曹操が合流してから2日目の午前。江陵陣内では皇甫嵩や張遼、曹操らを交えた軍議が執り行われていた。
「では明日からは門の破壊と、早朝の襲撃を追加する」
「お? やっとウチの出番かぁー」
「これまで通り遊撃も行ってもらうが、左右の抑えは曹陳留が行う。左右は包囲の兵数を多く見せるように」
「はっ」
朝夕には兵士を横に広げて旗を多く立て、包囲の兵を実際より多く見せて士気を落とす作戦が繰り返されている。
賊が焦って飛び出してくれば馬で蹂躙し、守っていれば追加で策や攻撃を行う。
「逃げ出す賊も多い。そちらで一時的に受け止め、可能な限り撃滅。以降は指示を待て」
「……はっ」
実際、当初は賊15万人に対して官軍3万程度だった戦いは、既に賊が12万人にまでその数を減らしている。官軍など、逆に4万人にまで数を増やしている。
15万人で攻められれば官軍の兵1人が賊を5人殺さなくてはならない戦いも、2千から3千人ずつの小集団の駆逐なら、近づかれる前に半減し、触れれば蒸発といった戦いになるため、兵力の損耗はほぼゼロだ。
「張文遠は夜明けと共に北に布陣し、賊に川を渡らせぬよう壁となってもらう」
「ん、任せとき」
「馬では夜襲は出来ぬだろうから、夜襲に参加したい者は江陵の陣まで来い」
周瑜が笑いながら告げる。夜襲のために陣まで来る者など張遼しかいないからだ。
張遼に滞在許可を出すのは空海からの要望である。曹操への抑えにもしている。
張遼が笑いながら了解し、周瑜は諸侯の布陣を伝えていく。
「では皇甫中郎の本隊を除いてはこれまで通りに。本隊は正面の城門への攻撃を指揮していただく」
「お言葉ですが……賊たちは既に戦意を失っております。降伏勧告を行うべきです」
「そのための布石ですよ、皇甫中郎。連中も、数で劣って口うるさいだけの我らに降伏したいなどとは思っておりますまい」
実際、周泰を使って探らせている範囲では、未だ熱心に防衛を説いている者たちも多いらしい。身内の犯行を装って排除を行っているが、万に届くかという狂信者たちが相手では焼け石に水だ。
周瑜の説得に対して、叔父の話を持ち出したり儒学がどうとか言い出したり、人道がどうとかこうとかうるさくなってきた皇甫嵩を適当にあしらいつつ、軍議を切り上げる。
「では軍議はこれまで。各自の働きに期待する」
「あれ?」
「む? どうかされましたか、空海様」
黄蓋を伴って陣中をウロウロしていた空海は、曹操陣営から違和感を感じとった。
「今日も夜襲があるよね?」
「そうですな。冥琳からも特に変更があったなどとは聞いておりませぬ」
黄蓋に集まる視線が妙に多いのだ。最初に陣を視察したときに匹敵するほどに。
「曹操軍の兵士たち、妙に浮き足立ってない?」
「……陣中を覗いたときと大差ないように見えますが」
「だよね……あ、郭奉孝、程仲徳、いいところに来た」
璃々を昼寝に連れて行くのは郭嘉たち3人娘に与えられた仕事である。おそらくはその仕事を終えて陣内に出てきたばかりであろう2人を空海が発見した。
「何か御用でしたか、空海様」
「おやおやー、まさかこんなところで風たちを」
「今日も夜襲があるんだけど、曹操陣地の様子おかしくない?」
程立の発言を最後まで許すと、火のない所に煙を立てて社会的にダメージを与えてくるので、空海が積極的に妨害している。空海以外が止めてくれないのだ。
「儂は、陣中を覗いた時と大差ないと思うんじゃが……」
「んー。確かに浮き足立って見えなくもないですねー」
「しかし戦闘前ですし、そういうこともあるのでは?」
「左様ですぞ、空海様。戦闘前というのは気が高ぶるもの」
黄蓋と郭嘉は否定派、程立も違和感を説明できない程度であって、確信にはほど遠い。むしろ、確信に最も近い位置にあったのは空海の心情だった。
「曹操って、そんなものなの?」
『!?』
空海の一言に全員の持つ空気が変わる。先ほどまで感じていた侮りが消え、曹操軍の陣から感じる僅かな違和感に、強い疑問がわき上がる。
「俺の印象だと……こっちを見てる兵の体つきが、細いというか農民っぽいというか」
「……まさか、例の義勇兵か?」
「では、本物の兵士たちは……もしや」
「ひょっとしてー、曹操さんは威嚇の夜襲ではなく、
義勇兵を陣内に招き入れて夜襲の準備を行うフリをさせているために、緊張感のようなものとはかけ離れた視線が黄蓋に、現在は郭嘉や程立にも集まっているのではないか。
そう結論づけてからの黄蓋は早かった。
「明命」
「はっ」
「冥琳に伝えよ。『曹操陣営に動きあり』と」
「了解しました」
天幕の物陰に向けて声をかけて周泰を動かす。
「相変わらず、とんでもない身体能力ですね」
「理屈さえわかってれば半年間鍛えるだけで半分くらいは再現出来るよ」
もう半分を鍛え抜くのに抜群の才能と10年近い歳月が必要であることには触れない。
「ほほー。風も猫さんみたいにぴょんぴょーんと跳んで回りたいものですねー」
「まぁあの娘も猫好きだからな」
「猫は関係無いでしょう……」
空海たちの元に周泰に声をかけるため離れていた黄蓋がやってくる。
「空海様、軍議を開くことになります。一度、戻ることをお勧めしたいんじゃが……」
「いいよ、戻ろうか。お前たちも来る?」
「是非に」「もちろんですー」
軍議に部外者を誘うことに、黄蓋が渋面となる。
「空海様、軍議にあまりよそ者を……」
「江陵軍の最大の優位は、独自性ではなくて練度だ。公覆もそう思うだろ?」
練度というものは、真似したくても真似できるものではない。精々が、目標だ。
長く険しい鍛錬の果てに得た自負を刺激する言葉に、黄蓋は何も言えなくなる。
「――はい」
「……で、軍議に部外者を連れ込んだのですね?」
「はい」
空海は素直に頷く。
「軍事というものは秘密があればあるほど他者から恐れられるものなのです」
「はい」
