蒼と紅の炎   作:荒波を征く湯気

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お待たせしました


第5話 VSオルフェーヴル

 冬枯れの木々が道路沿いに並び、窓越しに差し込む日の光が車内を照らしたため、サンシェードを下ろす。

 今日は1月8日。

 車内の空気は暖房を数分つけてようやく暖かくなるほどで、季節が深い冬の中にあることを強く意識させられる。

 

 目的地は、メンテナンスが終了したばかりのVR施設だ。

 プロジェクトL'arcが全盛期だった頃は、学園内に機器を運び込んでいたらしいが、ここ数年で縮小傾向となり今年からはサトノグループが管理する専用施設で使用する形に切り替わったという。

 

 そんな経緯がメイさんの声で頭をよぎる中、助手席のシーナが静かに息をつくのが聞こえた。

 彼女としては、いつものトレーニングとは打って変わって、本格的に凱旋門賞専用の練習ができる日となる。

 その表情は真剣そのものだ。

 

 施設の駐車場に車を停めると、すぐに二人のウマ娘がこちらに近づいてきた。

 

 

「あら、来たわね。メイさんから話は聞いているわよ。私はサトノクラウン、よろしくね!」

 

 

 元気いっぱいな声が辺りに響く。

 シックな装いが印象的な彼女の姿からは、どことなく堂々とした風格が感じられた。

 

 

「こんにちは、お二人とも。私はサトノダイヤモンドと申します」

 

 

 続いて挨拶したのはサトノクラウンとは対照的に、柔らかな物腰で微笑みを浮かべたウマ娘。

 まるで冬の空気に温かな風を吹き込むようなその声には、自然と人を惹きつける魅力がある。

 

 彼女たちはまだデビュー前だが、すでにサトノ家の悲願を背負う次世代のホープとして注目を集めている。

 その存在感はトレーナー界隈でも大きな話題となっているのだが、今日は彼女たちをスカウトしに来たわけではない。

 

 

「お久しぶり、シュヴァルの姉のヴィルシーナです。二人には、妹がお世話になってるわね」

「とんでもありません、こちらこそお魚さん釣りの極意など教えてもらってますので」

「へぇ、ほんと? シュヴァルったら、そんなこと私には何も言ってくれないのよ? いつも仲良くしてくれてありがとう」

 

 

 シーナは嬉しそうに笑いながらサトノダイヤモンドのとの会話を広げていく。

 その様子は、彼女が普段どれだけ妹のことを気にかけているかを如実に物語っている。

 

 そういえば、シュヴァルグランは釣りが得意らしいという話を聞いたことがある。

 彼女が真剣な表情で釣り糸を垂らす姿が、なんとなく頭に浮かんだ。

 そして同じ話題の中でよく聞く名前に、キタサンブラックというウマ娘がいる。

 彼女も注目されるべき存在のはずだが、サトノ家のウマ娘たちに比べると今のところあまり話題になっていないようだ。

 あの子もきっと、ジェンティルドンナに負けず劣らずとんでもないウマ娘になるような予感がするのだが……まぁそれはともかく、軽く挨拶も済ませたので早速VR施設へと案内してもらう。

 

 施設の中は最新鋭の設備が整い、技術の凄さを感じさせた。

 

 

「使用に関しての注意事項だけど、あまり長時間の使用は控えてほしいの。もちろん何らかの健康被害が出るわけではないけれど、現実のトレーニングと同じように筋肉や神経に負荷がかかるわ。詳しくは、すでに送付していると思うのだけど、読んでくれたかしら?」

「ああ、もちろんだ。とても分かりやすいマニュアルだったよ。作った人は凄いな」

「そ、そうかしら。ふふ……♪」

 

 

 サトノクラウンは何故か照れくさそうに微笑んだ。

 その様子を横目に、シーナがVR機器へと視線を向ける。

 その表情には明らかな興味と緊張が混じり合っていた。

 オレもつられるように視線を向けると、目に入ったのは機器の傍らに立つウマ娘、そしてその取り巻きである大勢のウマ娘たちだった。

 

