「お前に民が救えるのかッ! このいやしい豚め!」
「はわわ!? 空海様やめてください!」
「あわわっ! 豚さんをいじめちゃダメですー!」
ただの餌やり体験の光景である。
「ふぅ……堪能した」
「豚さんごめんなさい……空海様を止められませんでした……」
「ええっと、次は公共浴場へ立ち寄ります」
「ええのんか! ここがええのんか!」
「あわわ!?」「あわわわが目にー!」
「参ったな……二人とも泡だらけで区別が付かなくなってしまった……」
ただの入浴の光景である。
「ふぅ……(気分が)温まった」
「空海様~、雛里ちゃんの髪の毛がまだ乾いてないので待ってくださいー」
「あわわ、しゅみません……」
「じゃあ先に陳留に行って旗揚げしてるから後からちゃんと合流しろよ?」
「はわわ!?」「あわわ!?」
「えっと、次はお店を見て回ります」
「今回は南の茶屋区画です」
孔明と鳳統が先導して歩き出す。
空海は一瞬考えて立ち止まり、何もない空間に向け、手の平を上に突き出してのんびりと
「空海散歩用覚え書き帖~」
「ここに!」
「ぉ。幼平、良い仕事だ」
「――はいっ!」
突如現れてメモ帳を差し出すくノ一装束は、
空海と同じくらいの背丈で、地面につきそうな程に長い黒髪を持つ小柄な美少女だ。
何年か前に河賊をしていたところを捕らえられ、軽めに人格否定したり優しく人格を破壊するような教育を念入りに施された末に生真面目で素直な良い子に生まれ変わった。
空海を信奉するあまり褒められるたびに涙を流して喜ぶ残念な娘でもある。
「仕事中は?」
「泣きません!」
「わ、わぁ……」「み、明命ちゃん……」
一瞬で表情を消し、しかし唇を噛んで血を流しながら涙をこらえる周泰の姿は、軍師二人にとってはかなり
「血は拭いておけ。……戻って良い」
「はい!」
周泰は現れたときと同じように一瞬で姿を消す。軍師二人は目で追うことも出来ない。
近くに居ることはわかっているため慌てたりはしないが、江陵の将軍たちから直接の指導を受け続ける真正の軍人の身体能力に驚くのも無理はなかった。
「はわわ……明命ちゃん凄いです……いろんな意味で」
「う、うん。私あんなこと絶対に出来ない……いろいろな意味で」
「孔明と士元は幼平が絶対に思いつかないようなことを考えられるじゃないか。卑下することはないぞ」
「はわ、空海様」「あわわ、ありがとうございましゅ」
「じゃあ、幼平には絶対思いつかないような道順で案内してくれ」
「はわわ!?」
「ご、護衛の観点から薦められません!」
「そうかー。残念だなー」
もちろん普通に案内された。
「あの、空海様。一つ伺いたいのですが」
「なんだ?」
「何故これほど積極的に商店を回られるのでしょうか?」
「水鏡先生もよく見てくるように仰っていましたが……」
空海が散歩をし、情報誌に載せるのは末端の店がほとんどだ。大手の商家からは面談の申し込みも多いが、実際に会うのは重要な要件の時だけだ。
そのような対応に比べれば、庶民が出入りする店などに積極的に足を運ぶ空海の行動は軍師たちには合理的に思えなかった。
「ああ、そうか。お前たちは江陵育ちだからわからないのかもしれないな」
「え?」「江陵育ちだから……?」
「そうだ」
頭の回転が速く、学んだことほぼ全てを暗記している二人なら、どこかで知識と一致しているだろう。気付いていないということはおそらく知らないということだ。
「江陵の中と外では商家、商店の扱いが異なる」
「扱いが」「異なる……」
「江陵の外では、商店で値切るのは当然の行為なんだ」
「値切るのが?」
「当然、ですか?」
「何故だと思う?」
面白がって言葉を紡ぐ空海とは対照的に、孔明と鳳統は真剣そのものだ。
二人はすぐに解答に行き着く。
「明らかに高値で置いてあるから、でしょうか」
「(コクコク)」
「その通りだ」
自らの解答に納得していない様子の二人に答え合わせをしていく。江陵の商人を基準に考えているから誤解があるのだと、言い聞かせるように。
「一つ。商人が『安い』と言ったら仕入れが安かったのだと思え。売値は高いままだ」
「……」「……」
二人の生徒は真剣に聞いている。学ぶことに真面目な天才は見ていて気持ちが良い。