空海は素直に同意する。
「軍議というものはその秘密を明らかにした上で多く取り扱う場です」
「はい」「はい!」
璃々が真似をして返事をするが、その返事を聞いて周瑜が眉をつり上げるという、空海にとっては非常によろしくない事態になっている。
「今回に関しては事前に予想して手を打ってあった状況であるため、連絡を指示してこの後の行動予定を確認すれば済みますが、そうでない状況もあり得るのです」
「はい」
空海は神妙に頷く。
「今後、誰かを軍議に招きたいという場合には、我々……出来れば私に確認を取るようにしていただきたい」
「はい」
素直な空海をいつまでも一方的に怒るわけにもいかず、周瑜の視線は黄蓋を向く。
「祭殿。どうして空海様を止められなかったのです」
「い、いや、それは……」
「公瑾。えーと、公覆はちゃんと止めてくれたよ。俺が大丈夫だと思っただけで」
「ほう?」
不機嫌そうだった周瑜の顔が笑顔に変わったことで、空海は急に逃げ出したくなった。
「空海様は私のことを余程好いて下さっているようだ……そんなに私の言葉を聞きたいのでしたら、いくらでもお聞かせしましょう」
「はい」
軍議が始まったのは1刻(15分)ほど経ってからのことだった。
「曹操は自ら進んで消耗してくれるようですな」
「で、あるならば儂らは消耗を曹操に押しつければ良いじゃろ」
周瑜と黄蓋が状況と方針をそれぞれ口にする。
「利だけを奪う、という意味でしょうか?」
郭嘉が疑問を口にする。夜襲のような確認しづらい戦場で利を奪うのは難しいのだ。
黄蓋が鼻で笑う。
「戦功などくれてやればよい。儂らの目標は賊の早期鎮圧と……」
「璃々と賊の首謀者を引き合わせること、ですな」
周瑜としては優先度のやや低い目標だが、空海の言を違えさせるのも心苦しい。被害を抑えて実現出来るなら出来るだけ実現を目指そうと考えている。
「じゃが、義勇兵と結んだのには少々困ったのう」
「首を約束しているかもしれませんな。張角たちの周りには狂信者どもがいますが、乱戦ともなれば突き抜ける者たちも出てくるかと」
曹操軍のように訓練された兵士ならば夜襲を行っても整然と戦える。どのような戦場であっても味方と連携して戦えるようにすることが、軍に入って最初に学び最後まで訓練をやめない基礎であり基本なのだ。
しかし義勇軍ではそれが出来ないため、状況が悪くなればあっという間に敵味方が入り乱れる乱戦へと突入してしまう。少数精鋭の江陵軍にとっては、突入のタイミングを計りづらくなる上に敵を確認しづらくなる、打って欲しくない手であった。
「現段階で最も望ましい展開は、曹操軍と義勇兵が足を引っ張り合いながら黄巾賊を引きつけている間に、我らが首謀者を確保してしまうことじゃな」
「最も望ましくない展開は、曹操軍が黄巾賊とぶつかった後に義勇兵が割り込み、混戦にもつれ込むことでしょう」
郭嘉が密かに冷や汗を流す。周瑜が言っているのは、つまり、首謀者の首がなくても構わないということだ。この集団に
ならば江陵に最小の利だけを拾わせ、
「気がついたか、郭奉孝」
周瑜が笑う。郭嘉が口を開く前に、ほぼ同時に気がついていた程立が確認する。
「曹操さんはー、江陵の真似をするつもりなのですねー?」
「意趣返しとも言えるだろうな」
「何の話じゃ?」
黄蓋が疑問を挟む。
「つまりです、祭殿。曹操は我らが用意したこの状況を利用して、賊を混乱または逃亡に追い込み、張角周辺で起こるであろう乱戦に『少数精鋭』で割り込んで、首を獲るつもりなのですよ」
「ほう」
黄蓋が面白そうに笑う。郭嘉たちの後ろで聞いていた趙雲も同じ表情だ。
周瑜が表情を戻して続ける。
「最も望ましくない展開です。曹操が黄巾賊とぶつかってヤツらを壊走させ、次いで義勇軍をぶつけ、乱戦の起こった場所――つまり、最後まで抵抗している場所に対して制圧を目論むこと、ですな」
「これなら、仮に江陵がこの策を読んでいたとしても、五分より少し悪いくらいで大きな戦功を立てられる可能性がありますねー」
「いえ、江陵がこれまで消耗を避けた戦い方を続けているため、もう少し高く見積もっている可能性もあります。私も……璃々のことを知らなければ、江陵がそのように動くとは想像も出来なかったでしょう」
それまで黙っていた空海が口を出す。
「それって逃げ出した賊は夜の闇に紛れて、馬も夜には役に立たないから追撃も出来ない壁にもならないんじゃ?」
「はぁっ? なんやそれ。曹操は……ウチらが何のために包囲しとると思っとんねん!」
周瑜たちが慌てていないのは、首謀者を討ち取り、適当に壊走させれば、組織的抵抗を失うだろうと予測しているからだ。
空海は今にも飛び出しそうになっている張遼の首根っこを掴む。
「にゃ!? ちょっ、何すんねん!」
「まず、曹操が朝まで待たない理由は?」
空海の言葉を聞いて大人しくなった張遼を離す。話を聞く気になったようだ。
「はい。まずは持久力の問題でしょう。曹操軍だけが十分な休養の後に夜襲をかけるか、我々と同じような条件から朝駆けをするか、という」
「攻撃が始まってしまえば、暗くて義勇軍の収拾が付かないー、といった理由を挙げられるかもしれませんねー」
「加えて、もし首謀者を捕らえ損ねたときに包囲が十全に働いてしまえば戦功を奪われることにもなります。万一捕らえられても、曹操軍が城から追い立てたという形には出来るでしょうが……」
「ふむ。ならば捕らえ損ねた時には、包囲網か義勇軍かに責任を押しつける、と」
「あの小娘も、弁が立ちそうじゃったからのう」
軍師たちと趙雲、黄蓋がそれぞれの考えを述べる。
「では、こちらが策を読んでもなお戦功を立てられると考えている根拠は?」
空海の疑問に最初に答えたのは郭嘉だった。
