無双†転生   作:所長

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6-1 万物は流転する

「北平に賊? ふーん……啄郡(ここ)に向かってるのか」

「はっ! 冀州側からも兵が追っているそうですが、いかんせん賊の数が多く包囲は不可能であるとのこと」

「そうか。数は?」

「はっ、こちらに向かっている黒山賊は総数30万と見られています」

 

 30万、という呻き声があちこちから漏れた。

 

「そうじゃない。馬の数は、って聞いてるんだ」

「は? え、いや、おそらくは、ほぼいないのではないかと。川をいくつも渡って来ておりますし、足の速い者達は早々に逃げ出したそうでして」

「……そっか。わかった、もういい。連れてきた騎兵を率いて出よう」

 

 立ち上がって剣を取る。周りから上がる「策があるのか」という声に振り向きもせずに答える。

 

「北平と故安の間に川がある。そこを渡っている最中に叩くよ」

 

 天気を答えるような声色で、散歩に行くような足取りで、彼女は何の気負いも見せずに歩き出す。剣を片手に、血のように赤い髪をなびかせて。

 

「先触れを出して故安に陣を用意してくれ。戦うのは騎兵だけでいい」

 

 

 これより数日後、幽州啄郡故安県の南西の川で、渡河を試みた黒山賊30万が幽州騎兵2万に急襲を受ける。まず3万の賊が斬られ、川に逃げ込んだ数万の賊の血が海までもを赤く染め、7万が生け捕りとなった。

 

 公孫賛が圧倒的な強さで賊を撃退したことで、北方での賊の活動は激減した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 季節を問わず咲き誇る桜の庭。謁見の広場の裏に広がるその場所。黒い岩の間を透明な水が流れ落ち、その岩を力強く掴むように桜の木が根を張る。

 何十という岩の間に石畳が敷かれて石橋が架けられ、1ヶ所の大きな遊戯板、数カ所の腰掛け、1ヶ所の四阿(あずまや)が置かれている。

 今、その中でも最も奥にある四阿の円卓に、数人の女性と一人の小人の姿が見えた。

 

 資料を片手に数字の説明をしているのは江陵の内務担当の筆頭、諸葛孔明だ。

 

「先の遠征は当季の予算で半額をまかない、その前季までの積み立てで半額を出していますから、民の負担増はありません。ただ、月さんたちと共に移住されてきた文官の方々を雇用したため、来季からの新規雇用を調整して帳尻を合わせたいと考えます」

「ここに書かれた当面の1割減とは、人口増加分を加味しての計画か?」

 

 江陵の文官を統括する周瑜が、資料から顔を上げて声をかける。

 

「はい。ただし、この予測は連合騒動前のものです。人口の増加が予測を上回る場合には修正を行いますが、騒動後の予測を立てるにはもう一季待たねばならないでしょう」

 

 孔明が落ち着いた様子で頷き返す。その発言を聞いて楽しそうな顔をしたのは大陸一の有名人『クッキー様』こと空海だ。

 

「多分これからもっと人が増えるよね」

「はい。土地の拡張には限界がありますから……そろそろ人や物を密にする方法を見直さなくてはなりません」

「幸い、まだ10年は時間がありますゆえ、官庁や兵舎で実施してきた方策を民に向けて仕立て直せましょう。効果のほどは間違いありません」

 

 孔明の言葉を引き継ぐように周瑜が現状を報告する。孔明が周瑜に一つ頷いて、空海に強い視線を向ける。

 

「しかし現状の方策をそのまま持ち込んだだけでは民の負担となります。そろそろ旧来の方法を見直して検証を行うべき時期へと差し掛かっているでしょう」

「なるほどー。じゃあ、子龍と文遠と仲穎と文和からそれぞれの土地の話を聞いて、水鏡女学院に持ち込んで生徒と一緒に検討してみてよ」

 

 悪戯っぽく笑う空海にきょとんとした顔を向ける孔明。最近まで別の勢力として江陵の外にいた賈駆は名前を出されて声を上げそうになり、真意が読めずに口を閉ざした。二人に代わって周瑜が空海に尋ねる。

 

「……我々からいくつかの事例を提示して見せた上で子供の発想を利用しろ、という意味でしょうか」

「その通り。知らないことだからこそ、型を外れて考えることもできる。特に江陵生まれではない子たちには期待できるよ」

「確かに、外から来たばかりの優秀な子らも在籍していると聞いております。……わかりました。来月中には実行してみましょう」

 

 将来の江陵を担う人材に討論を体験させるのも悪くない、周瑜はそう考えて同意する。

 1ヶ月後の討論では、子供の発想に目をむくことになるのだが。

 

 話が落ち着いたと見た鳳統が声を上げる。内気ながら、その飛び抜けた才能で江陵軍を統括している少女だ。

 

「次は私からです。先の遠征と最近の配給によって食料の備蓄が減少傾向にあり、今年の収穫を終え次第、増産に踏み切る必要があると思われます」

 

 すぐに孔明が反応し、対策を提案する。

 

「益州では夏物のキビやヒエが豊作で市場の価格が落ちていますから、ヒエを藁束のまま買い叩いて、軍で用いる飼料に混ぜ込んではどうでしょうか」

「それほどまで安くなっているのですかー?」

 

 穀物相場が大きく乱れれば外務にも影響が出る。担当の程立が孔明に尋ねた。

 

「はい。未だ本格的な収穫の前にも関わらず、一部は1石30銭ほどにまで値を落としています。江陵に入るものにも安値のものが増えて来ましたから、この辺りでいくらか買い支えなければ貨幣の信用もなくなってしまうでしょう」

