蒼と紅の炎   作:荒波を征く湯気

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第6話 今の君では勝てないだろう

 

 ――大阪杯まで、とうとう残り1週間を迎えた。

 まだ冬の名残があるものの、時折吹く風には、春の訪れを感じさせる暖かさが混じり始めていた。

 ヴィルシーナの成長は目覚ましく、かつてはマイル戦の瞬発力に頼りがちだった彼女も、今では持続力を鍛えて2000メートルの距離でも同様の力を発揮できるよう適応しつつある。

 その変化は、彼女の走りにも表れていた。

 

 脚運びに余計な力みがなくなり、スムーズなストライドが最後まで続くようになってきた。

 凱旋門賞への対応を意識しながらも、彼女の真骨頂である爆発的な加速力は健在で、それが洗練されるほどに、彼女の走りは力強くなっていた。

 

 オレはそんな彼女を見つめながら、今日も変わらずトレーニングの指示に徹している。

 本来なら、トレーニングには他のウマ娘たちが加わってくれるはずなのだが、今日は彼女たちの都合が合わず、オレとヴィルシーナの二人きりだった。

 

 ……とはいえ、今日は少し特別な日でもある。

 

 このあと、ある来客を迎える予定があった。

 トレーニングに全力を尽くす日々が続いていたからこそ、こういう時間はちょっとした息抜きにもなる。

 久々に空気を入れ替えるのも悪くはないと思い、シーナのトレーニング風景を、とある二人に見学してもらうことになっていたのだ。

 未来の、偉大なウマ娘たちのために。

 

 

「トレーナーさんは、実際にお会いしたことはなかったんでしたよね?」

 

 

 ヴィルシーナが走り終えて息を整えながら問いかける。

 額にはうっすらと汗が浮かび、前髪がしっとりと肌に張りついているが、それをかき上げる仕草さえ、美しさを感じさせる。

 

 

「先輩たちとの話の中で名前は上がっていたんだけど、オレはその中に入ることはなかったからね」

 

 

 肩をすくめながら答えた。

 シーナと共に凱旋門賞を目指すと決めてから、新たにウマ娘を担当するという考えは一切なかったからだ。

 それはクラリス先輩が言っていた【キャリアを捨てる覚悟】にも通じる。

 

 実際、今のオレには他のウマ娘に目を向ける余裕がない。

 それゆえ、今日訪れる彼女たちのことも、まだよく知らなかった。

 本来なら、もっと早く顔を合わせておくべきだったのかもしれないが、ずるずると後回しにしてしまっていた。

 

 そんなことを考えていると、遠くから元気な声が響いてきた。

 

 

「あ、来ました。こっちよ、シュヴァル、ヴィブロス!」

「お姉ちゃ~ん♪」

 

 

 ひときわ大きな声を上げながら、長いツインテールを揺らした少女が全力で駆けてくる。

 細身の体に反して、軽やかで弾むようなステップ。

 明るい笑顔と共に、勢いそのままにヴィルシーナへ飛び込んだ。

 

 

「おねぇちゃ~ん♪ 会いたかったよぉ~!」

「んもう、ヴィブロスったら、昨日会ったばかりでしょう?」

「えへへ~、ごめーん」

 

 

 ヴィルシーナが苦笑しながら、腕の中のヴィブロスを軽く押し返す。

 妹の甘えっぷりには慣れているのか、それとも呆れているのか、少し困ったような表情だった。

 

 一方、その後ろで控えめに立っているのが、もう一人の来訪者――シュヴァルグランだろう。

 深めにかぶった帽子のつばが影を落とし、表情がよく見えない。

 視線を落としたまま、静かに佇んでいた彼女は小さく会釈してくれた。

 

 

「あなたがお姉ちゃんのトレーナーさん?  ヴィブロスで~す。よろしく♪」

 

 

 ヴィブロスはオレの方に向き直ると、屈託のない笑顔を見せながら手でピースを作り挨拶してきた。

 そのキラキラと輝く瞳には、まるで宝物を見つけた子どものような好奇心が満ちている。

 