「乱戦は運です。曹操軍は6千人、江陵軍は700人。実際に動かせる人数ともなれば、曹操軍5千に対して江陵軍は300も出れば良い方でしょう。同じように飛び込んだのであれば、
「じゃが、実力で左右する部分もある。現に曹操も『少数精鋭』を用意しておる」
「それも江陵が100人出せれば良い方であるのに対して――」
「我が軍の精兵は全員が一騎当百よ。10倍程度の差など――」
「お待ち下さい、祭殿! 今は曹操の意図を考えているのであって――」
郭嘉と黄蓋が熱く語る。消耗を避けたい周瑜は板挟みとなり、趙雲と張遼の二人はただそれを見守る。
「なら江陵は全軍を投入すれば良いじゃないですかー」
「は?」「なにを」
「風! あなたは何をっ」
「空海さんは首謀者を璃々ちゃんに会わせたい、黄将軍は軍の練度に自信がある、周軍師は消耗を抑えたい、官軍は賊を逃がしたくない、曹操さんは戦功を上げたい。それなら、曹操さんが一人で賊を追い立てる前に、
程立が眠そうに、しかし深々と切り込んだ。これならば江陵の目標はほぼ確実に達成出来るし、空海の目標もかなり高確率で達成出来るだろう。
張遼が尋ねる。
「せやけど馬じゃ城攻めは出来へんで」
「馬は城から追い出した賊を叩くのです。先ほど仰っていたように、賊の士気は崩壊直前なのですよ。最後まで抵抗する前に逃げ出すでしょうー」
空海が尋ねる。
「夜襲じゃ馬は使えないんだろ?」
「夜までに片を付ければ良いのですよ」
「む、無理です! 『それ』をやるには練度が足りません!」
郭嘉が声を上げた。程立は柔らかく微笑み、江陵の将に顔を向ける。
「江陵軍には、指揮官経験者が居るのではありませんか?」
「ぬ? 確かにおるが……。少将は何人来ておる?」
程立の言葉を受けた黄蓋が周瑜に尋ねる。
「なるほど……そうですな。確か、10人ほどではなかったかと」
「少将とは何でしょうー?」
「1万人の軍指揮を取れる将軍だ」
「なっ! バカな! それほどの人材を10人も!? 何という無駄な――」
聞き覚えのない将軍名に程立が疑問を示し、周瑜の解答に郭嘉が絶叫する。
たかが700人の集団にそれほどの高官を10人も詰め込むなど、と口にしかけ、郭嘉は
「も、もしやその、『少将』以外の指揮官も同伴しているのですか?」
「うむ。儂と紫苑は中将じゃし、他は全員佐官じゃろ」
「中将は最大10万の、佐官は最低1000人の指揮官だ」
黄蓋の言葉を周瑜が補足する。
佐官は少佐から大佐を指す言葉だ。将官も佐官も、この時代にはなかった概念なので空海たちが作った。
つまり、700人全員が1000人単位の指揮が可能だと言っているのだ。普段からそれだけの指揮を執るわけではないが、全員が技能として習得している。
「風も、ちょっとここまでは想像してませんでしたねー」
「当たり前です!」
いつも眠そうにしている程立までもが目を丸くして驚く。ですが、と前置きして程立は薄く笑った。
「これならば、どうにかなるのではありませんか?」
「やられたわね」
「申し訳ございません、華琳様。官軍の連携を甘く見ておりました」
「違うわ、桂花。この動きは江陵軍よ」
予定より2時(4時間)早まり、申の初(15時頃)から始まった攻城戦において、官軍の連携は目を見張るものがあった。
盾を持った歩兵を密集させ、隊列の合間を騎馬隊が縦横無尽に走り回り、賊の逃げ道を見事にふさいでいく。
城門近くの城壁にハシゴを立てたかと思いきや、周りに群がる賊に矢が殺到する。矢の斉射の後には間を置かずに城門への攻撃が行われる。
江陵軍の本隊が布陣した南側の門は、近づいただけで内側から開かれた。皇甫嵩の本隊がある東側も、まもなく門を破るだろう。
西側に布陣していた曹操軍など、最初に城壁に取り付いておきながら、むしろ出遅れている感すらある。連携して賊を追い立てる官軍に多数を押しつけられている形だ。
だが――
「関羽と春蘭が城壁を越えたようです!」
「そう。桂花、出来るだけ支援なさい」
「はっ!」
「……勝負はここからよ」
正面から門を突き抜けて入り込んだ江陵軍の突入組。程立と郭嘉には、空海の名代として皇甫嵩の陣に残るよう指示している。
これで突入組は黄蓋、黄忠、趙雲、張遼、周泰、周瑜、そして璃々と空海を加えた8人が中心になる。
江陵の兵士は周囲の建物や物陰を次々と制圧していく。通りに溢れる賊は、猛り狂った武官たちの餌食だ。アイロンがけのように、通り過ぎる所から真っ平らにして征く。
「これが、張文遠?」
開幕から張遼の背中を見つめていた空海の言葉は、明らかな失望の色を含んでいた。空海が冗談以外でこういった発言をするところを初めて見た江陵組に強い驚きが生まれる。
一方で張遼本人に生まれたのは、空海に対して抱いて居た淡い期待を裏切られたような怒りと、誇りを傷つけられたという名状しがたい気持ちだった。
その気持ちが暗い方に向かず、絶対に認めさせてやるという負けん気に現れるのも誇り高い張遼らしいところではある。
「なっ……よう見ときぃ!!」
張遼が強く言い放ち、その背丈よりも大きな偃月刀を振るう。
細く高い音が重なるようにして、矢が落ち、太刀が弾かれ、黄巾が落ちる。三歩を進む間に偃月刀を六度振るい、その六度で六人の命を刈り取る。
その早くて鋭い武に、横目に様子を窺っていた趙雲も口の端を持ち上げた。
しかし空海は。
「はぁ……マジか……」
「――なんや、文句あんのか」
「当たり前だ」
空海の心境は一言で表せた。
――張遼と聞いて期待していたのに。
落胆である。
目の前の張遼が
しかし、三国時代で最も楽しみにしていた邂逅がこのような結果になってしまったことに、落胆は隠せなかった。
――これじゃ俺の(持ちキャラの)
ほんの数秒間、落胆一色だった空海の心。だが、もとより楽観的な空海はある可能性に気がついて、一瞬で反対方向にテンションを振り切った。
――そうか! なら育てればいいじゃん!