「軍としては、益州が強化されない形に収めてくださるのであれば、歓迎します」

「風たち外務も現状では益州に強い価値を見いだしてはいませんのでー」

 

 軍事と外務を担当する鳳統と程立が、それぞれの立場を述べる。

 

「よろしい。詳細は後で詰めることにして話を戻そう。食料増産の可否だが、私は今後の人口増も考慮すれば踏み切るべきだと考える」

 

 議事の進行を図る周瑜の発言を受け、賈駆が注目を集めるように手を上げた。

 

「その前に全員で情報を共有すべきよ。今の備蓄はどのくらいなの?」

「――軍では兵士の糧食が1年分、約450万石と、軍馬の飼料が半年分約300万石、難民用の備蓄が10ヶ月分約500万石の、計1250万石を保有しています」

 

 軍事面を鳳統が語り、続けて内務担当の孔明に視線が集まる。

 

「問題は江陵民向けの備蓄を含めた複合目的のものですね。各家庭が個別に貯めているものを除けば、先の遠征後の調整が響き、3ヶ月分2100万石を割り込みました。これは備蓄の放出を絞ることで冬までに2800万石程度まで回復できる見込みです」

「こ……こんなヤツらと、争おうなどと考えるべきではなかった……」

 

 反童卓連合騒動の際、江陵を敵に回すことまで考えていた賈駆が頭を抱える。漢全土の兵士を3年以上もまかなえる量の備蓄を持つなど、想像の斜め上もいいところだ。

 賈駆の隣に座った程立が面白そうに彼女をつつくのを無視して、周瑜が孔明に尋ねる。

 

「各家庭の備蓄はどの程度だ?」

「はい。来月には実りを迎え始めますが、上層では現時点で数ヶ月分の備蓄を残している家庭が多いようです。しかし下層に向かうほど備蓄が少なくなる傾向が強く、全体の平均ではひと月分は上回ってもふた月分は大きく下回るかと」

「政府の備蓄と合わせて4ヶ月分か。……万一の時に干上がらぬよう、あと700万石は欲しいところだな」

 

 周瑜が方針を示し、息を吹き返した賈駆が孔明と程立に目を向けた。

 

「じゃあ、益州で購入するとして、どのくらい集められるの?」

「豊作とはいえヒエは日持ちしますから、出回る量も500万石には届かないでしょう」

「そですねー。そのくらい豊作なら、甘く見積もって250万石。厳しく見れば50万石くらいに手が届くでしょうかー?」

「少々値が張っても、他の地域から買い集めることも考えなくてはならないか……」

 

 周瑜が呟いたところで、再び鳳統が提案する。

 

「ですので、やはり中長期的に増産は必須かと」

「わかりました。益州穀物相場の安定を条件に、内務も賛成します。でも、土地の確保や屯田のために軍に動いて貰いたいんだけど……」

「うん、それは大丈――あっ、軍も異論はありません」

 

 孔明との会話で終わりそうになった同意を、鳳統が全員に知らせる。内気な鳳統が背伸びをしているようで居合わせた全員の視線が柔らかくなり、そんな視線に晒された鳳統は帽子で顔を隠して真っ赤になっている。

 

「んー、一つよろしいでしょうかー」

「どうした?」

「短期的には買い集めるという方針で良いと思いますがー、確保すべき量と内容を明確にしていただきたいのですが?」

「うむ。私としては麦と米と大豆をあわせて、200万石から最大で400万石程度まで確保して貰えれば文句はない」

「あっ、軍からの希望も同程度です! ヒエであれば飼料に用いることも容易ですので、そちらを……200万石程度までならば織り交ぜても構いません。浮いた穀類は放出分に優先的に回して構いません」

「内務としては、量よりも予算の目安として5億銭以内を希望します。有事の積み立てを2億銭残すとすれば、ですが」

「相場が乱れていなければ大体150万石ってとこね。益州の分が加われば300万石に届くかしら」

「益州を除けば、やはり北方の穀物庫が狙い目ですねー。袁紹さんを利用しても?」

 

 話をまとめた程立が、奥で暇そうにしていた影に声をかける。

 

「……あ、俺に聞いてる? 相手に損をしたと思わせなければ別にいいけど、今朝聞いた話だと冀州で兵が集められてるみたいだし、穀類は値上がりするんじゃない?」

「なっ」「あ?」「しょんな」「おや」「はゎ」

 

 空海が何気なく口にした新情報に軍師たちの目が一斉につり上がった。

 街の商人との距離が最も近いのは空海だ。その空海が言うのだから、耳聡い商人たちが商売の種にするための確度の高い話だろう。同時に、外から来ている商人の耳に入るほど規模の大きな話でもある。

 

「……連合であれだけ打ちのめされながら、もう動き始めるとは」

「ふんっ。どうせ金だけは有り余ってるんでしょっ」

「もっと徹底的に叩いておくべきでした……」

「ものを覚えておくということが出来ないんでしょうかー?」

「はわわわ……」「はわわわ……」

 

 周囲の豹変に孔明と空海が揃って震える。

 すぐに気を取り直した周瑜だったが、厳しい表情は崩さない。

 

「ますます備蓄の必要性が高まりましたな」

「食料以外でこちらから出す交易品を増やしてはー?」

「……商人の邪魔をしたくはないが、短期的にはやむを得ないか」

 

 程立の提案に苦々しい表情で頷きかけた周瑜を、空海の言葉が止める。

 

「ね、ね。商人を集めてさ、各地方特産の穀類で料理を振る舞うとか、振る舞わせるとかして、街のみんなに地方の穀類を広めない?」

 