 

「あれは……!」

 

 

 シーナがごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。

 そのウマ娘はこちらに気づいたのか、ゆったりとした足取りで近づいてくる。

 その仕草には一切の隙がなく、堂々とした威厳を感じさせ、オレはシーナを半ば庇うようにして一歩前に出たが、そのウマ娘が放つ圧力に息を呑んだ。

 ズンッ! と、まるで空気そのものが重たくなったかのようで、ジェンティルドンナに匹敵する、いや、それ以上の存在感を感じるほどだった。

 

 

「なんだ、誰かと思えばジェンティルの小間使いだった男ではないか。何用だ?」

 

 

 低く鋭い声が空気を切り裂くように響く。

 

 

「覚えてもらっていて光栄だよ、オルフェーヴル……」

 

 

 オルフェーヴル。

 彼女は現在のトレセン学園、いや、日本のウマ娘界において、ジェンティルドンナを除けば頂点に君臨する存在だ。

 その髪はまるで神々しい鬣のように光を浴びて輝き、目線は肉食獣が獲物を見据えるかのような鋭利さを持っている。

 その一挙一動が威圧感に満ち、周囲の空間すら彼女の支配下に置かれているかのようだった。

 

 ただそこに立つだけで、圧倒的な威風を纏うウマ娘に、思わず気圧されてしまう。

 

 

「そうか、この施設を利用するもう一組とは、貴様らのことだったか」

 

 

 オルフェーヴルの低い声が響き、その視線はまるで刃物のように突き刺さってきた。

 彼女の背後には、忠実な取り巻きたち――まるで王を守る近衛兵のような親衛隊のウマ娘たちが整然と並び、同じようにこちらを睨みつけている。

 その目は口に出さずとも、挑発と敵意を語っていた。

 

 

「長時間の利用を控えろと告げられたが、まさか……こ奴らに使わせるためではあるまいな?」

 

 

 冷たい視線がサトノクラウンに向けられるが、彼女は一歩も引かず毅然と答える。

 

 

「もちろん、そういうつもりではありません。VR機器の長時間の利用は、以前も申し上げたとおり、あなたのお体の負担に関わるからです」

 

 

 サトノ家においてもサトノクラウンの父親は、香港で商社勤めをしているらしい。その父親譲りなのだろうか。

 誇り高さと堂々とした風格が垣間見える。

 その令嬢らしからぬビジネスマンのような振る舞いに、オレは内心拍手をした。

 

 

「で、あるか。ならば良い。しかし、凱旋門賞を共に挑む仲間などという意識は、余は持ち合わせておらん」

 

 

 オルフェーヴルはわずかに顎を上げ、まるで王権を宣言するかのように高らかに続ける。

 

 

「ゆえに貴様も余にとっては、あの忌々しい侵略者と同様に映っている。余の嘆きが分かるか?」

 

 

 その一言に、場の空気が一気に張り詰めた。"侵略者"――その言葉が指す人物はただ一人。

 かつてオルフェーヴルがそう呼んだウマ娘、それは他でもないジェンティルドンナだ。

 オルフェーヴルにとって、ヴィルシーナはその赤き侵略者と同じように、自分の道を邪魔をする存在に見えるらしい。

 

 

「さて、あえて聞こう。貴様が凱旋門賞に行ってどうするというのだ? 過去の戦績から見れば、無様に負けるのがオチなのではないか?」

「そんなこと……」

 

 

 挑発的な声が、場の空気を一瞬で冷たく染める。

 オレは思わず反論しようと口を開きかけたが、それを遮るようにオルフェーヴルの取り巻きたちが声を重ねた。

 

 

「王の御前よ! 発言には許可がいるわ!」

「そうよそうよ! 身の程を知りなさい!」

 

