空海は頷いて立ち上がる。
「幼平」
「はい!」
突如現れたNINJA周泰に、江陵組以外の全員が目をむく。
「これから賊の拠点に征く。こちらから向かって正面以外の出入り口を潰し、兵を率いて周辺を固め、一匹も逃がすな」
「わかりました!」
「空海様っ! そのような兵の使い方は賛同致しかねます!」
『空海!?』
周瑜が上げた声に3倍の声が上がる。今まで話していた相手が、国家で一、二位を争う実力者にして有名人だと言われれば当然の反応かもしれない。
「護衛を残してここの兵も連れて行っていい。行け、幼平」
「はいっ!」「空海様!」
周瑜の声を無視して周泰が消える。白い服の少女だけが一瞬だけ目で追ったが、すぐに見失って視線を戻す。
「公瑾、よく見てみろ。今はこれが最適だ」
空海はそう言い切って、闘志をむき出しにしている武人たちに顔を向けて笑う。
「漢升、公覆。好きにやれ」
「お任せください」「腕が鳴りますのぉ」
枷を外された二人が嗤う。
それを見てただ一人、白い服の少女が怯えたように数歩後ずさった。
「星?」「星さん?」
「い、いや、なんでもない」
少女は、槍を握り直して黄蓋と黄忠を正面に見据える。
「……あなた方が、かの二黄か」
「どの二黄かは知らんが。まぁ、自己紹介くらいはしておくかの。儂が黄公覆じゃ」
「私は黄漢升ですわ」
「そして俺が璃々の保護者だオウフ」
空海は抱き上げていた璃々にひっぱたかれる。
空海は睨み付ける璃々が怖いので、近くで吹き出した少女に目を向けた。
「あ。お前も参加するよね? 白い武人のお嬢さん」
「無論。今立たねば武人として生きてきた意味がございませぬ」
「ふん。足を引っ張るでないぞ」「期待しているわね」
「よろしい。なら後始末は任せろ。好きに暴れていいぞ」
「――ふっ、はははは! これはこれは。理想の上司ですな。お二方が羨ましい」
「ドヤぁオウフ」
空海は必要以上に胸を張ってまたしても璃々にひっぱたかれる。
黄蓋と黄忠は誇らしげだ。
白い服の少女はニヤニヤと笑い、眼鏡の少女と亜麻色の髪の少女は江陵組を量るように見ている。
ただ一人、周瑜だけが苦々しい表情のままだ。
「空海様、私はまだ納得しておりません」
「んー、だからさ、ここは武人に任せればいいんだよ。正面から突き破って
「く、空海様っ!」
『?』
天網恢々疎にして漏らさず、とは『悪人には必ず報いがある』という意味の言葉で、周瑜が最も好きな黄蓋の台詞である。周瑜本人を除けば空海しか知らない秘密だ。
当の黄蓋にとっては、いつも通りの心構えで放った言葉であるため、特に記憶に残っているわけではないのだが。
最も好きな台詞をバラされた(と思っている)周瑜は真っ赤である。黄蓋をチラリと見るが不思議そうな顔をされて脱力する。
「お前は足下と周りを固めてやれ。今はそれで十分だし、それ以上はやりすぎだ」
「う……うぅぅぅ……わかりました……」
「よし。勝ったッ! 第三部オウフ」
璃々は的確にツッコミを入れてくる。今の空海は自然に不自然なポーズを決めることも許されない。
◇◇◇◇
「よろしかったのですか?」
眼鏡の少女が空海に尋ねる。黄蓋と黄忠、白い服の少女を送り出したことを言っているのだろう。
「敗残兵の千や万程度があいつらをどうにか出来るわけないからね」
とはいえ、本当に3人で送り出したわけではない。矢の補充や倒した相手の片付け、その他諸々のフォローを行うために数十人が後ろから支えている。
「あの白いお嬢さんについても大丈夫だよ。万一の時は幼平が拾って連れてきてくれる」
「いえ、星がどうこうなるということは、心配していないのですが……」
眼鏡をいじりながら恥ずかしそうにしている様子に、空海は笑う。