 デパートの物産展のようなものをイメージした空海が軍師たちに向け提案する。最初に納得の表情を浮かべたのは孔明と周瑜だ。孔明が興奮したようにまくし立てる。

 

「その方法なら、ある程度の費用をかければ人を集めることも容易く、相対的には私たちが手配すべき物品の量も大きく減らせます!」

「……なるほど。商人に仕入れ、運搬、販売を任せられ、新たな需要も掘り起こせるかもしれませんな。下層を中心に故郷の味を喜ぶ民もいるでしょう」

「さらに穀物を差し出す側からの反発も抑えられますし、貨幣の流通を促進する意味でも大きな意味があります!」

 

 周瑜が肯定すれば、孔明が目を輝かせながら続けた。周りも頷いている。

 

「諸侯へ協力を打診しても良いでしょうー。現在の江陵で広まることは、諸侯にとっても利が多く魅力的ですからー、理性のある方たちからなら賛同を得るのは容易でしょう」

「いいわね。貢ぎ物や賄賂に力を入れられるより遥かにマシな行動を取ってくれそうじゃない? 上手く煽ればほとんどタダで開催できるかもしれないし」

「警備などの手間は増えますが、難民の流入に比べればあしらいやすいと思います。是非やりましょう!」

 

 程立ものんびりと賛同し、賈駆はニヤリと笑いながら言葉を継ぎ、鳳統が力強く賛成したことで、意見はまとまった。周瑜が机に着いた軍師たちを見回す。

 

「江陵の民の口に合う穀物を提供する地方も知れる。我々は不足分をそこから確保すれば良いわけだ。損になる可能性は抑えられ、利は大きい。全く異論は無い」

「益州、司隸、揚州、豫州には催しへの協力を求めるだけでも十分でしょう。袁紹さんのところも一緒に煽れば食いつきそうな話ですねー」

「来月からの収穫に合わせれば、多くの勢力から参加を募ることが出来ると思います!」

「いくら収穫から市場に出てくるまでに時間が掛かるとはいえ、冀州への接触を考えたらほとんど余裕は無いわよ」

「陳留に回って貰えば船を出せます。江陵から南皮までなら、急がせれば6日です」

「あちらからは10日、荷を運ぶとすれば急いで20日といったところだな」

 

 賈駆が目を丸くするような鳳統の発言を、さらに周瑜が補足する。

 

「恐ろしく足が早いわね。それなら今からでも何とかなるかしら……」

「袁紹さんへは表からは風が申し入れに行きましょうー。豫州から陳留を経由し、南皮で折り返して徐州と揚州を通って再び豫州へ。許昌から洛陽を経由して襄陽に戻れば、合わせてひと月くらいでしょうかー?」

「徐州と揚州には先んじて文を送り、その返答を済南の東平陵へ持たせよう。立ち寄りを減らせるかもしれん」

「全て回ったとしても、長く見て40日は掛かりません」

 

 鳳統が締めることでまとまりかけた話に対して、孔明が控えめに手を挙げた。

 

「でしたら先に益州へ回って貰えませんか? 現在の巴郡には宿将の厳顔さんが就いていますから、こちらから8日、戻るのに3日で益州方面を片付けられます」

「ならまず益州への調略の方針を決めて、益州へ行ってる間に文を出して、返答は江陵で受け取ればいいわ」

「うむ。それで行こう」「了解ですー」

 

 自分で提案しておきながら、軍師たちの議論を横目に何かを書いていた空海が元気よく筆を置く。

 

「出来た! 名付けて『春米節在江陵(江陵春のコメまつり) 有白色的皿(白いお皿もあるよ)』! 24点分の交換券で春っぽさ全開の白いお皿が手に入る! どうよ?」

「空海様――」

 

 空海はこの名前で催促すれば失敗はないだろうと自信ありげに笑う。そんな空海の肩に周瑜は優しげな表情で手を置いた。

 

「もう秋です」

「Oh……」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「――とまぁ、外のお祭りはそういうものなワケよ」

 

 窓の外に向けられていた笑顔が、ゆっくりと静かな室内へ向かう。

 

「――た」

「知ってる。だからこうしてお前の所に来てるんだ」

「――、――の」

「いいって。お前は俺の癒やしなの。それに、思い出作りの機会はもうないもんね」

 

 白い上掛けから覗く青白い肌に薄く赤味が差した。

 

「ず――、――。――た」

「俺もだよ? 会う前に考えてた以上に楽しかった」

「――、あ――、――」

「わかった。確かに預かった。……特別に俺も教えてあげよう。俺の真名は、天来だ」

「――。――さま……。――」

「ああ……じゃあな、萌黄(もえぎ)。お前と会ってからの13年。良い時間だった」

 

 優しく布団をかけ直し、その弱り切った命に背を向け歩き出す。

 

「――」

 

 背後から聞こえた小さな音に足を止めて顔を上げ。

 そのまま振り返ることなく足を踏み出した。

 

 

 

 彼女が息を引き取ったのは翌日の昼だった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「空海様、先ほどは申し訳ございませんでした」

「お前の家も必死なんだろ。よくわかってるから」

「……その、受け入れの数を増やすというのは……」

「うん。良いと思うよ。受け入れ基準で特別扱いせず、順序を繰り上げるとかそんな感じで実施してあげて。毎日50件までは先に持って来るとか」

「はっ。ありがとうございます、空海様」

「よい、公瑾」

 

 空海は、深々と頭を下げる周瑜に笑いかけた。

 

 