「一つ。商人が『希少』と言ったら売り物にならないものが少ないと思え。商人たちならいくらでも手に入れられる」
「一つ。商人が『今しかない』と言ったら一番高い価格が今だけという意味だ」
「一つ。商人が『買いたい』と言ったら買い叩けると思っているか何かを買わせるための布石だと思え」
そろそろわかったか、と見れば、二人はつらそうな顔をしている。
「つまり、江陵の外の商人たちは騙すことばかり考えている、という意味でしょうか?」
「正確には、外の民は、外の商人たちが
「それは……」
「……あっ! だから空海様が訪ねられるんですね!」
正解にたどり着いた孔明に笑顔で頷き、まだ真剣に考え込んでいる鳳統の答えを待つ。
「江陵の商品はこのくらいの値段なのだと内外に喧伝するため、ですね」
「正解だ。他にもあるぞ」
「……江陵の商人が、その値段を一度で提示している、と理解させるため?」
「それも当たっている。だが、まだある」
「……。空海
「さらに正解。空海散歩を読んだ人間の行動も視野に入れてみろ」
「江陵の品を探す……あるいは、空海様と同じように、自らの足で歩き比べて信用できるお店を探す、とか」
「空海散歩に書かれた江陵の商品価格を参考に、ですね。そして江陵の小売店が――」
空海の答え合わせを引き継いだ孔明がああだこうだと説明し、鳳統が相づちを打ったり所々で否定したりあることないこと勝手に議論していく。そこまで考えてなかった空海も『色々な効果があったらいいな』くらいには思っていたため否定しない。
「あわわ、空海様すごい! 凄いです!」
「で、でも本当に全部効果があるんでしょうか?」
「まぁ最低限このくらいの効果はあって欲しいという期待は超えているから良いんだよ」
「最低限の効果……あっ! わかりました! 水鏡先生が仰っていた『一を投じた策に対して無が返ってくることはない』とはこういうことだったんですね!」
「そっか! それだよ雛里ちゃん! だから水鏡先生は私たちによく見ておくようにって注意してくださったんですね……」
「(コクコク)」
水鏡はそこまで考えていたかもしれないが、空海は考えていなかった。キラキラと目を輝かせる二人の視線が眩しくて思考がそれていく。次号の情報誌に何を書こうかとか。
前回の茶屋特集の時は美味しい茶葉の紹介が中心だったから今度は二番煎じでも美味しい茶葉を重点的に探すことにして二人に声をかける。
「よーし、話はまとまったな。それじゃあ水腹になるまでお茶を飲むぞー」
「はい! お任せください!」
「はわわっ!? 雛里ちゃんそれはダメー!」
孔明は難敵である。
「やはり司隸の状況は良くない、ですか」
「商人たちの感覚では、ね。公瑾の方からは何かない?」
「最近は北方の河北四州を中心に、治安の悪化が顕著です。それと……」
周瑜は少し言いづらそうに目を伏せる。
「西方の益州と荊州南陽で、増税と税収の落ち込みが同時に起こっています」
「ふぅん。どこに集まっているの?」
益州と南陽方面ではここしばらく災害などは起きていない。つまり、どこかの誰かに富が集まっているからこそ、こういう事態が起きている。
「益州は劉璋に集まっています。正確に言えば劉璋隷下の官吏たちですが。そして劉璋にはこれを扱う脳がありません。手に入れた富のいくらかについて荊州牧の劉表を通し、さらに江陵を通すことでようやく破綻を免れる程度に民へと還元しております」
「そう。じゃあ西は
江陵からの謀略は周瑜たちに一任しているため、空海も詳しくは知らない。とはいえ、ほとんど関係のないはずの江陵に利が生まれていることからも、何らかの策が取られていることは明らかだろう。周瑜も否定しない。
「南陽は?」
「南陽は太守の袁術と、その配下の孫策に集まっている、と思われます。袁術の方は暗愚ですな。正直に言えば関わらない方が得でしょう」
軽く頷いて続きを促す。
空海としても袁術より孫策に興味があった。
「孫策はどうなの?」
「……積極的な防諜を行っている様子は見られません。しかし、肝心な情報についてはなかなか尻尾を掴ませず、精査に時間の掛かるいやらしい相手ですな」
――難敵、という意味かな?
