無双†転生   作:所長

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7-1 闘う者達

「――空海様に?」

 

 袁紹の小さな唇から僅かばかりの苛立ちを含んだ声が漏れる。

 

「そうなんだよ。この私がいかに馬が好きであるのか、馬のどこがどう優れているのか、幽州の馬と江陵の馬はどんな風に違うのか、白馬の素晴らしいと思える点を、毎日書いて送ったんだ。毎日、毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日――」

「そ……そうでしたの」

 

 少しやつれた公孫賛が、恍惚とした表情で壊れたレコードのように繰り返す。一瞬だけ浮かんだ嫉妬に似た感情は今はもうどん引きに塗り替えられている。馬のことがなければ河北で最大の勢力と言っても過言ではない公孫賛だが、馬が存在したらもうダメだった。

 

「私の熱意を認めて下さった空海様は褒美に『馬小屋に住ませてやる』って言ってくれたんだ! ああっ、その発想はなかった! その発想はなかったっ!!」

「それは、よ……よろしかったですわね」

 

 正しくは『いい加減にしないと馬小屋に放り込むぞ』である。公孫賛は文面を肯定的に受け取っているようだが、中身を知らない袁紹にも空海の言いたいことは伝わった。自分だったら幽州を攻め滅ぼしていたかもしれない。

 むしろ優しく返答している空海には賞賛を送りたいくらいだ。

 

「だから私は江陵の馬小屋に行くことになった。幽州の印綬(いんじゅ)は麗羽に預けたい」

 

 昨今の袁家は統治の問題もほとんどなく、むしろ私財を大量にばらまいて市場を大いに刺激し結果的に民の暮らしを助けてさえいた。干ばつや虫害に際しての市場円滑化を軸に据えた対応も、長く効果が見込めるだろうと概ね好意的に受け止められており、公孫賛の知る限りでは仁君や名君と呼ばれるにふさわしい治政を行っている。

 曹操領からの商人を止め、大量に購入した穀類を捌く専用の市場を整備して、ついでに他の市場にバラけていた商人のうち大手のものを一箇所にまとめさせただけなのだが。

 

「……そう、ですの。でしたら……ええ、お幸せに……おなりなさいな」

「ああ、任せろ!」

 

 公孫賛の笑顔は袁紹が『あ、コイツ馬小屋に入れてもらえなかったら自分から入り込むだろうな』という確信を抱くのに十分なものだった。

 袁紹は形だけの祝福で公孫賛を送り出し、印綬を手に入れた。受け取った印綬は丁寧に洗った。

 

 

 

 

「知っているとは思うが、公孫賛だ。先に知らせた通り桃香に話があってきた。早速だが桃香の所まで案内を頼みたい」

 

 徐州()()郡下邳県。劉備が定めたばかりの州都の城で、凛々しい赤毛の少女と可愛らしい赤毛の子供が向き合って互いに手を差し出している。

 

「鈴々の名前は張飛なのだ! コンゴトモヨロシクなのだ! 案内は任せろー」

「ああ、よろしく。……ところでお前、私が預けた馬に愉快な落書きをしたヤツだろ?」

「ひょ?」

 

 張飛が差し出した手をしっかりと握りつぶしながら、公孫賛は獰猛に笑う。

 

「私の前にノコノコ出てきたってことはつまり――辞世の句は『四駆』ってことでいいんだよな?」

「あ、あばば、そそそそんなことよりクワガタの話をするのだ! 昨日コクワを捕ま」

「あァ!? 馬の話のが大事に決まってるだろ!!」

「はいごめんなさい仰る通りですなのだっ! は、反省中なう」

 

 一騎当千で勇猛果敢な武将でも怖いものは怖い。見た目美人の血走った目であるとか。

 その後、張飛は正座したまま城内を案内するという奇跡を起こした。

 

 

 

「ええええええっ!? 白蓮ちゃん州牧をやめちゃうの!?」

 

 張飛に案内された城内の部屋で、公孫賛は劉備を相手に近況を伝えていた。今は幽州を任せられる相手を見つけて自由の空に羽ばたいたあたりの話だ。

 

「ああ、印綬はもう麗羽に預けて来たんだ。兵士や部下もほとんどはそのまま幽州に残ることになった。ただ……」

「あ、お馬さん……?」

「そうなんだ」

 

 深刻そうな表情で俯く公孫賛に釣られ、劉備も辛そうな表情を見せる。ただ、内心では大したことじゃないのに何でこんな雰囲気なんだろうなどと考えていたりした。

 

