――大阪杯まで、とうとう残り1週間を迎えた。
まだ冬の名残があるものの、時折吹く風には、春の訪れを感じさせる暖かさが混じり始めていた。
ヴィルシーナの成長は目覚ましく、かつてはマイル戦の瞬発力に頼りがちだった彼女も、今では持続力を鍛えて2000メートルの距離でも同様の力を発揮できるよう適応しつつある。
その変化は、彼女の走りにも表れていた。
脚運びに余計な力みがなくなり、スムーズなストライドが最後まで続くようになってきた。
凱旋門賞への対応を意識しながらも、彼女の真骨頂である爆発的な加速力は健在で、それが洗練されるほどに、彼女の走りは力強くなっていた。
オレはそんな彼女を見つめながら、今日も変わらずトレーニングの指示に徹している。
本来なら、トレーニングには他のウマ娘たちが加わってくれるはずなのだが、今日は彼女たちの都合が合わず、オレとヴィルシーナの二人きりだった。
……とはいえ、今日は少し特別な日でもある。
このあと、ある来客を迎える予定があった。
トレーニングに全力を尽くす日々が続いていたからこそ、こういう時間はちょっとした息抜きにもなる。
久々に空気を入れ替えるのも悪くはないと思い、シーナのトレーニング風景を、とある二人に見学してもらうことになっていたのだ。
未来の、偉大なウマ娘たちのために。
「トレーナーさんは、実際にお会いしたことはなかったんでしたよね?」
ヴィルシーナが走り終えて息を整えながら問いかける。
額にはうっすらと汗が浮かび、前髪がしっとりと肌に張りついているが、それをかき上げる仕草さえ、美しさを感じさせる。
「先輩たちとの話の中で名前は上がっていたんだけど、オレはその中に入ることはなかったからね」
肩をすくめながら答えた。
シーナと共に凱旋門賞を目指すと決めてから、新たにウマ娘を担当するという考えは一切なかったからだ。
それはクラリス先輩が言っていた【キャリアを捨てる覚悟】にも通じる。
実際、今のオレには他のウマ娘に目を向ける余裕がない。
それゆえ、今日訪れる彼女たちのことも、まだよく知らなかった。
本来なら、もっと早く顔を合わせておくべきだったのかもしれないが、ずるずると後回しにしてしまっていた。
そんなことを考えていると、遠くから元気な声が響いてきた。
「あ、来ました。こっちよ、シュヴァル、ヴィブロス!」
「お姉ちゃ~ん♪」
ひときわ大きな声を上げながら、長いツインテールを揺らした少女が全力で駆けてくる。
細身の体に反して、軽やかで弾むようなステップ。
明るい笑顔と共に、勢いそのままにヴィルシーナへ飛び込んだ。
「おねぇちゃ~ん♪ 会いたかったよぉ~!」
「んもう、ヴィブロスったら、昨日会ったばかりでしょう?」
「えへへ~、ごめーん」
ヴィルシーナが苦笑しながら、腕の中のヴィブロスを軽く押し返す。
妹の甘えっぷりには慣れているのか、それとも呆れているのか、少し困ったような表情だった。
一方、その後ろで控えめに立っているのが、もう一人の来訪者――シュヴァルグランだろう。
深めにかぶった帽子のつばが影を落とし、表情がよく見えない。
視線を落としたまま、静かに佇んでいた彼女は小さく会釈してくれた。
「あなたがお姉ちゃんのトレーナーさん? ヴィブロスで~す。よろしく♪」
ヴィブロスはオレの方に向き直ると、屈託のない笑顔を見せながら手でピースを作り挨拶してきた。
そのキラキラと輝く瞳には、まるで宝物を見つけた子どものような好奇心が満ちている。
「初めまして。クラリストレーナーからシーナを引き継ぎました。よろしく」
その言葉に、ヴィブロスの目がさらに輝きを増す。
続いて、彼女は背伸びをしてヴィルシーナの耳元に口を寄せ、何やらコソコソと囁いた。
「んふふ、噂どおり、頼りがいのありそうな人だね♪」
「こ、こら!」
ヴィルシーナは顔を真っ赤にして、ヴィブロスの肩をポクポクと叩く。
照れ隠しなのか、それとも妹の軽口に呆れているのか、微妙に拗ねたような表情が面白い。