「諜報員の質が問題なら幼平を動かしても良いけど?」
周泰幼平は今や江陵の誇る最強のNINJAだ。
冗談でKATANAを持たせたところ、彼女の身長ほどもあるそれを軽々と振り回したり、草鞋とくノ一っぽい服を与えたら一生脱がないとか宣言したり、とにかくNINJAである。
「いえ、それが……大変申し上げにくいことなのですが、手を変え品を変え情報の入手を試みますも、孫策当人が関わると肝心な部分で重要な会合が流れたり、諜報員を捕らえられるなどしており……」
「へー」
「諜報員が捕らえられていることも、明命に『どうして情報が得られないか』をやや遠巻きに見る方法で探らせてようやく判明したことでして」
何度も現場で犠牲が出たために最強のNINJAを動かして確かめたのだ。
「どうやって見つけ出してたの?」
「わかりません。潜伏は明命の目から見ても完璧だったそうです。ある時など、孫策が突然何かを気にして部屋の隅を探り出し、結局は潜んでいた者が見つかってしまったとか」
「? 居ることに気がついたっていうより、居ることに気がつかなかったけど居る場所はわかっていたって聞こえるんだけど」
「言いたくはありませんが、私もそう申し上げました」
「なにそれこわい」
周瑜は頭痛を耐えるような仕草で吐露する。空海としては相性の悪さでもあるのかと、気になるところだ。
「……情報が漏れている動きでは、ないよね?」
「そうですな。我々としては、これを優れた動物的感覚の持ち主であるとして、直接的な情報収集を避け、極力接触を避けることで一定の安全性を確保しつつ情報収集を行う方法を継続して模索しています」
「そうだね。小勢力ならまだやりやすいか。じゃあそれも任せる」
「はい」
荊州の南部、揚州、河北を経て話が涼州に移ったところで、そう言えば、と前置きして周瑜が告げた。
「今年は馬将軍は江陵に来られぬとか」
「ん? やっぱり征西将軍ともなると忙しいのかな」
「それもあってのことでしょうが、体調を崩されておられるらしく、今も長安で療養中だそうです」
「そうなのか。んー、じゃあ孟起たちが帰るときに見舞いの品を持たせよう」
「
「うん。こっそりついて行って驚かせようかと思」
「おやめくださいね?」
「はい」
にっこり笑って『はい以外の返事をしたら噛みつくぞ』みたいな雰囲気を出せば何でも譲歩すると思ったら大体正解である。
「ああ。さっきの話だけど、商人は司隸を嫌がってるし、折角だから司隸は後回しにして長安の方から先に攻めようか」
攻める、とは江陵商人による経済支配の拡大作戦のことだ。
大筋では各地の主要都市で流通や販売の占有率を拡大し、江陵の商人を仲介しなくては都市の生産品を売ることも出来ない体制にしてしまおうというもの。
攻めるにはリスクが大きく利が少ない、未来の日本に倣った存在になろうという江陵の防衛政策の一翼を担っている。
「
「うん。寿成が長安に滞在している間にやれるだけやっといて。……別に馬家を利用するような方法を使うのに俺の許可を取る必要はないよ」
「……はっ。申し訳ありません」
「謝ることでもない」
策には冷徹に見える周瑜が、江陵全体の利益よりも空海の『思い入れ』を考慮していることに、空海は笑顔を浮かべる。
「ただ、損とは感じさせないようにね。適当に得も与えるように」
「心得ております」
最近の周瑜には悪役笑いがよく似合う。
「お? 公覆、3日ぶりだね」
