれない。むしろそんなことを言えば逆に怒られそうだ。

 

 

「ありがとう。じゃあちょっとコーヒーを買ってこようかな。シーナも何か飲む?」

「いえ、私は持ってきたお茶がありますので、お構いなく♪ お気遣いありがとうございます」

 

 

 土曜日の昼下がり、年末も近いせいか、休憩所の利用者はほとんどいない。

 遠くに置かれた数脚の椅子やテーブルが視界に入りつつも、見える限り、この部屋にいるのはオレたちだけだ。

 その静けさが逆に気を引き締めるような感覚を与えてくる。

 自販機で食後のコーヒーを買って戻ると、シーナが今日のお弁当を開いて待っていてくれていた。

 

 

「今日は野菜たっぷりです。シュヴァルがまた茶色い系ばかり食べてるので、あの子の栄養バランスをとるのに寄っちゃいました」

「本当に妹のことを考えているんだな」

「ええ、放っておいたら無茶なこともするし、危ないことをしないか不安なんです。でも甘えてこられたら、やっぱりお姉ちゃんとして応えてあげたくて、色々甘やかしちゃうんですよね」

 

 

 妹たちの世話をすることがどれだけ楽しいことか、彼女は言外に語る。

 時折見せる笑顔はとても素敵で、こっちまで微笑んでしまうほどに気持ちが伝わってきて、ずっと話を聞いていたいくらいだ。

 

 

「優しいな」

 

 

 思わずその一言が口をついて出た。

 ヴィルシーナは少し照れたように目を伏せ、頬をほんのりと赤く染めながら謙遜する。

 

 

「い、いえ、そんなことありませんよ。さ、どうぞ召し上がれ」

 

 

 その様子が、さらに彼女の魅力を引き立てる。

 お弁当の蓋を開けてくれる彼女に礼を言って、早速いただくことにした。

 

 

「ありがとう。いただきます」

 

 

 香ばしい卵焼きの香りが広がって食欲をそそる。

 黄金色に光るそれの横には、レタスの上にブロッコリーが何個も並んでいて、申し訳程度にウィンナーが1本添えられていた。

 

 

「お味はいかがでしょう?」

「うん、今日も絶品だよ」

 

 

 卵焼きを噛めば、ふんわりとした食感が舌を包み込む。

 濃厚な卵の味に思わず喉を鳴らして、一緒にご飯を口に含むと、素晴らしい味のハーモニーが脳みそを揺らしてくる。

 

 シーナは、姉妹であるシュヴァルグランとヴィブロスの栄養バランスを考えながら、それぞれに必要な食事を準備している。

 もちろん、オレの分もしっかりと作ってきてくれているが、好物である卵焼きとウインナー、そして海苔を乗せた白飯とリクエストさえ完璧に聞いてくれている。

 

 以前、体調を崩して倒れたことがあったのでそれ以来、きちんとした食事をとるよう心がけているが、やはり自分一人ではインスタント食品に偏ってしまう。

 そのため昼食だけは、彼女が作ってくれたお弁当に頼り切りなのだが、これがまたウマくてウマくて箸が止まらないのだ。

 そのおかげで、昼食の時間はいつも一番待ち遠しい時間となっている。

 

 やはり毎日料理をしているだけあって、その味付けや盛り付けも見事の一言。

 あっという間にお弁当を平らげてしまうので少し恥ずかしくなるのだが、それをシーナは素直に喜んでくれるので、腹だけでなく心まで満たされるのである。

 

 

「ふふ、良かったです。しっかり食べないと、またクラリストレーナーに怒られますからね?」

 

 

 腰に手を当てながら、こちらに人差し指を立ててウィンクしてくるシーナ。

 そんな彼女の明るい笑顔を見ながら、オレはふと、ご飯粒を噛みしめて考える。

 

 

(……でも、オレたちの先行きは、あまり明るくないんだよな)

 

 

 凱旋門賞に挑むにあたり、シーナの立ち位置についてだ。

 まずジェンティルドンナとオルフェーヴルの立ち位置だが、二人が凱旋門賞に挑戦した場合、2着を2回も取っているオルフェーヴルに対し、バ場は違えど2400mで勝利したことのあるジェンティルドンナが有力バであることは間違いないだろう。

