記憶と護れる強さを求めて   作:時代に遅れている

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今州の危機

影の中から静かに姿を現したのは、令尹の近衛——散華だった。

 

その端正な顔には、冷静さと緊張が同居している。

 

「皆さん。これは——」

 

散華が口を開く前に、俺は先に言葉を挟んだ。

 

「偵察……いや、俺たちが"奴ら"に被害を受けないか、見守ってたってところかな?」

 

漂白者が横目で俺を見ながら、淡々と続ける。

 

「それも——令尹の指示で、ってところか。」

 

その瞬間、散華の表情が揺らいだ。

 

「!?」

 

驚きと困惑が入り混じった瞳で、俺たちを交互に見つめる。

 

「い、いつからそれに気が付いていたんですか?」

 

まぁ、そりゃ驚くだろう。

 

実際のところは、研究所を出た時に残星組織の幹部らしき気配を感じて後ろを振り返ったら、たまたま散華がいただけなんだけどなー。

 

でも、ここは俺の"格"を上げるチャンス。強い奴に見せるなら、適当にハッタリをかましておくに限る。

 

俺は軽く肩をすくめながら、適当に話を盛ってやった。

 

「うーん、お前と別れて秧秧たちと合流したぐらいからかな〜? それに、定期的に"令尹様"って言いながら連絡取ってるのも聞こえてたしー」

 

漂白者がほんのわずかに目を細める。

 

散華は目を見開いたまま、何かを考え込んでいるようだった。

 

……あれ? なんか話を盛りすぎて、言わなくてもいいことまで口走っちゃった感じ!?

 

俺はそっと漂白者に囁いた。

 

「ちょっと漂白者、どうしよう?」

 

漂白者は薄く笑って、同じく小声で返す。

 

「知らないな。話を盛ったお前の責任だろ?」

 

そんな〜! こいつ、薄情者か!?

 

俺が心の中で絶望している間に、散華がズカズカとこちらへ歩み寄ってきた。

 

足音に無駄な迷いがない。——ヤバい。

 

「……どうして……」

 

うわ、ガチギレモード!? 本当にすみませんでした〜!!

 

俺は思わず心の中で土下座しそうになりながら、適当に言い訳を考えようとした——が。

 

「……どうして分かったんですか!?」

 

 

意外すぎる問いに、俺は思わず言葉を詰まらせた。

 

そんな真剣に聞かれると、逆にこっちが動揺するんですけど!?

 

「……え?」

思わず間抜けな声が漏れる。

 

いやいやいや、そこ!? 俺が言ったことのどこをどう取ったら、そんな純粋な反応になるんだ!?

 

散華は真剣な表情のまま、俺に一歩、また一歩と近づいてくる。

 

「どうして……どうして私が見ていたことに気づけたんですか?」

 

その目はまるで、本当に理解できていないとでも言いたげな純粋な輝きを放っていた。

 

「えっと……その……」

 

しまった、変に話を盛ったせいで後に引けなくなった。
というか、本当に信じてたのかよ!? 俺が最初から気づいてたって話!!

 

ちらりと隣を見ると、漂白者は俺をじっと見つめながら、どこか呆れたように肩をすくめている。

 

小声で「すごい奴だな。普段威張っているだけのことはあるんじゃないのか?陰楓」

 

くそっ、こいつ完全に面白がってやがる!!

 

「……その……ほら、俺って勘が鋭いから? 空間操作の能力もあるし? なんとなーく、お前の気配を感じてたっていうか?」

 

自分でも苦しい言い訳だと分かっていたが、今さら後には引けない。

散華は少し考え込むように腕を組み、しばらく沈黙した。

そして、納得したように頷く。

 

「なるほど……さすがは陰風さんですね。」

 

——信じた!?