 

 勢いを増す声が、鋭利な刃のように周囲に響く。その圧力に、サトノクラウンもダイヤモンドも硬直し、動けなくなっていた。

 そのとき、オルフェーヴルの煌びやかな鬣の影から、小柄なウマ娘が一歩前に出てきた。

 

 

「まぁ皆さん、落ち着いてください。そちらのトレーナーさんなら、オルの言いたいことは分かっていると思いますよ」

 

 

 冷たい視線を周囲に送りながら、小柄なウマ娘は穏やかな微笑みを浮かべる。

 その仕草はオルフェーヴルの威厳とは異なる、静かな威圧感を放っていた。

 

 

「どうも、正式にご挨拶をしたことはありませんでしたね? ドリームジャーニーと申します。以後、お見知りおきを」

 

 

 彼女の声はしっとりとしていながらも芯が通っており、耳に心地よい反面、隙を許さない緊張感を伴っている。

 

 

「どうも。オルフェーヴルが台頭している今、君の名前を知らない人はいないよ」

「それはそれは光栄ですね。ジェンティルドンナさんの元トレーナーさんに知っていただけるとは」

 

 

 ドリームジャーニーは微かに目を閉じ、誇らしげに微笑む。

 

 

「昔はそうだったけど、今はシーナのトレーナーだ。そう呼んでくれ」

「ああ、申し訳ありません。悲しい顔をさせてしまいましたね。他意はないのですよ。オルにとってあなたはそういう立場の人間ですので」

 

 

 彼女の言葉には、一見すると謝罪の形を取っているものの、どこか含みのある響きがあった。

 場を支配するようなその視線が再び鋭くこちらに向けられた瞬間、空気がさらに重たくなる。

 

 

「話を戻しましょう」

 

 

 柔らかなスモーキーな香りが鼻腔をくすぐる。彼女の香水の匂いだろう。

 華奢な体躯のイメージとは裏腹に、その香りは重厚で存在感のあるものだった。

 

 

「オルにとって世界を獲ることは王への道、すなわち王道となります。今年こそ、オルは自分を慕う民草を安心させたいのです」

 

 

 言葉を静かに紡ぎながらも、彼女の視線は鋭さを失わない。

 オルフェーヴルは険しい表情で目を瞑っているが、その様子からは内心の賛同が窺える。

 

 

「ヴィルシーナさんのヴィクトリアマイルでの勝利は称賛に値します。しかし、今回の凱旋門賞は2400メートル。過去の成績を見れば、シニア級の彼女が、その距離での実力がどれほどのものかは明白です。もちろん、G1レースに出ること自体が素晴らしいことだとは思いますが、果たしてその実力で、日本のウマ娘が一度も勝利していない国際G1で通用するとお考えですか?」

 

 

 彼女の一言一言が、鋭い刃となってシーナを刺しているようにも思えた。

 その背後で、オルフェーヴルの親衛隊たちが薄ら笑いを浮かべているのが見える。

 

 悔しいが、彼女の言うことは合理的だ。

 オルフェーヴルと比べて、ヴィルシーナはマイルG1しか勝利していない。

 今のままでは、メイさんの言うとおり今年の凱旋門出走ウマ娘はオルフェーヴルで決まりだろう。

 

 

「それを補うのがトレーナーの役目だ。悪いが、彼女は国際G1で通用する。オレが通用させてみせる」

 

 

 シーナをかばい、二人の前に出る。

 彼女を守り、彼女を導くのが、今のオレの役目だ。

 ジェンティルドンナに鍛えられた体と精神のおかげで、オルフェーヴルとドリームジャーニー、この二人を前にしてもシーナを守るためなら引き下がろうなんて思わなかった。

 

 

「ふん、ジェンティルに捨てられボロ人形のようになったかと思えば、今度はそやつを利用してあやつへの意趣返しか」

 

 