「空海様。会いとうございました」
「うん、俺もだよ、祭。ここのところ忙しそうだけど、何があったの?」
軽口に優しげな声で真名を呼ばれ返されたことで黄蓋は恥ずかしそうに顔を伏せる。
「は、はい……。それが――」
「やっぱり、司隸方面や南陽からの移住者が多いのかー」
「北方の民が司隸を経由して荊州へと入る例も多いようですな」
「うーん。公覆が忙しいのは新兵の調練をしてるからか」
「ワシが面倒を見ているのは第二層より上だけですが、それでもここ半年で1万は増えました故。今月は落ち着きましたが、また来月には忙しくなりそうです。……現場を任せられる士官が少々足りませんな」
江陵の人口はこの2年で70万人以上増加した。
その前の数年は毎年10万人程度の増加で安定しており、現在はこの間に稼いだ人的資産の余裕を食いつぶしつつある。兵士などはこの2年で12万人から16万人にまで増えているのだ。
増員の影響の直撃を受けているのは第一層を守る第四軍だ。第四軍、最下層の兵は読み書き計算を習えていくらか給金も出る屯田兵として健康な男子の内2割ほどが就く人気の職業となっている。
読み書き計算の試験に合格した者は大半がすぐに第二層へと移住するため、第四軍に残るのは読み書きも出来ない新兵が多い。もちろん、それをまとめるための人員も多数配置されているのだが、まとめられる側の新兵がたった2年で5割も増えていてはそれも無理が出てくる。
「あんまりやりたくなかったけど、警邏の方から予備兵を引き上げるべきか」
ある程度の訓練を積んだ兵士を積極的に街の警邏隊へと配置転換していたのは、こういう時のためでもある。しかし、人口そのものが増加している状態にあって、警邏隊からベテランを引き抜き過ぎるのも不利益が大きい。
バランス取りは孔明と周瑜に任せようと、空海は丸投げを決める。
「ワシの力不足で……申し訳ございません」
「公覆の力不足で新兵が半年に1万も増えるなら、あと2年は力不足でいいよ?」
実際、大きすぎる江陵に対して、兵数は少しばかり足りていない。正確に言えば、街の防衛に回しているだけで使い切ってしまい、自由に動かせる兵がほぼいないのだ。
賊退治などのたびに警邏隊などから特別編成の部隊を防衛に当てるなどしているが、人手不足の解消には人手を増やすのが最も効果的であることは疑いようがない。
新兵の急激な増加は一時的には苦しいものの、長期的には江陵を助けることになる。
「はははっ――空海様、からかわないでくだされ」
「それなら、俺が疑わないお前の力を、お前自身が卑下するなよ」
「えっ……あぁ……うぅぅ」
何も知らずにこれを見て、彼女が黄蓋だと気付ける者はいないだろう。
真っ赤になって悶えている今の姿は、ただの美少女戦士である。
◇◇◇◇
襄陽で劉表の
上座の劉表に大勢の参加者が挨拶のため群がる中、何事かを耳打ちされた劉表が席を立ち、広間の入り口へと向かう。
『空海元帥様、御出座』
途端に、全ての人間の関心が入り口へと向く。
元帥は京兆尹から貨幣製造、大司農卿から貨幣管理と塩鉄の専売権を奪って創設された最新の二品官だ。非常設とはいえ劉表の持つ車騎将軍と並ぶ高官であり、大陸においての地位は車騎将軍のそれを上回るとさえ目される。
江陵周辺県内のみという最も狭い範囲で幕府を開く権限を持ち、独自の税制、刑罰、県内で三品官相当官までの任命権、朝廷から命じられる人事の拒否権、その他強大な権限は一つの朝廷とすら言われるほどだ。