 江陵から長江を辿れば、川下には荊州の江夏(こうか)郡、揚州の盧江(ろこう)郡、予章(よしょう)郡、丹陽(たんよう)郡、()郡といった土地が広がる。

 現在、江夏郡では劉表の勢力が幅をきかせ、盧江では周家が、呉では陸・顧・張・朱の四姓がそれぞれに根を張っている。最近の呉においては陸家と孫家が勢力を伸ばしつつあるが、他の三家の影響力が削がれたというわけではない。

 周家は全方位を独立気質の勢力に囲まれた地理にあり、体制への反発が特に強い袁術へと世代交代して以来、代々連携してきた袁家とも疎遠になっていた。

 そのため周家は、劉表と仲の良い江陵に入り込んでいる周瑜を通して空海と劉表へ働きかけを行い、同時に空海に対して移民の受け入れを要求している。江陵内での勢力を伸ばそうという目論みと来たる乱世からの避難を兼ねてのものだろう。

 とはいえ、逃げと攻めのどちらに重きを置いているのかを問えば、避難の気持ちの方が強く表れていることも事実だ。

 盧江は、西を国家最大の実力者である劉表、北西を首脳部の安定しない袁家本拠、北を身の程知らずの袁術、東を実力を伴う野心家の孫策に囲まれているのだ。残る南も長江を挟んで未開の地が広がるだけで、行き場をなくしている。

 

 

 空海が周瑜から視線を外し軍師たちに目を向ける。その意図を察した賈駆がすぐに水を向けた。

 

「揚州の豪族への働きかけを強めて堤防に出来ないかしら」

 

 空海を見て薄く笑った程立が続く。

 

「調略をこれまでより強化するのですねー?」

「確かに、揚州や荊州南部に敵対的な勢力が根付いてしまうのは面倒ですね」

 

 程立の発言に同意を見せた鳳統が、どこまで本気かわからないような笑顔で告げた。

 

「ま、それを言ったら益州の位置もボクたちにとっては最悪だけどね」

「益州は順調に弱体化していますよ。荊州へと人が流れているため国力は減衰しており、先日の洛陽での騒動と、この度の穀物相場の乱高下で多額の負債が発生しています。これの解消と引き替えに多数の船舶を我々に譲渡していますから、今は保有軍艦も100隻を大きく下回っているはずです」

 

 益州への懸念を示した賈駆には、孔明が澄ました顔で答えた。幹部に上がったばかりの賈駆に江陵の手の長さを示す時――つまり最近――孔明がよくする表情だ。

 

「は? 譲渡って……」

「益州の多くの豪族勢は、これまで江陵に対して借金を持っていました。それらを船舶で支払って貰ったんです」

 

 戸惑う賈駆に孔明が悪戯っぽく返す。多数の奴隷を所有していたり、江陵の商人たちを詐欺師扱いするような豪族は、特に念入りに力を削いだのだ。益州だけの話ではない。

 

「益州は10年前に荊州に降伏した際にも、街道整備費用の代わりに多数の軍艦を荊州へ譲渡しています。州として持つ船はほとんど無くなりましたが、近頃は代わりに豪族勢が幅をきかせていました」

「今回は、豪族の持っていた軍艦を中心とした船舶と、少数ではありますが造船を行える職人を確保しましたのでー、豪族勢が独自に造船を行うことはほぼなくなったでしょう」

「加えて、今回の支払い後は江陵商人から安く商品を買い付けられるよう約束したことで警戒を解いたようです」

「彼らは江陵の品をなくして生きられなくなっていくでしょうねー」

 

 孔明と周瑜が青写真を描き、実際に働きかけたのは程立だ。一部人材の手配には鳳統も絡んでいた。孔明の真似をするように、鳳統も澄まし顔で賈駆に視線を向ける。

 

「5年以上をかけて、州に船を卸す職人を江陵の手の者に入れ替えています。造船能力は必要な時に必要なだけ制限出来るでしょう」

 

 

「話、むぐ――むぅぐぐむぐっ」

「文和、文和っ」

 

 周瑜の後ろに回り込んで手で口をふさいだ空海が、賈駆に熱い視線を送る。

 言いたいことを理解してしまった賈駆が、嫌々ながら口火を切った。

 

「ああ、それじゃあ手に入れた船を盧江に回したらどうかしら?」

 

 面倒臭そうに程立を睨みながら賈駆が言う。

 

「周家からの口利きで優先的に乗船できるよう手配すれば、約束は果たせますねー」

 

 頭上の本体の飴で鳳統を示しながら程立が薄く笑う。

 

「当面は予備役から操船技術を持つ人員を手配しましょう」

 

 孔明に掌を向けながら鳳統も微笑む。

 

「では盧江へ立ち寄る商人を募るのは私の方から」

 

 最後に孔明が悪戯っぽく笑いながら周瑜に視線を送り、空海が周瑜を解放した。

 

「ぷはっ、空海様っ! あ、それに……皆、その。……良いのだろうか?」

『勿論!』「いいともー!」

「……すまない。皆、感謝する……っ!」

 

 周瑜は再び、今度は皆に向かって、深々と頭を下げた。

 一人だけ解答がズレた空海は、元気よく掲げた手を下ろし、周瑜を優しく撫でることで恥ずかしさを誤魔化した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「劉将軍が南部へ呂布さんと華雄さんを送り込むため、江陵にも手を貸して欲しいとー」

「現在は反乱勢力もありませんので、南部を威嚇するための出兵だと思われましゅ」

 