空海は急に元気になって璃々をその場に下ろし、いそいそとその辺に落ちてた槍っぽいものを拾い上げ、1本だと強度が心配なので3本まとめて引っつかみ、張遼の一歩前に出て、笑顔を抑えきれない今の顔を見られないよう前を向いたまま、告げた。
「よく見ておけ。これが、張文遠に期待していたものだ」
まずは見本プレイである。
いぶかしむようないくつもの視線や慌てて止めようと近づく江陵組を振り切って、小さな身体が賊の目の前に躍り出る。
人体が超えられない壁、音すらも置き去りにして。
それは、敵対する賊すら目を奪われる暴力の嵐だった。
広宗城の中央で、
荷車がすれ違えるほど広い通りに限界まで詰まった人の群れが、
青の暴風に触れた瞬間から消し飛んでいく。
「――ふっ! せやっ! おりゃっ!」
一声ごとに、一振りごとに、数十人の黄巾が宙を舞う。
風を起こすような踏み込み。束ねた
「推して参る!!」
掲げた武器は折れ、構えた盾は割れ、地面さえ震えた。
至近距離で放たれる矢すら、踏み込みながら武器を振るう動きでかわしていく。
「真の武よっ!」
矢と血が降り注ぐ中、一点の曇りもない青い衣が翻る。
流れ出した血液さえその姿を恐れるように青と白には触れようとしない。
「いざ――」
凄烈の気合いが炎のようなオーラとなって立ち上がる。
見ている者の目には、打ち付けた方天戟から炎が燃え広がる姿が映り――
「
叫び声と共に振るった方天戟の軌跡から、黄金の輝きが放たれた時。
張遼は、そこが戦場であることも忘れて跪いていた。
埃が晴れる。一点の曇りもない青い羽織と白い着物を纏った小柄な男が、方天戟3本を束ねて持ち、息一つ乱さずに薄く笑って『賊だったもの』を見下ろしている。
男はゆっくりと視線を上げ、やがて、棒立ちとなった人の壁と目を合わせた。
賊たちの絶叫が上がり、生きて動けるものは全てが我先にと逃げ出す。
黄色い波が引いたとき、そこに残ったのは突入組だけだった。
「ふぅん。リアル無双ってこんな感じなのかー」
神スペックを振るえば、特殊能力を使わなくてもこんなものである。むしろ、ほどよく手加減するために苦心したほどである。発光するのは難しかった。ぐわっという感じで。
空海は手に持っていた槍っぽいものを投げ捨て、すっきりした笑顔できびすを返す。
そして空海は。
張遼が跪いているのを見て疑問を抱き、黄忠と黄蓋が停止しているのを見ておそらく空気を読まずにやらかしたのだと推測し、趙雲が横目に自分を見ながら固まっているのを見て何かやってしまったのだと確信し、周瑜が固まって呆けているのを見て常識を外れすぎた行動を取ったのだろうと確認し、璃々だけが目を輝かせているのを見てまあ何でもいいかと何もかも投げ出した。
「すごーい! くうかいさまっ、すっごーいっ!」
「どうだ、璃々。俺の山田無双、格好良かっただろ?」
「かっこよかった! すごかったー!」
もはや動ける敵は一人も居なくなった戦場で、空海が作り出した『通路』を璃々が駆け抜け空海に飛びつく。空海は優しく抱き上げて、教育によろしくない風景を見せないよう璃々の顔を胸に抱くように支え直す。
「よし。道が空いたから張角まで一気に近づけるね……どうしたの、子龍?」
「い、いえ? 何でも? ありませぬ?」
「文遠も顔を上げてよ」
「はい!