荊州牧にして車騎将軍の劉表に加え、十常侍、大将軍らが官位の創設に尽力し、権益を奪われるはずの京兆尹や大司農卿、果ては帝までもが名指しで許可を出したことから、賄賂として十億銭単位の金が動いたのは確実と見られている。
両開きの扉が開き、その向こう側が見えてくる。
現れたのは白の着物に青い羽織をしたチビ――空海と、3人の
少女の一人は元帥府付き中将、黄蓋。朝廷からも三品官の江北将軍の地位を与えられている高官だ。
もう一人も同じく中将、黄忠。黄蓋と同じく三品官の江南将軍の地位にあり、二黄の片割れでもある。
最後の一人は元帥府付き軍師の周瑜。官位は二黄と同じく三品官だが、江陵の政は実質この周瑜が取り仕切っていると周囲からは見られている。
つまり文化の中心地から来た高級官僚で未婚の美少女3人(とお付きの上官)である。
会場の男たちの背筋はいつの間にか伸び、朗らかに笑ったり目を細めて口を結んだりと各々キメ顔で上下左右のキメ角度を維持しつつ、適切な距離と角度から少女らに接近しようと最適な位置を測り始めた。
この時代の男は肉食系が多いのである。
そんな中、身の丈8尺余り(180㎝以上)もある大男が
「久しぶりだな」
「お、劉景升、お前また背が伸びたのか?」
「そういう空海はだいぶ縮んだようだな?」
「コイツ返しが上手くなってやがる……!」
10年ほど前には「背のことは言うな」と怒ったり落ち込んだりしていた劉表だが、毎年のように言われていれば流石に耐性が付くし対策を考えつく。
「あ、これ、お土産の酒な」
「公良酒キタ! コレで勝つる!」
「あと、車騎将軍就任祝いの時は来なかったから、その分と合わせて俺が選んだ美味しい茶葉と、焼き菓子と、良い感じの茶器一式と、この茶器の製法を記した指南書」
さりげなく出された茶器の製法指南書に、周囲にどよめきが広がる。
茶器や食器などにしても、江陵産のものは大半が高級品の代名詞なのだ。その製法ともなれば、そのまま皇帝へ献上するだけでも閣僚クラスの地位が望めるだろう。
「また茶葉か。前にもらったものを飲んで以来、他の茶葉が美味しくなくて……このままでは江陵以外の茶が飲めなくなってしまうぞ」
「だったら飲めばいいだろ! 江陵のお茶を」
「うむ、まぁそうなんだがな。ああ、すぐに煎れさせよう」
「ははは。俺に合わせなくてもいい。お前は酒が飲みたいんだろ?」
「hai!!」
和やかに話す二人はすぐに人の群れに飲み込まれた。美少女に群がる男の群れに。
「そういえば、染色技術の流布についてだが」
「この前持って来させたヤツか。もう献上したのか?」
「ああ、だが一色だけ献上を取りやめたので、知らせるつもりでいたのだ」
「ん? そういえばうちの連中も青は俺の色だから使わせるなとか言ってたな」
黄忠や周泰らの主張である。管理者たちも良い表情はしていなかったが、別に反対もしていなかった。ちなみに軍師たちは今の朝廷を見ればむしろ積極的に広めているし、気にしなくて良いという立場を取った。
「そうではなく、黒が駄目なのだ」
「黒か。なぜに?」
「朝廷は、劉家は火徳の家なのだ。水を意味する黒の染料を広く流布することは禁じられる可能性がある」
五行相剋に基づく水剋火において水を表す黒や北は、それぞれ火を表す赤や南の徳性を打ち消してしまうという考え方だ。