 

「初めまして。クラリストレーナーからシーナを引き継ぎました。よろしく」

 

 

 その言葉に、ヴィブロスの目がさらに輝きを増す。

 続いて、彼女は背伸びをしてヴィルシーナの耳元に口を寄せ、何やらコソコソと囁いた。

 

 

「んふふ、噂どおり、頼りがいのありそうな人だね♪」

「こ、こら!」

 

 

 ヴィルシーナは顔を真っ赤にして、ヴィブロスの肩をポクポクと叩く。

 照れ隠しなのか、それとも妹の軽口に呆れているのか、微妙に拗ねたような表情が面白い。

 仲の良い姉妹だなぁ。

 

 しかし、そんな賑やかな空気とは対照的に、シュヴァルグランは依然として帽子を深くかぶったまま、こちらに視線を向けようとはしなかった。

 ただ静かに立っているだけで、その姿からどこか遠慮がちな雰囲気が伝わってくる。

 

 もしかすると、恥ずかしがりなのかもしれない。

 帽子のつばを少し指で弄びながら、シュヴァルグランはちらりとこちらを見るものの、すぐに視線を落とす。

 そんな様子に、オレは無理に踏み込まないほうがいいかと考えていたが――。

 

 

「それじゃあ今日は、シーナのトレーニングを見てもらって」

 

 

 そう言いかけた瞬間だった。

 

 

「あ、あの!!」

 

 

 突然の大きな声に、場の空気が破裂した。

 オレも、ヴィブロスも、シーナですら少し驚いたようにシュヴァルグランを見る。

 彼女はぎゅっと拳を握りしめ、帽子のつばをさらに深く引きながら、震える声を絞り出した。

 

 

「あ、ごめんなさい、聞きたいことがあって……その」

 

 

 心の中にある言葉を掘り起こすように、慎重に、それでも強く言葉を紡ぐシュヴァルグラン。

 彼女はオレの方に小さく縮こまって迫ってきた。

 グッと体を持ち上げ、帽子の下に隠れていた眼差しを向けてくる。

 

 

「姉さんはトレーナーさんと一緒に、凱旋門賞に挑むんですよね?」

 

 

 その瞳はヴィブロスとはまた違った輝きを持っていた。

 尊敬と、期待と、羨望を持った瞳で、キラキラとした視線を送ってくる。

 

 

「じゃあ、あなたの下なら、次こそ絶対ジェンティルドンナさんに勝てるんですよね!?」

 

 

 一瞬、冷たい風が吹いたような錯覚を覚えた。

 それは気温のせいではない。彼女が放った言葉の重みが、まるで身体の芯まで突き刺さるようだったからだ。

 

 

「あ、いや……すまない、今のままでは分からない。レースに絶対はないから」

 

 

 静かに、正直に答えたつもりだった。しかし、自分の声が思った以上に硬くなっていたことに気づく。

 シュヴァルグランはそんな答えを求めていなかったのだろう。

 顔をしかめ、もう一歩踏み込んできた。

 

 

「それくらいは僕だってわかってます。そうじゃなくて、シーナ姉さんはジェンティルさんほど強くなったってことですよね!?」

 

 

 期待が込められた純粋な質問と、揺るがない瞳が向けられる。

 無垢な子供がヒーローを見るかのような真剣な眼差しで。

 

 

「……そ、それは」

 

 

 だがオレは、言葉に詰まった。

 詰まって、しまった。

 その瞬間、期待に胸を膨らませていたはずのシュヴァルグランの顔から、血の気が引いていく。

 

 

「勝てない、んですか……?」

 

 

 その一言に、オレは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 シュヴァルの瞳から輝きが失われ、緊張でグッと持ち上がっていた体からも力が抜けていく。

 彼女にとって、シーナがどういった存在なのかが分かる。

 

 

「じゃあ、正直に答えてください……」

 

 