俺は内心で絶句したが、顔には出さずに余裕のある笑みを浮かべる。

 

「ま、まあな! 俺の観察眼を舐めるなよ?」

 

漂白者が静かに口を開いた。

 

「まぁ、散華に気がついた時の話は置いといて……話がある」

 

よかった〜!漂白者、お前はやる時はやる奴だと信じてたぜ。

 

俺が心の中で安堵している間に、漂白者は落ち着いた声で続ける。

 

「俺たちはもう、印についての情報を全て得た。そろそろ令尹様に会ってもいいと思うんだが……」

 

そう。俺たちが散華を引き止めたのは、自慢話をするためでも、俺の株を上げるためでもない。

 

令尹——今汐と直に話がしたいからだ。

 

しかし、散華は言葉に詰まったように視線を落とす。

 

「それは……」

 

やっぱり簡単には首を縦には振らねぇか。

 

俺は軽く肩をすくめながら、続ける。

 

「こっちにも事情ってもんがあんだ。そっちもそっちで、俺らが納得する説明をする責任はあるはずだと思うんだが?」

 

漂白者も黙って俺の言葉を見守る。

 

散華は唇を引き結び、何かを考え込むような表情を見せた。そして、ゆっくりと首を横に振る。

 

「いくらあなた方でもこれはーー」

 

その時——

 

『散華、もう大丈夫です。』

 

突然、散華のデバイス——瓢箪の形をした通信機から、澄んだ女性の声が響いた。

 

散華が驚いたようにデバイスを手に取り、恭しく応じる。

 

「令尹様!」

 

俺と漂白者は顔を見合わせる。まさか、こんなにあっさりと本人が出てくるとはな。

 

『皆さん。ここまでお待たせしてしまったこと。そして、このような形であなた方を試すような真似をしたこと、どうかお許しください。』

 

今汐の声は穏やかだったが、その言葉の裏には、俺たちへの評価を確かめるような響きがあった。

 

——やっぱり、向こうは最初から俺たちを"試して"いたってことか。

 

『私としても、直に会って話をしたいと思っていますので——今夜、辺庭にてお会いしましょう。』

 

通信が途切れ、静寂が訪れる。

 

漂白者がゆっくりと息をつく。

 

俺も腕を組みながら、ニヤリと笑った。

 

「ようやくご対面ってわけか。」

 

さて——ここからが本番だな。

 

夜——辺庭

 

何度来ても、ここの豪華さには驚かされる。

 

煌びやかな装飾、静かに揺れる燭台の光、どれもがまるで別世界のようだ。

 

漂白者が隣で低く呟く。

 

「それにしても、お願いして即日とは……令尹も、何かあるのかもしれないな」

 

確かに。

 

俺もそろそろ会えたらいいな、くらいのノリで言ったつもりだったのに、まさかこんなに早くお呼びがかかるとは。

 

ここまで迅速に動くとなると、向こうも俺たちに何かしらの意図があるんじゃないかと疑ってしまう。

 

……まあ、疑うのは後にするとして。

 

それより気になるのは——

 

『紅黒、さっきから何で喋らないんだ?』

 

さっきから妙に静かだ。いつもなら俺の頭の中で好き勝手喋り散らしてるってのに。

 

『………まさかな〜』

 

『おい、無視かよ』

 

『……多分、あの娘、あの事について調べてやがるな』

 

『全然話が見えてこねぇんだけど?』

 

俺が問い詰めようとしたその時、漂白者が俺の肩を軽く叩いた。

 

「おい、着いたぞ。」

 

視線を上げると、そこは今州城を一望できるベランダのような場所だった。

 

そして——

 

月明かりの下に、ひとりの少女が静かに佇んでいた。

 

淡く光る髪が夜風に揺れ、その姿はどこか幻想的で、まるでこの景色の一部のようにも見える。

 

俺は無意識に息を呑んだ。

 

今汐(コンシ)がゆっくりと口を開く。

 

「三日の約束……」

 

透き通るような声が、静かな夜の空気に溶け込んでいく。

 

「お互い、守ることができたようですね。」

 

その言葉とともに、彼女はふわりと微笑んだ。

 

「改めて自己紹介を……今汐と申します。」

 

そして、一瞬だけ視線をこちらに向け——

 

「ようやく会えましたね、漂泊者。そして……」

 

俺の名前を呼びながら、にこっと微笑んだ。

 

——えっ!?