「騎兵と馬を預けたかったんだが、やっぱり急なことだし……不服だったか?」

「え? ううん。そうじゃないよ。そのぉ、そうだ! なんで袁紹さんじゃなくて私に、白蓮ちゃんの大事なお馬さんを預けてくれるのかなーって」

「それは私が桃香を信用しているからだ。桃香を馬の扱いの()()いヤツと呼ぶぐらいに」

 

 公孫賛が冗談を言っていると考えた劉備は一瞬だけ笑いかけ、当人の顔が真剣そのものであったために出来上がりかけた笑顔を引きつらせる。

 

「え、えーと……。そのぉ……。あ……ありがとう?」

「いいんだ。これは私の気持ちだから」

 

 劉備は、白蓮ちゃん何で深刻そうな顔していい話風に語ってるんだろうと口にしかけてギリギリでこらえた。

 

「あ、そういえば麗羽が平原に大軍を向けてたな。そろそろ青州終わるんじゃないか?」

「え?」

「ウチの騎馬も黄河を渡るのに時間掛かったからなぁ、徐州ももう時間が無いかもな」

 

 青州は劉備たちのいる徐州の北の州で、平原はその北西の外れだ。青州を横切る黄河は下流ということもあって川幅が広く、大軍が渡りきるまでならば時間も掛かる。

 しかし、一度渡ってしまえば猶予はほとんどないだろう。劉備が徐州に赴任する前後の時期から青州は兵力を大きく消耗しており、大軍を止める力は残っていない。

 

「まあ桃香も大変だろうし、そろそろお暇するよ」

「ちょっ――!? それを先に言ってよ白蓮ちゃっ、待って! 帰らないでっ!!」

 

 何を散歩に行くような顔して平然と語って去るんだと劉備は心底思った。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「やっ! ほっ――ハァッ!」

 

 かけ声と共に偃月刀が振るわれる。胴を狙う横薙ぎ、正中線を順に追う刺突、下半身をすくい上げるような切り払い。軽く聞こえる声とは裏腹に、並の武人ならば一突きごとに絶命していてもおかしくないほどの殺意に満ちた攻撃は――実に軽く払われた。

 

「くくっ、どうした? お綺麗な型に戻っているぞ」

 

 必殺の攻撃をあしらって笑い声を上げたのは、最近元気が有り余っているらしい趙雲。

 対する張遼は柳眉を逆立て、大きく息を吸い込んで再び踏み込んだ。

 

「調子、にっ、乗んなッ! これでどや! しょやー!」

 

 改めて繰り出された張遼の攻撃は、どれも必殺の威力と目新しさで上下左右から趙雲に迫り、しかし絶好調の彼女には届かない。

 

「おっとと――よっと。はははっ、そうは言っても調子が良いものは仕方あるまい?」

「うがーっ! チョロチョロしよってからにぃっ!」

 

 事実、竜殺しの一件以来――正確にはその騒動の中途から――趙雲の実力は目に見えて上がっていた。かつて馬超に劣った武力も今や押し勝ちつつあり、得意の間合いでならば江陵最強の左慈にすら並ぶ。流石に馬上では馬超はもとより張遼にも及ばないが、日ごと強さを増すその姿はまさに昇竜のごとき勢いだ。

 一方で張遼の成長はいくらか鈍化していた。一応は理由もある。彼女は現状に満足してしまっていたからだ。鍛錬でも負けるのは悔しいし、成長著しい同僚を見ていると焦りも浮かぶ。しかし、趙雲ほどはっきりとではないが自身も着実に実力を付けており、さらに望む全てが揃った環境で実力を振るう機会すらも向こうから転がってくるのを待つだけで良いともなれば、悔しさや焦燥をいつまでも維持できるものではない。その上――

 

「子龍に告ぐー。おちょくるのはやめなさーい。故郷のお母さんが泣いているぞー」

 

 横合いから趙雲を諫めるように、間延びした空海の声が割り込む。

 空海と張遼、双方にとって残念なことに、こうした空海の甘やかしが張遼の焦りを打ち消して幸福感と満足を生み出すせいで、彼女の成長が減速してしまっているのだ。

 もっとも、次元が高すぎて比較対象もないため誰も気付かないような出来事だったが。

 

「主、こうやって人をからかうのは母から学んだ我が一族の伝統ですぞ?」

「一族の!? なんて一族だよ。そんな伝統は捨ててしまえー!」

「そーやそーやー!」

 