 オレの胆力をオルフェーヴルはあっさりと躱して皮肉ってくる。

 なんと言い返そうかと思えば、後ろから群青色の髪をなびかせてシーナが前に出てきた。

 

 

「何を勘違いされているのか知りませんが、トレーナーさんを誘ったのは私です。そもそも私は、たとえ利用されても構いません、トレーナーさんとなら凱旋門賞でジェンティルドンナを倒せます」

 

 

 サトノダイヤモンドもサトノクラウンも、オレたちのやり取りを、息を呑んで見つめている。

 

 

「ふん、女。あやつの真似事をしたいなら他所でやれ。ボロ人形を哀れで拾ったかは知らんが、貴様に凱旋門賞は高すぎる壁だ。身の程を知れ」

 

 

 彼女の言葉に続いて、親衛隊たちが大きく頷いていた。

 対してシーナは、握りしめた拳を震わせながら必死に耐えている。肩は小刻みに揺れ、噛み締められた唇には薄く血が滲んでいる。彼女の心が言葉の数々に切りつけられているようにも感じた。

 その姿を見た時、胸の奥から湧き上がる感情が口を無意識に動かしていた。

 

 

「もしかして、怖いのか?」

 

 

 軽率とも言えるその言葉が口から漏れると、場の空気が一瞬で変わった。

 親衛隊たちのざわめきが止まり、全員の視線がオレに突き刺さる。

 まるで怒りの波が一斉に押し寄せてきたかのようだったが、オレは一歩も下がらない。むしろさらに前に出る。

 

 

「貴様……もう一度言ってみよ」

 

 

 低く、地を這うような声でオルフェーヴルが呟いた。その視線には、もはや威圧ではなく明確な敵意が込められている。

 しかし、それでもオレは下がらなかった。

 シーナに対する言葉が許せなくて、もう一度はっきりと告げてやる。

 

 

「オレはかつてジェンティルドンナを育てた。そのジェンティルドンナに、君は一度も勝てていない。またオレが育てたウマ娘に、負けるのが怖いから予防線を張っているのか?」

 

 

 ズォッ! と、今度は隣にいたドリームジャーニーも圧を発する。

 その小柄な体からは信じられないほどの威圧感が放たれ、一瞬にして場の空気がさらに重く沈む。

 まるで目に見えない濃密な膜が周囲を覆い尽くすような感覚に、昔のオレならジェンティルドンナの陰に隠れていたかもしれない。

 だが今は、彼女たちの目を真正面から見据えた。

 

 一触即発の空気に緊張が極限まで高まる中、視界の端でサトノ家の二人が小さく動いた。

 万が一の事態に備えようとしているのだろう。それほど、この場の緊迫感は凄まじいものだった。

 だがその時、オルフェーヴルがわずかに笑みを浮かべる。

 

 

「良い姉上。この程度の木っ端な存在の言葉など些末なことだ」

 

 

 シーナがほっと息を吐いたような音が聞こえた。

 暴力沙汰になるようなことは、向こうだってできるはずがない。

 それをわかっているからこそ、オレは堂々と彼女たちの目の前に立ち続けていたのだが、どうやら心配させてしまったらしい。

 

 

「だが……そこまで言うなら示してみせよ」

 

 

 オルフェーヴルは組んでいた腕を解き、天を突くように上げた。

 

 

「大阪杯だ。大阪杯にて貴様らを迎え討ってやる。一度も余に土をつけられない弱者に、凱旋門賞を目指す資格などない」

「望むところだ。凱旋門賞の"前哨戦"にはふさわしい。日本一のウマ娘を倒して、世界に挑んでやる」

「ふっ。せいぜい期待しておいてやろう。余が世界を獲るための踏み台にはなってもらうぞ?」

 

 