 

今、俺を見て微笑んだ!? いや、確実に微笑んだよね今!!

 

かわよ!!(かわいい!!)

 

俺の心臓が一瞬だけ妙な跳ね方をする。

 

横で漂泊者が静かに口を開く。

 

「初めまして。」

 

落ち着いた態度で、淡々と挨拶を返すその姿に、俺も我に返り、適当に言葉を返す。

 

「いや〜ホログラムも綺麗だったけど、実際に見ても——」

 

漂泊者が俺を冷めた目で見てきた。

 

「お世辞のつもりか?」

 

「は? 本心ですけど。」

 

俺が言い返すと、漂泊者は小さくため息をついた。

 

そのやり取りを聞いていた今汐が、ふっと微笑んだまま、一歩前に出る。

 

彼女は静かに手を差し出した。

 

ただの握手のつもりなのだろう。

 

けれど、その仕草はどこまでも上品で、彼女の表情には一点の曇りもない。

 

そして何より——

 

とても、穏やかだった。

 

俺は今汐の差し出した手を握り返した。

 

その瞬間、ふと気づく。

 

「……傷? 大丈夫か?」

 

彼女の手には、かすかな龍の鱗のような傷跡が残っていた。見た目には小さなものだが、ひどく痛々しく見えた。

 

しかし、今汐は軽く首を振る。

 

「……いいえ、別に。」

 

そう言って、すぐに話題を変えた。

 

「それより……遠回しな方法で試すような真似をしてしまいましたよね。申し訳ございません。」

 

彼女の声は落ち着いていたが、その言葉の奥にはわずかに迷いが滲んでいるように感じた。

 

「ですが、予想外の事態が重なり、他に道はありませんでした。」

 

漂泊者がすぐに問いかける。

 

「予想外の事態って、残星組織と関係があるのか?」

 

今汐の表情が一瞬曇る。

 

だが、すぐに俺は気づいた。

 

——いや、違う。残星組織じゃない。

 

漂泊者はまだ知らないだろうが、紅黒と今汐の様子を見て確信した。

 

これは"角"に関係している。

 

「……歳主に何かあったんじゃないか?」

 

俺が言うと、今汐はゆっくりと頷いた。

 

「えぇ、陰楓さんの言う通りです。」

 

その瞬間、漂泊者も俺も、同時に息をのむ。

 

「今州は現在、歳主が不在です。」

 

「……!?」

 

俺の頭の中に、紅黒の低い声が響く。

 

『やはり……知ってやがったか。』

 

「嘘だろ?」

 

思わず声が漏れる。

 

「歳主は管轄域から離れられないって聞いたが……?」

 

「はい。」

 

今汐は静かに続ける。

 

「歳主は文明の案内者であり、守護者でもあり、そして文明そのものです。」

 

「ですので、歳主の不在は大きな波乱を意味し、深刻な事態を招きかねません。」

 

彼女は俺たちをじっと見据え、穏やかながらも強い声で言った。

 

「おふたりとも、このことは内密にお願いします。」

 

一瞬、場の空気が重くなる。

 

そして——

 

「……今州の歳主である"角"は、残星組織によって拘束されました。」

 

今汐の言葉が、夜の静寂を切り裂くように響く。

 

「余はこれまでこの件を全力で追いかけていた——これがあなたたちに会えなかった理由です。」

 

漂泊者が眉をひそめる。

 

「歳主と共鳴できると聞いたが?」

 

「ええ。」

 

今汐は小さく息をつき、視線を少し遠くにやる。

 

「余は"角"とある程度の感覚を共有しています。彼の記憶、感受、そして所在を——うっすらとですが、感じることができます。」

 

その言葉を聞き、俺は紅黒と目を合わせるように意識を向けた。

 

『紅黒……お前は何か感じてるか?』

 

紅黒は短く吐き捨てるように言った。

 

『……さぁな。だが、これはただの"不在"なんかじゃねぇぞ。』

 

嫌な予感がする。

 

角は本当に"捕まった"だけなのか——?