世界が止まった。
◇◇◇◇
「……もう潮時ね。応援がどうこう言っている場合ではないわ」
「何? その荷物」
「逃げる支度よ。3人分あるから……みんなでもう一度、やり直しましょう」
「……仕方ないわね。でも、2人がいるなら」
「そうだね、ちーちゃんとれんほーちゃんがいれば何度だってやり直せるよねっ」
3人の少女が、旅支度を整えて立ち上がった。
「そういうこと。そうだ、これも持って……」
「太平なんとかだっけ……?」
「そうよ。これを使って、またみんなで」
「もうそんなのいいよぅ! 2人がいれば十分だから、速く逃げよぅよー!」
遠くで起こった絶叫が、黄色い波を伴って、3人に迫る。
◇◇◇◇
「あー、うん。時に落ち着け、張文遠」
「ウチのことは霞とお呼び下さい、ご主人様!」
最初は関西弁に違和感しか感じなかったはずなのに、今は標準語に違和感を感じる空海である。張遼のキラキラと輝く目が眩しい。
「ほぉ、ご主人様……」「あらあら」「面白い冗談じゃな……」
「こんなはずじゃないことばっかりだよ!」
張遼が自主的に言い出したことなのに空海が肩身の狭い思いをしている。
「とりあえず真名は預かってもいい、けどっ! みんなみたいに字で呼ぶからね!?」
「わ……わかりました、ご主人様……」
「う、うわぁ……」
張遼が両手両膝を地面について沈んでいく(ように見えた)。
助けを求めて江陵組に視線を向けた空海は、そこに攻撃的な笑顔を見つけて、上げた視線をそのまま下げた。
「くくっ。主は女泣かせですなぁ」
茫然自失から回復した趙雲がからかい始めたため、江陵組の機嫌がますます悪くなる。
「文遠。ご主人様という呼び名はやめろ。本当に。空海の方で呼んでくれ。本当に」
「わ、わかりました。く……く、空海様」
張遼は空海の名前を口にするだけで真っ赤になっている。このままでは何故か自分が怒られることになるので、空海は話題転換を試みた。
「まず、お前には董卓という主君が居ただろ」
「もぉ臣下やめます!」
「おいィ!?」
状況が悪化してしまい、空海は焦る。助けて趙雲、と視線を向ければそこには嫌らしい笑みをたたえた趙雲が。
「くくくっ。女にここまで言わせておいて応えないのは男ではありませぬぞ」
助けを求める相手を間違えた空海は窮地に追い込まれた。女性に泣かれるのは、昔から苦手なのだ。騙してくる相手ならまだしも、慕ってくる相手なら容赦もする。
「……わかったから、普通にやめてこい。仕事を投げ出して江陵に来るのは駄目だよ」
「わかりました! すぐやめてきます!」
空海は慌てて飛び出そうとする張遼の首根っこを掴む。
「にゃ!? 何すんねん! です!」
「ここでやること済ませてからだってヴぁ!」
言葉遣いはショックで戻った。空海はそのままにしておくよう懇願した。
「ん? てんほー?」
『張角、夏侯元譲が討ち取ったぁ!』
「む」「ぬ」「そんな」
遠方の建物の影から繰り返されながら徐々に近づいてくる鬨の声に、空海たちが顔を見合わせ、黄巾が膝をつく。
夏侯元譲は曹操の部下、夏侯惇のことだ。空海にはその容姿はわからないが、聞こえてきた声は女性のそれだった。
「公瑾、漢升、すぐに確認してこい。黄巾の連中は『てんほーちゃん』がどうだとか口にしていた。年若い女が含まれている可能性が高い。公覆はこの辺りの掃討だ」
『はっ』
既に周泰の調査によって、張角、張宝、張梁らの3人が居るらしいこと、狂信者を集めて何度か集会らしきものを開催したことが確認されている。
そして空海は、経験則から彼女たちがおそらく3人組の女性なのだと考える。
「幼平!」
「はいっ!」
「周囲を、特に曹操陣営を探れ。張角たちの居場所を独自に掴んでいる可能性がある。あるいは、陣内かその周辺で保護か捕縛かされている3人組の女が居たら厳重に調べろ」
「わかりました!」
いくら空海たちが立ち止まっていたとしても、曹操の部下たちが門を破り、有象無象をかき分けて、狂信者の囲いを越えて張角に迫るには少し早すぎる。
そして何より、なぜ夏侯惇が包囲を離れているのかが、空海には疑問となっていた。
「この辺りを片付けたら一度戻って兵をまとめろ。……もう一戦あるかもしれない」
空海の言葉に武官組は顔を合わせ、神妙に頷いた。
「お待たせいたしました、空海様!」
夏侯惇の元に首を確認に出していた周瑜と黄忠、曹操周辺を探らせていた周泰、皇甫嵩軍で捕らえた黄巾賊に『てんほーちゃん』について聞き出させていた程立と郭嘉が江陵軍の陣営に戻る。
空海は最後に到着した周泰をねぎらった後、まずは周瑜たちから、と話を聞いた。
「はっ。まず、差し出された首は男のものでした。周囲の黄巾賊に確認したところ、誰がどの首かの不一致などが見られたものの、口を揃えて張角らが男だったと証言を――」
「ですが、離れた場所で捕らえた賊にカマをかけてみましたら、女の子だったとか巨漢の男性だった、老人だったなどと……無茶苦茶な内容になりましたわ」
空海は周囲を見回し、全員が確認したところで程立に話を促す。
「風たちは皇甫嵩さんの陣地で聞き込みを行ったのですよー」
「『てんほー』に加えて『ちーほー』という名前、もう一名は不明ですが、3姉妹であるという証言を得ています。念のため、皇甫嵩には知らせていません」
二人の働きをねぎらい、空海は最後に周泰を向く。
「3姉妹を確認できたか」
「はい! まず、義勇軍を率いる劉備らしき者たち女性3名を曹操陣内に確認。先の攻城戦にも参加していたようです!」
「まぁ、予想通りだね。戦闘になると邪魔だけど、今引き離すわけにもいかないか」
空海の言葉に周瑜が頷く。空海は周泰に続きを促す。
「さらに、陣の奥に隔離される形で保護されている、類似の衣装を纏った女性3名を確認しました。一名は『ちー姉さん』、一名は『天和姉さん』と呼ばれていました!」