 そう言い残し、姉と自らの親衛隊を引き連れて悠然とこの場を去っていく。

 彼女たちの気配が遠ざかるにつれ爆発寸前だった場の空気がようやく沈静化していき、張り詰めていた緊張が解けた瞬間、サトノダイヤモンドがふらりと膝から崩れ落ちた。

 

 

「はぅう……」

「大丈夫ダイヤ!?」

 

 

 傍らにいたサトノクラウンがすぐに手を伸ばし、彼女の肩を支えた。

 ダイヤの顔には緊張と疲労の色が濃く浮かんでいる。

 あまり良くないものを見せてしまっただろうか。休ませた方が良さそうだ。

 

 

「トレーナーさん、あんなことを言って良かったんですか? その、私のことを庇って……」

 

 

 シーナも不安そうにして、服の裾を引っ張ってくる。

 潤んだ瞳から、オレを本当に心配してくれていることが分かる。

 

 

「大丈夫、どのみち彼女とは戦うことにはなっていたし、あそこまで言われたら黙ってられなくてね」

「トレーナーさん……」

「心配しなくていい。必ずオルフェーヴルを超えてやろう。日本一のウマ娘になって凱旋門賞に一緒に行くぞ」

「……っ! はい!」

 

 

 オレが手を差し出せば、シーナは一瞬にして目つきを変えてオレの手を掴んだ。

 握られた手には力強く、オレへの信頼が漲っているように感じた。これは応えねばならない。

 大阪杯まで3月。残り2か月と少し。

 その時、日本一が決まる。

 

 

◇◇◇◇

 

 

  翌日、どこから情報が洩れたのか分からないが、すでに学園内ではオレとシーナがオルフェーヴル陣営と対決する噂で持ち切りで、廊下を歩けばひそひそと話が聞こえたり、教室にシーナを迎えに行けばジロジロと見られたりした。

 トレーナー陣からも、苦笑いされながら遠巻きに眺められてしまっていて、なんだか居心地が悪い。

 そもそも向こうがシーナを軽んじるようなことを言ってきたからであって、オレはトレーナーとして彼女を守る行動をしただけなのに。

 何も間違ったことはしていないはずだ、と思いたい。

 

 

「ハハハハハ! あのオルフェーヴルたちにそこまでの啖呵を切ったのか。やるなトレーナー!」

 

 

 オレは事の顛末をメイさんにテレビ電話で伝えていた。

 現況報告のつもりだったが、オルフェーヴル陣営との真っ向勝負を伝えると、黄色い帽子が跳ねあがるほど豪快に笑い飛ばしてくれた。

 

 

「だが確かに今年はオルフェーヴルで決まりそうだ。プロジェクトのお偉い爺さんたちも、彼女以上の強さを持つウマ娘は現れないだろうってな」

「そうなると、凱旋門賞に挑むことすらできないんですよね……?」

「ああ、だが大阪杯でヴィルシーナが勝てれば話が変わる。凱旋門賞に向けたトレーニングだけでも大変だろうが大阪杯で勝つしかない。オルフェーヴルよりもシーナの方が強いってことを示すんだ。じいさんたちの説得はあたくし様に任せろ」

「ありがとうございます。では、そちらはお願いします」

「任せとけ! しかし不思議なものだ。君たちに伝えようと思っていた1つの手段が、大阪杯でのオルフェーヴル打倒だったんだ。それがまさか、君たちが先に彼らとの対決を取り付けるとは、やるじゃないか」

 

 

 今のままではオルフェーヴルが選出される可能性は高い。

 それを回避するために一番手っ取り早いのは、やはりオルフェーヴルに勝って彼女より実力が上であることを証明することだった。

 そう考えれば今回の宣戦布告は願ってもない成り行きだ。まぁそもそもの話だが、オルフェーヴルを超える実力を身につけるのは凱旋門賞を目指すにあたって当然のことだろう。

 