 

漂泊者がすぐに問いかける。

 

「もう見つかったりは?」

 

今汐は静かに首を振った。

 

「まだ所在まではわかりません……。ですが、"角"が今も危険な状況にあることは感じています。」

 

その言葉に、俺も漂泊者も黙り込む。

 

「しかし、それと同時に——余は元凶を突き止めることができました。」

 

俺は反射的に顔を上げる。

 

「元凶って……あのトランプ野郎か?」

 

赤い衣を纏い、炎のトランプを操る狂人。

 

今汐は確信を持ったように頷いた。

 

「はい。」

 

「やっぱりな……」

 

あの時の不気味な笑みが頭をよぎる。

 

「残星組織は"悲鳴"がもたらすことを望んでいます。」

 

その一言に、場の空気が一気に張り詰めた。

 

「その監察であるスカーは、三つの目的を持っています。」

 

「一つ目は、漂泊者の尾行、調査、及び勧誘。」

 

「二つ目は、『角』を確保すること。」

 

「三つ目は……鳴式を蘇らせること。」

 

漂泊者が眉をひそめる。

 

「……なぜ俺を勧誘しようとしているんだ?」

 

今汐は少し考えるように目を伏せ、それから答えた。

 

「何かの拍子で、漂泊者の持つ力が知られてしまったのかもしれません。」

 

「最も可能性が高いのは……『角』経由。」

 

そう言いながら、彼女は俺たちを見つめる。

 

「そして、あなたの力は——間違いなく、彼らにとって有益なものです。」

 

漂泊者は無言のまま、拳を握りしめた。

 

……"鳴式の復活"か。

 

ふざけんなよ。

 

俺は静かに、けれどはっきりと奥歯を噛み締めた。

 

今汐が静かに続ける。

 

「反対に、あなたが勧誘を拒否された場合……計画に支障をきたしかねない"不安要素"となってしまうでしょう。」

 

「つまり、お前らの邪魔になりそうなら、潰しにかかるってことか。」

 

今汐は頷いた。

 

「その可能性が高いですね。それに……今日の出来事で、陰楓さんも狙われることになっていそうです。」

 

「はぁ……」

 

俺は思わず頭を掻く。

 

「あの彼岸花女がまた来るってか?めんどくせぇ……。」

 

漂泊者は黙ったまま、何かを考えているようだった。

 

「ですが……スカーを捕まえる方法ならあります。」

 

今汐の言葉に、俺と漂泊者は同時に彼女を見る。

 

「彼の身柄を確保できたら、しばらく残星組織もあなたたちに手を出せなくなるはずです。」

 

なるほどな……そりゃあいい話だ。

 

「なので、いかがでしょう?協力していただけませんか?」

 

「身の安全は——余が確保します。」

 

俺は漂泊者を見る。

 

漂泊者はすぐに頷いた。

 

「俺は賛成だ。」

 

俺も少し考えてから、肩をすくめる。

 

「俺もだ。手を組もう。」

 

今汐は微笑み、深く頷いた。

 

「受けていただきありがとうございます、漂泊者。そして、陰楓。」

 

「でも、ここに至るまでに——"印"を通じて多くの情報を入手したはずです。」

 

俺は腕を組みながら口を開く。

 

「マンゴスチンは今州の戦況と人々を意味する。」

 

「飴玉は疫病と歴史に発生した災いを意味する。」

 

漂泊者が続けた。

 

「葉っぱは残星組織を意味する。」

 

「日時計は面会の約束……だな。」

 

今汐は目を細める。

 

「さすがですね。」

 

俺は少しだけ息をつきながら、口を開いた。

 

「そして——俺たち自身の情報は、ここへ辿り着く道のりに隠されている。」

 

今汐の表情が少し曇る。

 

「今の情勢は、見た目以上にずっと深刻です。」

 

「……鳴式が——再び蘇ろうとしています。」

 