仲の良い姉妹だなぁ。
しかし、そんな賑やかな空気とは対照的に、シュヴァルグランは依然として帽子を深くかぶったまま、こちらに視線を向けようとはしなかった。
ただ静かに立っているだけで、その姿からどこか遠慮がちな雰囲気が伝わってくる。
もしかすると、恥ずかしがりなのかもしれない。
帽子のつばを少し指で弄びながら、シュヴァルグランはちらりとこちらを見るものの、すぐに視線を落とす。
そんな様子に、オレは無理に踏み込まないほうがいいかと考えていたが――。
「それじゃあ今日は、シーナのトレーニングを見てもらって」
そう言いかけた瞬間だった。
「あ、あの!!」
突然の大きな声に、場の空気が破裂した。
オレも、ヴィブロスも、シーナですら少し驚いたようにシュヴァルグランを見る。
彼女はぎゅっと拳を握りしめ、帽子のつばをさらに深く引きながら、震える声を絞り出した。
「あ、ごめんなさい、聞きたいことがあって……その」
心の中にある言葉を掘り起こすように、慎重に、それでも強く言葉を紡ぐシュヴァルグラン。
彼女はオレの方に小さく縮こまって迫ってきた。
グッと体を持ち上げ、帽子の下に隠れていた眼差しを向けてくる。
「姉さんはトレーナーさんと一緒に、凱旋門賞に挑むんですよね?」
その瞳はヴィブロスとはまた違った輝きを持っていた。
尊敬と、期待と、羨望を持った瞳で、キラキラとした視線を送ってくる。
「じゃあ、あなたの下なら、次こそ絶対ジェンティルドンナさんに勝てるんですよね!?」
一瞬、冷たい風が吹いたような錯覚を覚えた。
それは気温のせいではない。彼女が放った言葉の重みが、まるで身体の芯まで突き刺さるようだったからだ。
「あ、いや……すまない、今のままでは分からない。レースに絶対はないから」
静かに、正直に答えたつもりだった。しかし、自分の声が思った以上に硬くなっていたことに気づく。
シュヴァルグランはそんな答えを求めていなかったのだろう。
顔をしかめ、もう一歩踏み込んできた。
「それくらいは僕だってわかってます。そうじゃなくて、シーナ姉さんはジェンティルさんほど強くなったってことですよね!?」
期待が込められた純粋な質問と、揺るがない瞳が向けられる。
無垢な子供がヒーローを見るかのような真剣な眼差しで。
「……そ、それは」
だがオレは、言葉に詰まった。
詰まって、しまった。
その瞬間、期待に胸を膨らませていたはずのシュヴァルグランの顔から、血の気が引いていく。
「勝てない、んですか……?」
その一言に、オレは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
シュヴァルの瞳から輝きが失われ、緊張でグッと持ち上がっていた体からも力が抜けていく。
彼女にとって、シーナがどういった存在なのかが分かる。
「じゃあ、正直に答えてください……」
シュヴァルの声が震える。
今度は不安と、絶望と、覚悟が入り混じるような声音にオレは再び言葉を飲み込んだ。
「シュヴァち、トレーナーさんが困ってるよ……?」
ヴィブロスが割って入ろうとするが、シュヴァルグランは微動だにしない。
震える体でじっとこちらを、恐れるような目で見据えてくる。
今から口にする言葉は、彼女にとっても、シュヴァルグランにとっても、決して優しいものではない。
それでも――
「分かった。正直に答えよう」
彼女たちを傷つけるかもしれない。
それでも、事実を歪めるほうが、もっと残酷だと考えて。
「残念だが、今のシーナはまだジェンティルに及ばない」
その言葉を口にした瞬間、場の温度がまた数度下がった気がした。
「今のままでは、ジェンティルはおろか、オルフェーヴルにも勝てない。これが今の、オレの見解だ」
乾いた風が吹き抜ける。
誰も何も言わない。
風の音すら遠く感じるほどの沈黙が続き、シュヴァルの一言が静寂を破る。
「そう、ですか……」