 彼女を超えなければ世界一など、遠い夢の話。

 自然と拳に力が入り、ジェンティルドンナの後ろ姿を思い出す。

 そして、オルフェーブルとドリームジャーニーの姿が思い浮かび……シーナにあれだけの大口を叩いたことを、後悔させてやると誓う。

 

 

「ところで、VR空間でのトレーニングはどうだった? 使えそうか」

「もちろんです、昨日は初日だったので慣れることから始めましたが、現実世界とほぼ同じで驚きましたよ。やっぱりフランスの芝は重いです」

「はは、そうだろうそうだろう。メンテナンスでさらに微調整して、現実の芝の感触とほぼ同じにできたからな。思う存分使ってやってくれ」

 

 

 サムズアップして笑うメイさんは、このあとまた予定があるそうで、電話はその辺りで打ち切られた。

 それからオレは、シーナの凱旋門賞に向けたトレーニングを立てつつも、大阪杯の攻略に着手し始めるのだった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 ――1月中旬。スピードとパワーをあげるトレーニングを敢行する。

 冷たい冬風が吹きつける朝、シーナは坂路の中でも特に急なコースに挑んでいた。

 マイル戦での鋭い瞬発力を持つ彼女だが、ヴィクトリアマイルよりも400メートル長い大阪杯では、より持続的なスピードとタフな脚が求められる。さらに、東京レース場とは異なる阪神のタフなコース、仁川の坂を乗り越えねばならない。

 

 

「はっ、はっ、はっ、ふっ、ふっ、……んっ!」

 

 

 急な坂を上り切った後、シーナは短い休息も許されず、緩やかな下り坂に入り込む。

 冬の冷気が頬を切り裂こうとも、彼女の瞳にはただ前だけが映っている。

 そしてそこではクラリス先輩が声をかけてくれたウマ娘が一人、ペースメーカー役として一定距離を保ちながら走っていた。

 

 

「エルのスピードについてこれマスか!?」

 

 

 陽気な声とともに、先行する影がさらに加速する。

 エルコンドルパサー。

 かつて凱旋門賞でオルフェーヴルと同じく2着に食い込んだウマ娘。その名は伝説の一端を担っており、今なお多くの者に語り継がれている。その実力は折り紙付きで、彼女と同世代のスペシャルウィークは、かのモンジューを撃破したほどの名ウマ娘だった。

 目の前を駆けるエルコンドルパサーはすでに第一線を退いた身。

 しかし、その走りには未だ鋭さが残っている。

 

 

「たぁあああああ!」

 

 

 風を切るような声とともに、エルコンドルパサーが一気にスパートをかける。

 そのスピードの上がり方は尋常ではない。

 元々全盛期であるシーナの方がトップスピードは勝るだろうが、彼女の駆け引きの上手さ、仕掛けどころの妙、瞬発力の研ぎ澄まされた感覚――それらは、経験を積んだ者にしか持ちえぬものだった。

 

 シーナも負けじとスピードを上げる。坂の勢いに乗りながら、加速を増し、並びかけ、そして……

 ゴール地点に駆け込んだ。

 トレーナーはすぐに二人に駆け寄り、シーナにタイムを示す。

 

 

「……上がってるな。先週よりかなり良くなった」

 

 

 タイムを見たシーナは肩で息をしながら、エルコンドルパサーに向かって礼をする。

 

 

「ありがとうございました、エルさん」

「はぁ、はぁ……うぅっ、さすがに全盛期のエルには届かないデスが……はぁ、はふ。その調子デース!」

 

 

 芝生の上に膝をつき、息を整えるエルコンドルパサー。その額にはうっすらと汗が滲んでいる。

 彼女はすでに現役を退いたとはいえ、今なお一流のウマ娘であることを証明するかのようだった。

 

 その走りから得られるものは計り知れない。

 彼女の持つ凱旋門賞の経験、レースでの駆け引き、仕掛けどころのタイミング……すべてを、シーナに叩き込む。

 

 

 ――1月下旬 。

 今度はスタミナとパワーをつけるトレーニングを行った。

 