 横やりを入れられたことを気にするでもなく趙雲が笑う。絶好調の趙雲にとって戦いと日常は連続するものであるため、わざわざ意識を切り替えるまでもなく一時停止状態から一瞬で最高速へと加速できる。そして、だからこそ小さな物事にまで満遍なく気を張って楽しめるようになっていた。当人に言わせれば「更にいい女」になったのだとか。

 

「ふっ……そうですな。()()霞が勝てたら言う通りにしても構いませぬよ」

「――カッチーン。今のはイラッと来たでェ……。ええ度胸や、ボッコボコにしたる!」

 

 偃月刀を振り上げた張遼が、ニヤニヤと笑う趙雲(いい女)に襲いかかる。こういうところを空海に「いい性格してる」と評されるのだが、当人は褒め言葉として取っているので改善の見込みはない。

 

「やはり何事も暴力で解決するのが一番だな。ヤッチマイナー!」

「ああ。空海様はいいことを言う」

 

 いつの間にか現れた左慈が、空海の言葉に力強く頷いていた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「――そう。それで豫州の通行を許可して欲しいと?」

「はい! お願いしますっ、曹操さん!」

 

 何かを試すように目を細める曹操の前で深く頭を下げるのは、豫州の東に大軍――半数近くは民だったが――を引き連れて現れた劉備だ。

 

「ダメね。私が元帥に頭を下げてまで兵を揃えたのは、貴女たちの盾になるためではなく私の民を守るためよ」

 

 約10日前、十数万という袁紹軍が青州から徐州へ流れ込んだと聞いた曹操はいち早く州東の(はい)国へと駆けつけて軍備を整え、遅れるようにして飛び込んで来た劉備軍の豫州侵入という報にも即座に大軍を派遣して対峙した。

 もっとも、いざ向かい合ってみれば敗軍の様相もなく、決戦を求めているわけでもない半端な様子にいぶかしみ、劉備が()()公孫賛を引き連れて現れたことで驚愕することになったわけだが。話を聞いてみれば民を引き連れて逃げて来たのだという。

 どこへ逃げるつもりなのかと鼻で笑いそうになるような話ではあったものの、劉備らはいたって真面目に考えており、そして時勢に合っていたのかどうなのか、荊州では劉表が難民の受け入れを表明したばかりでもあった。

 

「私たちは貴女たちが豫州を通る間だけじゃなく、豫州を抜けた後には貴女たちを警戒するために兵を置かなくちゃいけない。東西に兵力を割いた上で麗羽の軍を受け止めなきゃいけないのよ」

 

 面白くない。曹操の頭に浮かぶそれは、その才覚を認めた人間へのいくらかの失望と、損得の勘定もできない者への多分な苛立ちと、荊州へ逃げるだろう女への僅かな嫉妬だ。

 

「その上、司隸か荊州へと抜けた貴女たちがどこかで狼藉を働けば、通した私の立場まで危うくなる。貴女たちが武器を持っている以上、無条件に許すことはできないわ」

 

 曹操は司隸か荊州かと口にしたが、十中八九、荊州へ向かうのだろうと考えている。

 逃亡してまで再起を望む劉備が皇帝の膝元である司隸に向かうとは考えづらいし、北には逃れてきたばかりの袁紹、南には袁紹に並ぶ()()である袁術がいるのだから。

 さらに荊州は非常に豊かな土地で難民を受け入れているし、劉備と同じ劉姓の土地でもあるし、荊州から南の交州や西の益州では権益に割り込む余地すら残っているだろう。

 通して欲しいと言いながら、そういう企みを一言も漏らさず腹に抱えているのも面白くない。考えを読めるのは曹操の知略によるものであり、劉備の誠意ではないのだ。

 

「なら、私が保証する」

「――公孫賛」「ぱ、白蓮ちゃん?」

 

 曹操の言い分を黙って聞いていた公孫賛が、表情を鋭くして告げた。幽州牧の職を辞したばかりとはいえ、劉備に渡すはずだった騎兵戦力は公孫賛の手から離れてはいない。

 そして今は、部下が劉備の戦力として数えられていながら、公孫賛自身は劉備とは別の勢力という妙な関係に陥っている。公孫賛はこれが、部下と友を守るため、自分の勇名が活かせる最後の機会であると考えた。

 だから公孫賛は腹を割って話すことを選び、誠意を示すことを選ぶ。

 

「桃香は荊州を抜けていずれ交州へ向かうつもりなんだ。だから、荊州を出るまでは私が狼藉を働かせないことを誓う。万が一何かあれば私が責任を持って桃香の――劉備の首を獲ってここに持って来よう」

 