その言葉に、俺は眉をひそめた。

 

「一つ聞いてもいいか?」

 

「俺たちは鳴式について、"めっちゃ強い"ってことと、戦争が起きたってくらいの曖昧な知識しかねぇんだが。」

 

今汐は静かに頷く。

 

「鳴式は、文明の敵です。」

 

「それは、文明の集合的無意識に潜む憂いと心の闇……我々人類が克服すべき"強大な敵"です。」

 

「そして、我々もその災いを全力で防ぐ所存ですが……」

 

「残星組織も、一刻も早く鳴式を蘇らせようとするでしょう。」

 

俺は拳を握る。

 

「……なるほどな。」

 

これが、"本当に阻止すべきこと"ってわけか。

 

漂泊者が口を開いた。

 

「それと鳴式は関係があるのか?」

 

今汐は静かに頷く。

 

「はい。」

 

「前にお二人で倒し、漂泊者が吸収した残像——"無冠者"。」

 

「それは、戦争そのものの具現。」

 

「戦死者の怨恨、生き延びた者の恐怖——その二つが織り成した存在です。」

 

「無冠者という残像は、"鳴式"の力の投影とも言えるもの。」

 

「そして、今州が"理"の最前線として不屈の精神と抗う意思を誇るのであれば——」

 

今汐はそこで一度言葉を区切り、俺たちを見つめた。

 

「その誇りの裏には、止まない戦争への恐怖が蠢いています。」

 

俺は眉をひそめながら、漂泊者の横顔を見る。

 

——つまり、あいつが無冠者を吸収したのは偶然じゃないってことか?

 

今汐は漂泊者に視線を戻すと、慎重に言葉を選びながら続けた。

 

「漂泊者、あなたは"肉体で鳴式の残像を吸収"し——さらに、それと共鳴することができる。」

 

「そして——歴史には、"一人の英雄"がいます。」

 

「彼は肉体で残像を吸収し、"鳴式戦争"で"理"を救った英雄。」

 

俺は思わず目を見開いた。

 

「……!」

 

今汐の言葉は淡々としていたが、その内容は衝撃的だった。

 

「今州設置の資料にも、"あの方"に関する記述が残されています。」

 

「そして、その英雄は——漂泊者、あなたと尽きぬ関係を持つ可能性があります。」

 

漂泊者は黙ったまま、何かを考えているようだった。

 

——"英雄"、か。

 

そいつが漂泊者とどう関係しているのかはわからないが……

 

ただの偶然で済む話じゃなさそうだな。

 

漂泊者が低く呟く。

 

「……俺と関係が?」

 

今汐は穏やかに頷いた。

 

「はい。それは余一人の判断ではなく——『角』がそう囁いてくれました。」

 

「角」——その名前を聞いて、俺は思わず眉をひそめる。

 

「『角』って……雲合の……?」

 

雲合にある、未完成の彫像。

 

まさか、あれが?

 

今汐は静かに息をつき、俺たちを見つめた。

 

「あの未完成の彫像のことですか?……はい、それが『角』です。」

 

俺と漂泊者は互いに顔を見合わせる。

 

その瞬間——まるで何かが脳裏に走った。

 

ぼやけた記憶の欠片。

 

——俺は、どこか知らない場所に立っていた。

——全身にべったりと何かが纏わりついている。

——腕の中には、震える小さな体。

——泣いていた。俺ではない、誰かが。

——その顔は——今汐に、似ていた。

 

本当にあったことなのか。

 

それとも、ただの幻想なのか。

 

……わからない。

 

今汐が、僅かに眉を寄せた。

 

「そうなのですか? 余にも教えてください。」

 

「『角』に関することなら、余が知っている可能性があります。」

 

漂泊者は、今汐に不連続な記憶をすべて伝えた。

 

そして俺も——あの記憶を話した。

 

「……俺は、残像に囲まれた中で——泣いていた女の子を抱いていた。」

 

今汐とよく似た、その子を。

 

今汐の表情が、静かに揺らぐ。

 

「これは……。」

 