 盧江へと船を回すため、途中にある江夏郡を支配する劉表に了解を取りに行かせたのが先週。劉表の下に出かけた程立は帰ってくるなり幹部会議を招集し、今は他の軍師たちの前で鳳統と並んで会議に報告している。

 

「おそらく劉将軍は交州までをも勢力下に置くつもりですねー」

「現状では、荊州から派遣する役人を受け入れて税を納めるように要求しているだけのようですが、やはりこれまでの対応と相まって反発を招いているのだとか」

「そしてその解決に軍を送り込む、と。江夏と同じやり方か。……味を占めたのかな?」

 

 空海が笑って茶々を入れる。10年以上も昔に行われた江夏制圧を実際に体験したのは空海を含めて数人だけだ。劉表は反発する豪族を誘い出しては殺し、賊討伐と称して兵を向け、それまでの支配階級をたたき出すことで郡を占領した。

 

「それはわかりません。……しかし、長い間、関心を持たれることもなく放置されてきた南部の民にとっては面白くない展開です」

「豪族たちは現在のまとめ役や顔役を太守に据えるよう劉将軍側に要求したそうですー」

「しかし、劉将軍としてはそのような要求を受け入れれば弱腰と取られかねません」

「ですので、ひとまず呂布さんと華雄さんを派遣してまとめ役たちの反発を抑え込んで、その間に適当な者を太守に据えようと考えたのでしょうー」

「今のところ各地の豪族が郡をまたいで連携する様子はありませんので、5000ほどの派兵で片付けるのではないかと……。軍を率いるお二人の実力と照らし合わせれば、個々に戦って後れを取るようなことはありえませんから」

「彼らが仮に連携を考えたとしても、長沙を抑えてしまえば分断できますねー」

 

 空海が交互に説明を続ける程立と鳳統に視線を送る。

 

「つまり?」

 

 状況の説明だけならば会議は必要ない。二人は何らかの意図を持ってこの事態に動くべきだと考えているのだろうと。

 鳳統たちが口を開くより早く、空海の右手に座った周瑜から答えが返ってくる。

 

「介入の余地は多く、今回派遣される二人を見ましても、我らの思惑通りに収めることは難しくありません」

「なるほど」

「江陵としては、劉将軍に恩を売りつつ、我々の思う形で平定させるのが最上と言えるでしょう。幸い、地理的な要素は我々に味方しています。長沙と江夏との間で陸路を拡げられるようなことさえなければ、南方の交易は江陵と漢寿とで抑えられましょう」

「陸路なんて話が出る前に商人を送り込まないといけないわね」

「南方に明るい人物が必要ですねー」

 

 

 流れを軍師たちに任せて数分。会議は白熱する2人と傍観する4人に別れていた。

 

「だから遠征軍を江陵で足止めして、その間に南部の人事に介入するのよ」

「ふむ? 現地の豪族で南方の民が顔役に押す人材が我々から推挙されれば、派遣される太守も無下には出来ないか」

「そっちは本命じゃないわ。適当なところで失脚すれば太守も気を緩めるでしょ?」

「……なるほど。ならば現地の候補は太守が反感を抱きそうな人物が適当だな」

「そして、太守の懐に入り込めるよう信を置きそうな人物を送り込んで――」

「では有能だが余り強くものを言わない者が――」

 

 クッキーを食べながら周瑜と賈駆を眺めていた空海が小声で隣に話しかける。

 

「なあ。あの二人、凄くあくどい顔をしてるんだが」

「気のせいではー?」

「あわ、あんまり似てない双子みたいです」

「わ、私は何も見えませんし聞こえません!」

「孔明と仲徳は本当の所どう思ってるのか白状してみようか」

「はわわっ」「……ぐー」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「徐州へと入った劉備は(たん)城から下邳(かひ)へと本拠を移した」

琅邪(ろうや)国は未だ劉備の統治へ反発している様ですー。青州が不安定な今、兵を引き上げることなど出来ないと。これは事実上の断交を宣言しちゃってますねー」

 

――空海様、わかりました!

 

「一方で広陵(こうりょう)郡では砦の建設が行われています。これは、揚州からの侵攻を警戒していることを示したいのでしょう」

「ただこれは、こちらで調べた動員数から考えて見せかけである可能性が高い」

 

――マジで! いいぞ幼平、お手柄お手柄!

 

「わざわざそんな動きを見せるってことは、本命は琅邪国の方かしら?」

「そのようだ。彭城(ほうじょう)の関羽が下邳へと移動したという話もある」

 

――えへへー。

 

「商人たちの話では、郯城に物資を運び込んでいるそうです。私の方でも独自に確認しています」

「同じく軍でも確認しています。軍では動員数は最大で4万程度と見込んでいます」

 

――和むのは後! いっぱい撫でてやるからちょっと逃げるの手伝って!

 

「私の方でも確認済みだ。琅邪国には守兵2万ほどが残っているため――」

 

 

 

「……まだ見つかってないよな?」

 

 最上層の南、1里(約415メートル)ほどもある水堀と、その堀に掛かる橋を挟む門の上で、小柄な二つの影が身を寄せ合っている。建物の影から顔を覗かせて堀と最上層を見比べているのは空海。

 

「大丈夫ですっ! 詠様の所に届いた知らせでは対象は第三層の東にいるそうですから、あっちから行くのが早いです!」

 

 空海の声に元気よく、しかし小声で解答するという器用な真似を見せたのが周泰。

 ここから二つの通用門を素早く通過し、堀を越えれば第四層側の門だ。そこからさらに東に向かって35里(約14.5㎞)ほど進めば第三層との境の堀が出現する。

 周泰が指差したやや北東よりの橋までの地図を頭の中に描き、空海は小さく頷いた。

 