周泰の報告内容の大きさに、動揺が広がった。
「ほぼ確定だな。あとは本人に聞くか。よくやった、幼平。良い仕事だ」
「はいっ!!」
空海が周泰を褒める。周泰は褒められた喜びに震えて泣き出した。
「仕事中は?」
「泣きません!」
「いい子いい子。そのまま控えていろ」
「はっ」
噛みしめた唇から血を流しながらそれでも直立して動かない周泰と、それを見て微塵も動揺していない江陵組に、それ以外の者が顔を引きつらせる。どん引きである。
「……程仲徳、郭奉孝」
「はいー」「えっと、はい」
空海は数瞬考えた後に、程立と郭嘉を呼ぶ。
「お前たちは皇甫嵩の軍を動かして、理由を明かさずに何とか城に入れろ。万一、曹操と江陵が戦闘に陥った時には理由を明かしても良い。その場合は、曹操が城に取り付く前に門を閉じ、防衛に徹しろ」
「了解ですー」
「……我々は江陵軍ではありませんが」
外部の者である自分たちにそのような大きな権限を与えて良いのか、と聞こえる。
だが、権限のことを言うなら、先に皇甫嵩の所へ向かわせたときも名代を名乗る許可を与えていた。郭嘉は、曹操という傑物を
だから、空海が行う説得は再確認に過ぎない。『そうなったとき、はたして曹操に価値が残るか』という。
「もし戦闘になるとしたら、あちらが庇ったときか」
「曹操さんが理性的でなかった時くらいでしょうねー」
「……。そうですね。璃々のことは私も思うところがあります。お手伝いさせて下さい」
郭嘉が頭を下げる。
空海は備え付けの机に向かって紙を一枚取り、サラサラと何かを記す。
心善淵、與善仁、動善時。
老子の一節。心は奥深いことが良い、交友は情を重んじるのが良い、行動は臨機応変が良い。といった意味だ。軍師向きの言葉として、空海が水鏡先生から直接教わった。
空海は『空海』と言えば『字が上手い』と考えていた。考えていたので練習することにしたのだが、それを決めたときには水鏡先生と黄蓋くらいしか書を持っていなかった。仕方ないので老子とか六韜とか孫子といった難しい本を毎日何十回と模写したのだ。夜中に一人で。眠らないので。10年以上練習したらちゃんと上手になった。
「す、素晴らしい教養があるのですね」
空海の文字の美しさを見た郭嘉がポツリと漏らす。空海の書を見慣れている江陵組すらため息が出ることもあるのだ。その部分以外の意味がわかっていないことは、空海だけの秘密である。空海にとって漢文は雰囲気で読むものだ。
「頑張ったからね」
嘘ではない。中身ではなく文字にこだわっただけである。
空海は、墨も乾かないうちからそれを郭嘉に渡し、礼を言う。
「郭奉孝。璃々のことをよく見てくれた。ありがとう。お前は璃々の結論を重視しないだろうから、この仕事が終わったらそのまま去っても良い」
郭嘉は、考えの一つを言い当てられてやや恥ずかしそうにする。確かに郭嘉が重視するのは、璃々の結論で事態がどう動くか、である。
「もちろん、江陵への帰路に同道したいなら来ても良いぞ。璃々も喜ぶ」
空海の誘いに、郭嘉は苦笑を返した。機会があれば、と答えを返して一歩下がる。
「おやおやー? 風には何もないのですかー?」
「お前は璃々の結論を重視するだろ?」
普段の飄々とした態度や、人を食ったような物言いに惑わされるが、程立は『人間』が大好きなのだ。事態がどう動くかよりも、璃々が何を選ぶかの方が大切だと考える。
だから璃々が何を選ぶかを見届けるか、最低でも、何を選んだかを知るつもりなのだろうと、空海は言う。程立も薄く笑って一歩下がる。
「じゃあ、準備をして行くぞ」
「あなた達の正体を知っているのは、おそらく私たちだけだわ。そうよね、桂花」
「現状、首魁の張角の名前こそ知られていますが、他の諸侯たちの間でも、張角の正体は不明のままです」
曹操たちが3姉妹を前に笑う。気の強そうな少女がいぶかしげに尋ねた。
「……どういうこと?」
「誰を尋問しても、張三姉妹の正体を口にしなかったからよ。……大した人気じゃない」
事実、曹操が東郡から広宗に至るまでに捕まえた黄巾賊は、誰一人として口を割っていない。曹操たちが三姉妹の正体に気がついたのは、偶然にも許緒が彼女たちを目撃していたからだ。
「それに、この騒ぎに便乗した盗賊や山賊は、そもそも張角の正体を知らないもの。そいつらのでたらめな証言が混乱に拍車をかけてね。今の張角の想像図は、これよ」
そう言って曹操は近くにあった姿絵を広げる。
身の丈1丈3尺(約3メートル)、腕が8本、足が5本に角と尻尾が生えて、空を飛びながら長い舌で馬を補食する、黄色いリボンをつけたひげ面の大男(?)が書かれている。
「馬を食べてるわ、天和姉さん」
「いくら名前に角があるからって、角はないでしょ……角は」
「か……かわいい」
『ええっ!?』
「皇甫嵩の軍はほぼ入城を完了しました。西門には既に人員が配置されたようです」
「騎馬隊も準備完了や! あとは号令だけやで、空海様!」
「弓兵もなんとか1000は集められました。開幕だけですから、何とかなります」
空海は璃々を抱きかかえて立ち上がる。
「じゃ、行くぞ」
「私が大陸の覇を唱えるためには、今の勢力では到底足りない。だから、あなた達の力を使って、兵を集めさせてもらうわ」
「そのために働けと……?」
曹操の宣言を聞いて、眼鏡の三女が静かに尋ねた。
「ええ。活動に必要な資金は出してあげましょう。活動地域は……そうね。私の領内なら自由に動いて構わないわ。通行証も出しましょう」
「ちょっと! それじゃ、私たちの好きな所に行けないってことじゃない!?」
「空海元帥のお通りである。直ちに道を空けよ!」
「武器を掲げるものは反逆者と見なします! 武器を置いて頭を下げなさい!」
「元帥の前では声を出すな。雑音を立てるな。呼吸さえ慎重に行え」