「稟ちゃんはですねー、策もなしに敵に突撃させることを良しとした、空海さんの態度を気にしてるのだと思うのですよー」
亜麻色の髪の少女が眠そうな表情で補足する。
「んー。お前たち策士は、うちの公瑾もそうだが、将兵を数として見ることに固執していて、あいつらが人だということを忘れがちだ」
「人であること? 忘れては……いえ、私の言っている人とは違うのですか?」
「つまりー、人なのだから、気分で実力が変わることもあると仰りたいのですかー?」
空海は理解の早い二人に頷き、続ける。
「人だから、実力が気分で増減する、環境で上下する、状況で左右する。後ろにいる者、前を進む者、隣に立つ者、下から支える者、上で率いる者で何もかも変わる」
「なるほどー。天地人ですかー」
眠そうな少女が相づちを打つが、眼鏡の少女は納得していないような表情だ。
「あとな、相手の実力も評価し直せ。お前たちが不得意な、敵を減らす考えだ」
「敵を減らす?」
「うん。今言った天地人もそうだし、気の充溢した今の漢升や公覆の正面に立って、お前たちが想定した実力を十全に発揮出来る者があの中に何人いるのか、とか。本当に本当に怖いんだぞ?」
空海は、江陵の女子が肉食獣のように笑い出した時には、ちゃんと正座して判決を待つようにしている。逃げると能面のような表情で何時間も追いかけ回されたりするのだ。
意味も無くシリアス顔をさらす空海に対して、眼鏡委員長は真剣な様子である。
「しかし、それは相手の過小評価というものに」
「現状が過大評価だと言っているんだ。今ここに居座る賊は、頴川での討伐で一番最初に逃げ出したヤツらだぞ」
「……確かに、抵抗していたものは南陽へと押し出されましたが」
「南陽へ押し出される前に逃げた人たちは、汝南にも向かったようですねー」
「それに、だ」
空海がニヤリと笑って二人を見る。
「本物の策士が自らの命を策に組み込むように、今あいつらが振るおうとしている武にはあいつらの命が掛かっている。お前らだって、全霊を注いだ策に自分の死を組み込んだのに、それが過分な配慮から十全に実行されなかったなどとなったら……わかるだろ?」
「ぐっ……そうならぬようにするのが策士だ、と言いたいのに……! 理解してしまった自分が憎いっ」
「ふふふ。そんなことになったら風は化けて出てしまいますねー」
悔しそうにする眼鏡の少女と飄々と笑う亜麻色の髪の少女を見て、空海も笑う。
「だからこれは、あいつらが自分の命を組み込んだ突撃策なんだよ。策士なら、その辺も織り込んでみろ」
「空海様にそのように言われては、私としても精進するしかなくなってしまいましたな」
「ぉ、公瑾」
討伐の様子を見るために廃城に赴いていた周瑜が戻ってきた。
「――ことに致しました」
「そうか」
空海は、少し離れたところで遠目に討伐の様子を見ていた璃々を連れ戻す。
「璃々。賊の頭の首は公覆が取ったようだ」
「……うん」
「母の遺体は、他の者達と一緒に弔ってやることになった。日の当たる場所に墓を作ってやろう」
賊の拠点には多数の遺体があったが、どれも状態が酷かったようだった。
一つ一つ璃々に見せて確認させるわけにもいかず、賊の死体と分けて被害者たちだけでまとめて弔うことにした。
「お前の父の墓だが――」
「おかーさんのよこがいい」
「母
「うん」
璃々は気丈に振る舞っている。悲しそうな顔をして、空海の肩に顔を埋めることもあるが、それでも泣き声を漏らさずにしっかりと末路を見ている。
賊たちの末路を見届けるのは、空海との約束である。仇を願ったのだから、その願いの結末は見せてあげるべきだと空海は思ったのだった。
そうして、賊の討伐はその日の内に決着した。
翌朝。
「20年前、この畑を作る時にアイツが死んだら譲ると――」
「ウチの爺さまが土地を拓くのを手伝ってたんだから、半分はウチに――」