「で、でも安心してくれ!」
その意気消沈ぶりとこの空気に耐えきれず、オレの口が勝手に言葉を紡ぐ。
しかし自分から出た言葉は、想像以上に曖昧なものだった。
「今のまま続けていけばきっと……いや、おそらく……なんとか……勝てるかも、しれない」
シュヴァルグランの表情が、さらに曇ったのが見えた。
安心させたい。希望を持たせたい。
そう思って吐いたのに、オルフェーヴルとジェンティルドンナの姿を思い浮かべただけで、言葉の端がどんどん曖昧になり、頼りなくなっていく。
「……トレーナーさんは、ジェンティルドンナさんのトレーナーだったんですよね?」
シュヴァルグランの声はまだ震えていた。
唇を噛みしめ、帽子のつばを握りしめながら、それでも必死に言葉を紡ごうとしている。
「そんな人が姉さんのトレーナーになったら、きっと……今度こそ、ジェンティルドンナさんに勝てるって思ってました。あの人のことを1番良く知っているから……」
「……っ」
「姉さんはまだ、強くなれてないだけですよね? そうなんですよね?」
どう答えるべきか迷うオレに代わって、シーナが口を開く。
「シュヴァル、それくらいに……」
「だ、だって!」
言葉を遮るように、シュヴァルグランが叫んだ。
その声は、震えていた。
だが、そこには確かに怒りと、悔しさと、悲しみが滲んでいた。
「姉さんは何度も、ジェンティルドンナさんの後ろだったじゃないか!」
その言葉に、シーナの表情が固まる。
「僕はもう、姉さんが負ける姿なんて見たくないんだっ!!」
言葉とともに、胸の奥に抱えていた感情が溢れ出す。
握りしめた拳が小さく震えているのが分かる。
「ずっと……姉さんが悔しい想いをしていたのを、僕たちは見てきた!」
ヴィブロスはオロオロと姉を見つめ、シーナは何かを堪えるように俯いていた。
「それでも姉さんは僕たちのことを気にかけてくれて、いっぱい優しくて……自分が勝つために頑張って、G1を勝って、凄いウマ娘になった!」
シュヴァルグランの瞳が潤んでいる。
涙がこぼれそうになる前のくぐもった声になりながらも、彼女は言葉を止めることはなかった。
「僕なんかじゃ比べ物にならないくらい綺麗で、キラキラしてて、凄いウマ娘なんだ!」
彼女の中のシーナは、ずっと輝いていたのだろう。
何度も悔しい思いをして、それでも前を向いて走り続け、挑み続けるその姿が。
「お正月に、姉さんが言ってました。前の、クラリストレーナーが信頼するトレーナーさんに姉さんは託されたから、絶対大丈夫だって。新人なのにジェンティルドンナさんに認められて、あれだけ強いウマ娘を育てたトレーナーさんだから、大丈夫だって!」
彼女は信じていたのだ。
シーナが強くなることを。
オレが、彼女を強くすることを。
だからこそ――。
「なのに……なんで姉さんは強くなったって、言ってくれないんですか!!?」
声が詰まりながら、彼女はそれでも訴える。
「誰にも負けないくらい、強くなったって! なんで"言えない"んですか!?」
「こらシュヴァル、いい加減に――!」
シーナが止めようとするが、シュヴァルグランは聞く耳を持たなかった。
「姉さんは悔しくないの!?」
その言葉に、シーナが大きく目を見開いた。
「そんなの……私が一番悔しいわ!」
シーナの声も震えていた。
怒りか、悔しさか、あるいはその両方か。
「じゃあ、何で――!?」
シュヴァルグランの瞳から涙がこぼれる。
「ずっと前に、約束してくれたのに……ひぐっ、うっ、あぁあ」
静寂が落ちる。
冷たい風が吹き抜けた。
シュヴァルの小さな身体はぎゅっと縮こまり、悔しさと悲しみで押しつぶされそうになっていた。
「うう……なんで……姉さんばっかり」
喉の奥で嗚咽を噛み殺しながら、拳をぎゅっと握る彼女の肩は先ほどよりも大きく震える。
「シュヴァル……」
「シュヴァち……」
ヴィブロスが心配そうに手を伸ばすが、シュヴァルはそれを振り払うように顔を背ける。