 

 対してシーナは、そのジェンティルドンナに2着に迫るも、1度も勝利したことはなく、オルフェーヴルに対しても肉薄したことはない。

 たとえG1勝利ウマ娘であっても、何度も何度もG1を勝ち続けているウマ娘とは一線を画すものだ。

 その差はどこにあるのか、いったい何が違うのか。ジェンティルドンナは時代を創るウマ娘と言っても過言ではない実力の持ち主のため、そんなことを考えたこともなかったが、やはり大きな差はあると思われる。

 

 

「このブロッコリーもシュヴァルったら、姉さんのお弁当のもの以外は食べないだなんて言うんですよ。嬉しいやら悲しいやら……」

 

 

 ヴィルシーナが笑いながら語る声を聞きながら、オレは少しだけ遠い未来を想像する。

 

 

 (……ジェンティルドンナに勝つには、何かを変えないといけないとは思う。でも、その"何か"が分からない)

 

 

 差を埋める答えが見つからない限り、ジェンティルドンナに勝つビジョンは見えない。

 

 不安と焦燥が胸を掻き立てる中でも、ヴィルシーナは相変わらず温かくて優しいため、

 口の中に広がるご飯の味にさえ、それを感じられる気がする。

 

 

「トレーナーさん?」

 

 

 考え込んでいたオレに、彼女が心配そうに声をかける。

 

 

「あ、いや。お弁当、シュヴァルじゃないけど、オレもシーナのお弁当が一番だな」

「……っ! も、もう! 褒めても何も出ませんよ? ふふ♪」

 

 

 一応、クラリス先輩はシーナと一緒にトレーニングをしてくれるウマ娘たちを見つけてくれた。

 それが二日前のことで、彼女らとのトレーニングで何かヒントを得られるのではないか、という人選だ。

 その子たちの名前はそれぞれ、エルコンドルパサー、スティルインラヴ、エアシャカール、メジロマックイーンの4人。

 そこにもう一人加わってくれるよう先輩は頼んでくれているらしいが……。

 

 

「お、ここにいたか。お疲れ様、トレーナー。調子はどうだい?」

 

 

 その時、柔らかな声とともに休憩所の扉が開いて、一人の少女が入ってきた。

 黄色い帽子にリュックサック。

 小柄ながらも、その背中には数多のウマ娘の想いを背負っている佐岳メイさんだ。

 

 

「メイさん、お疲れ様です」

「ああ、いや。そのままでいい。そう畏まらないでくれ」

 

 

 オレが立ち上がると、ヴィルシーナも一緒に立ち上がった。

 それをメイさんは手で制し、もう片方の手に持っていた袋をオレたちに差し出す。

 

 

「これは差し入れだ。良かったら食べてくれ」

「ありがとうございます」

 

 

 中からは、ほんのり甘い香りが漂う。

 どうやら洋菓子のようだが、両手で受け取って袋の中を開くと、シーナも顔を近づけてきた。

 

 

「これ、何ですか?」

「カヌレだよ。フランスのお菓子なんだが、エネルギー補給にいいかと思ってな。糖分と炭水化物がバランス良く摂れるし、何より美味いんだ」

「へぇえ~、うわぁ。可愛い……」

 

 

 袋の中を覗き込んだヴィルシーナが小さく歓声を上げた。

 カヌレとはメイさんの言う通りフランス発祥の菓子で、表面はカリッと内側はもちもちとした食感が楽しめる。

 コロンとしたフォルムもかわいらしく、彼女が目を輝かせるのも頷ける。

 

 

「メイさん、わざわざありがとうございます。あ、ちゃんと挨拶してませんでした。ヴィルシーナです」

「ああ、聞いているよ。よろしくな。クラリストレーナーから聞いているんだ。少しでも手助けになればと思っているんだが、こんなことくらいしか思いつかなくて」

 

 

 苦笑する彼女だが、支えてもらっている実感を持てるため、ちょっとした気遣いでも非常に助かるというものだ。

 