 曹操は表面的には若干の感心を見せながら内心では大きく驚く。あの公孫賛がここまで言うことに。あの公孫賛にここまで言わせる劉備に。

 そして、公孫賛が誠意を見せて曹操の予想を裏付けたのだから、それに応じるのも曹操という王者の在り方だった。

 

「荊州を抜けるまで、ね……。良いでしょう。その保証は認めましょう。でもそれは通行許可を与えるというだけよ? 私の兵士が貴女たちの兵士の肩代わりをする対価には全く足りていないわ」

 

 徐州に踏み込んだ袁紹軍の勢いを止めてきたら通してやってもいい、という意味だ。

 半ば以上に拒絶を意味するその言葉を予想していたのか、公孫賛が劉備に視線を送る。

 

「桃香、あれを」

「う、うん。――あのっ、この徐州牧の印綬を曹操さんに譲ります! 勿論、証文に私の署名を一緒につけますから、これで認めて貰えませんかっ!」

 

 曹操はそこで初めて劉備の言葉を『検討』した。それが持つ現在の価値、手放す理由と手放さない理由、利用する手段ともたらす利益、差し出す対価との比較。

 

「……足りないわね。貴女が大した抵抗もせずに逃げて来ている以上、()()の価値は半減しているのよ。それは力ある支配者が持ってこそ価値を認められる」

「そんな……」

 

 曹操はあえて言葉少なく指摘したが、足りないどころではない。本来、劉備が徐州の民のために稼ぐべき時間を数十日分も押しつけられるのである。

 防衛放棄という劉備の策は、曹操にとっては戦略的にも戦術的にも大きなマイナスであるし、代わりとして差し出された印綬にしても『逃げ出した徐州牧が持っていた』印など徐州に残ることを選んだ民が喜んで受け入れるわけがない。

 それに印綬程度ならば強襲して奪う方が遥かに簡単で損が少ない。万全に近い袁紹軍の正面に立つことは存亡のかかった大事であり、比較にならないほどの危地なのだ。

 曹操は考え、劉備を試すように再び目を細めた。

 

「そうね。関羽を置いて行きなさい」

「え!?」「な……!?」

 

 劉備が目を見開き、名指しされた関羽が劉備の一歩後ろで驚きの声を上げる。

 扱う頭があるなら、活かせる駒が増えれば増えるほど勢力は加速度的に強くなる。曹操陣営とはまさしくそういった勢力であり、曹操が他のいくつかの――恐るべき――諸侯を抑えて覇を唱えられると確信している理由でもあった。

 関羽は、その曹操が認める極上の駒だ。一騎当千の猛者でありながら、礼節を重んじる言動、義侠心を持ち、鍛え上げているにも関わらず繊細さを失わない肉体と美しい黒髪と整った顔立ち。急な提案に見せる唖然とした表情も良い、と曹操は笑う。

 

「あっ、愛紗ちゃんを差し出して私たちだけが逃げるなんて出来ません!」

「あら。なら貴女に代案があるのかしら?」

「それは……なんとか……なんとか、み、南側から、逃げてみます」

 

 本人にも苦し紛れだとわかっているのだろう。劉備は顔も上げられずに地面に目を落としている。隣の公孫賛も呆れるように、否、仕方がないと諦めるように笑い。

 

 ――関羽を従える者が、この程度の判断も出来ないのかしら?

 

 苛立ちと共に、曹操の顔に笑みが浮かんでいく。

 曹操が求めたのは好機を活かして飛躍する好敵手――脳裏に青い衣を纏ったチビの姿が浮かんだが無視した――であり、卑しく譲歩を引き出そうという浅ましい者ではない。自らの身を切ってでも前に進む好敵手――脳裏に浮かんだチビが元気よく手を振っていたが無視した――であり、窮地に切るべき札もわからず消える愚か者ではない。

 曹操が劉備を()()()直前、一人の忠臣が割り込むように声を上げた。

 

「お待ちを、桃香様」

 

 長く艶のある黒髪を左耳の少し上で束ねた少女。武人特有の凛とした空気を身に纏い、これまでの話し合いにも劉備の後ろで背筋を伸ばして直立していただけの彼女。

 自分の『所有権』を巡る話し合いにも臣下として口を挟まなかった関羽が、劉備に笑いかけ、彼女の決意に心からの感謝を抱いて頭を下げる。

 

「そのお気持ちだけで十分です。この身は桃香様の財――我が身一つを引き替えに数万の民を救えるのであれば、何を迷うことがありましょうか」

「愛紗、ちゃん……」

「ありがとうございます、桃香様」

 