 シュヴァルの声が震える。

 今度は不安と、絶望と、覚悟が入り混じるような声音にオレは再び言葉を飲み込んだ。

 

 

「シュヴァち、トレーナーさんが困ってるよ……?」

 

 

 ヴィブロスが割って入ろうとするが、シュヴァルグランは微動だにしない。

 震える体でじっとこちらを、恐れるような目で見据えてくる。

 今から口にする言葉は、彼女にとっても、シュヴァルグランにとっても、決して優しいものではない。

 それでも――

 

 

「分かった。正直に答えよう」

 

 

 彼女たちを傷つけるかもしれない。

 それでも、事実を歪めるほうが、もっと残酷だと考えて。

 

 

「残念だが、今のシーナはまだジェンティルに及ばない」

 

 

 その言葉を口にした瞬間、場の温度がまた数度下がった気がした。

 

 

「今のままでは、ジェンティルはおろか、オルフェーヴルにも勝てない。これが今の、オレの見解だ」

 

 

 乾いた風が吹き抜ける。

 誰も何も言わない。

 風の音すら遠く感じるほどの沈黙が続き、シュヴァルの一言が静寂を破る。

 

 

「そう、ですか……」

「で、でも安心してくれ!」

 

 

 その意気消沈ぶりとこの空気に耐えきれず、オレの口が勝手に言葉を紡ぐ。

 しかし自分から出た言葉は、想像以上に曖昧なものだった。

 

 

「今のまま続けていけばきっと……いや、おそらく……なんとか……勝てるかも、しれない」

 

 

 シュヴァルグランの表情が、さらに曇ったのが見えた。

 安心させたい。希望を持たせたい。

 そう思って吐いたのに、オルフェーヴルとジェンティルドンナの姿を思い浮かべただけで、言葉の端がどんどん曖昧になり、頼りなくなっていく。

 

 

「……トレーナーさんは、ジェンティルドンナさんのトレーナーだったんですよね?」

 

 

 シュヴァルグランの声はまだ震えていた。

 唇を噛みしめ、帽子のつばを握りしめながら、それでも必死に言葉を紡ごうとしている。

 

 

「そんな人が姉さんのトレーナーになったら、きっと……今度こそ、ジェンティルドンナさんに勝てるって思ってました。あの人のことを1番良く知っているから……」

「……っ」

「姉さんはまだ、強くなれてないだけですよね? そうなんですよね?」

 

 

 どう答えるべきか迷うオレに代わって、シーナが口を開く。

 

 

「シュヴァル、それくらいに……」

「だ、だって!」

 

 

 言葉を遮るように、シュヴァルグランが叫んだ。

 その声は、震えていた。

 だが、そこには確かに怒りと、悔しさと、悲しみが滲んでいた。

 

 

「姉さんは何度も、ジェンティルドンナさんの後ろだったじゃないか!」

 

 

 その言葉に、シーナの表情が固まる。

 

 

「僕はもう、姉さんが負ける姿なんて見たくないんだっ!!」

 

 

 言葉とともに、胸の奥に抱えていた感情が溢れ出す。

 握りしめた拳が小さく震えているのが分かる。

 

 

「ずっと……姉さんが悔しい想いをしていたのを、僕たちは見てきた!」

 

 

 ヴィブロスはオロオロと姉を見つめ、シーナは何かを堪えるように俯いていた。

 

 

「それでも姉さんは僕たちのことを気にかけてくれて、いっぱい優しくて……自分が勝つために頑張って、G1を勝って、凄いウマ娘になった!」

 

 

 シュヴァルグランの瞳が潤んでいる。

 涙がこぼれそうになる前のくぐもった声になりながらも、彼女は言葉を止めることはなかった。

 

 

「僕なんかじゃ比べ物にならないくらい綺麗で、キラキラしてて、凄いウマ娘なんだ!」

 

 

 彼女の中のシーナは、ずっと輝いていたのだろう。

 何度も悔しい思いをして、それでも前を向いて走り続け、挑み続けるその姿が。

 