 

「ところで、ヴィルシーナの調子はどうだ? 何か困ったことがあったら言ってくれ」

「……そうですね、メイさんに聞いていいのか分からないのですが」

「うん?」

 

 

 オレは彼女に、今のシーナの状況を伝えた。

 あくまでトレーナー目線だが、G1勝利ウマ娘であるシーナでも、過去にG1を何度も勝利しているウマ娘や、ジェンティルドンナ、オルフェーヴルたちとは何かが足りないことを感じ取っていることをだ。

 

 

「なるほどな。それはかつてジェンティルドンナのトレーナーである君ならではの視点かもしれない。そのジェンティルドンナの時はどうだったんだ?」

「ジェンティルは……なんというか、オレが彼女についていくのが必死だったのもあるんですけど、もともと別の感覚を持っているようでした」

「別の感覚?」

「はい……でも、これが上手く説明できないんです。その、レースにおいて他のウマ娘にはない何かを持っているとしか……すみません、相談している側なのにちゃんと伝えられなくて……」

「ふーむ、力になってやりたいが、私もトレーナーではないからな……。でも言わんとしていることは分かるつもりだ。私も凱旋門賞に挑んできたウマ娘たちを見ている。世界との差もね」

 

 

 メイさんは顎に手を当てて考え込む。

 こういったことはクラリス先輩に聞いた方が良いのかもしれないが……彼女は今、出張中で忙しい。

 LANEで相談には乗ってくれるだろうが、あまりこちらに時間を割かせてしまっては申し訳ない。

 クラリス先輩に頼りっきりでは、シーナを託された意味がないからだ。

 

 

「あ、あの。それについては、私も感じたことがあります」

「シーナも?」

「はい。ジェンティルドンナとクラシック戦線で勝負した時、私は一度も彼女に追いつけなかった。確かにパワーなど地力の差はありましたが、レース戦術、スタミナ配分、ポジション争いなどは負けたつもりはありません。でも……」

 

 

 彼女は悔しそうに歯噛みする。

 その表情を、オレはジェンティルドンナの横で何度も見てきた。胸が痛い。

 

 

「以前、ウインバリアシオンさんと一緒に、オルフェーヴルとジェンティルドンナの模擬レースを見ました。凄いと思いましたが……あの二人と私は、何かが違うんです。そう、何かが足りないように思えて……」

 

 

 クラリス先輩のトレーニングに、オレが立てたトレーニングを追加していけば順調にシーナの実力が伸び、いずれは彼女らに追いつけると思いたい。

 が、オレもオルフェとジェンティルの走る姿を見て、本当にそれだけで良いとは思えなかった。

 

 

「オルフェーヴルやジェンティルドンナにあって、足りないもの、か。……そうだな、メジロのばあさんや、シリウス家のじいさんから昔、聞いたことがあるようなないような……?」

「「本当ですか!?」」

「うぉお!?」

 

 オレとシーナは共に身を乗り出し、メイさんに詰め寄った。

 突然の勢いに驚いたのか、メイさんの被っている黄色い帽子がズレ、地面にポトリと落ちた。

 

 

「あぁ、すみません……!」

 

 

 二人で慌てて帽子を拾おうとするオレたちの動きを制し、メイさんが先にそれを拾い上げる。

 

 

「はは、構わないよ。それだけ必死なんだろう? 気持ちは分かるさ」

 

 

 メイさんは落ちた帽子を丁寧に手に取って被り直す。

 

 

「ええっと確か……、あぁ、そうだ! 君たちの言うそれが、そのことかは分からないが……、時代を創るウマ娘が必ず入ると言われているものがあるらしいんだ」

「時代を創るウマ娘……?」

「ああ、多くのウマ娘が活躍している中、ひときわ日本中に名前を轟かせているウマ娘たちがいるだろう?」

 

 

 思い当たるウマ娘はトレセン学園にも何人かいる。

 真っ先に頭に浮かんだのは、現学園の生徒会長であるシンボリルドルフだ。

 その威風堂々とした姿が、脳裏にありありと蘇る。

 

 