今汐はしばらく黙ったまま、思案するように目を伏せていた。

 

その沈黙が妙に気になって、俺は思わず口を開く。

 

「……何か気になることでもあったのか?」

 

今汐はゆっくりと顔を上げ、落ち着いた声で答えた。

 

「先ほども申し上げましたが、余は『角』と共鳴できます。……その記憶は全て、『角』が実際に経験したものです。」

 

その言葉に、俺と漂泊者は思わず視線を交わした。

 

「つまり、本当にあったことの可能性が高いのですね。」

 

漂泊者が慎重に言葉を選びながら呟く。

 

「ということは……」

 

今汐が静かに続けた。

 

「ということは……漂泊者は、歴史に名を残す伝説の『あの方』——」

 

彼女は漂泊者をまっすぐに見つめた。

 

「『角』の隣に並んだ親友です。」

 

漂泊者の眉がわずかに動く。

 

「共鳴者であっても、そこまで長生きできるわけじゃないだろう?」

 

確かに、共鳴者は一般人に比べて長命だが、百年近く同じ容貌を保ち続けるという例は聞いたことがない。

 

今汐は頷いた。

 

「ええ。ですが、時間の問題よりも気になることがあります。」

 

漂泊者が静かに息をつく。

 

「……昔の俺は、一体何者だったのか?」

 

今汐はわずかに目を伏せ、慎重に言葉を選びながら答えた。

 

「それは、ご自身で見つけ出す必要がありそうです。」

 

「『角』が最後にくれたヒントは——」

 

「『北落野原に向かって、鳴式を探し出す』」

 

俺は腕を組みながら考える。

 

「北落野原で……俺たちの納得がいく答えに辿り着くってことか?」

 

「その可能性が高いですね。」

 

今汐は静かに頷いた。

 

「鳴式の復活に伴い、内部の混乱も外部から迫る危機も、次第に表面化してきました。何もかもが、瑝瓏の歴史に刻まれたあの危機と似ています。」

 

「……これこそが、あなたがここを訪れた理由なのかもしれません。」

 

漂泊者がじっと今汐を見つめる。

 

「……俺に今州の危機を解決してほしいってことか?」

 

今汐は静かに微笑んだ。

 

「いいえ。突如空から舞い降りた英雄に、すべてを委ねようとは思っていません。」

 

「ただ、あなた方には、自分自身についてもっと知っていただきたいのです。」

 

「今のあなたたちの一番の悩み事に対して、余ができることはこれくらいしかありません。」

 

彼女の言葉は、偽りのない誠実な響きを持っていた。

 

「もちろん、今州の力になってくださるのなら、それに越したことはありませんが……」

 

「ですが、あなたたちの『自分の過去を知りたい』という気持ちを利用したくはありません。」

 

そう言った今汐の瞳には、真摯な光が宿っていた。

 

「……今州の人々は、余の民です。」

 

「自分の民を守る役目を、他力に任せるつもりは断じてありません。」

 

「余が力を持っているというだけでなく、今州のすべての将兵、そして自分の役割を全うしている人々を信じているからです。」

 

俺はしばらく黙って、その言葉を噛み締めた。

 

漂泊者も、静かに頷く。

 

「……そうか。」

 

今汐は穏やかに続けた。

 

「あなた方も、自分の"身分"を知れば、自ずとどう行動すべきか結論が出るはずです。」

 

「そして、理に尽力してきた英雄なのですから。昔も、そして今も。」

 

「すべてが終わった後、今州……理を離れたいのであれば、余は阻むことなどいたしません。」

 

今汐は、俺たちを見つめながらゆっくりと息を吐いた。

 

「何かあれば、いつでも余に連絡してください。」

 

「ただ、ここでのことは……あなたと余だけの秘密でお願いします。」

 

彼女の言葉が夜の静寂に溶けていく。

 

ここまで話を聞き、俺はようやく一つの謎を解き、令尹から重要な情報を得ることができた。

 

だが——

 

「……でも、時間についてはまだわかってねぇな。」

 

