12月某日、ここはフランス某所にあるプライベートトラックだ。
白く立ち込める霧がコース全体を覆い尽くし、冷たい空気が頬を刺し、吐く息が白く溶け込む。
「はっ、はっ、……ふっ!」
ジェンティルドンナは軽快な足取りでウォーミングアップを行いながら、ふとその白い息の行方を追った。
今行っている準備運動は、現トレーナーであるローランから指導を受けたものだった。
しかしジェンティルは、元トレーナーが考案したやり方のほうが体に自然に馴染み、心地よさを与えてくれるので今も頻繁に行っている。
「んっ……んぅ」
軽く両腕を振り、膝を曲げたり伸ばしたりするたびに、かつてのトレーナーとの日々がぼんやりと脳裏に浮かぶ。
彼は今、何をしているのだろうかと無意識に考え、ふと日本との時刻差について計算してしまっていた。
そんな時、ザッザッと芝生を踏む規則的な靴音が近づいてくる。
振り返ると、父親が寄越してきた世話役のメイドが、両手に大型のタブレットを抱えて立っていて、ジェンティルドンナは渋い顔をした。
黒いエプロンドレスに白い襟がきっちりと整えられ、凛とした雰囲気を漂わせるメイドは一礼をして、タブレットの画面を無駄なくスクロールする。
(さて、今日こそ姿を見せると思っていたけど……、やっぱり画面越しですのね)
彼女が見据える先は、スクロールされた後に出てきた会議アプリの画面。
その向こう側に、ローランの姿が映り出されている。
「やぁジェンティル、おはよう。早速、今日から本格的なトレーニングを行うが、まず君のパワーはロンシャンの芝では強みだということは知っているな? もちろんその使い方を間違えれば意味がない。君に昨晩送ったデータは、かつてロンシャンの内回りで失速した日本のウマ娘の例だ」
「ええ、もちろんですわ。日本に比べて芝は重く、スタミナもパワーも削られやすい。適応できないウマ娘なら、ここでは歯が立たないでしょうね」
そう言い切ったものの、ジェンティルドンナの胸の奥には苛立ちがわだかまっていた。
(なぜわたくしが、未だトレーニング場にも姿を現さない男の指導を受けねばならないのかしら)
彼女はそれを言葉にはしない。
今までも、ジェンティルドンナはタブレット越しに指示を受けてきた。
ただそれは、まだ本格的なトレーニングではなくフランスの土地や気候に慣らす段階のためだと納得していたからだ。
しかし今日に至っても、現トレーナーは姿を見せない。
何か理由があるのだろうと推測はできるが、休日に邪魔をしに来るくらいには姿を隠しているわけでもない。
瞳にはっきりと浮かんだ怪訝な色。
それに気づいていない様子のローランが続けて言う。
「これまで芝の抵抗を感じながらの低速トレーニングを続けたが、今日はレース速度で行う。目的は全身のバランスを最適化することだ。芝の重さで脚が取られる時、前に出した脚の引きつけが甘くなるのが常だからな。ここを補うには、腸腰筋を意識させるフォームが必要だろう。このトレーニングで、フランスの芝に君の走りを最適化していく」
彼の言葉には理がある――それが余計に、ジェンティルドンナの不満を募らせた。
適切な指導だからこそ、何も反論できない。
彼女は一度軽く息を吐き、涼やかな表情を浮かべて頷く。
「無理はするな。だが集中しろ。怪我をすれば、君が困るだろう」
「ご忠告ありがとう存じますわ」
あしらうような口調とともに、ジェンティルドンナの唇に笑みが浮かぶ。
だがそれは表面だけのものだとローランは気づいていないだろう。
奥歯を勝手に噛みしめてしまっていること気づき、顎の筋肉を緩ませる。
(本心では、わたくしの体を案じているのではなく、投資が無駄になるのを恐れているだけでしょう?)
冷めた思いが胸を過ぎるたび、彼女は遠い記憶を思い出す。
(あの人なら、トレーニングの説明の最中に、わたくしがこんな風に笑っただけで動揺していましたわね。理論が間違っているのかと不安になりつつも、わたくしに負けないように張り合いつつ、わたくしを信じ、身を案じ、傍に居た……)
少し顔を青ざめさせた元トレーナーが、あわあわと内心慌てている様子が自然と思い浮かぶ。
しかし、時折見せる覚悟を決めた顔がとても愛らしく、ジェンティルドンナは彼というものを、自分が育ててきたことに誇りに思っていた。
自分が彼のトレーニングを力に変えていくのと一緒に、彼もまたジェンティルドンナに並び立つトレーナーとして成長していくような関係が、とても居心地の良いものだったから。
「ふっ、見た目は可愛らしいお嬢さんだが、君の鋭さや、その物思いに耽る姿は実に美しい。どうだ、今晩一緒に夕食でも」
「無駄話はもう十分ですわ。さっさとトレーニングを始めてくださらないと、わたくしの体が鈍るだけですもの」
元トレーナーのことを考えているところに、気持ちの悪い言葉を浴びせられて不快になったので早々に話を打ち切ろうとする。
ローランが、父とどのような約束を交わしたのか詳細は知らないが、仕方なく承諾したとはいえ、無理やりこの地に連れてこられた挙句、こんな言葉を投げかけられる屈辱にずっと耐えられるほど、ジェンティルはおしとやかではない。
さらに画面越しでの指示と命令も相まって、怒りにも似た思いがさらに強まる。
「手ごわいな君は。だが君にとって凱旋門賞を取ること。つまり世界一の称号を手に入れることは、俺と利害が一致しているはずだ。それに、君は俺のトレーニング方法が最適であることをすでに気づいている。違うか?」
「……ええ、ここフランスでは、確かにあなたの方法が適切でしょうね。でも、それがどうしましたの?」