「俺んちが隣にあんだから畑の面倒を見るのも――」
「娘は子供のいるところが預かった方がいいに決まって――」
「お前んとこは去年子供を亡くしたんだから娘を引き取っても――」
「うちにゃ男の子がいるから、これ以上は――」
「お前たち」
話し合いを見ていた空海が声を上げる。芯に響くような声色だ。白熱していた村人たちも、今にも飛び出しそうだった武人たちも、顔をゆがめていた軍師たちも、全てが空海に注目する。
「この話し合いは璃々の居ない場所でやった方がいいだろう。璃々は連れて行くから、結論が出たら伝えろ」
空海は言うだけ言って、うつむいて震える璃々を抱き上げ立ち去る。
「空海殿! 何故あんなものを許しているのです! あれは、あんまりだ!」
星と呼ばれる白い服の少女が、ビワ畑まで来ていた空海に追いつき、食ってかかる。
「お前が暴れていたら、一瞬であいつらを張り倒せたな」
空海が笑って見つめ返す。星は言葉に詰まり、わかっているなら何故こちらを止めるような言動を、と空海を睨み付ける。
「璃々、あの場所で暴れて欲しかったか?」
星が凍ったように固まった。
璃々は空海の肩に顔を埋めたまま、それでも首を振って拒絶する。
星は悔しそうな、悲しそうな表情となるが、拳を握って胸に詰まった言葉を振り絞る。
「……すまな、かった。私の、勝手だった」
璃々は首を振る。
「璃々、彼女も、お前のために怒っていたんだ。わかるな?」
頷く。
「許してあげるね?」
もう一度頷く。
空海は璃々の背中を撫で、今にも泣き出しそうな星を見る。
「璃々の
星はかぶりを振って大きく息を吐く。
「ままなりませんな」
「そうだね」
さて、と前置きし、空海は璃々を地面に降ろす。そしてビワを一つ、もいで与えた。
「璃々。ビワというのは、丁寧に世話をしなければ、すぐ増える上にすぐ枯れる」
「うん」
「この畑は良いビワ畑だった」
「……うん」
「仮にお前の手で世話をしたとしても、この畑はすぐに荒れてしまうだろう。あの者たちでは、もっと酷いことになるかもしれない」
璃々が耐えきれずに嗚咽を漏らす。空海の着物を掴み、それでも顔を上げている。
空海は慰めることもせず、ただその横に立って続ける。
「璃々、この景色は見納めだ。よく見ておけ」
二人を見ていた星が、畑に背を向けて歩き出す。
今はただ、離れたかったのだ。あの喧噪と、泣き声から。
璃々と3人組を誘って朝昼を兼ねた遅めの食事を取り、食事と陣の片付けが進んでいく中で空海が切り出した。
「璃々。俺たちはこれから、黄巾賊の本拠を潰しに征く」
「こうきんぞく?」『!』
璃々が不思議そうな顔をして空海を見上げ、3人組の表情が変わる。
「お前の父と母を奪った賊の、親玉の、そのまた親玉みたいなヤツらだな」
「我らは元々、黄巾賊の討伐のために冀州へと向かっていたのだ」
「空海様への不敬から始まったが……璃々の両親のことも含め、許しておけぬ」
「その通りですわ!」
蒼天が死んでることに始まり、馬騰への過剰な負担、南陽への襲撃、難民による江陵の大打撃、そして璃々の両親のこと。
「最近は黄巾賊に対する恨み辛みが増えていくばかりだなー?」
「おいて来た雛里がいきり立って全軍を出撃させないよう、今回の連絡内容にはずいぶん気を遣いました……」
江陵の将兵がいかに優れていたか証明されたとか、ただ一人もかけることなく圧勝したとか、これで潁川郡の賊は息の根を止めたとか色々誇張し、その上であれこれとやらせて軍は動かすなとか書いておいた。忙殺させた上に動きを縛らなければ不安をぬぐうことも出来なかったのだ。
「いっそ全軍でたたきつぶしてやればいいんじゃ」
「その通りですっ。江陵ならば朝廷が動く前に全て終わらせられます!」