海を表すのも水であり、空海が火で表される漢王朝を打倒する、という天の御遣い説の根拠の一つにもなっている。
「ああ、五行かー、なるほど。わかった。江陵でも注意させよう」
「うむ。頼んだぞ、空海」
「ということは、広めて良いのは赤と青と黄色だけ?」
「そういうことになるな。赤はめでたい席に使って欲しい。劉家の色だからな」
「あ、この部屋真っ赤なのそのせいなの。俺青いけどいいの?」
「木生火。空海の青は赤の劉家の繁栄を支えてくれるものだと確信している」
木を表す緑は青とされることもある。そして、木は燃えて火を生むことから、青い羽織を纏う空海は今の劉表を生み出した原動力なのであると、劉表自身が感じていた。
「ん。劉家は知らないが、劉家を含めたお前たちの繁栄は江陵にとっても利になる」
具体的には周辺文明の進歩による文化水準の向上が見込めるのだ。劉表は、江陵の発明品を名士たちに認めさせたり広めたりしている。上手いこと言って儒学に準拠しているとお墨付きを与えることすらある。
「そして江陵の繁栄は我らにとっても利になる。この関係を続けていきたいものだ」
「そうだな。そのためにはまず……」
空海は視線を背後の男の群れに向ける。美少女に群がる男達が主催と主賓に尻を向けていた。
「……そうだな。はぁ……。――貴様ら席に戻らんかァ!!!」
蔡瑁の親類として祝賀会に参加した張允曰く「ここ10年で一番怖かった」とか。荊州幹部たちが並んで正座している姿は、何かの儀式を思わせる。
その後の食事会では、男たちの囲みから逃れた黄忠と黄蓋と周瑜が文字通り空海に密着してため、周囲に壮絶な歯ぎしりの音が響いた。
江陵の女子には肉食系が多いのである。
「まぁ俺のことは気にせず飲んでくれ」
「酌をしてくれてもいいんじゃよ?(チラッ」
「空海様、あーん」「空海様お茶をどうぞ」「空海様こちらの焼き物など絶品ですぞ」
「しくしくしくしく」
「……すまん、泣くな、
「しくしくしくしく」
「お前が泣いてると、密着されるんだが」
「ギリギリギリギリ」
「だからって歯ぎしりはやめろよ……ますます密着される」
「ギリギリギリギリギリギリギリギリ」『ギリギリギリギリギリギリギリギリ』
「うわぁ増えた……」
なお、会場の半数くらいは女性である。江陵の3人組が必要以上に空海にくっつくのは彼女たちを牽制する意味であることを、空海は知らない。
「お前たち、そろそろ許してやれって……」
時と場所は変わり、翌日の荊州運営に関する大会議の場。
江陵の三人娘はまだ空海にくっついていた。
他の参加者を代表して劉表が声をかける。
「そなたら、真面目な話し合いをしようとしてる横でキャッキャウフフされる奴の気持ち考えたことありますか? マジで死にたくなるんでやめてもらえませんかねぇ……?」
「わかってる。今――ひぃ! 顔色悪過ぎるッ! すいまえんでした!」
「むぅ、残念じゃな」「あらあら、ごめんなさい」「仕方がありませんね」
「え!? 劉景升の肌が年を経た大木みたいな色になってるのは放置!?」
「よーし始めるぞー」
「お前もそれでいいの!?」
「江陵が、南陽の民をさらっている?」
「南陽から逃げ出した民が駆け込んできてるんだよ。襄陽にも入ってるだろうが」
南陽の文官からの訴えに劉表が疑問を示し、空海が呆れたように説明する。
劉表が頷いて襄陽の文官たちにも視線を向けた。
「確かに、襄陽でも流民が増えているな」