 

「お正月に、姉さんが言ってました。前の、クラリストレーナーが信頼するトレーナーさんに姉さんは託されたから、絶対大丈夫だって。新人なのにジェンティルドンナさんに認められて、あれだけ強いウマ娘を育てたトレーナーさんだから、大丈夫だって!」

 

 

 彼女は信じていたのだ。

 シーナが強くなることを。

 オレが、彼女を強くすることを。

 

 だからこそ――。

 

 

「なのに……なんで姉さんは強くなったって、言ってくれないんですか!!?」

 

 

 声が詰まりながら、彼女はそれでも訴える。

 

 

「誰にも負けないくらい、強くなったって! なんで"言えない"んですか!?」

「こらシュヴァル、いい加減に――!」

 

 

 シーナが止めようとするが、シュヴァルグランは聞く耳を持たなかった。

 

 

「姉さんは悔しくないの!?」

 

 

 その言葉に、シーナが大きく目を見開いた。

 

 

「そんなの……私が一番悔しいわ!」

 

 

 シーナの声も震えていた。

 怒りか、悔しさか、あるいはその両方か。

 

 

「じゃあ、何で――!?」

 

 

 シュヴァルグランの瞳から涙がこぼれる。

 

 

「ずっと前に、約束してくれたのに……ひぐっ、うっ、あぁあ」

 

 

 静寂が落ちる。

 冷たい風が吹き抜けた。 

 シュヴァルの小さな身体はぎゅっと縮こまり、悔しさと悲しみで押しつぶされそうになっていた。

 

 

「うう……なんで……姉さんばっかり」

 

 

 喉の奥で嗚咽を噛み殺しながら、拳をぎゅっと握る彼女の肩は先ほどよりも大きく震える。

 

 

「シュヴァル……」

「シュヴァち……」

 

 

 ヴィブロスが心配そうに手を伸ばすが、シュヴァルはそれを振り払うように顔を背ける。

 

 

「すまない、シュヴァルグラン」

「聞きたくない……!」

 

 

 オレが呟くように謝罪すると、顔を上げた彼女の目には涙が滲んでいた。

 それ以上に強い光が宿った瞳が、オレを睨んでいる。

 

 

「僕は、姉さんが勝つところを見たいんだ! なのに、また負けるかもなんて……そんなのもう、見たくない!! 信じない!」

「シュヴァル!!」

 

 

 シーナの叫びも届かない。

 シュヴァルは涙をこぼしながら、走り出していた。

 ヴィブロスも後を追おうとする。

 シーナがオレを振り向き、もの悲しい顔が訴えていた。

 

 

 ……追わせるかどうか、迷う時間はなかった。

 オレが頷くとシーナはすぐに駆け出し、シュヴァルの背を追ったヴィブロスの後に続く。

 三人の姿がどんどん遠ざかり、静かになった場所にはオレだけが取り残された。

 

 先ほどのシュヴァルグランの言葉が、嫌というほど心に響く。

 

 勝てるかもしれない。

 そう思ったことは、何度もあった。

 勝てるはずだ。

 そう無理やり思い込んだことさえあった。

 

 だが――。

 

 ジェンティルドンナを育てた経験が、それを否定する。

 嫌でも認識させられるのだ。

 シーナと、ジェンティルやオルフェとの間にある、間違いようのない差を。

 

 どれだけトレーニングを積んでも、どれだけシミュレーションを繰り返しても――。

 あと1と1/4バ身が埋まらない。

 

 足りない。

 決定的なものが足りない。

 

 今のトレーニング方法が間違っているのか。

 だが、ヴィルシーナに合わせた鍛え方ばかりでは、凱旋門賞やオルフェーヴル相手には通用しない。

 

 オルフェーヴルが孤立していて、ヴィルシーナを勝たせるために他のウマ娘が協力してくれるなら、勝機はあるかもしれない。

 しかしそんなことはあり得ない。できるわけがない。そもそも、そんな勝ち方をしても意味はない。

 凱旋門賞への切符を勝ち取るには、オルフェーヴルを明確に上回らなければならないのだ。

 