「すまない、シュヴァルグラン」
「聞きたくない……!」
オレが呟くように謝罪すると、顔を上げた彼女の目には涙が滲んでいた。
それ以上に強い光が宿った瞳が、オレを睨んでいる。
「僕は、姉さんが勝つところを見たいんだ! なのに、また負けるかもなんて……そんなのもう、見たくない!! 信じない!」
「シュヴァル!!」
シーナの叫びも届かない。
シュヴァルは涙をこぼしながら、走り出していた。
ヴィブロスも後を追おうとする。
シーナがオレを振り向き、もの悲しい顔が訴えていた。
……追わせるかどうか、迷う時間はなかった。
オレが頷くとシーナはすぐに駆け出し、シュヴァルの背を追ったヴィブロスの後に続く。
三人の姿がどんどん遠ざかり、静かになった場所にはオレだけが取り残された。
先ほどのシュヴァルグランの言葉が、嫌というほど心に響く。
勝てるかもしれない。
そう思ったことは、何度もあった。
勝てるはずだ。
そう無理やり思い込んだことさえあった。
だが――。
ジェンティルドンナを育てた経験が、それを否定する。
嫌でも認識させられるのだ。
シーナと、ジェンティルやオルフェとの間にある、間違いようのない差を。
どれだけトレーニングを積んでも、どれだけシミュレーションを繰り返しても――。
あと1と1/4バ身が埋まらない。
足りない。
決定的なものが足りない。
今のトレーニング方法が間違っているのか。
だが、ヴィルシーナに合わせた鍛え方ばかりでは、凱旋門賞やオルフェーヴル相手には通用しない。
オルフェーヴルが孤立していて、ヴィルシーナを勝たせるために他のウマ娘が協力してくれるなら、勝機はあるかもしれない。
しかしそんなことはあり得ない。できるわけがない。そもそも、そんな勝ち方をしても意味はない。
凱旋門賞への切符を勝ち取るには、オルフェーヴルを明確に上回らなければならないのだ。
だがそれも、今のままでは――。
不可能だ……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夕方になると、シーナが帰ってきた。
オレは学園の食堂がまだ空いていたため、コーヒーを飲んで心を落ち着かせたところだった。
彼女は息を整えながらオレの隣に座って、シュヴァルグランとヴィブロスの様子を伝えてくれた。
「二人はそのまま帰宅したんですけど……シュヴァル、ずっとふさぎ込んでいて……」
シーナの声が、どこか申し訳なさそうに沈む。
シュヴァルグランは帰り道、誰とも目を合わせなかったらしい。
途中、ぎこちない声でオレへの謝罪を口にしたそうだが――。
そんなの、彼女に言わせることじゃない。
オレの方こそ、謝るべきなんだ。
彼女にとって、シーナはただの姉ではない。
大きな憧れを持つ、大好きな姉なのだ。
そんなシュヴァルの期待や想いに、応えられないままここまで来てしまった。
シーナが勝つ、と言えるほどの育成ができていない。
だからこそ、あの子はあんなに取り乱し、感情を爆発させるしかなかったのだろう。
そんなトレーナーに、何の価値がある?
これでは、ジェンティルドンナに契約を破棄されるのも当然だ。
そう思ったとき、不意にシーナが言った。
「……ごめんなさい、トレーナーさん。こんなことになるなんて……シュヴァルには、きつく言っておきますから」
「待ってくれ、シーナ」
オレは首を横に振る。
「それはダメだ。シュヴァルの気持ちを、オレがちゃんと受け止めなきゃならない。これはオレの責任だ」
シュヴァルの言葉は、彼女なりの願いだった。
シーナのトレーナーであるオレがそれを無視することは、絶対にできない。
「トレーナーさん……」
シーナは、肩を落として俯く。
「やっぱり私が、“領域(ゾーン)”に達していれば……」
領域(ゾーン)。
それこそが、今のヴィルシーナに足りないものなのだろうか。
でも、そこにシーナを届かせるために、オレは何をすればいい?