これが江陵の民の総意と言って良いのだから。
ただ、周瑜は頭痛を耐えるように額を抑える。
「あなた方は……決起の事情が見えぬ以上、その根を断つのは簡単ではありません。それに15万人の将兵を動かすのに一体いくら掛かると思っておられるのか」
『15万!?』
聞き耳を立てていた3人組が思わず声を上げる。
今回の黄巾賊討伐のために朝廷が動かした兵士の総数が約10万人だ。しかも、実際に遠征を行っているのは7万程度でしかない。各地で集めた義勇兵を含めてようやく8万を超える程度である。
一応、黄巾賊の総数は現在わかっているだけで30万人を超える。超えるが……江陵の兵ならば2万もいれば簡単に勝てるだろう。町内の囲碁好き老人たちの相手にプロ棋士が徒党を組んでやってくるようなものだ。
「え。ひと月で1億銭くらいだから何とでもなるって雛里ちゃんが」
『1億銭!?』
「は?」
「儂も同じことを言われたぞ」「俺もー」
「ひ、雛里ぃいいいい!!!」
国家予算が年間200億銭程度なのだ。ひと月1億銭もの額を、しかも臨時に出費してなんとでもなると言ってしまえるなど、一都市の予算としてはふざけた規模の話である。
なお、江陵組は給金が毎月10万銭を超えている上に、空海の周りでは5億銭10億銭と言った数字が飛び交うので感覚が麻痺してしまっている。
漢の一般農家の収入は年6千銭相当である。江陵でも一般人の収入は年間5万銭程度が上限であり、それ以上を稼ぐ一般人は両手で数えられる程度の数しかいない。
一方で盛大にツッコミを入れた周瑜は、自身の見込みが甘かったことを悟っていた。
鳳統はそういった根回しが苦手であるため、孔明たち
黄忠、黄蓋、空海の周囲などは鳳統のことがなくても注意を払っている場所である。周瑜に気付かれずに全員に接触しているところを見るに、他の部署への根回しなども盛大に行われている可能性が高い。
身内に対する諜報を真剣に考えなくてはならないなど頭の痛い問題である。
普段は孔明や鳳統、周瑜の意見が根本から一致することは滅多にないため、三すくみになって有利も不利もないのだが、今回は周瑜と他二人の意見が対立した。しかも、周瑜も積極的に対立する意見ではなかったため、二人の正面には立たなかったのだ。
二人が独自に軍を動かしたせいで南陽を火の海にされたりしてはたまらない。ここからは本気で鳳統たちの妨害を考えなくてはならないと周瑜は考え、とりあえずは――
「雛里が何か言い出したら止めてくださいとお願いしてあったはずですね?」
「はい。空海ごめんなさい」
とりあえずは空海を正座させることにした。
「じゃあ、お前は黄巾賊の親玉を見に行きたいんだな?」
「うん。なんでわるいことするのか、ききたい」
空海の言葉に璃々がしっかりと頷く。
「よしわかった、なら俺が首謀者に会わせてやろう」
「空海様!? 貴方はまた、何をおっしゃるのです!」
軽く告げられたとんでもない内容に周瑜が声を上げた。空海は軽い調子で返す。
「首謀者が生きている間に辿り着いて、本陣以外を適当に潰して、本陣を囲んで楚歌でも歌ってやれば会えるだろ」
「えっ、い、いいえ。籠城する相手ではそう簡単には……」
「なら門を開いて本営に切り込めばいいだろ」
周瑜はそれを「不可能だ」と言いたいのに、昨日の討伐の感触から、出来そうな方法がいくつか浮かんでしまう。しかし、そのどれもが空海の安全に不安のある方法であり、周瑜には認められるものではなかった。
「く、空海様。どうかご自愛ください」
「出来る出来ないの問題じゃなくて、やる、やらないなんだろ? なら、やれ」
それでも迷う周瑜に、空海は笑みを消す。
「公瑾。俺がやると決めた。お前は実行すれば良い」
「わっ、わかりました……」