 だがそれも、今のままでは――。

 

 不可能だ……。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 夕方になると、シーナが帰ってきた。

 オレは学園の食堂がまだ空いていたため、コーヒーを飲んで心を落ち着かせたところだった。

 彼女は息を整えながらオレの隣に座って、シュヴァルグランとヴィブロスの様子を伝えてくれた。

 

 

「二人はそのまま帰宅したんですけど……シュヴァル、ずっとふさぎ込んでいて……」

 

 

 シーナの声が、どこか申し訳なさそうに沈む。

 シュヴァルグランは帰り道、誰とも目を合わせなかったらしい。

 途中、ぎこちない声でオレへの謝罪を口にしたそうだが――。

 

 そんなの、彼女に言わせることじゃない。

 オレの方こそ、謝るべきなんだ。

 

 彼女にとって、シーナはただの姉ではない。

 大きな憧れを持つ、大好きな姉なのだ。

 そんなシュヴァルの期待や想いに、応えられないままここまで来てしまった。

 シーナが勝つ、と言えるほどの育成ができていない。

 だからこそ、あの子はあんなに取り乱し、感情を爆発させるしかなかったのだろう。

 

 そんなトレーナーに、何の価値がある?

 これでは、ジェンティルドンナに契約を破棄されるのも当然だ。

 

 そう思ったとき、不意にシーナが言った。

 

 

「……ごめんなさい、トレーナーさん。こんなことになるなんて……シュヴァルには、きつく言っておきますから」

「待ってくれ、シーナ」

 

 

 オレは首を横に振る。

 

 

「それはダメだ。シュヴァルの気持ちを、オレがちゃんと受け止めなきゃならない。これはオレの責任だ」

 

 

 シュヴァルの言葉は、彼女なりの願いだった。

 シーナのトレーナーであるオレがそれを無視することは、絶対にできない。

 

 

「トレーナーさん……」

 

 

 シーナは、肩を落として俯く。

 

 

「やっぱり私が、“領域(ゾーン)”に達していれば……」

 

 

 領域(ゾーン)。

 それこそが、今のヴィルシーナに足りないものなのだろうか。

 

 でも、そこにシーナを届かせるために、オレは何をすればいい?

 何も考えず、ただ強くしようと誓ったはずなのに……。

 

 分からない。

 分からないまま、時間だけが過ぎていく。

 

 ……考え込みながら立ち上がると、不意に足元で何かが転がった。

 

 

「ん?」

 

 

 ――いや、違う。

 誰かが、倒れていたのだ。

 

 

「……わ、わぁ!?」

 

 

 驚いて仰け反ってしまう。

 うつ伏せになって倒れていたのは、綺麗な葦毛の髪を持つウマ娘だった。

 どうやら意識はあるらしいが、微動だにしない。

 そして、静寂を破るように。

 

 ぐぅぅぅぅ……。

 そのウマ娘から、腹の虫が鳴った。

 

 

「……」

 

 

 とりあえず、そのウマ娘を抱き起こし、何か食べるものを与えることにした。

 幸いまだ食堂は空いていたので、残っていた軽食の菓子パンを買って彼女に食べさせる。

 それは口に入るやいなや掃除機のように吸い込まれ、もちゃもちゃと夢中で咀嚼されていった。

 

 

「もぐもぐ……うん、美味しい、ありがとう。君たちのおかげで、少し元気が出たよ」

 

 

 満足そうに微笑みながら、まるでエサをもらった小動物のように、オレたちを見上げる無垢な瞳。

 その顔には見覚えがあった。

 

 

「オグリキャップだ。よろしく」

 

 

 そう――このウマ娘は、オグリキャップ。

 かつて【灰の怪物】とも呼ばれた伝説のウマ娘だ。

 生涯成績でG1勝利数こそジェンティルドンナに及ばないものの、重賞勝利数は圧倒的。

 引退レースとなった有馬記念では、日本中が彼女の復活に涙した。

 