「そんな彼女たちが、いつだったか話していてね。確かこう呼んでいたものがある――『領域(ゾーン)』と」

「『領域(ゾーン)』……」 

「そうだ。別名、フローやピークエクスペリエンスとも呼ばれる超集中状態、だったかな? そこに突入すれば、周りの音が聞こえないほどの集中状態となり、まるで世界が自分一人になったと感じるほど感覚が研ぎ澄まされるものだ。他のスポーツでも、そういった話を聞いたことくらいはあるだろう?」

 

 

 メイさんの穏やかな語り口に、オレはゴクリと喉を鳴らす。

 

 

「そこに、オルフェーヴルやジェンティルドンナは至っている、ということですか?」

「分からない。だがこれを科学的に言えば、人間、あるいはウマ娘がそのとき行っていることに完全に集中し、挑戦と己のスキルが適切に調和した状態で、なおかつその活動が成功裏に進んでいると感じられる精神的な状態のことを指す」

「その精神的な状態に至れば、普段と比べ物にならない力を発揮するんですね……?」

「ああ、あくまでだが、そう言われている。もちろんただ努力するだけではダメだが、努力した上で、その先の世界があるといったところだろう。領域に至る感覚は本人にしか分からない。ゆえに、未知の領域なんて風にも言われているな」

 

 

 確かにその『領域(ゾーン)』というものが本当にあるのだとしたら、他のウマ娘たちとは比類なき圧倒的なパフォーマンス能力の説明ができる。

 シーナ本人が自分には何かが足りないと感じていたように、ジェンティルドンナとシーナの差が、もしそこにあるのであれば……彼女が勝てない理由も納得できる。

 

 

「じゃあどうしたら、その世界に行けるんでしょうか……」

 

 

 絞り出すようなシーナの声は、かすかに震えていた。

 悔しさが混じったその響きに、オレも胸が締め付けられるような思いで、ただメイさんの瞳を見つめるしかなかった。

 何か一つでも答えがあれば、それを指針に全力で走ることができる。

 だが、メイさんは軽く眉を寄せ、オレから視線を外して小さく首を振る。

 

 

「分からない。さっきも言ったが、本人たちにしか分からない感覚だからな……」

 

 

 その静かな声には、どこか切なさすら含まれていた。

 だが、それが余計に痛かった。

 言葉の一つ一つが鋭く胸に刺さり、答えが手の届かない場所にあると突きつけられるようだった。

 シーナは唇を噛みしめ、拳をぎゅっと握り込む。

 その小さな肩がわずかに震えているのを見て、オレも無意識に拳を握りしめていた。

 目の前に答えがあるかのように思えたのに、それがつかめないもどかしさが、胸の奥をかきむしるような痛みを生む。

 

 

 

「でも一つだけ、ヒントになるかもしれない話がある」

「ヒント……ですか?」

「ああ、これもシリウス家のじいさんから聞いた話だ。ゾーンに入ったことがあるというウマ娘たちは、みんな口を揃えてこう言うんだ。『自分が本当に望んでいることに気づいた』ってね」

「本当に……望んでいること……?」

 

 

 シーナが繰り返しながら、視線を床に落とした。

 メイさんはうなずきながら続ける。

 

 

「そうだ。それが勝利なのか、誰かへの想いなのか、何かを守ることなのか、はたまた自分自身のプライドなのか……。何であれ、それが明確になったときに、身体も心も、すべてが一つにまとまるんだってさ」

 

 

 オレはシーナの横顔を見た。彼女の拳が少し震えているのが分かる。

 シーナは悔しい思いをずっと抱えてきた。

 オルフェーヴルやジェンティルドンナに届かない現実。

 それでも挑むことを諦めず、オレを信じてくれている彼女だ。

 

 

「シーナ、君が本当に望んでるものは分かるか?」

 

 

 オレの問いかけに、シーナは少し考えて、顔を上げた。

 

 

「私の望みは……ジェンティルドンナに勝つこと。それが私のすべてです」

 

 

 その言葉には、迷いがない。

 だがそれは、彼女がずっと抱えてきた想いの全てだ。

 それでも彼女はまだ領域(ゾーン)に至れていない。その理由は何なのか。

 思い当たる理由は、今のところ1つしかない。

 