 関羽の顔に笑みが浮かぶ。覚悟を決めた力強いその顔に、泣きたくなるほどの嬉しさと悲しさがこみ上げて、劉備は言葉を失う。

 話し合いに参加するため、関羽は一歩前に出て曹操を見つめた。

 

「曹操殿。生来の不器用ゆえ我が身二君を仰ぐことならず、この身の忠誠は桃香様にのみ捧げております。しかし、桃香様と民が逃げられるようご配慮下さると言うのであれば、桃香様のためとなる範囲において、この槍を振るうことにいささかの迷いもありません」

 

 関羽は曹操の目を見て告げる。曹操は苛立ちからではない本当の笑みを浮かべて、その視線を正面から受け止めた。

 

「なるほど。私の下へ来ても、劉備のために働くと言うわけね」

「然り」

 

 毅然と答える関羽の姿に、曹操はますます笑みを深める。これだ。これが曹操の求める敵の姿であり、だからこそいつか手に入れたいと感じる極上の駒なのだ。

 

「ふふふっ。良いわ、そういう娘は大好きよ。……そうね。ならば、劉備が交州に地位を確立するまで私に仕えなさい。貴女は私に役立つ働きをする。劉備に不利になることには貴女を使わない。このくらいの条件は許しましょう」

 

 だから曹操は認めた。認めたから最後の譲歩を見せた。ここまで譲歩したからには、もはやこれは交渉ではなく通告だ。これで交渉は終わり、という。

 果たして通告を受けた関羽は安堵の息を吐き。

 

「感謝いたします、曹操殿。我が真名は愛紗。貴女の期待に応えるよう努めましょう」

 

 劉備は今度こそ決意と覚悟を持って頭を下げた。

 

「私からもお願いします! 曹操さん、どうか、愛紗ちゃんをよろしくお願いします!」

「桃香お姉ちゃんたちのことは鈴々に任せるのだ! 敵なんかハイスラでボコるのだ!」

 

 関羽の決意を肯定するように、あるいは関羽を励ますように、張飛が小さな胸を張る。

 その健気な姿に関羽と劉備だけでなく、曹操からも小さく笑みがこぼれた。

 

「本来ならこれでも釣り合いは取れないのだけれど、関羽たちに免じて許してあげるわ。それと親切心から忠告してあげる。出し惜しみをして、安物を高く見せて、相手の譲歩を蹴ろうなんていうやり方は、荊州の連中には向けないことね。狼藉に数えるわよ?」

 

 親切心と言いながら保身を兼ねた忠告だ。もし本当に劉備がそんなことをすれば相手は激怒して曹操にまで責任を負わせようとするだろう。そうなる前に公孫賛が止めるだろうとは曹操も思っているが。

 とはいえ、関羽という手札があればそれなりの対処はできる。最大の問題は()の劉表や空海などではなく。

 

「空海元帥に命を救われた一千万の我が民が、貴女が荊州を抜けるまでの一挙手一投足に注目するわ。気を抜いたら駄目よ」

 

 ――うちの将兵の中にすら空海と江陵に心酔する者達がいるんだから。

 

 曹操は笑顔の裏に、感謝と苦渋の入り交じった複雑な思いを隠す。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 遡ること約半年。

 袁紹は干ばつ被害補填のため、幽州を初めとする北方各地から支援を取り付けることに成功し、空海の助言に従って市場へ卸すなどして順調に復興を進めていた。

 さらに直後に発生した虫害による被害も、時期と地理的な条件に加えて、干ばつの際に復興の目標に余裕を持たせていたおかげで領内の隅々にまで十分な補填が行われ、混乱も停滞もなく冀州を活性化させ、袁紹を安堵させた。

 そして、早くから対策を促してくれた空海にお礼の手紙をしたため、返信を今か今かと楽しみにしていたその時だ。

 江陵による、曹操への絶大な支援が明らかにされたのは。

 

 想像を絶する悲しみが袁紹を襲った。

 

 そも、空海に誇れる、そして天下に誇れる行いをしているのは袁紹なのだ。領分を超えた行いで天下を乱している者こそ曹操なのだ。袁紹は儒学者ではないが、曹操の徳の低い行いに天罰が下ったのだと言われても違和感は抱けない。

 にも関わらず、空海から慈愛の籠もった支援を受け、あまつさえそれを引き合いに出して天子様からも物品をせびった曹操のなんと卑しいことか。奸臣(かんしん)(そし)りを受けても仕方のないほどの蛮行である。