周瑜は赤くした頬を見られないように頭を深く下げる。空海はお茶で唇を湿らせて、口を開いた。
「方法は任せる。全軍動かしてもいいからね」
「動かしません。雛里に毒されませぬように」
一転してげんなりした様子で答える周瑜に、周囲から笑いが漏れる。
「おにーさん、ちょっとよろしいですか?」
風と呼ばれる少女がのんびりと告げる。
「お兄さんという呼ばれ方は珍しいな。なんだ?」
「賊の討伐に、風たちもご一緒させて貰えませんかー?」
「いいぞ。荷馬車か馬があるだろうから、それに乗れ」
一瞬の迷いもなく許可した空海に、江陵組から非難の視線が集まる。
「空海様、身元もわからぬ者を意味も無く同行させるのは……」
「じゃあ仕事を与えよう! お前たちには同行中は璃々の護衛と世話を任せる」
3人組は顔を見合わせる。璃々のことなど言われずとも守るし、そもそも江陵軍の中にいれば襲われるということもないだろう。世話についても、徒歩でないのならその苦労は半減だ。空海は、有名無実の仕事を与えたので同行を許す、と言ったのだ。
「あと、名乗れ」
その空海の言葉に最初に反応したのは、星だった。
「姓は
「おお、格好良い……けど、竜? りゅう~?」
空海のふざけた態度に趙雲はこめかみをぴくぴくと引きつらせる。
「……なにか、文句がございますかな?」
「竜っていうより、蝶々じゃないか? なぁ、璃々」
「んなっ」
「うんーかわいいー」
趙雲は顔を僅かに赤くし、拗ねたようにそっぽを向いて席に着く。
「し、知りませぬっ」
「はっはっは……?」
江陵女子が笑顔で垂れ流す雰囲気が恐ろしくなった空海である。
続いて稟が頭を下げる。
「私は
「よし許す! なんか頭の良さそうな名前だ郭奉孝。よろしくね」
「は、はい」
眼鏡をいじって照れる郭嘉に、空海は自身に再び危険が迫っていることを悟る。咳払いをして最後の一人を促す。
「風は
「うん。こっちもよろしく」
空海の返事に対し、程立の頭に乗った人形が動く。
「おうおう兄さん、よろしくな」
「キェェェェェェアァァァァァァ本体がシャァベッタァァァァァァァ!!」
空海は比較的乱暴に鎮圧された。
◇◇◇◇
江陵軍は
空海は今、郭嘉、程立、趙雲ら3人が乗る荷馬車に乗り込み、璃々を抱き上げて歓談中である。
「陽武からは船で移動だよ」
「おふねのるのはじめて!」
璃々が元気よく笑う。村を出たばかりの今は空元気のようだが、空海に抱き上げられることは気に入っているようだった。
「陽武ということは、官渡で一息に渡るのでしょうか」
「陳留の北東にある、東郡の
「なるほど。
郭嘉は考え事のたびに眼鏡をいじっている。癖なのだろう。
「風たちは、東郡に大規模な黄巾賊が現れていると聞いていたのですがー」
「
「……ぐぅ」
「寝るな!」
程立が会話中に寝息を立て、郭嘉が勢いよく突っ込む。素早く的確なツッコミに、璃々も笑い声を上げる。
「ふむ。では音に聞く陳留刺史の姿は拝めぬのですか」
「東郡へ遠征に出ていた
「ほぅ。ならば広宗で会えるかもしれませんな」
趙雲の言葉に空海がニヤリと笑う。
「どうかなー? ウチの公瑾はなかなか負けず嫌いらしくてね? 曹操より先に広宗に到着して、曹操の到着より先に制圧しちゃうつもりかも」
「なっ!?」「なんと……」
「東武陽から広宗に向かったとすれば250里ほどですがー、ここから広宗まで、陽武と聊城を経由すると千里を超えちゃうと思うのですよ?」
郭嘉が声を上げるほど驚愕し、趙雲も驚きを顕わにする。そして、程立が真偽を確認しようと空海に水を向けた。
「陽武から広宗までで1100里(540㎞)だったかな。そこは3日で行けるらしいぞ」
「ふっ、不可能です!」
郭嘉が大声を上げる。
後ろで周瑜が勝ち誇ったような笑みを浮かべていることにも気がつかずに。