「ここからだと途中で水鏡女学院に寄れるか……? 急がないと追いつかれるな。よし、走って行くぞ! おんぶするからしっかり掴まれっ、幼平!」

「はいっ!」

 

 空海ダッシュは馬より早い。

 

 

 

「ふわー……癒やされますー」

「うむ……癒やし系呂布とは新しい」

「やはり恋の良さというのは万人に通じるものだったか」

「恋殿の可愛らしさは時空をも超えるのです!」

 

「むぐむぐむぐむぐ……もぐもぐはむはむもぐもぐはふはふぐぬぬ……」

 

「クッキーを全て渡すことになった時は多少恨みもしたが、総合的には得したな」

「そうですね!」

 

 水鏡女学院に立ち寄っておやつ用に焼かれていたクッキーを譲って貰い、みんなで食べて親睦を深めようと籠にいっぱい持ってきた空海だが、声をかけて数秒後には呂布の腹の虫に負けて1人分を、数十秒後には切ない視線に負けて残り全てを差し出していた。

 そこへ、人混みから控えめに顔を出した小柄な少女から声が掛かる。

 

「あっ、空海様! 明命先生!」

「いやっふーゎ」「こんにちは」

「何であんたがここに居るのよ! さっきまでボクと一緒に会議に出てたでしょう!?」

「何でかって? 抜け出してきたからさ! ちゃんと書き置きも残してきたぞ」

 

 和やかに挨拶する董卓を押しのけて、賈駆が空海を指差し叫ぶ。会議を適当なところで切り上げて層境の門で待つ董卓の元に急行し、押し売りなどの被害に遭っていないか確認してから、まっすぐ目的の店に向かったのだ。これより早く辿り着くためには、賈駆より早くに出発していなくてはおかしい。しかし誰かが席を立ったりすれば気がつかないはずがない。つまりあの場に居た空海は――やがて賈駆は考えるのをやめた。

 ちなみに書き置きには『呂奉先を見てきます。俺を見つけても怒らない公瑾が好き』と書いてある。今のところ効果があるかないかはだいたい五分である。

 今回のは効かないパターンなのだが。

 

「じゃあ、俺たちはそこら辺で(クッキー)を買い漁ってくるから、今のうちに俺が居たら話せないことを話しておくがいい!」

 

 大げさに羽織を翻して歩き出した空海が急に立ち止まってうつむく。

 

「しまった。お金持ってない……」

「ちゃんと持ってきました!」

「おおっ、いいぞ幼平!」

 

 騒がしく離れていく声に、誰からともなく笑い声が漏れた。

 

 

「月、酷い目に遭ったりはしていないか?」

「ううん、大丈夫だよ。華雄さん」

「ボクがそんなこと許すはずないでしょ!」

 

 まず華雄が口火を切る。記憶にある通りの二人の様子に、華雄の顔にも小さく優しげな笑みが浮かび、頬にお菓子を詰め込んだ呂布がその横顔に視線を向けた。

 

「……大丈夫。空海、いいやつ」

「恋殿!? ご飯に釣られておりませんか!?」

 

 勢いよく突っ込んだのはひときわ小柄な少女、陳宮だ。全身で飛び上がりながら呂布の隣に素早く回り込み、食べ終わった皿を片付けて次の皿を差し出している。

 

「早速餌付けされたわけね。まぁこの街に来た人間は大体こうなるわ」

「詠ちゃんもお酒貰ってたもんね」

 

 呆れたように笑う賈駆だが、董卓のツッコミには言葉を詰まらせた。

 

「ぐ……悔しいけど、あれを超える美酒には出会ったことがないもの」

 

 賈駆は拗ねたように告げる。

 

「そうだよね。二人だけだったのに一晩で全部飲んじゃったくらいだし」

 

 董卓は小さく笑って同意した。やや艶のあるその笑顔が何に向けられたものか判断が付かず、賈駆は少しだけモヤモヤとした気持ちを抱き、続く華雄の言葉に口の端を僅かに持ち上げた。

 

「ほう。それほどのものなら私も飲んでみたいものだ」

「――無理ね。一斗でマトモな家が5軒は建つ高級酒よ」

「はぁっ!?」

「――えええぇぇ!?」

「軍師殿も高給取りになられたのですなぁ」

 

 我関せずの呂布を除けば、普段最も落ち着きのない陳宮がまったりと感心したようにつぶやき、反対に普段最も物静かな董卓が口をぱくぱくと動かして慌てふためいている。

 

「え、え、詠ちゃん、そんなお酒、の、飲んで大丈夫だったの?」

「空海様に貰ったのよ。将軍たちなんて毎日のようにねだって飲んでるわ」

「いくらでも飲んでええって言われとるだけで、ねだったりしとらんわ」

「……やっぱり空海様って凄かったんだね」

「金回りという点では天子様より上ね」

 

 賈駆の口から漏れた呆れを含んだ言葉に、華雄がいきり立った。

 

「なっ、天子様を愚弄するか!」

「違うわよ。天子様を低く見てるんじゃなくて、空海様を高く見てるの。……相変わらず結論が早いわね、あんた」

 

 同じことだ、と言おうとした華雄を視線で封じ、賈駆はとつとつと語り始める。

 

「いい? 天子様が、洛陽がなくなれば大陸は荒れて多くの死者が出るでしょう。だけど今の空海様が、江陵がなくなれば、新しい服は買えなくなって、食べ物を売り買いする人が居なくなって、隣町の話が聞こえなくなって、大陸は息を止めて無数の死者が出るわ」