「……わかったわ。その条件、飲みましょう。その代わり、私たち3人の全員を助けてくれることが前提」
「問題ないわ。決まりね」
突然、外が騒がしくなる。
『どうかお待ちを! しばしお待ち下さい!』
『通せ』
『いけません! どうか――』
天幕が切り裂かれる。外から聞こえた『男』の声に、荀彧が強い敵意を燃やす。
「何を騒いでいるの!」
裂かれた天幕の隙間から差し込む光を背に、青い羽織を纏った男が立つ。
「曹孟徳はどこだ?」
「空、海……?」
その瞬間、曹操の膝が後ろから崩され、膝立ちとなった曹操の首に後ろから刀が回される。隣に立っていた荀彧も倒され、電池が切れたように動きを止める。
『!? 華琳様!』「桂花っ!」
曹操を押さえつけたままの周泰が、地の底からわき上がるような声で呟く。
「逆賊ごときが空海様を呼び捨てにするとは良い度胸です。……命令がなければすぐにも殺せたものを――!」
『――!!』
動き出そうとした曹操軍の将たちに、全方位から強い殺気が叩き付けられ、彼女たちが気付いたときには各々の喉元に一撃必殺の武器が突きつけられていた。
夏侯姉妹には二黄が武器を向けている。武器を持とうと伸ばしかけた手が、それを掴むことも出来ずに固まっている。動けば殺されると理解させられた。
楽進や于禁、李典たち3人娘は張遼に偃月刀を突きつけられ、強烈な殺気を叩き付けられていた。昨日会ったばかりの張遼だが、その様子は信じられないほど違う。間違っても動くことは出来ない。
親衛隊の少女二人は蝶のような武人と向かい合っていた。趙雲は薄く笑っており、他に比べれば殺気も弱く、少女たちには比較的余裕があるように見える。しかし、武器に手を伸ばせばいつの間にかたたき落とされる。二人は趙雲から圧倒的な実力差から生まれる余裕を感じて息を詰まらせる。
天幕の内外を江陵軍が完全に固めたところで、空海が膝をつく少女を見る。
「お前が曹孟徳か。張角、張宝、張梁とはどれだ?」
「嘘偽りなく応えろ。解答以外の行動を取れば殺す」
「よ、幼平が超怖い……」
曹操が3姉妹に目を向け、慎重に腕を持ち上げて指差し示す。僅かに動くだけでも刀が喉に食い込む。呼吸が乱れることにすら恐怖のわく距離だ。
周泰が空海に向かって頷く。
「事実だと思われます。先ほどまで勧誘を行っておりました」
「なるほど。お前たちか」
「な、何なのよあんた……!」
気の強そうな次女が震えながらも空海を睨む。
「俺は空海だ」
『空海!?』
瞬間、3姉妹の足下にバカでかい針のようなものが突き立つ。3人がそれぞれの履いていた黄色のブーツは針によって地面に縫い付けられ、黄巾の末路を思わせた。
姉妹は咄嗟に口を閉じ、涙目で空海と周泰を交互に見ている。
「次は心臓と目を狙う!」
「狙うなよ。勝手に殺すな、幼平」
「……申し訳ありません、空海様」
刀で曹操を押さえ込んだまま、空いた手を使って一息で3本の針を正確無比に投げつける技量に、張三姉妹が抵抗を諦める。靴と地面を貫いている針は、足を全く傷つけていないのだ。姉妹の誰も痛がっていないことが何よりの証拠だ。
「では、黄巾の親玉であるお前たちには聞かなくてはならないことがある」
「な、何よっ」
次女は涙目になりながらも姉妹を庇うように声を上げる。
空海は璃々を地面に降ろし、しかしそのまま自らが3姉妹に尋ねた。
「何故、黄巾を立ち上げた?」
「はぁ!? あたしたちそんなの立ち上げてなんかないわよ!」
「あ、あの人たちは勝手に集まってきたんです。それで私たちの支持者を名乗って」
「だから3人で逃げようって」
「それで人の波に乗って何とか城から抜け出したところで」
「曹操に捕まったのよ!」
3人がしどろもどろになりながらもまくし立てる。そこで空海は疑問を抱いた。
「曹操に捕まったとき……西側の城門だな、そこまで人の波に乗ったと言ったが」
「そ、そうよ。あっちからなら逃げられるからって支持者の連中が言うから」
「事実か曹孟徳」
後ろで控えていた周瑜が、思わず口を出す。怒りで声が震えている。
曹操には賊を受け止めることを命じてあった。賊の勢いを削いだところで騎兵で蹂躙するのだ。曹操に限らず、全ての官軍は同様の作戦を行っていた。
「……私たちだけで、あれだけの数の賊を受けきることは出来なかったわ」
「それって、夏侯元譲を城内に送り込んでいたからじゃないの?」
「っ!」
曹操が息を飲んで黙る。口を閉じたことが、何よりも雄弁だった。
命令にない行動を取ったせいで大量の賊を取り逃がした。実際には夏侯惇がいても何も変わらなかったかもしれないが、大いに変わった可能性もある。
「貴様……!」
「公瑾、
空海は前に出かかった周瑜を手で止め、その手で璃々をゆっくりと撫でる。周瑜はその意図に気付き、唇を噛んで下がる。
空海は再び3姉妹を向き、尋ねる。
「お前たちを官軍が取り囲んだとき、あるいはその前に、何故事実を明かして保護を求めなかった?」
「そ、それは……」
「だってみんな私たちの歌を聴きに来てくれてるからー」
眼鏡の三女が言葉を失う横から、間延びした声で長女が答えた。
「盗賊、山賊のようなことをしていることには、気がつかなかったと言いたいのか?」
3姉妹と璃々の硬直が重なった。姉妹は、言い訳を探すように目を泳がせている。
「気付いていて放置したのか」
「で、でも」
「黙れ。不快だ」
空海が短く命令すると同時に再び、強い殺気が天幕を襲う。
空海はその場に跪き――あの空海が膝をついているということに、事情を知らない全ての人間が驚愕した――璃々と視線を合わせる。
「璃々。この者たちは、お前の両親を殺したような者たちを集めておきながら、歌を聞かせることの方が大事だったようだ」
空海は、璃々の肩を掴んで張角たちに向ける。怯えたように璃々を見る姉妹を全く無視して。さらに曹操の方に璃々を向けて続けた。