 そんな曹操に支援を行う空海に対して僅かに悲しみを感じた袁紹ではあったが、空海が陳留と豫州1000万の民のため十日もの不眠不休で励ましの言葉を書き綴ったと知り、膨大な私財をなげうって物資を集め天子様に全土への支援を願い出たと知り、その仁君の理想像がごとき振る舞いに滂沱と涙した。特集記事の載った空海散歩を保存用と閲覧用、布教用に3冊も揃えてしまったほどだ。一般人の給料二ヶ月分相当の出費である。

 そして、空海の妻にふさわしい君主と成らねばならぬと、空海が袁紹に対してわざわざ安易な救いを与えなかったのは、妻に対する扱いが下々に対するものと異なるのは当たり前だったからなのだと思い当たり、その思いやりにもう一度涙を流した。

 

 そこからの袁紹は早かった。北方をまとめ、空海の横に立つにふさわしい肩書きを手に入れる。曹操の甘えと勘違いを正してやり、その手にある空海の書が汚される前に回収する。それらを持って江陵に嫁入りして、適当な頃合いを見計らって遷都すれば、大陸中の民が喜ぶ明るい未来が訪れることだろうと確信して、動き始めた。

 

 やや遅れて、冀州が飢饉を自力で乗り越えたことを賞賛する文が空海から届き、袁紹は小躍りして喜んだ。

 返す手紙には「寄り道してから江陵に向かう」と綴られ、空海を悩ませることになる。

 

 

 

 

「空海様の書は、それを持つにふさわしい人間が持つべきではなくて?」

 

 金ぴかの鎧を着込み馬上から大声で寝言を伝えているのは、河北を飲み込み徐州にまでその手を伸ばす北方の巨人、袁紹。

 ここは徐州東海郡(たん)県と()()郡良成県の境近く、古くは黄河の底にあった土地だ。

 

「――空海殿は我が領民のために昼夜を徹してこれを書いたという。ならば空海殿が望む所有者とは、豫州と陳留の民に他ならない。この書は我が民にこそふさわしいわ」

 

 頭痛をこらえるように眉を寄せながら大きな声を返すのは曹操である。

 袁紹と曹操はそれぞれ拠点たり得る城を手に入れた直後にぶつかった。袁紹は古くから州都が置かれる一方で守りづらいと言われる郯の城を。曹操は劉備の時代に州都を移したばかりの、しかし沂水と泗水に挟まれた天然の要害である下邳の城を。

 

「自分の食い扶持すら確保できず空海様に食べ物をねだって生き延びておきながら、この上さらに与えられたものにしがみつくなど卑しい行いだと思いませんこと? 麦を分けてあげますから、その書をお渡しなさいな」

 

 安い挑発だと曹操は鼻で笑う。言っていることにはいくらか同意してもいいが、そこに甘んじざるを得ない自分こそが一番の怒りの源なのだから、これは曹操以外が解決できる怒りではない。

 だから、そんな誤答を突きつける袁紹を、逆に嗤った。

 

「空海殿から直接貰えばいいでしょう? それに、この書は私のものではなくて、豫州と陳留の民のものだと言ったはずよ」

 

 ――ああ、やっぱり。華琳さんは意図をわかっていながら譲歩に応じない性格悪ですし見ればわかる状況も理解できないおバカさんですし品性を欠く卑賤の民にかけるべき温情をも間違う無教養者ですわね。こんなお猿さんを気に掛けて差し上げるなんて、空海様はなんてお優しい方なんでしょう! 早く片付けて会いに行かなくてはなりませんわ。

 

 袁紹は一人で納得して、幼なじみとしての厚意からなるべく簡単でわかりやすい言葉を選んで、クルクルパー(性格の悪いバカ)にもわかるようにはっきりと伝える。

 

「相変わらずクルクルパーですわね。それがあなた方の手にあることがおかしいと言っていますの。価値をわからない方たちがありがたがっていても滑稽なだけでしょう」

 

 曹操はその経験と聡明な頭脳で――おそらくは世界でただ一人――袁紹の内心までをも正しく推測してしまい。

 ブチリ、という致命的な空気のきしみと共に、曹操の顔に凄絶な笑顔が浮かんだ。

 

「――あら? なら余計に貴女には渡せないわね。貴女にこの書の価値がわかるとは到底思えないもの」

 

 一瞬遅れて、袁紹の顔が怒りに染まった。曹操はわざわざこちらから差し伸べてやった手を払い、国家最上級の名家が誇る教養を否定する愚を犯したのだ。

 それがどのような結果をもたらすのか、名家の義務として教え込まなくてはならない。

 

「言いましたわね……。袁家当主にして河北四州の覇者であるこの袁本初に向かって!」

「上等だわ。私こそ()()()()()()()陳留州牧で、中原の覇者たる曹孟徳よ!」

 