「日本のトレーナーのことと、そいつから受けたトレーニングは忘れろ。俺の方が優れていることが本能で分かるだろう」
「……」
ジェンティルは、今度は頷かなかった。
冷めた笑みを崩さず、ローランをただ見つめる。いや、正確には心の底で睨みつけた。
確かに、ここに来てからジェンティルドンナの状態に合わせて申し分のないトレーニングが続いており、以前のトレーナーとは違って指摘すべき点が一切ない完璧さなのは認めざるを得ない。
たとえ人間性がどうであれ、トレーナーとしての実力は世界に名だたる一人としては本物だと確信している。
しかし、それはそれ。
元トレーナーと駆け抜けてきた日々を否定されるような物言いに、ジェンティルはもはや不機嫌さを隠せなくなって、ついぞ言い返しそうになる。
「とはいっても、すぐに忘れることは不可能だろうからな。安心しろ、俺が忘れさせてやる」
そんな彼女の心境を知ってか知らずか、ニヤリと不敵に笑うローランに、ジェンティルドンナは唇をきゅっと噛んだ。
(確かにこの男の指導は適切。いえ、適切すぎる。まるでわたくしの状態が全て数値で見えているかのように……)
元トレーナーの指導はローランに比べれば、緻密さでは及ばない部分があった。
荒さが目立ちつつも、必死で考えてきたことの分かるトレーニング計画は、ベテラントレーナーが見ればこれは無茶だと首を振るだろうものに違いなかった。しかしそれをジェンティルドンナは己の力に変え、偉業を成し遂げてきた。
100%の完璧ではなく、120%の荒い提案をしてきたトレーナーだったからこそ、その相乗効果で成長してきた自負さえある。
しかし今は違う。その100%の完璧さがジェンティルドンナの中に気持ちが悪いほど、すんなりと入ってきて自分でも何の苦労もなく成長していることを実感する。
成長するのではなく、成長させられていると感じるほどに。
「……っ、そうですわね。期待していますわ。せいぜい、わたくしの邪魔だけはなさらないでくださいませ」
「クク、いいウマ娘だ。それでこそ調教のし甲斐がある」
(この男のトレーニングが適切なのは認めますわ。でも適切すぎる。これだけ完璧なら、誰も何も言うことがないけれど、逆にそれが成長を阻害する要因となっている……。いいえ、こんなことを考えていても無駄ね。わたくしはそれを、自分の糧にする。その点においては何も変わらない……)
実際のところ、日本の育成方法が染みついたジェンティルドンナが凱旋門賞に挑んでも勝ち筋はあまりに低い。
そのため、今は彼の言う通りにするしかないのだが、やはり心の方は拒絶する。
今走り出せばパワーのコントロールを間違って地面を踏み抜いてしまうのではないかとさえ思ってしまうが、持ち前の精神的強さを使って、なんとか己の心を落ち着かせる。
「ところでローラントレーナー、少し確認したいことがあるのだけれど」
「ん、なんだ? もしかして夕食の予定についてかな? それなら君のためにいつでも空けて――」
「この時期のフランスは当然気温が低いですが、それでも発汗はありますわね? 寒冷環境下でのトレーニングでは、電解質の消耗が体感的にわかりにくくなると言われていますけれど……具体的に、筋肉の収縮効率を保つためにはどのタイミングで補給するのが理想だとお考えです?」
ローランの言葉を遮り、ジェンティルドンナは自主トレのための質問を投げかけた。
日本にいたころよりもフランスの気候は湿度が少なく、レースと同等レベルのトレーニングをした場合の筋肉や神経への影響について、自分で行える限りのことをするべきだと考えたからだ。
しかしローランはなぜか居心地が悪いように目をそらし、しばし沈黙した。
その画面の中で彼は、こちらから視線を外して横の何かを操作しているようだ。
「あ、ええと、まあ、それはいつも通りで大丈夫だろう。そのためにフランスの気候に慣れてもらったのだからな」
「確かに慣れはしましたけれど、それはあくまで日常を送る場合ではなくて? レースレベルの発汗作用や筋肉の、体力の消耗についてお伺いしているのですけど」
「あ、ああ……それは後で伝えよう」
歯切れ悪く口ごもる彼に、ジェンティルは自分の言葉のニュアンスがおかしかっただろうかと考えるが、今まで通じているのにそんなことはないはずだ。
念のため、もう一つ質問をする。
「では低温環境での発汗量が通常より減る場合、ナトリウムやカリウムの補給をどう調整されるのです? また、筋肉の硬直を防ぐためのマグネシウムの摂取については、どうお考えかしら?」
「ま、まあ、基本的にはバランス良く摂取することが大事なんじゃないか? あっと、すまない。この後少し予定があるんだ。詳しくはまた後でデータを送ろう。では」
そう言って彼はアプリを切断し、音声が途切れた。
タブレット画面にはジェンティルドンナの驚く顔が映り、持っていたメイドがロボットのようにタブレットを下げて一礼する。
(世界的な名トレーナーが、この程度の質問に即座に答えられなかった? 寒冷地での発汗量や電解質消耗についてすら具体的な回答ができないなんて……)
ジェンティルドンナは彼の返答に微かな違和感を覚えていた。
即答できないどころか、その辺のサラリーマンが答える内容のような、具体性に欠けた回答だった。
(あの人なら慌てつつも根拠を出して、データに基づいた回答を即座に示してきた。私が細かく指摘すれば、そのまま議論になるくらいに、きちんと回答できましたのに)
視線を落とし、タオルを握りしめながら考え込むジェンティルドンナ。
その胸の奥で、疑念が小さな火種のように芽吹いていくのを感じるのだった。