何も考えず、ただ強くしようと誓ったはずなのに……。
分からない。
分からないまま、時間だけが過ぎていく。
……考え込みながら立ち上がると、不意に足元で何かが転がった。
「ん?」
――いや、違う。
誰かが、倒れていたのだ。
「……わ、わぁ!?」
驚いて仰け反ってしまう。
うつ伏せになって倒れていたのは、綺麗な葦毛の髪を持つウマ娘だった。
どうやら意識はあるらしいが、微動だにしない。
そして、静寂を破るように。
ぐぅぅぅぅ……。
そのウマ娘から、腹の虫が鳴った。
「……」
とりあえず、そのウマ娘を抱き起こし、何か食べるものを与えることにした。
幸いまだ食堂は空いていたので、残っていた軽食の菓子パンを買って彼女に食べさせる。
それは口に入るやいなや掃除機のように吸い込まれ、もちゃもちゃと夢中で咀嚼されていった。
「もぐもぐ……うん、美味しい、ありがとう。君たちのおかげで、少し元気が出たよ」
満足そうに微笑みながら、まるでエサをもらった小動物のように、オレたちを見上げる無垢な瞳。
その顔には見覚えがあった。
「オグリキャップだ。よろしく」
そう――このウマ娘は、オグリキャップ。
かつて【灰の怪物】とも呼ばれた伝説のウマ娘だ。
生涯成績でG1勝利数こそジェンティルドンナに及ばないものの、重賞勝利数は圧倒的。
引退レースとなった有馬記念では、日本中が彼女の復活に涙した。
そんな彼女が、空腹で倒れていたとは……。
「そういえば君の顔、どこかで見たことがあるな……?」
口元についたパンの粉をそのままに、彼女はオレの顔をじっと見つめて首を傾げる。
「そうだ……指名手配の顔だ」
「ええ!?」
思わず叫んでしまった。
「オルフェーヴル君だったか、彼女の周りにいる生徒が、君のことを不敬罪! と言っていたな……もしかして、君は……悪い人なのか?」
「違う違う違う!!!?」
オレは慌てて身振り手振りで否定する。
そう言われてしまっている顛末――オルフェーヴル陣営を真っ向から煽ったこと、を話しつつ、学園のトレーナーであることを証明するバッヂを見せつける。
「そうか、良かった。悪い人には見えなかったからな。そんな事情があったのか」
落ち着いた声で言うが、さっきのやり取りでオレは内心泣きながら、苦笑いせざるを得なかった。
「君たちのことは知っている。無論、ヴィルシーナ君のことも耳には届いている。凱旋門賞であのジェンティルドンナ君にリベンジすると。そして、大阪杯でオルフェーヴル君とも対戦すると」
オグリは静かに言う。
「だが、今の君では二人には勝てないだろう」
オレの隣で、ヴィルシーナの身体がピクリと震えた。その表情は曇り、さぁと血の気が引いていく。
そんな彼女を見て、オグリが慌てて訂正する。
「すまない、私の言葉が足りなかった。それでよくタマにも怒られるんだ」
己の不甲斐ない言い方に困ったように、自らの額を拳でコツコツ叩く。
タマ、とはタマモクロスのことだろう。よく一緒にいるのを見かける。
「今のままの君だ。つまり今のままの君でなくなれば、勝てるかもしれないと言いたいんだ」
「今のままの私で、なくなれば……?」
「上手く言えないんだが、昔の私に似ているなと思っている。そう、天皇賞・秋。タマに負けた日から、悩んでいた私に……」
どういうことだろうか。
彼女の言いたいことの真意が、オレにも図りかねていた。
「一度、君と走ってみても良いだろうか。その方がきっと分かると思う」
そして、どんな数奇な運命か。
オグリキャップとヴィルシーナの併走が始まった。
形式上は模擬レース。
現役のヴィルシーナと、すでに第一線を退いたオグリキャップの対戦だ。
本来ならば勝負にならないはずだった。
――だが。
「これが、オグリキャップ……!」
轟音が交錯する。
ドドドドドドドッ!!
最終直線で、ヴィルシーナの前に、ほんの一瞬だけ、オグリの影が躍ったのだった。
――抜かれた!?
そう思ったのも束の間、その後オグリは伸びを欠いて、ゴールに先着したのはシーナだった。
だが、ほんの一瞬だけ。
確かに、オグリキャップはシーナを捉えたのだ。
もし、これが全盛期だったなら?