 

「"自分の本当の想い"が分かっているなら、やることは一つだ。そうだろう? トレーナー」

 

 

 メイさんの低い声が場の空気を揺らした。

 深くかぶっていた帽子を少しずらし、鋭い眼光がオレたちを捉える。

 

 

「はい、そこに至れるまで、このままトレーニングを続けていきます。そうすれば、見えてくるかもしれません」

 

 

 オレがきっぱりと答えると、メイさんは少しだけ笑みを浮かべた。

 

 

「ああ、今はそれしかないが焦ることはない。まだ半年以上の猶予があることだしな。努力を重ねていき、いずれその世界に至ることができると……、私はそう願っているよ」

 

 

 その声には、どこか温かさも感じられた。

 このままトレーニングを続けても意味がないと思ってはいたが、結局はやり続けるしかない。

 

 

(悩んでいても前には進めない……オレが悩んだら、シーナも不安になってしまう。オレが自信を持って彼女を導くんだ)

 

 

 その境地に至れるかどうかは、やはりどこまでシーナの実力を伸ばせるかだ。

 

 

「ありがとうございます……」

「いや、君たちには期待している。日本の夢を頼んだよ」

 

 

 メイさんは少し寂しそうな表情を浮かべると、視線を遠くへと向けた。

 

 

「すまないが、このあと新幹線の予約があってね。お暇させてもらおう」

 

 

 再び帽子を目深くかぶりなおし、小さくお辞儀をするメイさんに、オレも深く頭を下げる。

 シーナもそれに続き、しっかりと礼をした。

 

 重い空気を引きずったまま、メイさんは休憩所の扉を静かに開けた。

 外からの冷たい風が、少しだけ室内に流れ込む。

 彼女の背中は徐々に遠ざかり、その姿を見送るのだった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 佐岳メイは休憩所から出ると、冷えた冬の空気を感じながら一歩外へ踏み出す。

 小さなため息が白く染まり、消えていく。

 彼女の視線は学園の正門前で待機しているタクシーに向けられ、その足取りはあまり軽くはない。

 

 運転手が気づいてドアを開けると、メイは小さく礼をして車内に滑り込んだ。

 座席の柔らかさに背を預けながら、帽子を軽く直す。

 

 

("領域(ゾーン)"か……。まぁルドルフや、マルゼンスキーあたりに聞けば、もっとヒントを教えてくれそうだがな。やよいに伝言を頼んでおくか?)

 

 

 ふと視線を窓の外に向け、ぼんやりと流れる風景に目をやる。

 

 

(しかしヒントをもらったとて、人によって感覚は変わるからなぁ。私も経験したわけではないし……いや、仕事で忙しいときに一度だけあったか?)

 

 

 彼女はふっ、と口元に自嘲めいた微笑みが浮かべ、ポケットからスマホを取り出した。

 画面を操作し、新幹線の予約内容を確認する。次の予定が目に飛び込んできて、微かに眉が動いた。

 

 

(さて、次は凱旋門賞に挑むための資金援助……サトノグループとの調整だったな。年末だというのに休む暇がないよ、まったく)

 

 

 スマホを閉じようとしたとき、ふと画面を見ていた目が留まる。

 そこには凱旋門賞を過去10年間で4度も制覇した名トレーナー、ローラン・ジレーヌの記事が映っていた。

 

 

(おっと、そう言えばこれを伝えようと思っていたんだっけか……でもまぁ、あの様子だといらぬ心配をかけそうだし、言わなくて正解か)

 

 

 その記事を見つめる目は冷静だが、どこか含みのある色を帯びている。

 画面をスクロールしつつ、彼女はローランに関する事実を思い出していた。

 

 

(ローラン・ジレーヌの経歴について、10年より前の記録が一切ないことを知ったからといって……今の彼らに何かができるわけでもないからな)

 

 

 スマホをポケットにしまい込み、メイは窓の外に目を戻した。

 信号待ちをしていたタクシーが静かに発進し、街のざわめきを後ろへと置き去りにしていくのだった。




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