 ()()を引き合いに出した曹操に、今度こそ袁紹は言葉を失った。空海の名という極上の羽織を纏ってその威容を借りる曹操に怒りは沸点を超え――袁紹は一転して呆れたような表情で冷たく告げる。

 

「……ああ、その二つ名も華琳さんには余計ですわね。それも寄越しなさいな」

「お断りよ。貴女こそ私の下にひざまずかせてあげるわ、麗羽」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「なるほど、『寄り道』袁紹と妖怪『関羽おいてけ』の対決か。ついで扱いされた徐州と中原に言い知れない哀れみを感じるね」

 

 荊州へと逃げ込んだ徐州の民からの聞き取り調査、その報告を受けた空海が面白そうに頷く。突如大兵力を集めて青州へ侵攻を始めた袁紹に「寄り道ってそういうこと!?」と突っ込んだのも今は昔。大まかな話を知っていた軍師たちも、詳しいところを聞いた今、空海の言葉に小さく笑い声を上げる。

 

「関羽さんは豫州境で劉備さんと別れてからすぐに()()の城へと派遣されて防備を固めたようです。物資を遮二無二買い漁っていったとの証言を複数得ています」

 

 孔明が調査結果を続けて報告する。混迷する北方での商活動支援のため、複数の商人と会合を開いて状況の把握に努めているのだ。穀類や藁や塩がどれだけ売れた、役人たちに強制徴収された、人が家財道具を持ってあの街道を移動していた、あの場所で東に向かう兵士の集団の中に荷車をこのくらい見た。集めているのはそういった証言だ。

 証言を纏めて各自で簡単な分析をかける。広義に情報を担当するのは賈駆だが、情報という分母は巨大すぎるため、特定の商人を除いた一般商人の発言は孔明に、同じく兵士の言葉は鳳統に集まる、といったようにいくらか担当が分かれていた。それぞれの業務上で聞かれる当たり前の報告を分析しているから、というのも大きいが。

 そうして裏付けが取れた事実を共有していくことで、畑違いの仕事からも有益な情報を確保できる。劉備が荊州へと逃げ込んで4日、徐州での決戦の様子は徐々に明確になってきていた。

 

「下邳にはもう一人、荀彧さんが確認されています。さらに城には『于』『李』『楽』の旗が見られるそうです。前線となった下邳と東海の郡境には曹操さんと夏候淵さんの旗が見られたと報告を受けています」

「下邳城に入ったのは多くても数千。城下の民を西に避難させて、城壁や堀を補修してるらしいわ。詳細は不明だけど、大型の弩なんかを持ち込んでいるみたいね」

 

 軍に情報収集を行わせている鳳統が発言し、それを情報担当の賈駆が補足する。

 下邳の旗はそれぞれ于禁、李典、楽進のものだろう。三人は黄巾騒動の際にも陣設営を担当して素早く堅牢な拠点を築き上げていたことが知られている。おそらくはその辺りを評価した配置だと思われた。

 弩は弓に似た兵器であり、製造はやや難しく反して扱いが容易なことから新兵の武器とされる。類似の武器である弓に比べて利点が少ないため、古代から新興の大勢力や新兵を置かざるを得ない状況で用いられるものだ。

 総合すれば、曹操が下邳に新兵を集めて防衛する気であることはほぼ確実と言える。

 

「夏侯惇さんと稟ちゃん――郭嘉はどこに?」

「軍では所在を掴んでいません。ただ――」

 

 程昱が尋ねたのは曹操軍の最精鋭を受け持つ二人の行方だ。飢饉の際に数多くの実戦を経験した部隊でもあり、行方がわからないと返す鳳統もやや不安げに、情報を持つらしい賈駆を見た。賈駆は頷いて地図を指差す。

 

「陳留の東、豫州北東部に向けて……つまり徐州北部に向けてってことね。第一陣に間に合わなかった兵数万が集結しているそうよ。総数は2万以上8万以下と見てるわ」

 

 つまり袁紹軍の後背を突くように、補給線を断つように北から回り込む位置取りだ。

 空海が両手を組んで口に寄せ、何もかも予定通りという顔で机に肘を置く。数と大体の地理しかわかっていないが、そこは雰囲気で押すつもりである。

 

「……勝ったな」

「北からの挟撃が成功すればこの局面での勝ちは揺らがないでしょう。あとはこれからのためにどれだけ早く、どれだけ勝ちきれるかに掛かってきますな」

 