 

 天子様が頭なら江陵は血ね、と賈駆は力なく笑う。華雄は自らの服を見下ろし、それが確かに江陵の商人から買い付けたものだったことを思い出して口をつぐんだ。

 

「今のボクは江陵の軍師だから言えないことはいっぱいあるけど……一つ確実なのはね、ボクと同じことに気付いてなお江陵を倒そうなんて考えてるヤツは、人智を超えた天才か考えなしのバカかのどっちかよ」

 

 表情をどこかに落としたかのような恐ろしげな雰囲気で語る賈駆に、華雄や陳宮は口を挟むことが出来ない。

 

「へい(へい)追加お待ち!」

「はむっ! もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」

「癒やされますー」

「うむ」

「恋はちっとも変わらんなー」

 

 董卓までもが沈痛な表情で賈駆の横顔を見つめる。

 

「詠ちゃん……」

「人智を超えた天才にしたって、切実な理由を持ってなきゃやらないわ。誰だって、自分の身体を切り開いて中にあるハラワタを手作りのものに入れ替えようだなんて、よっぽど追い詰められなきゃ考えないでしょう?」

「へぅ!?」

 

 血なまぐさいたとえを出した辺りで賈駆に表情が戻ってくる。董卓を向いた視線は少しだけ意地悪そうなもので。

 

「おや? 文遠も来てたのか」

「あー……空海様ホンマごめんなー」

「おや? どこへ連れて行く気なのなにか嫌な予感がするんだけどちょっとなんで黙ってるんですかもしかして公瑾のところですか俺怒られますか幼平もそっちにつくんですか」

 

 悪戯っぽい表情のまま、賈駆は華雄たちに目を向ける。

 

「あんたたちも、江陵を倒そうとか考えてるヤツにはついて行っちゃ駄目よ。自分に血が流れていることに気付けない輩か、バカか、追い詰められた奴かしかいないんだから」

「軍師殿、あちらは放っておいて良いのですか?」

「いいのよ。月もいいって言ってるわ」

「詠ちゃん!?」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「江陵をなんとかしなくては駄目よ!」

 

 猫耳のようなフードを被った少女が拳を机に叩き付ける。文鎮に軽く乗せていただけの筆が躍り、硯に残った墨が小さくはねた。

 

「言わんとすることは、理解できますが」

 

 原因となった書簡を持ち込んだ眼鏡の少女が呆れたように息を漏らす。数年前から曹操の元で軍師となっている郭嘉だ。

 

「アレは華琳様の妨げになる。だいたい商人の分際で華琳様に官位を『与える』だなんておこがましいにも程があるわ!」

 

 郭嘉の呆れ声に気付かなかったかのように――事実気付かなかったのだろう――少女は息巻く。少女、荀彧が敬愛する曹操に、よりにもよって地上で最も嫌いな『男』が堂々と「好み」などと口にしてあの青い糞チビ野郎次に会った時はぶっ殺してやる!

 

「はあ……彼らは商人のような考えと立場で理解するべきではあると思いますが、実際は指折りの高官です。そちらを無視して考えるべきでもありません」

 

 言外に自身での対処が及んでいないことを滲ませる郭嘉。比較的に落ち着いて安定している江陵との関係に踏み込むよりも、曹操の治める土地の掃除や整備に注力する方が有意義だとも考えていた。

 

「わかってるわよ! どちらかだけならもうちょっと対処しやすいものを、両方備えてるせいで最強に見えるじゃないっ」

「さすが江陵は格が違いましたね」

「ぽっと出の成り上がりのくせに劉表と懇意にしてるし、太尉と相国まで歴任した董卓が名誉退職の後に頭を垂れるし、いつの間にか周家取り込みに動いてるし、この地の民まで江陵産の商品をありがたがってるし」

「改めて列挙すると凄まじい相手ですね……やはり闇雲に敵対するのは危険では?」

 

 郭嘉としても別に敵対という選択肢を捨てろとか対処するなと言いたいわけではない。

 だがその発言は今の荀彧にとっては弱腰に聞こえたようだ。

 

「だからまず私たちが力を蓄えなきゃダメだって言いたいわけ? このままじゃ、いつか手がつけられなくなるわよ!」

「ですが、官の方はいずれ何とでもなる(・・・・・・)としても、商いで対抗できるのですか?」

 

 郭嘉が自ら思っていた『時期』を明かす。曹操が王として立てば江陵の持つ高官という優位はその意味のいくらかを失う。予想通りの解答に荀彧は鼻を鳴らして告げた。

 

「例の穀物祭とかいうのに続いて、敵対しない範囲でやつらの力を削いで行くわ」

「しかしあれは、商人を利用して諸侯との結びつきを強めた江陵の勝ちなのでは?」

「私たちだって諸侯の実情を多く把握できたわ! 悔しいけど、そのくらい江陵は元から知っていたことでしょっ? 得た利益の総額ならこっちが上よ!」

 

 甲高い声を上げながら荀彧は机の上の、片付けたばかりの竹簡を指差す。

 

「……確かに、あの祭と袁術のおかげで予算には随分と余裕が生まれましたね」

「直接の恩恵が大きかったのは揚州みたいだけどね。ま、あの無能が居てくれたおかげでだいぶ儲けさせて貰ったわ。うちは冀州から安く買って揚州に高めに卸してただけだから困ることはないし、民には感謝されたし」

 

 かつて冀州は袁紹の元にいた荀彧。当時築き上げた人脈から穀類をかき集めて、江陵の商人が米やキビを買い漁っていった揚州に卸したのだ。金のためとはいえ、自分たちの食い扶持まで差し出してしまっていた農民も多く、曹操たちが感謝される形になった。