勝負の行方は、どうなっていたかは言うまでもない。
何より、この瞬間――。
オルフェーヴルや、ジェンティルドンナとの“差”が、痛いほどに突きつけられた。
オグリはすぐに呼吸を整えて、オレたちに説明してくれる。
「今のは、私もよくわかってないが、ルドルフは領域(ゾーン)と呼んでいた。タマやイナリもできるはずだ」
オグリの言う【今の】とは、最終直線で見せたスピード、加速、粘り、伸び、その全てがシーナを凌駕した瞬間のことに違いない。
あの一瞬だけ、彼女の気迫と言うか圧というか、オーラのようなものが明らかに変わったのだ。
凄まじい力を秘めていた――近くで見ていたオレでも、そう感じ取れるほどに。
トレーナーには領域(ゾーン)は知覚できない。
そう言われているのは確かではあるが、実際に目の前で見れば、その一瞬だけまるで別人のようだったのは明白だった。
次元が違う――その言葉の意味を、初めて正確に捉えられた気がした。
「君はこちら側にたどり着いていない。でもたどり着く実力はあると思う」
「ほ、本当ですか!?」
シーナの声が驚きとともに弾んだ。
「どうすればそこに行けるんですか!? どうか、教えてください」
「わ、わわ……!」
その瞳は獲物を逃すまいとする狩人のようで、彼女の熱量にオグリはたじろぐ。
一番近くで、その感覚を肌で感じ取った彼女だからこそ、オグリキャップの言葉に救いを見出したのは当然だろう。
「し、シーナ、落ち着いて」
我に返ってシーナの肩に手を置くと、彼女も自分を取り戻す。
「へ? あ、ご、ごめんなさい!」
ぱっと手を離し、慌てて頭を下げた。
オグリは小さく息を整え、愛嬌のある顔からスンッとした顔になり、改めてこちらを見据える。
静寂が訪れる。
気づけば日没だった。
空では群青色の世界が山の稜線へと伸びていき、沈みゆく光が最後の名残を留めていた。
空気は冷え、夜の色がゆっくりと降り始める。
「……少し、昔話をしよう」
彼女の声は、まるで遠い記憶の底から掬い上げるような響きだった。
涼やかな優しい風が吹き始める。
「私は、生まれたときは足が弱くて、上手く歩くことすらできなかったんだ……。それをお母さんが、走れるようにしてくれた」
オグリの銀色の髪がそよぐ。
彼女は目を閉じ、風を全身で受け止めるようにゆっくりと両腕を広げた。
「カサマツにいた頃もそうだが、私はいろんな人に支えられて、ここまで強くなれた。あの頃のことは、今でもずっと覚えている」
静かに開かれたまぶたの向こう、遠くを見つめる瞳は、どこまでも澄んでいた。
まるで、今もその時の景色がそこにあるかのように。
そして、再びシーナを見つめる。
「ヴィルシーナ、君は、何のために走っているんだ?」
「……何の、ため?」
「そうだ。ジェンティルドンナに勝ちたいのは分かる。そのためにオルフェーヴルに勝ちたいのも分かる。でも、それは――何のために勝ちたいんだ?」
その言葉に、シーナの瞳が揺れた。
戸惑いが、彼女の表情に滲む。
問いの意味が、理解できないのだろう。
かくいうオレにも、分からないのだが……。
「その答えは、きっと君の中にすでにあるはずだ。でも、おそらくそれを忘れている。なぜなら――私もそうだったからな」
オグリの目が細められる。
遠い記憶を辿るように、どこか懐かしげな眼差しで。
「至るには、自分の何かに気づかないといけない。上手く説明できなくてすまないが……きっと、君の中にもうその答えがあるんじゃないだろうか? 誰に勝つよりも大事な何かが……」
ヴィルシーナは沈黙し、顎に指をつけて考え始める。
オグリは、そんな彼女をじっと見つめ――やがて、ふっと微笑んだ。
「美味しいパンをありがとう。助けてくれて、とても嬉しかったよ」
淡々とした、それでいてどこか温かい言葉を残し、オグリは静かに背を向ける。
「……!」
オレは思わず手を伸ばしかけたが、止めた。
オグリの言葉はもう、それ以上の説明を必要としないほど、すべてが詰まっている気がしたから。