 そんな彼女が、空腹で倒れていたとは……。

 

 

「そういえば君の顔、どこかで見たことがあるな……?」

 

 

 口元についたパンの粉をそのままに、彼女はオレの顔をじっと見つめて首を傾げる。

 

 

「そうだ……指名手配の顔だ」

「ええ!?」

 

 

 思わず叫んでしまった。

 

 

「オルフェーヴル君だったか、彼女の周りにいる生徒が、君のことを不敬罪! と言っていたな……もしかして、君は……悪い人なのか?」

「違う違う違う!!!?」

 

 

 オレは慌てて身振り手振りで否定する。

 そう言われてしまっている顛末――オルフェーヴル陣営を真っ向から煽ったこと、を話しつつ、学園のトレーナーであることを証明するバッヂを見せつける。

 

 

「そうか、良かった。悪い人には見えなかったからな。そんな事情があったのか」

 

 

 落ち着いた声で言うが、さっきのやり取りでオレは内心泣きながら、苦笑いせざるを得なかった。

 

 

「君たちのことは知っている。無論、ヴィルシーナ君のことも耳には届いている。凱旋門賞であのジェンティルドンナ君にリベンジすると。そして、大阪杯でオルフェーヴル君とも対戦すると」

 

 

 オグリは静かに言う。

 

 

「だが、今の君では二人には勝てないだろう」

 

 

 オレの隣で、ヴィルシーナの身体がピクリと震えた。その表情は曇り、さぁと血の気が引いていく。

 そんな彼女を見て、オグリが慌てて訂正する。

 

 

「すまない、私の言葉が足りなかった。それでよくタマにも怒られるんだ」

 

 

 己の不甲斐ない言い方に困ったように、自らの額を拳でコツコツ叩く。

 タマ、とはタマモクロスのことだろう。よく一緒にいるのを見かける。

 

 

「今のままの君だ。つまり今のままの君でなくなれば、勝てるかもしれないと言いたいんだ」

「今のままの私で、なくなれば……?」

「上手く言えないんだが、昔の私に似ているなと思っている。そう、天皇賞・秋。タマに負けた日から、悩んでいた私に……」

 

 

 どういうことだろうか。

 彼女の言いたいことの真意が、オレにも図りかねていた。

 

 

「一度、君と走ってみても良いだろうか。その方がきっと分かると思う」

 

 

 そして、どんな数奇な運命か。

 オグリキャップとヴィルシーナの併走が始まった。

 形式上は模擬レース。

 現役のヴィルシーナと、すでに第一線を退いたオグリキャップの対戦だ。

 本来ならば勝負にならないはずだった。

 

 ――だが。

 

 

「これが、オグリキャップ……!」

 

 

 轟音が交錯する。

 ドドドドドドドッ!!

 最終直線で、ヴィルシーナの前に、ほんの一瞬だけ、オグリの影が躍ったのだった。

 

 ――抜かれた!?

 

 そう思ったのも束の間、その後オグリは伸びを欠いて、ゴールに先着したのはシーナだった。

 だが、ほんの一瞬だけ。

 確かに、オグリキャップはシーナを捉えたのだ。

 

 もし、これが全盛期だったなら?

 勝負の行方は、どうなっていたかは言うまでもない。

 

 何より、この瞬間――。

 オルフェーヴルや、ジェンティルドンナとの“差”が、痛いほどに突きつけられた。

 オグリはすぐに呼吸を整えて、オレたちに説明してくれる。

 

 

「今のは、私もよくわかってないが、ルドルフは領域(ゾーン)と呼んでいた。タマやイナリもできるはずだ」

 

 

 オグリの言う【今の】とは、最終直線で見せたスピード、加速、粘り、伸び、その全てがシーナを凌駕した瞬間のことに違いない。

 あの一瞬だけ、彼女の気迫と言うか圧というか、オーラのようなものが明らかに変わったのだ。

 凄まじい力を秘めていた――近くで見ていたオレでも、そう感じ取れるほどに。

 