「この者は、あの者たちが悪いことをしたと知っていたのに、自分がその力を使いたいからという理由で悪いことを隠そうとした」
曹操は苦虫を噛み潰したような顔でその言葉を受け入れる。言いたいことはあるが、黄巾の被害者であろう子供を相手に言い訳など出来ない。目を伏せて、そこに倒れた荀彧を見つけ、もう一度目を上げる。
「お前が決めろ、璃々。この者たちを殺すか、生かすか。両親の仇を取って欲しい、でもいい。この者たちを許すというのなら、それでもいい」
璃々が肩に置かれた空海の手を掴む。強く強く掴んで、嗚咽も漏らさない。涙を流しながら、それでも璃々は、3人と1人を睨み付ける。
3人が化け物を見たかのように怯え、1人が能面のように表情を消していく。
「……おねえちゃんたち、なんか……っ」
震える声で告げる。3姉妹が震え、曹操が完全に表情を消して、曹操陣営の武将たちもつらそうな表情で、それでも
「おねえちゃんたちなんか、だいっきらい!!」
璃々が叫んで、空海に縋り付く。
大声を上げて泣き出した璃々を空海が抱き上げて、静かに背中を撫でる。
誰もが沈痛な表情で声を発することが出来ない中、空海だけが薄く笑ったまま璃々の背中を撫で続ける。
「璃々。それは最もつらい選択肢だ。よく、選んだ。俺はお前を尊敬する」
高まっていた緊張がほどけそうになる。だが、空海はそれを許さなかった。
「……張角、張宝、張梁、そして曹操。璃々はお前たちを生かすことを選んだ。だから、お前たちは生きたまま罪をあがなえ」
空海は昔聞いた故事を思い出して告げる。
「曹孟徳に命じる。この者たちに教育を与えろ。黄巾が侵した罪の大きさを必ず理解させること。自覚させること。これを持って張角らへの罰とする」
空海の言葉を受けた周泰が刀を揺らして促す。曹操はか細い声で必ず、と答え、自らへの罰を待つため目を閉じる。
空海からの視線を受けた周瑜が頷き、口を開く。
「曹操。貴様は私欲のため命令を無視し、逆賊の所在を偽った。これは朝廷に弓引く行為である。よって今回の戦功は全て取り消し、罰として夏侯校尉の官位を剥奪。さらに陳留以北かつ司隸以東での黄巾残党の平定を命ずる」
夏侯惇の持っていた軍事権を剥奪する決定。そして、逃がした賊を追って鎮圧しろ、という命令だ。もちろん首都へ逃がしたりすれば大事になるだろう。
「それに伴い、これより二月の間、曹操が臨時に中郎将相当の兵数を統率することを許可する。ただし、義勇兵は集めるな」
部下の軍事権を剥奪したため、曹操には軍を率いる名目がなくなった。そのため臨時で兵権を与えて遠征を行えるよう許しを出す。失態を民にぬぐわせるな、とも。
「張角を皇甫義真が、張宝を張文遠が、張梁を趙子龍が討ち取ったものとして扱い、戦功もそれに準ずる。そのつもりでいろ」
張角たちへの罰は既に空海が決めている。だから、周瑜は罰を追加しない。その代わりに、曹操から奪った『首』を目の前で分配することで姉妹への牽制とした。
「……軍師殿、私は」「……」
「子龍、受け取っておけ。文遠もな。どこで何をするのにも有利になるだろう」
「主まで……」
「しゃーないわ。政治っちゅうもんや」
朝敵の首を獲ったのだとすれば、どこに仕官するのにも自分を売り込む材料になるだろう。それは、江陵が相手でも同じだ。
官軍を率いてきた皇甫嵩に最大の戦功、同じく張遼に二番手の戦功、江陵の客将として討伐に参加していた趙雲に三番手。江陵が少しばかり損をしているように見えるが、それも張遼と趙雲が江陵に合流すればひっくり返る。
江陵軍そのものには戦勝の功績が付く。江陵は、既に賊の首一つに左右されないほどの立場にある。半ば強引に軍を動かしたことさえ相殺出来る戦功があれば良かった。
曹操たちとは、最初から争ってなど居なかったのだ。江陵は首などどうでも良かった。
江陵に取っては、誰がどう戦ってどう名を上げても良い戦いだった。勝ちさえすれば。
曹操たちもまた、逃がした黄巾が賊になるとは考えていなかった。彼らがおそらく張角たちのファンなのだろうと気付いていたから。
西門から逃げ出す者たちを簡単に逃したのも、最後まで抵抗を続けているほどに熱心なファンが賊になるとは考えなかったからだ。
「戻るぞ」
空海がきびすを返す。
青い羽織と共に遠ざかる泣き声に、曹操はいつまでも立ち上がることが出来なかった。
解放された夏侯姉妹が曹操に駆け寄る。荀彧の手当も始まる。張三姉妹が恐怖から泣き出して許緒がそれを慰める。
それでも、曹操が涙を流すことはなかった。
広宗城包囲戦は城内にて3万人の黄巾を打ち倒し、城外において5万人の黄巾を倒して捕らえた。主に西門から流出した4万人の黄巾残党の鎮圧は、西門で流出を防げなかったとして陳留刺史の曹操が担当することになった。
後に広宗制圧と南陽鎮圧の報を受けた帝は大赦を行い、中平と改元する。
黄巾を書くときはね、プロットに邪魔されず、自由で、なんというか、お笑いじゃなきゃダメなんだ。三人組で、おバカで、ノリノリで……
というわけで、次回の落差はエンジェルフォール並。
『こんなはずじゃないことばっかりだ!』
私の中のクロノくん(リリカルなのは)のイメージは
ストップだ!→撃墜(二次)→こんなはずじゃなかった!→いつの間にか提督 です。
ここまで書いておいてなんですが、曹操は自分の利益の為に清濁あわせのみ正しい行動を取ってると思うのです。作者的に見て。主人公勢は個人に肩入れしすぎています。
ただし、この作品においては国家の存亡に関わるような大局で俯瞰すると空気を読めていないのも曹操なのではないかと。史実では曹操は漢王朝を生かすために参戦していたはずですが……。賊の討伐が『手段』でしかないところは、彼女の嫌いな宦官のそれと同じ。この辺は恋姫本編と似通っていますね。
主人公勢は政権に媚びることも出来る大物ですから(キリッ
だから、稟と風は