 

「江陵が直接交渉した場所では取り付く島もありませんでしたが」

 

 もちろん、江陵の商人にとって商売とは「感謝まで売る」ものであるため、遺恨を残すようなやり口は地元揚州の商人や豪族や役人たちによるものだ。江陵の手が入った地域では安値で補填が行われていたため、農民たちにはむしろ不審な目で見られたのだとか。

 

「……現場の人間が交渉慣れしていなかったせいね」

 

 卸売業による直接の利益に加え民の感謝も多く稼ぎ出したが、一部の民に不審を買ってしまったことと冀州の穀類の流通経路がかなり厳しく制限されたことは損だろう。

 ただ、いずれ支配権を奪う地の流通など、躍進を待つこの時期の資金に変えられたのであれば十分な価値があったと言い切れる。冀州の穀類の買い占めが、想定する敵国の中で最も近くて強大な冀州の弱体化に繋がっていることも大きな利益だ。

 反省点はあるものの、失点と呼べるかどうかと言う程度の認識である。

 

「では当面の目標は、我々の手足となる商人と品を用意すること。江陵の手足たる商人の勢いを止めること……は、難しいでしょうが」

 

 郭嘉は口にしてみて改めてその難しさを確認する。たかが商人とはいえ、やっていることは至極真っ当な売り買いでしかないので責めづらい。おまけに自分たちを含めた多くの民にとってなくてはならない存在になりつつある。

 

「陳留の周りだけならこちらで手を打てば何とでもなるわ。でも、江陵の手足は大陸中に伸びている……」

「兵が国境を越えられずとも人は越えられるということですね」

 

 諜報や策略に用いることはあっても、勢力の防衛や戦を牽制する手段として用いる考えではない。もしかすると、こんなことを考えたのは江陵が初めてではないのかとすら郭嘉は思う。幽州や益州では民を人質として交換することもあるというが、そういったところから発想を得たのだとして、なんと洗練されて研ぎ澄まされた策なのだろう。

 

「人材の育成にはすぐに取りかかるけど、結果が出るまでには時間が掛かるわ。商品を用意するにもまずは先立つものが必要ね」

「結局、人材の取り扱いを指示した上で、当面は田畑の開墾を進めて生産力を高めることなどしか出来ないということですか」

「くっ……まあ、そうよ。でもこれは華琳様の覇業のための一歩なの。歩むべき道を知ることもまた、私たちに求められていることだわ!」

 

 荀彧が強く宣言し、机の上に放り出されていた書簡を拾い上げる。

 陳留の周りで穀類を取り扱っていた商人からの金の無心だ。江陵商人との競争で劣勢に立てば役人に取り入ろうとして幾人もの逮捕者を出し、さらに江陵の祭に穀類を持ち込もうという際にも余計な事をして評判を落とし、商戦の敗北を決定的にした愚か者たち。

 商人というものを期待せずに見ていた荀彧たちにとってはさほど衝撃ではなかったが、だからこそ道のりの険しさを感じてもいた。

 

「では彼らの処分はこれで決まりですね。『先立つもの』については……」

「……まずは冀州の方で流行ってる輪作とかいうのを調べるわよ。この前、あのバカ姉妹から聞いたけど、たぶん農法だと思う、ですって。ふざけてんのかしら?」

「昨今の冀州から小麦や粟が多く流れてきていることは間違いありません。よい機会ですから、彼女たちに聞き取り役を任せてみては?」

「そう、ね。そろそろあの暗い顔も見飽きたし、ちょうど良いわね」

「素直では――いえ、何でもありませんよ、桂花」

 




>公孫賛と30万(後漢書 列伝六十三 公孫瓚)
 初平二年(191年)冬10月(?)、徐州と青州の黄巾の残党30万が黒山賊との合流を目論み、南東から冀州渤海に攻め入ります。平原か、お隣の楽安からのようですね。
 袁紹をぼこぼこにするため渤海に居合わせた公孫賛が、騎兵を含めた2万の軍を率いて東光県の南方、黄河の脇でこれと戦い3万を斬り、逃走した黄巾が鉅鹿郡広宗県から清河国側へ渡河しようとしているところを攻めて数万を殺し黄河を赤く染め、7万余りを生け捕りにします。大量の戦利品を獲得し、その名を轟かせました。
 河北の人間は震え上がり、誰もが進んで公孫賛に頭を垂れたと言います。
 歴史書でこれだけの劣勢を覆したと記される人物は稀です。

>春米節在江陵
 投げ遣りすぎる翻訳。キャンペーンガールは水鏡先生。

>馬騰
 字は寿成、真名は萌黄。蒲公英の黄と、翠の緑から。春草の新芽のような色。

>お手柄お手柄
 山村美紗サスペンス小京都ミステリーから。周囲にバレないように控えめな拍手で。

>空海ダッシュ
 1ハロン12秒の俊足。単位を変換すれば時速60㎞くらいです。現代の競走馬に鞭が入ると3ハロンで35秒くらい。当時はこんな血統馬は存在しなかった、ということで。
 昔やってたプロ野球の球団マスコットが競馬場でレースをするとどれが早いか、みたいなトリビアが好きでした。ダートコースの0.5ハロンで15秒台だったそうです。

>野郎ぶっ殺してやる!
 来いよベネッ


 次回の更新は来週を目指しますが、前日から伊豆半島までお花見に行くので諦めるかも知れません。その場合はさらに次の週くらいを目指して書こうと思います。

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