 

「次のカーブを抜けたら、ペースを上げるんだ! 一気に引き離して!」

 

 

 オレの指示に、シーナは迷うことなく加速した。脚には負荷をかけるためのおもりが巻かれている。それでも彼女の走りは軽やかで、鋭く、まるで追い風を引き寄せるように滑らかだった。

 しかし、その背後から迫る影があった。

 

 

「まだそんなモンか? 一線を退いたオレでも、まだ追いつけそうだぞ?」

 

 

 緻密な計算と、恐るべき脚力で差を詰める――エアシャカール。

 彼女は理論に基づいたペース配分と、持ち前の持久力を武器に、シーナに食らいついていた。

 

 

「くっ!」

 

 

 ゴールまで400メートル。シーナはさらにスパートをかける。

 だが、エアシャカールとの差が思ったほど広がらない。

 大阪杯の2000メートルならこのスタミナでも十分かもしれない。

 しかし、目指すべきは凱旋門賞。

 その距離2400メートル、日本の芝とは違う重い馬場であり――そこで勝ち抜くには、より長く、より強く、脚を持たせる必要がある。

 

 

「あと100メートル、ペースを変えるな!」

「はい!!」

 

 

 シーナは地を蹴る。最後まで勢いを殺さずにゴール。

 だが、限界まで追い込んだ結果、肩で荒く息をし、汗が頬を伝う。

 

 

「……んっ、はぁ、っ、はぁ……はぁ」

 

 

 一方のエアシャカールは、少し息を弾ませながらも、余裕を残していた。

 脚質の違いもあるが、彼女の熟練したペース配分と持ち前のタフさは、やはり見習うべきものだ。

 

 

「シーナ、大丈夫か? 無理そうなら休憩を入れるぞ」

 

 

 オレが声をかけると、シーナはすぐに顔を上げ、力強く答えた。

 

 

「いいえ、大丈夫です……っ! もう一本、お願いします!」

 

 

 そう言って、彼女は再び坂を駆け上がる。

 地面を力強く蹴り、息を白く吐き出しながら、限界を超えようとするように。

 

 

「おいアンタ、これが終わったら止めさせておけ。オレの見立てでは、今日は限界だ」

 

 

 エアシャカールが横目でこちらを見ながら、ぼそっと言った。

 

 

「ありがとう、シャカール。オレも同意見だ。シーナにはちゃんと伝えておくよ」

「ちっ、じゃあオレは戻るぜ。それから、スタミナをつけるなら水泳のほうが効率がいいんだが……ああ、あっちのちっこい奴もいるのか。納得だ」

 

 

 シャカールの視線の先――そこには、ニシノフラワーの姿があった。

 飛び級で学園に入学した小柄な彼女は、シーナを応援しながら、何気なくシーナが巻いているものと同じおもりを、軽々と手にしている。

 

 

「大阪杯と凱旋門賞。しかも相手はオルフェーヴルにジェンティルドンナとはな。日本一と世界一を同時に狙うもンだ。目指すのは簡単だけどよォ……」

 

 

 シャカールはフードを引き上げ、持っていたPCを開く。

 キーボードを器用に叩きながら、何やら計算を始めた。

 

 

「このまま力がついていっても、まだ足りねぇ。今のままの伸び率じゃ凱旋門どころか、オルフェーヴルにだって届きやしねェ。分かってんのか?」

「……それが問題だ」

 

 

 ジェンティルドンナを担当していたオレだからこそ分かる。

 シーナは、まだジェンティルドンナには勝てない。

 

 

「このまま続けるしかない……かといって、本当にそれで良いのかって、いつも思ってしまうよ」

 

 

 どれだけ考えていても仕方がないので、今日はシーナを休ませ、次のトレーニングの準備を行っておこう。

 オレにできるのは、彼女の夢を支えながら、勝利に導くことだ。悩んでいる余裕はない。

 