「江陵としましては、南陽側が希望するのなら送り返しても良いですし、西陵に送っても構いませんぞ」
「アイツら身一つで江陵に来てるから、こっちがやってる食料やら宿やらの補償だけでも毎月1億銭は消えてるんだぞ」
「江陵に受け入れてからは我らの負担も減りましたが。可能であればこちらが受け持った負担分の費用を請求したい所ですな」
周瑜と空海は、逆に南陽の姿勢を劉表に訴える。いくら江陵に年間50億銭を越える税収があるのだとしても、社会保障費に十数億銭も出して平気というわけではない。
最も負担の大きかったひと月を例に挙げて現状を伝えていないのは故意なのだが。
南陽の文官が慌てて声を上げた。
「劉将軍! 彼らは南陽の民をさらったことを有耶無耶にするつもりですぞ!」
「少しは考えてものを言わんか。江陵には誘拐などせずとも人が集まっているぞ」
「むしろ最近は集まりすぎて困ってる。出来れば月2万人程度にまで抑えたいんだ。襄陽の方で月1万人ほど引き取ってくれないか?」
「む……無茶を言うな」
襄陽には現在、100万に近い人が住む。都市の規模を考えれば、年に5万も受け入れられれば上等だ。近隣の街を全て合算しても年10万人は不可能だろう。
月に3万、年間30万人以上を受け入れてなお破綻していない江陵が異常なのだ。
「じゃあ民が流出してるという南陽が引き取ってくれるか?」
「くくっ、それは良い案だな」
「こ、困ります。我らは民がさらわれた分、失った税について補填を求めているだけで」
「馬鹿者が!!」
劉表が大声を上げ、南陽の文官はビクリと縮こまった。
重税と圧政、そして浪費。南陽の実情を知る荊州幹部たちは蔑みの目で見下ろす。
小さく「たかりが」と罵る声さえ漏れた。
「よいか……そもそも、南陽を出た民が『さらわれた』と言うのなら、私にもその補填を求めるべきではないのか?」
「りゅ、劉将軍……」
「そなたの論理は破綻しておる。南陽には追って沙汰を伝える。そなたは先んじて南陽に戻り、太守に『おいたが過ぎるなら仕置きを下す』と伝えよ」
劉表が手を振ると、左右から現れた兵士たちが南陽文官を会場の外へと連れ出した。
騒然とする会場を尻目に、空海が劉表に尋ねる。
「仕置きとはなんだ? まるで子供を叱るようだったが」
「子供だ」
「……南陽太守が?」
「そうだ。袁南陽太守は、まだ子供なのだ」
劉表は空海を見ず、扉を見つめたまま告げた。
「じゃあ、あの文官は、子供の考えた恐喝方法を、命がけで実行したのか」
「考えたのは補佐官の方だろうが……大筋ではその理解で良いだろう」
彼が去った扉を見る。事情を知る何割かの人間は、おそらく空海と同じ気持ちでそれを見ているのだろう。
「公瑾」
「はっ」
「南陽から逃れてきた者の中に文官がいたら」
「直ちに確認させましょう」
「……まぁ、嫌がらせくらいはしておくか」
しばらくして、南陽の文官が減って江陵の文官が少し増員したのだとか。
◇◇◇◇
「天和姉さん、ちぃ姉さん、この本……凄いわ!」
没ネタ
「こんなの茶葉じゃないわ! 緑色の宝石よ!!」「だったら飾ればいいだろ!」
江陵女子が若いのは神様パワーを受けているから。水鏡先生も若い。神様パワーを与えていると、大体全盛期の頃の肉体に近づくんです。
孔明たちは少しだけ大人の女性スタイルに。栄養バランスに優れた食事と適度な運動は健康な肉体をはぐくんでいます。