 生真面目な周瑜に普通に返されて、続く台詞を用意していなかった空海は固まった。

 江陵に届く情報は十日ほど遅れている。戦場は既に大きく動いているだろう。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 徐州中央付近でぶつかった袁紹軍と曹操軍は、数の利を活かして北東から圧力を掛ける袁紹軍が優位に立ったまま、その舞台を徐々に南西へと移していた。

 

「ここまでね。魚鱗の陣を敷いて後退する!」

「御意。――総員後退準備、本陣を下げるぞ!」

 

 包囲を目論んだ袁紹に対してギリギリまで戦線を伸ばす陣形で対抗してきた曹操軍は、ここへ来て消耗を抑える防御向きの陣形で後退を始める。

 魚鱗の陣は本来包囲に弱い陣形だが、10万近い軍が作る陣形を包囲するには後退する先の土地はやや狭く、さらに『後ろに向かって前進』するとき本陣が後部に来るこの陣形なら混乱少なく動くことが出来るのだ。

 

「今日は良成県の城塞を使って防衛、明日は街の門を破壊して十里余り後退するわよ」

「予定を早めるのですか?」

 

 ここまでほぼ予定通りに戦闘を運んできたと考えていた夏候淵は、思わず曹操に尋ねていた。後方の準備が整わなければ、防衛戦にもつれ込んだところで戦力を削りきることは難しい。だが、準備にはもうしばらくの時間が必要なはず。

 

「麗羽の軍が思ったよりも精強なんだもの。()()に伝令を飛ばして表側の補修を優先させなさい」

「はっ。直ちに」

 

 

 

 夏候淵を下がらせ一人になった曹操は、戦況を思って眉間に皺を寄せた。思ったよりも精強などと言ったが、素直に評せば予想よりはるかに厄介だったためだ。曹操軍9万弱に対して20万を数える袁紹軍という戦力差も極めて大きな問題だが、兵数だけなら挟撃を指示した夏侯惇たちが合流すれば有利も不利もなくなる程度まで詰められる。

 想定を超えていたのは兵士の質だ。曹操軍の大半はまともに実戦を経験していない新兵同様の者達。もちろん訓練には手を抜いていないが、準備不足は否めない。対する袁紹の兵士は、十分な装備が行き届いた歩兵が中心になっている。騎兵や弓兵が少ないところを見ると熟練の兵士は少ないのだろうが、充実した装備はそれだけで脅威だった。

 後退は予定通りであるし、それをより自然に行えるという点では救いがあるが、想定を超えて敵が強かったので苦戦しましたでは話にならない。曹操の領地は今、無防備な背を劉表に見せているのだから。

 

「楽じゃないわね……。上手く負け続けて下手に勝たせ続けなくちゃいけないなんて」

 

 主導権を握っている間に出来るだけ素早く予定を消化しきらなくてはならない。なんとしても素早く勝ちきるのだ。この戦いも、()()()()()()()も。

 そのための手は――

 





 先週の日曜日に更新するつもりだったのに、その日が土曜でないことに気がついたのが昼過ぎだったんですね。
 まだ詰まってますが、なんとか章の終わりまで続けて更新したいです。

>普通の公孫賛を生け贄に捧げて白馬力長史を召喚する!
 かつてこれほどまでに扱いの酷い公孫賛がいただろうか。鬼畜を通り越して家畜とか。
 馬小屋生まれの偉人伝説とか時々聞くので馬小屋暮らしの偉人がいてもいいのではないかと思って書いたんですが私も本当は普通の公孫賛のことがかなり好きだったのだと気がつくきっかけになりました。

>鈴々なう。
 5章の初登場時から実はこんなんでした。次回の登場は次々章になるかも。

>なんで劉備はこんなんなんだろう
 外面の良い腹黒悪女、になりきれない程度のお人好しの腹黒。を描きたかったんです。
 原作的にそんな扱いだった気がするので。

>『関羽おいてけ』
 中原の方言で「こんにちは、いい天気ですね」の意味。求人妖怪の口癖。

>十日ほど遅れている
 戦争は江陵で起きてるんじゃない! 現場(北西約750㎞)で起きてるんだ! 遠い。

>そのための手は――
 実は次の話の最初に持ってこようか心底悩んだ部分でした。江陵に届く話は遅れてる、という設定なので曹操の話で終わるのはどうかと考えましたが、章の展開的にはここまで含めて1話にしちゃった方が良い気もするのでこんな形に。
 思わせぶりな繋げ方は個人的に好きではないのですが……、実は次章の終わりもこんな感じになりそうで、ちょっと悩んでいます。

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