 

 ――1月末。今度はまたエルコンドルパサー、スティルインラブ、エアシャカールの3人とスピードの底上げを行った。

 さらに速く、長く走れるためのトレーニングが中心ではあるが、砂浜での疾走、長距離ダッシュ、坂道ダッシュといったメニューがシーナの日常を埋め尽くす。

 もちろん、オレがジェンティルドンナを担当していた時とほぼ同じ負荷のトレーニングを行っていて、シーナはまるでジェンティルドンナに食らいつくようにトレーニングをこなしている。

 

 

「ジェンティルドンナにきっと追いつく……きっと」

 

 

 オレは自分に言い聞かせるように呟いた。

 視界にはうっすらとジェンティルドンナの姿が浮かぶ。共に過ごした日々の中、ずっと彼女を目で追いかけていたからか、同じトレーニングを行うウマ娘を見ると、その姿が蘇る。

 そのぼんやりとした幻影をシーナが追いかける形で、ふとたまに重なることがある。

 とてつもない気力と根性で、かつてのジェンティルと同じトレーニングを着々とこなしていく彼女に、あの面影がチラつくのは良い傾向だと見て良いだろう。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ! 私は、追いついて、そして追い越す! 追い越して見せる! はあぁあああ!」

 

 

 その叫びはオレの耳にも届いた。

 彼女がジェンティルドンナの背中を目指し、食らいつこうとする気迫にオレも気持ちが昂ってくる。

 自然とオレの心も鼓舞してくれ、悩みを吹っ飛ばすほどに拳に力が入る気がした。

 トレーニングの最後、疲労困憊の中でも彼女は一言も弱音を漏らすことなく、ひたすら走り続けるのだった。

 

 

 ――さらに、2月上旬。

 今度は大阪杯でのポジション争い、走る位置、コース取りの勉強だ。

 いかにスタミナを切らさずに走り切れるかではない。

 最終直線までスタミナをできる限り温存しつつ、マイル戦でのヴィルシーナのトップスピードをゴールまで維持できれば、かの"領域"に至っているオルフェーブルに対抗できると考えた。

 この際、本来なら差しが一番良いのだが、シーナは今回、先行策で行く。

 ほとんど逃げに近い位置で距離を離し、終盤でオルフェーヴルが追いつけないくらい引き離すのだ。

 それだけのスタミナをつけるのは容易ではないため、位置取りやポジション争いでの心構えを、彼女に教えてもらうことになっていた。

 

 

「懐かしいですわねぇ。大阪杯の時はわたくしも覚えていますわ。分からないことがあれば、何でも聞いてくださいまし」

「メジロマックイーンさん、ありがとうございます」

 

 

 メジロマックイーン。

 かつて最強のステイヤーとも呼ばれ、大阪杯でも1着を撮った実力の持ち主だ。

 天皇賞春を3連覇目前でライスシャワーに敗れたが、当時のライスシャワーがとんでもない気迫であり、マックイーンがいたからこそ、その力の限界を突破したとも思えるレースだった。

 加えて、メジロ家のウマ娘は、やはりレース全般の戦略とコントロールが上手い。教えを請うならこれ以上の適任はいないだろう。

 

 

「お礼は結構ですわ。トレーナーさんからはメロンパフェを……こほん、失礼しました。早速、過去のレース映像を見ながらお話していきましょう」

 

 

 貯金の一部を切り崩してマックイーンのお礼に使ったのはシーナには内緒である。

 こうして、クラリス先輩が紹介してくれたウマ娘たちのサポートを借りながら、ヴィルシーナは3月下旬までVR施設にて凱旋門賞に向けたトレーニングを並行で行いつつ、大阪杯でのレースに向けて着々と実力を伸ばしていったのだった。

 しかし、ジェンティルの影には、まだ追いつけていない……。

 いや、諦めるな。

 

 挑み続けるんだ。

 

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