「私だって、他軍を指揮してそんな用兵が出来るとは思わんな」
「しゅ、周軍師殿」
取り乱したことが恥ずかしいのか郭嘉が縮こまるが、周瑜はそれを見ても当然といった態度で続ける。
「我が江陵の兵は1日300里を進む。陽武から聊城までの700里は船で1日だ」
300里は約125㎞、700里は約290㎞だ。どちらも『行軍を考えなくても』かなり速い移動速度だ。行軍を考えれば普通は2倍から3倍は掛かる。
60㎞離れた土地に行くのに時速120㎞で走って30分だと言うようなものだ。理屈と現実の間に埋めがたい差がある、はずだった。
「そういえば江陵から頴川へ行く時も、他軍なら10日はかかるって言ってたね」
「左様ですな」
周瑜が胸を張って笑う。常識外れの行軍が成功していることが誇らしく、郭嘉が驚く姿が、自身が夢想した曹操のそれと重なって見えたのだ。
「な、何日で頴川入りしたのか、伺っても?」
「3日だよ。あの集落まで4日」
空海までが当たり前のように答えたことで、郭嘉は驚きと引きつった笑いを顔に貼り付けたまま固まった。そこで何かに気がついた趙雲が空海に尋ねる。
「……もしや、陽武へは本日中に?」
「そうだよ。誰も言ってなかった?」
「は、ははは……」
趙雲たちは、黄河のすぐ脇の街から頴川へ、ほとんどまっすぐ向かって8日掛けて移動している。その行程をわずか半日で戻るというのだから笑うしかない。
別の道を通る上に、徒歩の旅人である趙雲たちとは事情が異なるが、行軍というものは本来、軽装の旅人よりも足が遅いものだ。それが常識である。人の噂よりも速く移動する軍など聞いた事がない。
「噂以上、そして想像以上ですねー。そいえば、負けず嫌いと言っておられましたがー、曹操さんとの間に何か確執でもあったのですかー?」
「神速の用兵なんて言われてるから、彼女を見習って素早い行軍をする。みたいなことを言っていた気がするなぁ」
「そのようなところです」
周瑜は否定しない。両軍の動きを理解して初めてわかるような深いところは、わかる者だけがわかれば良いと考えていた。部外者のいる前でわざわざ口にすることでもない。
事実、周瑜の言葉の裏を読んだであろう郭嘉と程立だけが鋭い目つきとなる。
裏を読むよりも気になったことがあった趙雲が先に口を開いた。
「そう言えば空海殿。私、仕えるべき主を探して諸国を巡り歩いているのですが」
「蝶々のように?」
「そ、それはやめてくだされ!」
「ひらひらー」
「こらっ! 璃々まで……!」
空海の言葉を赤くなって否定する趙雲に、璃々と空海は笑顔を向ける。趙雲は、それを見て何も言えなくなり、唇を尖らせて黙り込む。
「だから、曹操を気にしていたんだね。何が知りたいの?」
「……諸侯の話を」
反射的に漏れそうになった悪態を飲み込み、趙雲は気になっていたことを聞く。事態の中心人物の一人に聞けば、わかることもあると考えた。
「南陽の方に来ていた朱儁は、賊の徹底殲滅を訴えて宛城の外を浄化してるらしい。
皇甫嵩は戦功があるものの、上奏文がやたら鬱陶しいって宦官が気にしてるらしい。
盧植は宦官との間に何かあったらしくて、事実と異なった報告をされて左遷された。
董卓は騎兵を中心に持って来たのに城の防衛と城攻めを命じられて、そろそろ涙目。
曹操は本拠の隣の頴川で起きた乱を南に押しつけて自分たちは東郡の平定に行った」
さりげなく高官しか知り得ない情報を混ぜている空海の言葉に、3人組はそれぞれ強い興味を示しているようだ。
「宦官は何を考えているのか」
「出世だろうね」
「北に向かっていると言う皇甫嵩さんは盧植さんの交代要員ですかー」
「盧植の交代要員は董卓だけど、実質、皇甫嵩への繋ぎかな」
「曹操殿の『神速の用兵』は頴川への派兵のことでしょうか?」