 トレーナーには領域(ゾーン)は知覚できない。

 そう言われているのは確かではあるが、実際に目の前で見れば、その一瞬だけまるで別人のようだったのは明白だった。

 次元が違う――その言葉の意味を、初めて正確に捉えられた気がした。

 

 

「君はこちら側にたどり着いていない。でもたどり着く実力はあると思う」

「ほ、本当ですか!?」

 

 

 シーナの声が驚きとともに弾んだ。

 

 

「どうすればそこに行けるんですか!? どうか、教えてください」

「わ、わわ……!」

 

 

 その瞳は獲物を逃すまいとする狩人のようで、彼女の熱量にオグリはたじろぐ。

 一番近くで、その感覚を肌で感じ取った彼女だからこそ、オグリキャップの言葉に救いを見出したのは当然だろう。

 

 

「し、シーナ、落ち着いて」

 

 

 我に返ってシーナの肩に手を置くと、彼女も自分を取り戻す。

 

 

「へ? あ、ご、ごめんなさい!」

 

 

 ぱっと手を離し、慌てて頭を下げた。

 オグリは小さく息を整え、愛嬌のある顔からスンッとした顔になり、改めてこちらを見据える。

 静寂が訪れる。

 

 気づけば日没だった。

 空では群青色の世界が山の稜線へと伸びていき、沈みゆく光が最後の名残を留めていた。

 空気は冷え、夜の色がゆっくりと降り始める。

 

 

「……少し、昔話をしよう」

 

 

 彼女の声は、まるで遠い記憶の底から掬い上げるような響きだった。

 涼やかな優しい風が吹き始める。

 

 

「私は、生まれたときは足が弱くて、上手く歩くことすらできなかったんだ……。それをお母さんが、走れるようにしてくれた」

 

 

 オグリの銀色の髪がそよぐ。

 彼女は目を閉じ、風を全身で受け止めるようにゆっくりと両腕を広げた。

 

 

「カサマツにいた頃もそうだが、私はいろんな人に支えられて、ここまで強くなれた。あの頃のことは、今でもずっと覚えている」

 

 

 静かに開かれたまぶたの向こう、遠くを見つめる瞳は、どこまでも澄んでいた。

 まるで、今もその時の景色がそこにあるかのように。

 そして、再びシーナを見つめる。

 

 

「ヴィルシーナ、君は、何のために走っているんだ?」

「……何の、ため?」

「そうだ。ジェンティルドンナに勝ちたいのは分かる。そのためにオルフェーヴルに勝ちたいのも分かる。でも、それは――何のために勝ちたいんだ?」

 

 

 その言葉に、シーナの瞳が揺れた。

 戸惑いが、彼女の表情に滲む。

 問いの意味が、理解できないのだろう。

 かくいうオレにも、分からないのだが……。

 

 

「その答えは、きっと君の中にすでにあるはずだ。でも、おそらくそれを忘れている。なぜなら――私もそうだったからな」

 

 

 オグリの目が細められる。

 遠い記憶を辿るように、どこか懐かしげな眼差しで。

 

 

「至るには、自分の何かに気づかないといけない。上手く説明できなくてすまないが……きっと、君の中にもうその答えがあるんじゃないだろうか? 誰に勝つよりも大事な何かが……」

 

 

 ヴィルシーナは沈黙し、顎に指をつけて考え始める。

 オグリは、そんな彼女をじっと見つめ――やがて、ふっと微笑んだ。

 

 

「美味しいパンをありがとう。助けてくれて、とても嬉しかったよ」

 

 

 淡々とした、それでいてどこか温かい言葉を残し、オグリは静かに背を向ける。

 

 

「……!」

 

 

 オレは思わず手を伸ばしかけたが、止めた。

 オグリの言葉はもう、それ以上の説明を必要としないほど、すべてが詰まっている気がしたから。

 

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