俺はぼそっと呟いた。

 

「他にも、手がかりがあるはずだ。」

 

そういえば——

 

「俺についての記憶、まだほとんど扱ってなくないか?」

 

その疑問が脳裏をよぎった瞬間、今汐がふと、俺に視線を向けた。

 

「それと、陰楓。」

 

彼女の声が、一際はっきりと響いた。

 

「——あなたは、ここに残ってください。」

 

漂白者が訝しげに眉をひそめる。

 

「陰楓だけ、どういうことですか?」

 

俺は肩をすくめ、軽く笑ってみせた。

 

「まぁ、令尹様にも何かあるんじゃないの? ほら、さっさと帰った帰った。」

 

「お、おい……」

 

戸惑う漂白者を手で追い払いながら、俺はちらりと彼を見た。

 

「なぁに、ちょっと昔話をするだけさ。」

 

ふと思い出し、言い添える。

 

「あの女の子には、明日には帰るって伝えといてくれ。」

 

漂白者は小さくため息をついた。

 

「……はぁ。分かった。」

 

彼が踵を返し、その場を後にする。

 

やがて足音が遠ざかり、静寂が辺りを包んだ。

 

俺は目の前の少女——いや、令尹である彼女を見据えながら、軽く首を傾げる。

 

「さて、これで二人きりだな。」

 

「この俺と二人で話したいことってなんだよ?」

 

俺は敢えてくだけた口調のまま、彼女をじっと見つめる。

 

「今汐……いや、名前は汐だったはずだ。」

 

今汐の肩がわずかに揺れた。

 

静かな夜風が吹き抜ける中、彼女はじっと俺を見つめていた。

 

しばらくの沈黙の後——

 

「……あなたは……」

 

彼女の声が、夜の帳にそっと紛れるように落ちる。

 

「余のことを、覚えていますか?」

 

彼女の瞳が、揺れる。

 

俺の中で、何かがざわめいた。

 

正直なところ、何も覚えていないのが本当の話だ。

 

だが——

 

「名前は、うっすらと頭の中に浮かんでいたから呼んだ。そして、なんだか、懐かしい感覚がする。」

 

俺がそう言うと、今汐はしばらく黙ったまま、じっと俺を見つめていた。

 

「……では……あなたが見たという角の記憶に関しては——」

 

「すまないが、それも同じだ。」

 

短く答えると、彼女の表情がわずかに翳る。

 

「そうですか……」

 

今汐はほんの一瞬、視線を落とし、それからすぐにいつもの穏やかな顔へと戻った。

 

「留まらせてしまい申し訳ございませんでした。では、また後日お会いしましょう。」

 

「ああ。」

 

俺は踵を返し、その場を後にする。

 

——が、ふと思い出して足を止め、振り返った。

 

「あっ、忘れてた。無理はすんなよ。」

 

今汐は驚いたように瞬きをし、それから静かに微笑んだ。

 

「ありがとうございます。」

 

彼女の声を背に、俺は夜の静寂へと歩き出す。

 

今汐のことも、角の記憶も、何も思い出せない。

 

だけど、何かが心の奥に引っかかっている。

 

そんな感覚を振り払うように、俺はゆっくりと辺庭を後にした。

 

そして——

 

俺が去った後、月明かりの下で今汐は一人、小さく呟く。

 

「……本当に、記憶は戻るんですよね?」

 

彼女の指がそっと胸元に触れる。

 

「角……」

 

夜風に紛れるような、かすかな囁きが闇に溶けていった。





少女「お兄ちゃん!!」

「わ、悪かった……悪かったって!!」

「いろいろ用事があってだな〜お前たちも何か言ってくれよ!」

秧秧「報告連絡相談。忘れていたあなたが悪いですね。」

熾霞「これは……陰楓が悪いね〜」

「漂白者!!」

漂白者「いつものお返しだ。助け舟は出さないぞ」

「薄情者ー!!!」

その後、獅子舞演舞を見に行くと約束して少女の怒りをおさめた。

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