「頴川へ派兵して戻って東郡へ出兵するまで10日くらいでやったらしいよ」
「ほぉ」「やりますねー」「なるほど……」
それぞれ、世情を考えたり、政治を考えたり、戦術を考えたりしているようだ。
空海は抱き上げた璃々に笑顔を向ける。
「璃々は何か気になることはある?」
「うん! おふねに、おさかなさんいる?」
「ふーむ。陽武の船は商人に預けているものだから、魚の取り扱いもあるかもしれない」
「ほんとに!?」
「残念だけど食べるための魚だよ。泳いでる姿は見られないと思うぞ」
空海と璃々が、ドジョウにヒゲがあってぬるぬるしているとかコイは30年生きるとか話をしている横で、程立と郭嘉が頷いている。
「商人に船を貸し出すことで死蔵を防ぎ、有事には徴発して使用するわけですね」
「そですけどー、空海さんは黄河を渡るような有事を想定していたのでしょうかー」
「上流の長安には江陵派の大物がいるではないですか」
「馬騰さんですねー。それなら騎馬を積めるようにしてあるのも――」
ウナギ料理は美味しいぞー。じゃあ璃々も食べるー。支払いはまかせろー。やめて!
空海が璃々を抱き上げ、その横で趙雲がニコニコと笑っている姿はまるで家族のようであり、後に、嫉妬に狂った江陵組によって璃々が奪い合われることは避けられない運命であった。
「お久しぶりでございます、空海様」
「うん。久しぶり。そしてこれ言うの2回目だと思うんだけど、顔を上げろ。俺はお前のやや寂しい後頭部を見て話すの嫌だからね」
船着き場に、身なりの良い商人たちが土下座スタイルで並んでいる姿は異様だ。
江陵の外で活動する江陵商人たちは、江陵で教育を受け、江陵で商売を学び、江陵から資金や商売道具などを借り受け、江陵によって整備された商人のネットワークで繋がりを保つため、江陵に頭が上がらない。
しかも、それだけの支援がありながら江陵から課される条件は、まっとうな商売を行うこと以外には精々「お金をあまり貯め込まずによく使うようにすること」くらいである。
そしてもう一つ、商人たちが頭を上げられない最大の理由が空海にある。
江陵の外に出ている商人たちの大半が江陵内にも店を持って江陵の外の品を扱っているのだが、空海はこの店を頻繁に巡って家族の様子を気にかけているのである。
長い者では1年以上も江陵に帰らない商人たち。江陵に残る彼らの家族から届く手紙には、空海の心遣いに感謝する言葉が書き連ねられている。その話題が商人のネットワークで共有されて広まり、感心と感謝を深めることになる。
空海は苦笑しながら続ける。
「家族のことなら本人たちから直接礼を言われている。重ねての礼など不要だよ」
それでもなお、商人たちは顔を上げられない。年に何度も会わない自分、そして家族の一人ひとりを記憶して気にかけてくれる空海への信仰は篤い。
見かねた黄蓋が口を出す。
「面を上げよ。空海様の手を煩わせるな」
「そうだぞ。あまりしつこいと、江陵に帰ってからお前たちの家族に『頭を上げてくれなくて困った』って伝えるからな? ていうかもう伝えることにした」
「それは勘弁してください! 母ちゃんに怒られます!」
焦って頭を上げた一人の商人に周りから笑い声が漏れる。それを機に、徐々に皆の頭が上がり始めた。
「今日は魚を食べたいんだ。出来たらウナギ。美味しかったら家族には内緒にしておいてやろう。あと、生きてる魚がいたらこの子に見せたいから、持って来てくれる?」
「畏まりました」「お任せください!」「すぐに準備させましょう」
「荷を上げろー!」「桶だ! 桶を出せ!」「料理長に伝えよう」
一度頭を上げてしまえば、商人という生き物は止まったら死ぬ。威勢良く声を上げて、慌ただしく動き出し、将兵に声をかけ始める。
空海もまた、夕飯を楽しみにしながら船に乗り込んだ。